春 夏 秋 冬

群青色の空に落ちる。
 確かにそう、思ったのだ。

 穏やかな風に、雲一つない晴天。自転車で凪いだ風が、頬を撫でて心地が良い。湖畔沿いを、ぐるりと好きなように一周。その日、は都心の喧騒から離れた旅行先の湖畔で、サイクリングを楽しんでいた。自然豊かな湖は、それ故に交通手段が存在しない。徒歩か、レンタルサイクリングのどちらかを選ぶしかなく、時間をかけて徒歩で周るのも一興であったが、生憎と旅行として1日の猶予しかない彼女は、他の目的の為にもサイクリングを選んだ。
 まさに山紫水明。好天気に見舞われた湖面は、波の揺れもなく、青空と新緑を鏡面反射している。
 良いサイクリング日和だと、思っていたのに。
 前触れはなかったと、思う。突如として、強風が吹いた。どうにか制御しようなんて、する余裕も生まれないほどの、横殴りの強烈な風だった。そのまま、横転した自転車が柵に衝突したかと思えば、柵は意図も容易く壊れてしまう。ひしゃげた柵と自転車は見るも無残な様で、それをただ、は見上げていた。

 1秒にも満たない、コンマの時間経過の中で起きた数々に、脳内の処理が限界値に達したのかもしれない。突風が、自転車が、眼下の湖が、なんて考えを巡らせるでもなく、放り投げ出された一瞬。──そこで、冒頭の思考に戻る。

 上下の感覚もなく、ただ、青い空を見上げる。澄んだ青空と、鏡面反射した湖。
宙へと放り出された身体の足元は、何もない。視界には、空と地面の境目が見当たらず、永遠と続くような青が広がっていた。
 暢気にもが抱いた思考は、所詮、パニックというやつだった。当然ながら、空に落ちるなんてことはない。一瞬の感想を抱いた直後に、重力に伴い体は落下していく。

 頭や爪先から入水すれば、そこまで衝撃を受けることはなかっただろう。けれど、は突然のことで構えることもできなかった。そのまま、数メートル下の湖面へと叩きつけられてしまう。

 飛沫を上げて湖へと落下したは、息を溜めることすら出来ていなかった。大小様々な微細な気泡が、口元から洩れて浮上していく。
 背中から叩つけられた衝撃は、灼熱の火で焙られたような、強烈な痛みだった。肺の横隔膜が麻痺する。一瞬、呼吸が止まり、ようやく吹き返したかと思えば、口の中に容赦なく水が流れ込んでいく。背中が焼けるように熱く感じるのに、指先は凍えるように冷たい。季節はもう、秋も終わる頃だ。投げ出された水中で、体の末端から急速に熱が奪われていった。酸欠か、痛みによるものか、意識が朦朧としていく。
 悪あがきに、もがいた指先が、何かに触れた。今にも途切れそうな意識を必死に手繰り寄せたところで、ぼやけた視界は不鮮明で、それが何かも分からない。

 ただ、薄れゆく意識の向こうで
 は何故か、輝く青を、見た気がした。







 ──2017年11月。
 今から1年前。旅行先で出くわした事故で、は当時、死にかけた。幸いにも、偶然、通りがかった人に助けられ、今の彼女の命はある。
 とはいっても、意識を取り戻した時には、既に入院していて、助けてくれたという恩人に、一度も会ったことはない。せめてもと送ったお礼の手紙であったが、律儀にも、命の恩人から返事が返ってくる。
 それに返事を返して、また返事がきて、それを返して、と繰り返していくうちに、スマホが普及した現代では珍しい、文通が細々と続いていく。 
 まさかそのまま、季節を一巡りしても続くとは、当時は思ってもみなかった。



***



 液晶テレビから流れる、惨憺な光景は、他所事のように感じられた。
 東京の首都。若者が集まる街として、今も行き交う人で溢れている。そのはずの渋谷が、今や見る影もない。海外でも有名なスクランブル交差点の地面は抉れ、底も見えない。競い合うように密集していた高層ビルは崩壊し、ドミノ倒しになっていた。一体どうやったのか、鉄筋のビルが鋭利なもので切り取られたように、キレイに抉られているものもあった。

 2018年、10月31日未明。渋谷で起きた、未曽有の災害。ネットに流れるのも同じニュースばかりで、首都直下地震、いやいや、新型の海外からの弾道ミサイル、陰謀説から始まり、UMAによるもの、と様々な憶測が飛び交っていた。
行方不明者多数。判明しただけでも数百人が亡くなったとされる、その災害の映像を見て、ふと、思い出したのは、が死を感じた、過去の出来事だった。
 なぜ、今、その事を思い出したのだろう。通りすがりの人により、なんとか救助され、まさに九死に一生を得た出来事で、あれは、単なる事故だった。だが、目先の映像は事故ではなく、災害──いや、人災。人、ではないか。そう、渋谷事変。呪霊による、災害だ。

 テレビの映像を見て、無意識に脳裏に浮かんだ言葉に、は息が詰まる。たらり、と背筋に冷たいものが流れた。

 呪霊ってなんだ?
 呪霊は、ほら、幽霊みたいな。
 ええっと、確か、人間の負の感情から生まれた存在。呪術師ではない、猿が生み出す──いや猿って何? あ、私か。猿は私です。そうではない。脱線した。
 あと少しで、は何かを思い出しそうだった。

 カカーン、テテ、で始まる、呪いが巡る、そんな歌がオープニングで、あれ、好きだったな。なんだっけ、そう、

 呪術廻戦。

 ようやく導き出したの体が、微かに震え始める。

 巡る巡る、呪い。呪いと悲劇で、ぐちゃぐちゃな、そんなダークファンタジーな物語。小刻みに震えていただったが、ふ、と意識が遠くに飛ぶのを感じた。

 まさかの、呪術廻戦。
 それも、散々読者の心を絶望に突き落とした、渋谷事変が起きた直後。
 ここで、過去を追憶した名残からか、の脳裏に、懐かしの保険のワンフレーズが蘇った。ここから入れる保険、あるんです? あ、ないですか。そっすか。

  ──花も羨む17歳。見た目ピチピチJK。さて、死語を織り交ぜたフレーズから分かるように、彼女の中身は、アラサーであった。つまり、転生者である。
 恐らく、若くして命を落としたのだろう。没したあたりの前世の記憶は、ほとんどにはない。物心ついたころから、自覚のあった彼女は、今の今まで、イージーモード、と前世の記憶を盾に、悠々と過ごしてきた。

 高校生にして親元を離れ、都心で一人暮らし。さすがに精神は自立しているので、バイトをしながら、趣味の食ツアーを巡りつつ、前世の記憶様様で、今のところ勉学にも支障はない。若くして死んだから、神様が憐れんでくれたのだろう、とは楽観的に思っていた。ところが、テレビから流れる渋谷の惨状に、とんでもない勘違いであったとようやく気づいた。いや、まさか、呪術廻戦の世界だとは、思いもしない。しかも、これ、物語終盤じゃん? どうやっても、ここから悲惨な路線にしかならなくない。挽回無理でしょ。ねぇ、ここから入れる保険なくない? ワンチャン、猿、基非呪術師であれば、都心から疎開すれば、呪霊と関わらず、過ごすこともできるかもしれない。そう、つらつらとは現実逃避に走るものの、生憎とには先刻から、視界の隅に映るものがあった。

