春 夏 秋 冬

五条悟には、最愛の嫁がいる。
目に入れても、痛くなく。口に入れたい、と衝動的にガブガブ噛んでは、嫁に叱られ、それでも懲りずに吸うし、挙句、匂いどころか、嫁の頬に吸い付いてそのまま吸引する些末。キュートアグレッションなんて可愛いもので、いつか彼女は捕食されてしまうのでは・・・、と周囲がドン引きしながら、思わず懸念する程である。
涎まみれになり、歯形を拵えてもへらりと笑ってのける嫁、もっと怒っていい。生徒達からはその恐ろしい様から、某オバケなQ宜しく、ゴジョQなんて陰で称されていたりした。

さて、五条悟という周囲の視線を顧みない性格から、五条がマリアナ海溝より深く、軽くマントルを突っ切って、嫁の吐息一つ、瞬き一つですら、世界一周してしまえる程愛しているのは、周知の事実だ。 これでも、本人曰く、うっかり仕舞ってしまいたい衝動を、嫁に嫌われてしまえば五条の心が死ぬので堪えに堪え、限界まで抑えた結果であるらしい。さすが特級呪術師。愛が重い。

溢れ出る嫁愛に、当然、周囲は不安に思った。嫁を一人遺してしまい、大丈夫なのかと。一足先に、空から様子を見ていた彼の親友は、思わず尋ねる。
果たして、夏の終わりの息絶える寸前のセミのように、喚き散らして悲観に暮れるかと思われた五条だったが、予想に反して、彼が五条ファイナルを起こすことはなかった。
おや、と内心夏油は驚く。

「僕の愛した人は、旦那が死んだくらいで自死出来るほど、豪胆な性格をしてないよ」

目尻は下がり、口元は自然と弧を描く。淡々とした口調で、ともすれば軽薄とも受け取れる台詞だ。
けれど慈悲を知らぬ男の、慈愛に満ちた瞳が、男の有り余るほどの深い想いを、御弁に語っていた。
ふと、視線を遠くにやる。

「命に臆病で、陳家な事でクヨクヨ悩んでさ。
散々蹲った挙句、地面に両手ついて、ぷるぷる腕を振るわせながら
ようやく起き上がるような、そんな子」

呪術師らしくない呪術師で、万年四級。ちょっとばかり、危険から遠ざけるために五条が裏で手を回すことはあっても、そんな細工がなくても、おそらく変動することはないだろう。雑魚オブ雑魚と、若き学生の頃の五条であれば、両手を叩いて揶揄っていたはずだ。
幸いなことにも、彼女は術式の開花が遅く、途中編入で入学したため、五条にも多少思いやりが育っていたのか、単に初見から意識しまくって借りてきた猫宜しくスンとお澄ましして、どこの五条悟さん状態になっていたからか、定かではないか。揶揄いまくって、嫁から嫌われることなくゴールイン出来たのは、五条悟にとって、至上の幸運だった。
瞳を伏せ、想いを馳せていた五条は、そこでぱっと顔を上げた。

「その癖、やっと起き上がったと思えば、思い出したようにまた躓くタイプね」
「悟と正反対だな」
「でしょ」

入れ違いで、在学時期が重ならなかった夏油は、五条の嫁との面識はあまりない。最強の呪術師、五条悟の最愛。同時に逆鱗となる存在として、呪詛師界隈の噂で聞く程度の知識だ。
五条と正反対ともいえる、所詮、ぶっ飛んでいないまともな感性の持ち主なのだろう。ゆえに、呪術師としては脆弱。
五条は肩を竦めた。「まぁ、本音は」
へらりと、笑う。

「地面にのめり込むほどヘコんで、
一生消えない傷になって
立ち上がれないままでいて欲しいけどさ」

うん、こっちが本音だろうね。
軽薄そうな笑みを浮かべて、軽く告げてはいるものの、ちらりと見えた目の奥はコールタールよりも暗く淀んで、底が見えない。所詮、笑っていない五条に、夏油は改めて、五条の本心を察した。
夏油の何とも言えない視線に、我に返る。五条はごほん、と取り繕うように業とらしく咳をして、うっかり漏れでた本音を仕舞いこむ。

