Skyting stjerner1-55
長かった帝国との戦も、残るは水上砦シャサラザードとクワバの城塞、帝都グレッグミンスターを残すのみとなった。シャサラザードかクワバの城塞さえ越えれば、グレッグミンスターはもう目と鼻の先だ。モラビア城から帰還してすぐのことだ。間を置かず、解放軍は四日後にシャサラザードを攻め入るという事を今朝方食堂で、ティルが面々に告げた。そしてそのまま、グレッグミンスターに攻め入る。北方を解放し、本拠地へと戻った四日後、達は最終決戦を迎えることになる。
全ての戦いが四日後に終わる。そう考えただけでは身体の内から込み上げてくるものがあった。視線を地面へと向ける。
沢山の血と涙が流れた。二度と還ってこない者は、数えきれない。その戦ももう終わるのだ。いや、終わらせなければならない。今まで散々泣いてきた。失ったものと得たものを抱えて、はもう二度と泣かぬ事を決めていた。
誰もが決意を新たに、残りの日々を過ごす。胸によぎるのは、全てを終わらさなければならない、義務感のような強い思いだ。反射的に、犠牲にしてきた者が脳裏に浮かび各々が決意を新たにする。
ちゃん、そう笑いながらかけられた柔らかな声は、未だに鮮明に思い出せる。 大浴場からの帰路の道で、偶然会った彼は、確かあの角から現れた。目を瞬かせるなり、胸が温かくなるような笑みを浮かべていたのだ。今も鮮明に思い浮かぶ昔を思い出しながら、は目を細めた時だ。風も吹かない屋内だというのに、燭台の灯りがゆらりと大きく揺らめいた。かと思えば、ふと灯りが消え、突然辺りに暗闇に包まれる。
墨汁を垂らしたような暗闇は、単に灯りが消えた、それだけではないだろう。灯りは幾つも壁にかけられ、例えそれらが全て消えたとしても、部屋からは光が、窓からは月夜の光が漏れるはずだ。それが一切、見当たらない暗闇だ。ーーそう、異常である。
闇の中に響いたのは、聞いたことのある声だった。
「いらっしゃい、お嬢ちゃん。」
艶やかな声は美しい。容姿もまだ妖艶なだけでなく、氷のように整っていた。だが女は、これ以上ない程残虐な女だ。
声が降りると同時である。ひたり、と首筋に冷たいものが触れた。
「そしてさようならだ。」
慌てて、袖から出した暗器で首元の凶器を逸らす。双剣だけでは頼りない、とラズリルに暗器も忍ばせておくよう言われていたのだ。それが今こうして役に立った。だが完全に避ける事は出来ず、の頬を赤い筋が走る。
感心したよう吐息を吐いたのは、腹の底を這うような低いものだった。
「ほお、避ける事が出来たか。」
「まぁこんな事でやられてくれたら、変革者じゃないものね。」
男の声を、は聞いたことがない。けれど男は、今躊躇いなく剣での首を撥ねようとしていた。先ほどから響く声、ウィンディと、彼が敵である事は明らかだ。 帯刀の重みに普段から慣れる為、本拠地であろうとも常に双剣を携えていてよかった。双剣を構えながら、油断なく辺りを見回す。男は銀色に鈍る鎧で身を覆った、長身痩躯な男だった。金の長い髪が、兜の隙間からこぼれ落ちる。大蛇のような三百眼の目は、左が赤く、右目は銀色のオッドアイをしていた。が見たことのない程の威圧感を放つ男は抜き身の剣を手に、愉快そうに笑みを浮かべている。やがて暗闇の中から長いマントを引き、ウィンディがの前へと現れた。
見るものを虜にするような美しい微笑みを浮かべ、彼女は言う。
「ねぇあんた、変革者。どこから来たんだい?大人しく帰ってくれないかね?」
眉を寄せて、彼女を睨み付けた。帰るものなら、そう何度も思った。けれどは帰れないのだ。帰る手段を知らないからだ。
「断る、よ。」
「そうかい、じゃあ死んでおくれ。」
「それも嫌だ!」
そう言って、は一目散に身を翻す。
宮廷魔術師であるウィンディに、謎の鎧の男。例え一対一でも、に勝ち目がない事は目に見えていた。しかし背を向けて駆け出したは、異常な空間にいた。城の廊下を歩いていたというのに、辺りは暗闇に包まれている。まるでこの場は本拠地ではなく、亜空間のようだ。逃げ出せるとは、思えない。それでも闘って勝ち目がない今、には逃げるしか手はなかった。背後から嘲りがかかる。
「おやおや、変革者ともあろう者が、逃げるのかい?というか抜け出せないのかい?私の空間から?」
ウィンディの声は、徐々に高笑いへとなっていく。
「そうだよねぇ、だってこれは私の力だからねぇ!」