「おめでとう! アンタは、術式に目覚めた!」

 視界の隅に映りこんでいたそれから、くるりと背を向けて、見えないようにする。ところが、背後から追撃するように、ソイツは喋り出す。

「術式に目覚めたアンタには、プレイヤーとして、死滅回遊に参加する権利がある!」

 聞こえない、聞こえない。羽を生やして宙に浮かぶ、可愛くない矢鱈とテンションの高い芋虫なんて、見えていなかった。

「もちろん、辞退も可能だ! ただし、その場合、アンタの術式は没収される!」

 聞こえない。聞こえない。聞こえない。

「プレイヤーには、それぞれポイントが与えられる! 19日以内に、ポイントの変動が一度もない場合も、術式の剥奪対象となるぜ」

 バトルロイヤルのお誘いなんて、断じて聞こえないのである。

「ちなみに、術式の剥奪は死を意味する!参加するか否かは、プレイヤーの自由だから、安心しな!」

 それって、つまり強制参加では?安心するところ、皆無では?
 前世、つまりは数年前に読んだ呪術廻戦の中身を、さすがに隅から隅まで覚えているわけではない。よって、死滅回遊のルールなんて、ざっくりしか記憶にない訳で。そいつ──死滅回遊の案内、コガネの言葉に、さすがにも無視を通せなかった。
転生したら、イージーモードと信じて疑っていなかったのに、まさかのハードモード突入である。文字通り、は頭を抱えることになった。



 転生してイージーモードかと思えば、ハードモードであったことに、 はひっくり返る心地がした。この日まで、は呪霊を見えるわけでもなかったので、気づけないのも致し方ないのかもしれない。そもそも、呪術師というのはマイノリティで、渋谷事変後に、世論にも公表されるようになった。だから、渋谷事変のニュースを見てから気づけたというのも、当然の流れなのだろう。
 もっと早く気づければ、と、はどうしても後悔してしまう。漫画、呪術廻戦の世界に転生していたと気づいたショックか、それとも、原作でも起きていたように渋谷事変が切っ掛けか、両方が要因である可能性もあったが、どちらにせよ、術式に目覚めてしまった。
 前世の記憶はあるものの、羂索によって受肉したプレイヤーではないことは、確かだ。前世は千年前ではないし、どちらかというとは未来の令和の人間である。だが、渋谷事変を切っ掛けに、術式に目覚めてしまった者も、プレイヤーとなる。

 前世の記憶になるので、数年前ものだ。詳細まで覚えている訳ではないが、確か、死滅回遊では呪霊は勿論の事、プレイヤー狩りだとか、米軍による呪術師狩りなんかがあったと、は記憶している。死滅回遊なんてものに参加したら、死亡フラグしかない。だが、参加しなければ強制デットエンドである。
 詰んでいる。どうやったって、詰んでいる。はそれまで呑気に口に運んでいた、買ってきたばかりの限定のデザートの味すら、分からなくなっていた。折角、矢鱈と草臥れた眼鏡のリーマンさんの前で、ラスイチで手に入れたものだというのに、これでは彼に申し訳なかった。
 長蛇の列必須のスイーツ店で、よく見かけるリーマンさんとは、会話こそ交わした事はないが、気が付けば互いに見かけるので名前は知らないが、よく見かける同志、とは一方的に思っている。よく、誰かに電話をしては、必死に頭を下げているので、もしかしたら彼が食べるのではなく、お得意様に届ける代物なのかもしれないが。閑話休題。

 どれだけ頭を巡らしてみても、死滅回遊に参加するしか、生き残る道はないだろう。
 参加しないでいたが為に、術式を剥奪され、亡くなったプレイヤーがいた、という話を羂索が語っていたシーンがあったはずだ。変わり果てた天元相手に語っていたので、はそれだけは覚えていた。と、なれば。残された道はただ一つだった。は唾を飲み込む。

「(──原作キャラに会うしかない)」

 術式を剥奪され、死なないようにするには、点数を得る必要がある。つまりは、他のプレイヤーにポイントを譲ってもらうか、相手を殺す、という事だ。
 バトルしようぜ!なんて爽やかな戦いが出来れば呪術廻戦ではない訳で。さて、ここで今まで呪霊が見えもしなかったが戦えるかだなんて、さぞ恵まれた術式であれば上手く転ぶだろうが、残念ながら、それは臍で茶を沸かせるレベルの幻想である。
 
 の術式は、『テレパシー』。完全に後方支援タイプであった。仲間がいることが前提で、連携としてであれば、使えたかもしれない。しかし、はぼっち参加だ。現時点では、どうにも役に立たなかった。そうなれば、点数は穏便にお譲りいただくしかない。他人に点数を施してくれるだろう奇特な人間は、原作キャラ基、高専サイドの人間しかには思い当たらなかった。要するに、お情けで助けてもらおう作戦である。
 主要人物の揃う高専サイドであれば、みすみす死にそうな相手を放置することはないはずだ。その点ばかりは青少年漫画の主要キャラとして、良心の呵責からお助け頂きたかった。厚かましい他人任せ作戦と言えども、にはこの道しか残されていないと思われる。

 考え抜いたは、それから早々に、行動に移した。何しろ、自身の命がかかっている。本音で言えば、駄々をこねるなり、ふて寝なりしてしまいたいが、これは現実だ。
 転生して既に数年経過している。今まで気づかなかったの、なんで?とは再度自身に突っ込みたくなってしまうが、夢物語として流すには、日々を過ごしすぎていた。誰でも我が身がかわいい。今は僅かな時間も惜しかった。



 まずは、死滅回遊での命綱。はさっそく、肝となる自身の呪力と向きうことにした。
が最初に取り掛かったのは、呪力操作の特訓だった。やり方は、原作にもあった、映画鑑賞である。速攻で上達しなければいけないため、24時間耐久である。なお、途中で力尽きたため、24時間までが限界であったことを追記しておく。作中のように、呪力のムラで殴ってくれる呪骸が手元にある訳でもないので、その点は己で意識を心がけるしかなかった。
現役女子高生であるには、学校があったが、学校には風邪をひいたと虚偽の申告済みだ。死滅回遊を無事にやり過ごさない限り、は死んでしまうので、それどころではない。
 呪力の扱いに慣れてきたところで、次に戦い方だ。恰好良く技を繰り出したいところだが、残念ながら、の術式では、単純に呪力で攻撃するしかない。
 地道な作業である。映画館鑑賞と並行して、買い出しの傍ら、逃げたくなる足を踏み留め、ひいこら言いながら見かけた呪霊を祓除する。映画鑑賞・ザコ呪霊の祓徐を只管繰り返し──気が付けば、1週間。
 プレイヤーとしてが目覚めた11月1日から、7日間が経過していた。



 その日、は準備を万全にしたリュックサックを背負う。
 目標はただ一つ。原作キャラとの遭遇だ。恐らく、中心地に行けばコンプリートだ。であれば、最悪、魔境とはいえども新宿を含む、東京第一エリアへ目指すしかない。というか、決戦が新宿であったことは覚えているが、それ以外は記憶曖昧であるため、誰がどこにいるかまでは詳細が分からないともいう。
 そうして、は死滅回遊の地へと足を踏み入れた。