五条の嫁は、五条が思いもしない小さなことでも、よく思い悩む。
常の彼であれば、鼻で嗤うような些細なことでも、彼女にとっては大きな悩みとなる。嫁でなければ、五条は気にもかけなかっただろう。何がここまで彼を惹きつけるのか、彼にも分からない。
ただ、ただ、無償に。彼女の一挙手一投足に、心の奥底を揺さぶられるのだ。
彼女の立ち姿、話し方、その在り方まで。柔らかな眼差しに、声に、指先からつま先まで、その鼓動が。
彼女を構成する全てに、惹かれて止まない。

どんな人間でも、知りすぎれば嫌いな部分も出てくる。彼女が小さなことでくよくよするのは、確かに面倒だ。ただでさえ、五条は細かいことを気にしない質である。彼女の気の弱さから、八方美人気質であるのも五条は気に食わない。常に五条を一番に考えてくれないところも、嫌いだ。ああ、そうとも。ちらりと零れた、自身の死だって、本音で言えば、彼女に立ち直らないで居てほしい。
彼女自身が気づいていないだろうところまで、五条は彼女を知っているし、全てが好ましい、なんて、そんな事はないが。面倒な部分に、気に食わない部分。嫌いな部分も。
全てをまとめて、彼女は五条悟の最愛なのだ。

五条悟は、愛しい妻が弱いと知っている。
―――誰よりも弱い。
だからこそ、誰よりも

「大丈夫。
とっておきをプレゼントしたからね」



***


―――2018年12月24日
宿儺達との決戦、当日。呪術師総出の作戦に、生徒たちには修行を重ね、準備はかねがね、仕上がっていた。いよいよ呪術師の、人類の命運をかけた戦いとなる。
先陣を切るのは、現代最強の呪術師である五条悟だ。対するのは、史上最強の術師、両面宿儺。
両者、事前にバフをかけることは出来ても、いざ、戦いが始まれば、誰も割って入ることは出来ない。どちらも最強であるが故に、足手纏いにしかならないからだ。つまり、実質1対1。―――当然、敗れれば命はない。

五条は、負けるつもりはないと、以前から公言していた。だが宿儺は、伏黒恵の体を乗っ取っている。
本来の術式ですら厄介で、それだけで歴代の術師最強に至るまで上り詰めたというのに。歴史上、数百前の御前試合では、六眼と相打ちとなった禪院家相伝の術式を得たのだ。宿儺の方が手数があり、現代最強とはいえ、五条の方が不利だった。五条の嫁―――が不安に思うのも、無理はない。
当然ながら、決戦までの準備期間はやることは山積みで、中々ゆっくりとした時間をとることは出来なかった。

五条が復帰し、決戦の日取りが決まってからの表情が時々、陰るのは知っていた。
共に過ごした昨夜は勿論、五条は態度で、言葉で、問題ないと伝え続けていたつもりだった。それでも、決戦直前まで彼女の不安を払拭することは、未だに出来ていない。

決戦の舞台は、新宿。死滅回遊により、一般人は疎開し、都心は魔境となっているとはいえ、聳え立つ空のビル群は邪魔だった。SHIBUYA SKYの展望台であれば、見渡しが良い。そこから、宿儺の居るであろう新宿へと初撃を放つ予定だ。
生徒達や、同胞の術師達に背中を押され、五条は歌姫、楽巌寺、伊地知と共にSHIBUYA SKYの展望台へと向かう。待機場を出る前に、五条がに振り返った。
初撃の補助を行う歌姫、楽巌寺、伊地知達は、決戦を前に向き合う二人にちらりと視線を寄越すと、二人を置いて先に待機場を出ていく。

仲間達は笑顔で五条を送り出したが、は一人、今にも泣きそうな表情を浮かべていた。どれだけ示し続けても、不安に瞳を揺らすに、五条は一つ吐息を吐く。それだけでびくり、と肩を揺らすに、五条はもう一度、ぎゅっと心が締め付けられる心地がした。