***






多分、あの日に転がり落ちた。

 1日30食限定、季節限定特製パフェは、目玉商品だ。
中でも、10月限定スイーツは、店の人気に火がつく切っ掛けとなった商品だ。『栗が先か、モンブランが先か』といった、一見意味が分からないキャッチフレーズで、知る人ぞ知る者の間では、垂涎ものの一品である。
とはいえ、店の立地が悪く、目立ちにくい場所に構えている喫茶店は、あくまでも隠れた名店とされている。休日であれば、1時間待ちはざらであったが、平日であれば、数十分程度の待ち時間で済む。加えて、季節は初秋。静かでおだやかな風が吹く一方、気候の変動も激しい。ほんの数分前までの悪天候により、客足もまばらだった。開店して数分が経過しているが、これならば、まだ間に合うかもしれない。
 任務の合間に出来た、空き時間だった。先の任務で、近場まで来ていた男は、早々に急ぎ足で向かう。
数分前まで荒れ狂っていた暴雨は噓のように止み、今では快晴を覗かせている。アスファルトには点々と水溜まりが出来ていて、無遠慮に踏んだ水溜まりを無下限で弾く。睨んだ通り、喫茶店の前に列はなかった。
 ドアベルの鳴る音と共に入店すると、一足早く、入店した者がいるようだった。

「季節のパフェと、ホットの3番をお願いします」

 名チョイス、と男は思った。己であれば同じ選択をするからだ。
 季節のパフェは月替わりで異なる。今の時期のパフェであれば、まろやかな風味ではなく、さっぱりとしていながらも、和の香ばしい風味の紅茶が合う。ホットというのも、季節感を味わえてベストチョイスといえるだろう。中々渋いね、などと思い改めて見てみれば、先の注文者は、制服を着ていた。女子学生だろうか。少しばかり、意外に思った。
 先刻までの暴風暴雨で、急な休校か、午前休になったのかもしれない。その辺りは、自身も若かりし頃、これ幸いと休みを謳歌し、外出禁止と言われようが町に繰り出していたので、人に言えた立場ではないし気にもしない。現役の教育者である男としては失格だろうが、残念ながら、そこまで厳しく取り締まるような性癖でもない。
 ただ、知る人間からすれば名店といえども、何せ店の立地が悪い。ゲーセン、カラオケ、といった騒がしい場所を好みがちな若人が、喜々としてやってくるよう場所でもないような気がする。この店独自のオリジナルブレンドの茶の種類から、初めは戸惑うだろう所を、迷うことなく3番を選んでみせるのも、理解した上で頼んでいるのだと推測できた。
 あの年頃の子は、連れ立つ事を好むので、一人という点も、珍しく映った。要は、良い趣味はしているが、変わっているな、と思ったのである。
 女子高生は早々に、ウェイターにより併設されているテラスへと案内されていく。

「ご注文はお決まりですか?」

 男の番だ。店員から声をかけられて、視線を女子学生から外した。ここに来た大本命、目的のブツである。

「季節のパフェと、3番。ホットでね」

 意気揚々と注文するも、店員は申し訳なさそうな表情を浮かべた。嫌な予感がした。

「申し訳ございません。季節限定特製パフェは、売り切れてしまいまして」

 先ほどの女学生の分で、完売してしまったらしい。男が目指していた目的のパフェは、数量限定だ。悪天候といえども、開店して数十分は経っている。今まで残っていたのも、奇跡に近いだろう。仕方がないと思いながらも、目の前で完売してしまうのは辛い。  肩をしょんぼりと落として、代わりに持ち帰りのケーキをいくつか注文する。
 この店では、テイクアウトも行っている。目的のブツを食べられない代わりに、両手に白い箱を二つ下げて、店を後にすることにした。


 二つの箱に必死に全種類のケーキを詰めた店員は、やり切った表情で、男を見送った。入店と同様に、ドアベルを鳴らして店を出る。
 帰り道、ふと視線が向く。道路沿いに、併設されたテラスに、男の前で注文をしていた女学生がいた。丁度、例のパフェが運ばれてきた所だったらしい。スプーンを片手に、一口掬う。
 口に含んだ瞬間、きゅっ、と口角が閉まった。普通、喜べば口角が上がるが、まるで耐えるかのように引き結んでいる。代わりに、目尻は下がりきっていた。年相応にしては、控えめな表情だろう。だが、何故だろうか。目が離せなかった。
裏通りにある、知る人ぞ知る喫茶店。一人での来店も何ら珍しくはないが、女子高生が一人というのはなかなか珍しい。晴れ間の覗き始めた、テラス席。満面の笑みでもなく、周囲を気にしてか、耐えるかのように口元を一文字にして、その癖、目だけは輝いていた。
 見た目と、言動のちぐはぐさ。客観的要素から見た、珍しさに反して、突如と垣間見えた、幼げな、満ち足りた表情。
 あべこべなだな、とこの時は思ったはずだ。

 足を止めかけていたことに気づいて、動かす。
 折角のチャンスであった、目的の限定パフェは逃してしまった。
 けれど不思議と、男の気分はそれほど、悪くはなかった。


***



 プレイヤーは、コガネに応答することで、10の地点にランダムに転送される。確か、主人公達は参加直後、ビギナー狩りというものに遭遇していた。何処に飛ばされるかはわからないが、思いつく限り、万全の支度を整える。

 コガネに応答し、死滅回遊の参加を表明する。直後、案の定、は空中へと転送された。
 宙に放りだされたは、早々に予行練習をしていた通り、呪力で防御を固める。こればかりは死にたくないので、特に念を入れていた。
 一番近くの足場となりそうな場所は、倒壊したビルの屋上だ。これも、地方へ飛ばされない限り、想定された一つだった。
 足の裏、転んだ時に備えて、掌、地面に接したらやばい頭部に、特に呪力を込める。
 ーーーー大丈夫だ。何度か飛び降り訓練は行っている。あれだけ、内心涙目になりながらも死ぬ気でやったのだから。ぶっちゃけ初めは衝撃のあまり腰が抜けてしまったが、あれから何度も繰り返した。今回ばかりは、大丈夫のはず。
 屋上への着地まで、残りおよそ10秒。3、2、1──…
 果たして、着地は上手くいった。必死で急所もかばったので、大きな怪我らしき箇所もない。
 安堵の息を、一つ吐く。本心は、今すぐ大の字になって、着地の成功に万歳三唱したいところであったが、ぐっと堪えて、すぐに腰を上げた。
 続けて、拳へと呪力を纏る。そのまま、事前に目をつけていた、屋上に設置されている貯水槽へ振りかざした。
 呪力様様。数十メートルの落下でも無事なのだ。当然、呪力をまとった拳に、貯水槽に拳大の穴が開いた。理想は木っ端微塵の破壊であったが、さすがに、そうはいかなかった。とはいえ、穴が空いたポンプから拳を抜けば、そのまま亀裂が入り、自然とあちらこちらから水が溢れ出てる。これで少しは、姿を眩ませられるはずである。
 水が勢いよく噴き出て、姿が見えにくい今がチャンスだ。は休む間もなく、脱兎のごとくその場から逃走した。


 基本、全身全霊で逃走の一手をとるであったたが、途中、襲い掛かってきた倒せそうな呪霊のみ、呪力でなんとか祓徐する。術式が使えない以上、呪具というものが喉から手が出る程に欲しかった。残念ながら、そんな都合の良いものはないので、安定の拳一つである。

 の一番の武器は、鮮明ではないものの、ある程度、記憶に残っていた原作知識だ。準備期間もあり、思いつく限りの想定を重ねてきた。お陰で、はどうにかプレイヤーに遭遇することなく、一息つけるであろう中心街まで辿り着いた。
 来る途中に見かけた、道路に倒れた標札から、現在地は国分寺市であるらしい。東京だ。つまりは、東京第二エリア。目的の東京第一エリアの隣である。
 当たり前だが、コロニー内の一般人は、ほとんど疎開していて、見当たらなかった。
 東京第二エリアは、阿鼻叫喚とまでは言わなくても、まさに世紀末然といっても過言ではなかった。今にも袖なし皮ジャンを羽織ったモヒカンがうろついて、ステゴロでも始めそうな廃れ具合である。有難いことに、ライフラインは止められてはいないものの、嘗ての平和な日本からは程遠い。
 まずは、死滅回遊時の拠点だ。一番住みやすいのは、物品が整っているホテルだろう。次点で、物があふれているショッピングセンター。
 だが、どちらも早々に他のプレイヤーの根城にされているだろう。加えて、後々呪術師を確保にやってくる米軍にも、速攻で見つかりそうだ。他のプレイヤーの気配がなく、かつ後々目が付けられなさそうな場所が良い。申し訳ないが、背に腹は代えられない。色々と考えた結果、は疎開後、空き家となっている団地の一室へお邪魔することにした。元の家主には、微々たるものではあるが、出来る限りの金銭をせめてもと置いていく。

 が団地を選んだのには、もう一つ目的があった。最大の目標となる、高専サイドの人間との接触である。
 ここまで来て、は積極的に街中に出て行こうとは考えていなかった。何しろ、術式が後方支援型である。ここで用意するのは、リュックサックに詰め込んでいたブツだ。
 事前に通販で購入していた、文明の利器、双眼鏡に監視カメラ。録画機能付きで非常に高かったとここに追記しておく。
 ーーー題して、戦うことなく、高台に位置する団地の一室から、どうにか原作キャラ見つからないかな作戦である。
 卑怯というなかれ。元一般人に突然、命のやり取りをしろとなんて言われても、出来るはずがないのである。
 現時点までプレイヤーとの遭遇の気配もない。無事、拠点もゲット出来た。は改めて、己の頬を両手で叩く。

「っし!」

 前世も含めれば、中身はアラサー。伊達に年を重ねているわけではない。
 どうにかこうにか、死滅回遊を生き残るべく、を己へと喝を入れなおした。


***


 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。
 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。

 大昔の歌にあるように、どれだけ栄えた都市であっても、一瞬で滅んでしまうのだから、いやまぁ、時の流れは矢どころか瞬きの如しだよね。
 と、唐突に懐かしの古文が思い浮かんで、がつらつらと言い訳がましく思考するぐらい、死滅回遊に参加して既に数日。一世一代の決死の覚悟で参加したはずが何事もなく、あっという間に5日が経過していた。もちろん、ポイントに変動はない。
 とて、自身の生死がかかっているので必死だ。双眼鏡でひたすら周囲を眺め、同時に、睡眠時や席を外していた間の録画データもチェック。コストパフォーマンスを維持するために、合間合間に息抜きがてら、少しばかり張り切って、孤独のグルメサバイバルキャンプ飯編も偶にはしたが──集中力を切らさないために、必要なことだとは弁明する。とはいっても、時間にすればほんの少しであるし、その間の録画も確認済みだ。しかし、成果はゼロだ。
 何人かプレイヤーらしき人間は見かけた。しかし高専サイドの人間ではなく、かつ原作で描写されていたような、見覚えのあるような容姿ではない。当然ながら、現時点までプレイヤーとの遭遇はゼロだ。
 やばい、このままだと本当に死んでしまう。術式の没収=プレイヤーの死だ。安全圏からどうにか高専サイドの人間を見つけようといった、我ながら中々素晴らしい作戦だったが、もしかすると、この作戦は失敗だったのかもしれない。だからといって、バトルジャンキーしかいない中心地には行きたくない…。うだうだと悩むへと、更なる追い打ちがかかった。
 昨夜の事だ。突然コガネが、「全プレイヤーの情報開示」ルール追加を宣言したのである。何処かのプレイヤーが、溜まったポイントを対価に、ルールを追加したのだ。
 プレイヤーの詳細な現在位置は開示されないようだが、どのエリアに、どんなプレイヤーがいるか程度であれば、他のプレイヤーでも分かってしまう。
 現時点で獲得点数が自身の持ち点のみなので、自身が狙われる可能性は低いだろう。それでも見つかってしまう可能性はゼロではない。
 拠点を移動するべきが、現状を維持して探し続けるべきが。でも、魔境だけには行きたくない…。嫌が応にも拒絶するは、更に悩みに悩む。
 ひとまず、万が一の挽回のチャンスもあるやもしれないので、監視は緩めず、気分転換に携帯食料の缶詰で作ったパエリアに舌鼓を打ち、昨今の企業様の努力を有難く感謝しながら、いつも通り就寝した翌日。の決意はあっさり決まった。
 昨日に続いて、新ルール「プレイヤー間のポイントの譲渡」が追加される。はこの日、ようやく重い腰を上げることにしたのだ。



 ──新ルール「プレイヤー間のポイントの譲渡」
 これは、高専キャラが追加したルールだったはずだ。主人公達が死滅回遊に参加した日付までは記憶していなかったが、このルールが追加されたということは、もう彼等も参加しているのだろう。裏打ちを取るべく、は、ひとつ前に追加された「全プレイヤーの情報開示」で、調べることにする。
 コガネに問いかけると、プレイヤーの情報を読み上げていく。は聞き漏らしのないようメモをしながら、注意して聞いていく。すると、東京第一結界には、虎杖・伏黒、東京第二結界には、秤とパンダ、仙台結界には乙骨の名前が確認できた。
 がいるのは、東京第二結界だ。は気づけなかったが、このエリアには鹿紫雲一の名もあった。のちのち、高専サイドに回る受肉した過去の呪術師である。受肉した目的が、強者との戦いである彼は、つまりは作中でも屈指の戦闘ジャンキーだ。
 無事エリアに突入し、今の今まで他のプレイヤーに出くわさずにいたのは、彼が強者との戦いを求めた結果、プレイヤーの人数が減っていたからだろう。と、いうのも、コガネの上げる第二エリアのプレイヤーの人数が、他のエリアと比べて少なかったからだ。次点で、仙台である。これは乙骨のポイントが突出していたので、乙骨よるものと思われる。さすがパイセンである。つらつらと、そこまで考えて、は決意する。
 主人公サイドが、死滅回遊に参加した。と、なると、米軍による呪術師狩りも秒読みだ。プレイヤーおろか、呪霊相手でさえも手こずるというのに、米軍まで入り乱れてしまったら、いよいよ、己は引きこもるしかなくなる。
 新ルール「プレイヤー間のポイントの譲渡」が追加された今、プレイヤーを殺してまでポイントを奪う必要もなくなった。平和的な解決手段が生まれ、他プレイヤーから襲われたとしても、命まで取られる可能性が減ったという事でもある。加えて、東京第二結界は、鹿紫雲により強いプレイヤーは刈られてしまっているが、鹿紫雲自身は、強者にしか興味がなかったはずだ。
 そうなれば、今がチャンスであった。