仲間達の激励で、決戦前に引き締めていた緊張感も多少解れたが、嫁には、何よりも叶わない。表情が柔らいだ五条に、顔を俯かせがちなは気づかない。
は始終、涙を零さないようよう、歯を食いしばっていた。五条はの唇が切れないよう、そっと唇に親指を添わせると、無骨な両手で、頬を優しく包みこむ。

五条達と、宿儺達の『勝ち』の定義は、異なる。宿儺達は宿儺が、五条達は宿儺を倒して誰か一人が、生き残れれば良い。
五条は当然、『勝つ』つもりだ。生きて彼女のもとに帰る、そのつもりでもある。
けれど、合理的で理性的な五条としても、『もしも』がないとは限らないと理解していた。特に、五条は先発だ。加えて足手纏いとはいっても、他の呪術師達の協力がなく、宿儺とタイマンで戦うのであれば、負けは死に直結する。当然呪術師側の作戦にも、五条の死を前提とした案は幾つもある。生きて帰るつもりでも、確率は100%ではない。
どれだけ願い、望んだとしても。呪いを前に、現実は常に非情だ。
生まれた時から呪術師といっても過言ではない五条は、呪術界の理を、息をするのと同然に理解している。
だからこそ、事前に自分が不在でも問題がないよう、この準備期間で五条は根回しを進めていた。
彼女に悟られないように、注意深く動いてはいたものの、は十分に察していたのだろう。

お嫁さんには、隠し事は出来ないようだ。
ならば、五条が彼女に送る言葉に、飾りはいらない。建前や、好いた女性に格好つけようとする外聞も全て取っ払って、五条は言う。

「なーに?
僕と過ごした日々は、たった一度の別れなんかで、色褪せるもんなの?」

嫁の両目に、涙の膜が浮かぶのを見て、五条は慌てた。これでは、言い方が拙かったかもしれない。「うそうそ」
嫁の涙の阻止するよう、慌てて否定する。五条としては、一時のつもりであったが、今の言葉では、一生の別れを前提としたように捉えられるかもしれない。

「取って置きの呪いをプレゼントしよう」

目尻に滲むの涙の雫を、唇で吸い取る。考えるまでもない、反射のような動きだ。
彼女の零す、想いも何もかも。余すことなく、五条は全て受け止めたかった。

「人の想いは巡る。
巡り巡って、誰かに返ってくる。なんて、よく言うよね」

良いこと、悪いことをすれば、それは己に返ってくる。世間一般でも、「因果応報」や「返報性の法則」「ミラーの法則」として認識されている。五条は続ける。


「呪霊は負の感情から生れるから、
僕達呪術師は、人の想いを呪いって捉えがちだけどさ」

決戦を前に、五条は珍しく戦装束に着替えていた。
戦闘を前提にしているから、華美過ぎず、それでいて軽くて上等な羽織を着ているのに、がしがしと乱雑に片手で頭を掻く。

「魂は、わかんねーけど」

五条はからりと、笑った。

「またね」



****



―――2■■■年■月18日


季節外れの寒さが、肌を刺す。鼻頭が寒く、溜まらず、すん、と鼻をすする。
視線を前にやれば、数メートル先の道に、男が一人、佇んでいた。

枝技に見事までに積もるのは、白雪か、白桜か。日の光を浴びて、はらはらと舞い散る白は乱反射する。日の角度によって、青空を背に、幻想的に煌めいた。
ざあと吹きすさぶ風の中、視線の先に佇んでいた男が振り返る。

白髪は短いものの、絹糸にも似た艶やかさ。襟足は刈り上げ、除いた首筋は太い。両手両足は長く、全体的には細く見えがちだが、体幹はしっかりと鍛え上げられているのが分かる。すっと通った鼻梁に、薄い唇。―――その目が合う。
男の蒼眼が、柔らかく細まる。口元が開く。
大事に大事に仕舞いこんだものを取り出すように、優しい音色で、男は紡ぐ。
どんな美しい四季よりも、きらきらとした、何よりも大切な宝物の名を、そっと。

 春