 死滅回遊へと足を踏み込む前、は出来るだけのことは終らせてきた。
 必ず、生きて戻るつもりだが、家族、親しい友人知人への連絡。そして最後に一つだけ、は心残りがあった。

「(──今ならいける」」

 が気がかりなのは、渋谷事変を機に、連絡が途絶えてしまった、文通相手の、安否だった。





 初めは、事故から助けてくれたという相手への、感謝の手紙だ。
 事故にあったが病院で目覚めた時には、既にその相手もおらず、辛うじて、警察により連絡先だけが教えられた。命を救われたとしては、気持ちが足りないので、菓子折りを添えて感謝を込めた手紙を送った。すると、1週間程して返事が返ってきたのだ。

『お菓子、美味しかったよ。ありがとう。
これ、どこの?今度買いに行きたいからさ、良ければ教えてくんない?』

 あっさりとした返事の割には、随分と達筆な字だった。よくよく見れば、便箋もシンプルであるものの、手触りの良い上質なものだ。端には季節の植物が、さりげなく印刷されている。あからさまではないが、センスが良い。
 お礼を伝えるだけであったはずが、それから、奇妙なやり取りが続いていく。

『お気に召して頂けたようで、よかったです。
小さい商店街の、手作りお菓子なんです。
よければ、住所を記載しておきますね。
こちらも美味しいので、良ければお召しあがりください。』

『美味しかったよ。君、趣味いいね。 貰ってばっかで悪いから、こっちからも送っとく。
僕の一押しだから、美味いよ。』

『美味しかったです! 食べたことがないお味でした…!
お菓子、凄く美味しかったので、気持ちばかりですが、お礼をお送りさせていただきます。
お気に召していただけたら、嬉しいです。』

 初めは、手紙に菓子折りといった、色気もへったくりもないやり取りである。
 お礼に対して、お礼を返すといった不毛なやり取りであったが、互いの趣味が似通っている事に気づき、お勧めのお菓子を送り合ったり、情報を交換し合う仲になった。彼から、お勧めと称して送られてきた初めてのお菓子は非常においしく、当時は随分と衝撃を受けたものだ。さすがに日持ちもしないので、既に食べてしまって中身はないが、送られた菓子の箱に、は今まで交わした手紙をしまっている。はそれを、今も大事に保管していた。
 手紙には、近状や雑談も交えていた。彼は筆まめのようで、やり取りの間が一月以上空くことはなく、何時しか菓子情報よりも、雑談がメインになっていた。

『実は、この前君が送ってくれたやつ、前から狙ってたんだよね。
前回は手に入れられなかったんだけどさ。君が送ってきてくれて、吃驚した。
ウケるよね(笑)

 あれ、並ばないと買えなかったでしょ。わざわざありがとう。
お礼に、今度は出張のお土産。北海道で一番美味しいやつだから、それ。

 そうそう。最近、僕の生徒が冷たいんだよね。てっきり、お年頃特有の反抗期みたいなやつだと思ってたんだけど、他の教師には、大人しいみたいでさ。なんでだと思う?
 この前、君に送った海外のお土産、あれ、違う学校の子達に会う機会があったから、その子達にもあげたんだけど、うちの子達にはあげなかったんだよね。
 やっぱあれ、欲しかったのかな?
 行こうと思えば行けるんだけど、場所が中々の奥地でさ。色々と面倒なんだよね。
 仕方がないから、作ってみました。
 第一号、送ります』

『出張、お疲れ様です。
 あと、すみません。あの、送って頂いたぬいぐるみ、本当に手作りですか…? 市販で売ってるのを買ったわけではなく…?
 クオリティ、高すぎです。
 軽く数万円はする手触りと見た目で、吃驚しました。

 私なんかの感想では、参考にも何もならないと思いますし、そもそも、完璧すぎて何も言う事がないのですが、一言だけ。
 以前、生徒さん達は、男の子が多いと聞いていたので、テディベアではない方が、喜んでくれると思います。
でも、ぬいぐるみ嬉しかったです。ありがとうございます。大事にします。

 私個人の考えですが、生徒さん達は、冷たいというよりは、気心が知れているんじゃないでしょうか。
 甘え、と言いますか、何を言っても許してくれる、守ってくれる大人、と認識されているから、繕う必要がなく、雑になっているけれど、
 それって、気を許している証拠なんではないかと思います。

 手紙越しでも、いつも丁寧で優しい方なのは、存じ上げていますし
 きっと直接接している生徒さん達から見れば、尊敬する身近な人、だと思います。

 最近寒くなってきましたし
 先生としてのお仕事に、部活動にも精を出して、よく出張も行かれているので
 休めるときには、しっかり休んで、ご自愛なさってくださいね。

 少しでも休めるように、ポプリ、送っておきます。
 私のは手作りではないのですが、気に入って頂ければ幸いです。』


『ありがとう!送ってくれたやつ、いつも持ってる。
 大事にする。

 ぬいぐるみは、僕の手作り。
 うちの学校の学長、ぬいぐるみ作りが趣味でさ。
 道具はそこからかっぱらってきたんだけど、さすがに、作るのは始めてだから、心配だったんだよねー。気に入ってもらえて、よかった。

 確かに!
 生徒は男がほとんどだし、そもそも僕の真心は生徒達にも、絶対伝わっているはずだから、やっぱり、やめておこうかな。
 グレートティーチャーだからね!部活もガンガンやってくよー!

 僕ってこの界隈では結構な人気者でさ。あちこち呼ばれるんだよね。
 別に嫌いじゃないけど、重労働違反どこ行った?って感じのブラック具合でさ。
 今も出張から帰ってきたばかりで、寝起きなんだよね。
 面倒だけど、君が送ってくれたポプリに癒されたから、頑張るよ。
 これから、渋谷に行ってきまーす!』


 それが、最後に彼から送られてきた手紙だった。
 手紙が送られた消印は、渋谷の半分以上が壊滅した、10月31日。その日を境に、日本の情勢は大きく変わった。呪霊が俗世に表立ち、死滅回遊が始まったのだ。はすぐに、無事を確かめる手紙を送った。けれど、いつも1週間も経たず返ってくるはずの返事は、が死滅回遊に参加するまで、返ってくることはなかった。

 文通相手の送り先の住所は、八王子市内にある。名前は佐藤さんだ。
 目的の住所は、事前にネットで調べある。八王子市内といっても、街中から離れた山奥にあった。10月31日以降、都内であっても、死滅回遊により出来た結界で移動が難しくなっている。だが幸か不幸か、はプレイヤーになった。それも、の居る東京第二エリアからであれば、向かうことが出来る。

 東京の最低限のライフラインは止められることなく、動いているが、死滅回遊の結界が張られたエリア内の電車の運行は、当然ながら止まっている。
 が居るのは国分寺市内。八王子であれば、頑張ればなんとか向かえる距離だ。もちろん、数日前まで普通の一般人であったに体力がある訳でもないので、呪力強化が前提である。廃線化している路線沿いが、一番使いやすい道だろう。
同時に、一番使いやすいという事は、他のプレイヤーに遭遇する可能性がある。
 次に高速道路沿いも、進みやすいが、こちらは周りには遮蔽物がないため、他のプレイヤーから見つかりやすい。万が一を避け、は街中から向かう事にした。



 呪力を足に纏っているからか、想定していたより、足への負担はかからない。
 他のプレイヤーに出くわさないよう気を付けながら、時に遭遇する呪霊を祓いつつ、半日が経過した。
 早朝の日が昇らない間に出発しただったが、八王子市内へと入った頃には、太陽が真上を過ぎていた。この調子であれば、なんとか日を跨がずに着けるだろう。

「新ルールの追加だ!」

 その時、コガネが突然、宣言した。他のプレイヤーによる、新ルールの追加だ。
 コガネが続いて告げた内容は、エリア外への出入り自由、といったものだった。が参加したばかりの頃は、ルールの追加などなかったが、この数日で、怒涛のルールの追加ラッシュである。主人公達がよほど健闘しているのだろう。

「(…これは、ナイスタイミング)」

 文通相手の住所へと向かうにとって、新たな追加ルールは、僥倖である。
 プレイヤーは、結界の外に出れない。目的地は結界外ではあるが、原作の知識により、日付までははっきりと覚えていないが、エリア外の出入りが自由になるという事は、記憶に残っていた。
 の当初の予定では、一番近い結界の付近で、ルールが追加されるまで待つつもりであった。同時に、目的地の付近まで迂回して向かう必要もあったが、新ルールにより、結界の外に出れる。
 結界の外であれば、電車も通っている。最短ルートで向かうことが出来るだろう。は予定していた道を変更して、結界外から目的地へ向かうことにする。


 呪力で負担がかなり軽減されているとは言っても、文明の利器には叶わない。新ルールにより、最短ルートで向かうことが出来たが目的地についたのは、予定より随分と早く、日が暮れる前の事だった。
 久しぶりの結界の外だ。当たり前だが、結界の外と中では、随分と街の様子も異なる。結界から近い町は、以前のように栄えているという訳でもないだろう。それでも、世紀末然の結界内とは大いに異なる。人出入りが減ったといっても、廃れた田舎といったレベルだ。
 結界外であれば、他のプレイヤーの襲撃を警戒する必要はない。何よりも、歩けば呪霊に当たる結界内と異なり、人間がいる。死滅回遊に参加して、実に6日ぶりであった。思わず気が緩んで、はこのままバックレてしまいたくなった。電波が通じるようになり、電車を待つ間に、スマホで家族と友人のメッセージも確認して、猶更だった。
しかし残念なことに、は未だに1ポイントも獲得できていない。生き残るためには戻るしかなく、世知辛い現実に、思わずは目頭を押さえたくなる。このまま、原作キャラが、見つからなかったらどうしよう…。期限の19日まで、既に3日しかなかった。不安は増すばかりである。
 認めよう。安全なところから監視して、主要人物を見つけよう作戦は、上手くいきそうにもなかった。もしかしなくても、作戦の失敗である。やはり自爆覚悟で、世紀末の結界内でも、一等魔境である、都心の中心地まで出るしかないのか…。
 とにかく、今は心残りだ。後ろ向きになりそうな意識を、は無理やり切り替える。


 目的地は、とある郵便局だった。手紙はいつも、八王子市内の山の麓の郵便局止めで送られていた。
 辺境の地、といっては聞こえが悪いが、随分な山奥である。事前にネットで調べていたものの、都内にこんなに緑があるのか、とは感心する。


 結界の外なので、郵便局には人もいた。

「すみません。束の事、お伺いさせて頂きたいのですが」

 日本人の勤勉さは異常と、よく外国人から捉えられるが、結界の付近であっても、彼らは普通に仕事をして、変わらない日常を送っていた。
 呪霊という存在が明るみになっても、世論では、都心に出現するもの、としか考えられていない。確かに、人間の負の感情から生まれる呪霊は、人が多いほど集まりやすいが、その一般的思考が拍車をかけ、余計、呪霊は都心へと集中していた。
 実際は、まったく現れない訳ではない。働かなければ生活はできないが、それでも結界付近で暮らす必要はないだろう。
変える労力を厭い、敢えて思考を停止しているのか、考えた末に選んだ猛者なのか。こればかりは、当人達にしか分かり得ないことだが、これらが死滅回遊を起こした元凶・羂索が嫌う、普遍的な平穏。彼からすれば、平和ボケというものだろう。
 その平穏を、尊いものと思うか否かは、各々である。少なくてもは、こうして郵便局に人が残っていることに、安堵し、随分と助けになった。

「1年ぐらい前から、手紙をここの郵便局留めでお送りしていまして…。
 受け取り先は、佐藤さん、と仰る方なのですが、何かご存知でしたり、されますでしょうか?
 こんなことになってしまいましたし、相手の方がご無事かどうかだけでも、知れたらと…」

「佐藤さん…?手紙…あ、」

 郵便局には、初老の男性が一人いた。時刻は既に郵便局が閉まっている時間だったが、彼は、苛う事なく手を止めて、耳を傾けてくれる。
 男性は首を傾げたが、逡巡の内に心当たりがあったようで、合いの手を打つ。

「なんだ、あそこの先生か!」

 男は、東の方向へと指を刺す。建物の外を示しているのだろう。

「彼ね、あそこの先生らしいよ。ついこの間まで、そこの山の上に、専門の学校があってね。
 ただ、今は見ての通り。不思議なことに、つい最近、学校自体が一夜にしてなくなっちゃってね…。これも、渋谷で起きた事件と、関係してんのかねぇ…?」

 腕を組んで、眉を顰める男性は、心配の色を浮かべた。「五条先生、ご無事だといいんだけど…」

「…?佐藤さんでは…?」
「?佐藤さん??」

 互いに目を合わせる。目を瞬かせるに、男性はややあって、得心がいったようだ。しわがれた指で、頬をかく。

「確か、佐藤さんつったら、事務方の人の名前だったはずだよ。
 あそこの学校、ちょっと変わっててねぇ」

 1年近く、は命の恩人さんと文通していた。ここで気づく。イニシャル文字しか、は知らないのだ。
 と、いうのも、事故から目が覚めた入院先で、警察からの連絡先には、『佐藤』との名前の記載があった。書かれた宛先のまま、お礼の手紙を送ってみたのはいいものの、何故か返ってくる手紙には、いつも『S・G』と書かれていたのである。『佐藤』さんだから、『S・G』なのだろうと、は安直に考えていた。ところが、己はとんでもない見当違いをしていたらしい。

 まさかここにきて、術式が目覚めた時以上の衝撃が襲うとは、思いもしなかった。
 念のため、名前を知っているか郵便局員さんに聞いてみたところ、名前が悟さんな五条さんらしい。
 は、過去の手紙の内容を振り返ってみた。

 東京都内にも関わらず、山深い学校の先生で、教師であっても、よく出張がある。
 夏の終わりに送られてきた、海外出張のお土産は、とある部族に伝わるという、変わった人形で、他校生にも配ったらしい。
 曰く、界隈では人気者で、2018年10月31日に渋谷に向かい、以降、消息不明。
 関係ないかもしないが、以前彼からテストとして送られたテディベアは白い毛の、青いビーズを填めた子で、実に何某を連想させる容姿であった。
 どれも違和感なく、すんなりとパズルのピースが嵌っていく。の意識が遠くに飛びかける。

 甘いもの好きな、先生。
 S(atoru)・G(ojo)
 ………マジか。



***



 あの事故の時のの記憶は、ほとんどない。一瞬のことで、すぐに意識を失ったからだ。今思えば、あれは呪霊によるものだったのだろう。
 そう考えれば、人が吹き飛ぶ程の強風も、見事にひしゃげた自転車も、つじつまが合う。なにしろ当時、は呪霊を見ることが出来なかった。

 意識の狭間で辛うじて、少しだけ残っていた記憶がある。
水中から助け出された後の事だ。の意識に僅かに浮上した。自転車で横転した時に、傷つけたのだろう。気づけば、掌にはべったりと血が付着していた。
 ひたすら、痛くて、苦しかった。今がどうなっているだとか、状況も何も考えらないほど、痛みに悶え狂っていた。自身が痛みに、喚き散らしていたかも、分からない。ただ喉の奥に悲鳴がこびりついて、出口を探してずっとのた打ち回っている。
暴れまわる力はなくても、禄に見れたものではなかったと思う。
 痛みに涙は愚か、喰いしばった口元からは、涎も垂れていた。鼻水は分からないが、きっと垂れていたようには思う。
顔面は汁でぐしゃぐしゃで、血塗れ。本当に禄なものではない。
 そんな汚れた手を、握ってくれていた人がいた。

「大丈夫」

 言葉は、繰り返し唱えられた。

「必ず、助ける」

 安心させるように掛けられた声は、痛みに苦しんでいる中、まっすぐな線となって届いた。
 キラキラと輝く道筋となって、やがて痛みが遠のき意識が途切れていく。

 ──それからずっと、は恋をしている。



(中略)



 同時刻、東京呪術高専の食堂にて、早めの夕食をとる二人組がいた。
編入制生であり、呪術師初心者のは、既に単独任務もある虎杖達は別に、現在高専内にて訓練中である。朝から始まる体力づくりに、間に呪術についての座学と一般教養を挟み、午後からは実戦形式で組手などを行う。死滅回遊に参加していても、  はほぼ引きこもりだったので、少しずつ呪霊に慣れるために、他の呪術師に付いて、実地訓練に出ることもあった。

 一度目の生で経験した学生生活とは全く異なる呪術高専での日々は、目まぐるしく、今日も今日とて、一日を終えたはヘロヘロであった。
 重い足を引きずり、どうにか食堂まで辿り着いたは、小休憩とテーブルに突っ伏す。頬に触れた木目調のテーブルの素材が、ひんやりして心地が良かった。鼻孔に香る、白米の炊かれた優しい匂いに、ほんのり醤油を垂らしたのだろうか、微かに香ばしい魚の焼けた匂い。なんとも腹が減るが、今は動けそうにない。

「今日もぼろぼろだねぇ」

 くすり、と零れた声は、聞き慣れたものだ。全身が鉛のように重い為、のそりと顔だけを起こす。
 厨房から見知った人物が顔を覗かせていた。

「お疲れサマンサー」

 片手を上げて、挨拶してくる男は、なんとまぁ、情報量が多かった。黒い目隠しに、黒い長袖、長ズボンの上下で、闇夜に紛れそうな服装の割に、髪の色は輝く白銀で、肌理は陶器のように滑らかで白い。身長は自販機を超える2メートルと長身で、手足は恐ろしく長い。更に白いエプロンを纏い、もう片方の手にはお玉を持っている。全身黒の衣服に、目隠しにエプロン、お玉装備と、不審者然に拍車をかけた格好で、初対面であれば、引くこと間違いなしの外見だったが、生憎とここ高専では、知らぬ人間はいない。特には、彼に大変世話になっていた。

「お疲れ様です、五条先生……」

 声帯はなんら問題ないはずであるのに、呪力切れなのか、声を出すことすら億劫であった。力尽きた、と再び突っ伏して、はテーブルへと溶ける。

「あれま~~ホントに瀕死じゃん」

 弱弱しいに様子に、五条が笑う気配がした。
 ほどなくして、味噌汁の良い香りが漂い、誘われるように視線を上げる。視界に映る、白。思っていたよりも近づいていた、五条のエプロンだ。近くで見ると、改めて圧を感じる長身であった。

「はい。ごはん、出来てるよ~~~」

 もう指一本たりとも動かせないと思っていた体が、反射的に起き上がる。これぞ、パブロフの犬だ。
 五条は手に持っていたお盆を、の前に置いた。湯気の立つ、温かな和食だ。一主菜、二菜、一汁の一汁三菜。ダイス状に切られた豆腐にわかめの味噌汁。お椀に添われた、つやつやとしたお米。カツオ節を載せたほうれん草のお浸しに、ゴマを和えた金平ごぼう。今日は、旬の鰺だ。器に端に、大根おろしと、かぼす、茗荷が添えられている。じゅわ、と無意識の内に咥内に唾液が溜まる。シンプルというなかれ。一番定番で、間違いのない食事だ。何よりも、お米の炊き方から、出汁の取り方まで別格で、五条の手料理は別次元だとは知っている。
 目を輝かせんばかりのに小さく笑うと、五条は自身の食事を持って向かいの席に腰かけた。

「はい、召し上がれ」
「ありがとうございます!いただきます!」

 五条の手合いに、素早くは箸を手に取った。

 マイノリティであるが故に、呪術高専の生徒は少数だ。1学年は多くても、3、4人程度で、中には1人しかいない年もある。在校生は、両手で数えられる程度で、どちらかというと、高専の食堂は教職員やフリーの呪術師が使用する場合が多い。
 広くもない、こじんまりとした厨房で、働く食堂のおばちゃんは、家庭を思い出させる温かな光景だった。ところが、その中に混ざる矢鱈と目立つ影が、ここ最近見受けられていた。

 白のエプロンを身に纏った、長身のガタイのいい男性は、時に中華鍋を回したり、お玉で鍋をかき混ぜていたりする。なお、目元は黒の布で覆われ目隠しされた状態だが危うげな様子は全くなく、包丁さばきも素早く、魚の三枚卸もなんのその。
 食堂のおばちゃんの中に軽く混ざっている特級呪術師に、最早突っ込む人間はいない。
 お前、任務はどうした、と最初は懸念していた面々も、久しくストレスフリーの伊地知の様子に溜飲を下げる。もともと、呪霊が出現しやすいのは真夜中の時間帯だ。加えて、虎杖達学生がメキメキと頭角を現して、五条以外にも頼りなる呪術師が増えたこともそうだが、ここ最近、五条自身もとても真面目に、サボることもなく任務をさっさと終らせている。今年は五条が受け持つ1年生の入学もなく、結果、出来た合間の時間に、五条は食堂に入り浸っていた。
 なお、五条家当主業務は、死滅回遊のどさくさにまぎれて、宿儺との戦いの古傷で、だとかなんとか喚いた五条により、ちゃっかり乙骨に押し付けていた。乙骨は学業に任務、当主業務と割としょっちゅう半泣きであったし、リカちゃんは出会い頭の度、元凶の五条に威嚇しまくりだった。
 こうして、食堂のおばちゃんと化した特級呪術師は、既に呪術高専では当たり前の景色の一部となっていた。


 頼まれれば、可愛い生徒の頼みだ。ついでと手料理を振る舞うこともあるが、基本的に五条は自由主義、つまりは放任主義だ。食堂にはおばちゃんもいるので、面倒になれば自炊しなさい!と突っぱねる。しかし、例外というか、事の発端というべき人物が一人だけ居た。。呪術高専2年に編入したばかりの一生徒だ。
 知り合いである彼女に対して、五条は大層甘かった。初めて彼女と五条のやり取りを見た人間は、幻覚を疑って、二度どころか三度見、ガン見する程であった。
 特級呪術師、現代最強の呪術師として知らぬ人のいない五条だが、唯我独尊でも知られている。つまりは、性格に大いに難あ りなわけだが、彼女が関わると、五条の傍若無人が借りた猫宜しくかき消えてしまう。しかもきっかけは、呪霊の戦闘で巻き添えにしたことから始まった、1年にも及ぶ文通だという。どこの少女漫画かと思えるほどのピュアさである。高専サイドから見れば、誰おま案件だった。

 まず第一に、呪霊の戦闘で巻き添えになることは、一般人は入れないように帳を張っているので、滅多に起こらない。それが万が一、偶然にも巻き添えにしてしまったとしても、そのあとに1年も文通のやり取りだと?このご時世で?いつの時代だ。ポケベル世代じゃねぇんだぞ。とは相談というよりは、五条が話たいだけを一方的に聞かされて、思わず零れた日下部の発言だ。

 これには、多少なりとも裏があった。そもそも相対した呪霊が特殊だったのである。季節の代わり目に現れた呪霊は、特級になりかけていた『縁』の呪霊であった。呪霊は相手の縁が見えるらしく、祓いに来た五条の『縁』を見て、一番使えそうな相手を狙ったのだという。『気になりつつも、一番狙いやすい手薄な相手』として、呪霊が狙った相手が、だった。呪霊との戦闘に巻き添えにくらったといえば確かにそうだが、偶発的なものではなかったのである。
 やり取りが文通だけというのも、五条なりに対外を気にしてだ。ふざけて受け持つ女子生徒のスカートを履くよう人間だが、一応、仮にも、五条は教職だ。
 いくら特殊な呪術高専と言えども、本来、教師は大事な生徒を預かる公務員である。ましてや、学長は厳格さを体現したかのような人物の、夜蛾である。一教師の不純異性交遊が認められるはずもなく、分かりやすく言えば、教師が不倫をしようものなら、良くて謹慎処分、最悪、職務上の信用を失ったとして解雇通達レベルであった。同様に不倫まで行かずとも、不特定多数との淫らな交友関係も教師には暗黙の禁止事項である。
 確かに、五条は見た目、言動が如何にも軽く、いつもの目隠し然ではなく、サングラス姿で街を歩こうものなら高確率で逆ナンされる。その度に調子よく五条は返しているので、それ故によく生徒達から遊んでいる、と揶揄われていた。しかし実情は、学生の頃からあまりにも頻繁な為、慣れただけである。ただでさえ、色恋というものは厄介な負の感情を生みやすい。呪術師として呪霊の発生を防げるものなら、事前に避けたいところだ。
 加えて、五条は五条家当主・特級呪術師・教師と二束わらじどころか、三足履いて、一人三権分立もかくやで、あり得ないほど忙しい。もともと、ショートスリーパーであり、かつ裏技の反転術式がある五条だからこそ、ぶっ倒れることなくこなせている。例え、気が向いて返信してみても、やり取りを数回したのちに罵言絶句されるか、女性から返信が来なくなる自然フィールドアウトのどちらかだと興味本位に返してみた、若かりし頃に既に学んでいる。そうなる度に、親友や後輩達から、爆笑、若しくは隠し切れない嘲笑を受けた屈辱的な記憶しかない。
 そうした訳で、チャラい反応を返していても、実際は鮮やかなスルーで躱していたのであった。もし、五条が教職につかず、五条家にも生まれず、呪術師でもなかったのであれば、外見の良さを活かす道、基ヒモとしての生活もあっただろうが、それは五条悟にはなり得ないので、割愛とする。
 とはいえ、彼も学生時代、健全な青少年として全く興味が湧かなかったわけではない。しかし五条は旧家として、高専入学前に元服を済ませている。気軽に振る舞えるような立場ではないと五条とて理解はしていたし、そもそも学生時代は、気の置けない男連中で馬鹿をやっている方が楽しかった。仮に空いた時間も、術式の習得・解釈と生粋の呪術師馬鹿でもある。つまりは、かつての学生時代は勿論のこと、教師となった今も、生徒達と連れ立って夏場にカラオケに行くようなものなら、ふざけて湘南の風をノリノリで歌うようなチャラい男ではあるが、実際のところ、種馬ライダーにはなり得なかったのである。

 周囲からはクズとして定評のある五条でも、なんかんだといって、周りからは頼りにされている。一部の人間を除き、五条が心から嫌煙されないのは、人として最低限のモラルがあるからである。あとは、ごちゃごちゃした背景はぶっちゃけ二の次で、単に五条自身、本人にパパ活と思われるのが嫌だったともいう。
 せめて高校を卒業するまでは…。そう考えていた五条だが、あちらから来るというのではあれば、話は別だ。折角やってきてくれたのであれば、せっせと外堀を埋めて下地を作っても、問題はないはずである。あくまで、不純異性交遊にはならない程度で、かつ、将来を見据えたうえでの真剣交際であれば、周囲からも文句は言えないはずである。最も、言わせる気もないが。
年の差?たまたま、うっかり彼女が生まれてくるのが遅かっただけの誤差でしょ。またとないチャンスの到来に即座に掌を返し、さっさと開き直る程度には、残念ながら五条の精根は腐っていた。

 一見、普通の女子高生である。だが何故か、彼女の言動は、五条の心の柔いところに触れた。羽先で撫でるような優しさで触れたかと思えば、くすぐったり、じりじりと焦げ付くような時もある。自身を差し置いて、伊地知が割と頻繁にすれ違う、スイーツ仲間であったと知った時は、うっかりクサヤを伊地知の運転する車のクッションの下に置く程度には、ショックであった。例え、伊地知のスイーツ行脚は五条のパシリによるものだとしても、自身が手紙で我慢していたというのに、伊地知のくせに生意気である。なお、五条自身は車の匂いが取れるまで、別の補助監督の車に乗って、ちゃっかり臭害を回避していた。
 最初は多分、気になる程度の相手であったはずだった。けれど、手紙のやり取りを交わしているうちに、彼女を知っていく。どんどん戻れなくなっていく。そして、その現状すら、厭わないのが不思議だった。
 理屈では測れないものがあると、学生時代に学んだ。けれど、これはそのどれにも当てはまらない。今日も明日も、彼女の笑顔が見たい。なんて、願う日が来るとは、予想だにしていなかった。
 有り体な、普遍的な想いだ。尊く、根っからの呪術師である自身には持ちえず、生涯関りはないだろうとすら考えていた。
 自身に蒔かれた小さな種に水をやり、大事に育てていきたい。柄にもなく、心の底から五条は思う。






<サンプル以上>

 
食欲の秋