背後に剣を振りかぶる風を斬る音がした。慌てて体を横へとずらすが、あまりにも剣筋が早すぎる。二の腕を斬り落とされる寸前だ。反射的に繰り出した剣で軌道を逸らせたが、そこに全ての意識が集中していたため、他ががら空きであった。――しまった。気づいた時にはいつの間にか追いついた男の、長い脚が振りかぶられている。がら空きの銅へと撃ちこまれた蹴りの重さに、一瞬息が止まる。体は受け身も取れずに、後方へと吹き飛んだ。人を蹴りだけで容易く吹き飛ばすなど、普通の人間では出来やしない。男は細身ではあるが、人間離れした強い力を持っていた。地面へと倒れ込むと、再び背中への衝撃に息が止まる。直後、胃液が込み上げた。痛みに蹲るは、そのまま全身で息をする。喉を通る吐息すら、痛みのあまりか細かった。痛い、苦しい、熱い。気付かぬ内にぼろぼろと目尻から涙が零れていた。だが、音を立ててこちらを近寄ろうとする男に気付くと、我に返る。
―――殺される。
男は強い。蹴りだけでこれだけなのだ。初撃を防げたのは、あまりにも運が良かった。必死に痙攣する体を叱咤する。痛みに起き上がれないと、言っている場合ではない。このままでは、確実に死ぬ。
這うように起き上がり、逃げる背にウィンディが愉快じみた声をかける。
「逃げ回るがいいよ。時間をかけてでも、見つけてあげるから、必ずね。私の計画を潰したあんたには、たっぷりお礼をしなくちゃ。」
直後、早くも追いついた男の剣が背後から振りかぶられる。先ほどとは違い、背後を気にしていたは今度は早く剣を防げた。しかしほっと安堵した直後に気付く。男の柄を握る手は、片手のみだ。
背筋に冷や汗が流れ、もう片方の行方を見るよりも早く拳が側頭部に直撃した。鈍い、打撃音が頭の中に響く。一瞬白ずんだ意識は、吹き飛んだ体が床に倒れ込むことで戻った。揺れる視界に溜まらず、今度こそ胃の中のものを全てばらまいた。胃液すらも吐き出し、喉が焼けるように熱い。たらりと額から垂れる血は、小手を着けたまま殴られたことから切れてしまったのだろう。地面についた両手が震える。それは痛みでも、恐怖からでもあった。ぼたぼたと零れ落ちる血を眺め、必死に息をする。
コツ、と靴音が響く。そこでは反射的に痛む体を無理やり起こし、崩れ落ちそうになる足を宛てもなく動かす。は奥歯を噛み、気を抜けば震えだしそうになる体に耐えた。 ここは現実とはいいがたい闇に満ちた空間である。ウィンディの力は、空間を開くものなのだろう。能力が判っても、にはそれをどうにかする手立てがやはり見つからない。そう、には無理なのだ。ただひたすら遠くへといけるよう走るしかなかった。
「ふん、楽しめると思ったのは最初だけか。羽虫のようだな。つまらん。」
だが幾ら走ろうと、男との距離は一瞬で詰められてしまう。 声は離れており、男は先ほどの場所で足を止めているようだ。は全力で走っている。だが、幾ら離れようとも男が動けば、すぐに詰められてしまう。
肩の骨をぼきりと鳴らすと男は言った。「もう、いい。終わらせる。」
ぎらりと鋭い目が、を射貫く。目は口程に物を言う。獰猛さを宿す目は、嗜虐的な色をしていた。反射的に全身から汗が噴き出た。直後の事である。は腕を掴まれる。
次いでぐにゃりと視界が歪んだ。
は死を覚悟した。だが痛みはいくら待とうと襲ってこない。むしろ春の陽気のような暖かさに包まれる。
やがて視界が晴れた。だが予想に反して、そこには見知らぬ女が、の腕を掴み立っていた。
「大丈夫ですか?」
女性は目を閉じたまま、口を開く。慌てては暗器を自身の前で構えた。
ぬばたまのような黒く長い髪を持つ女は、ローブに身を包んでいる。肌は恐ろしく白く、の腕を掴んでいた白魚のような手を放すと、女は首を振る。
「私は貴方の敵ではありません。あの空間は、もう閉じました。ティル達ももうじき、こちらに来るでしょう。」
そこでようやく、の高まっていた興奮も落ち着いてきた。狭くなっていた視野も広がる。辺りの様子が先ほどとは違い、本拠地に戻っていた。石畳を照らす明るい燭台の光に、暴れ狂っていた心臓も穏やかになっていく。気がつかぬうちに呼吸すら浅くなっていたようだ。落ち着こう。大丈夫。もう大丈夫。努めて長く息を吐き出す。しばらくして、ようやく平常心を取り戻すと、は眉を潜めて尋ねた。
「貴方は・・・?」
「私はレックナート。真の門の紋章を持つ者です。」
の目の前に立つ女性、レックナートはそう告げた。彼女もまた、真の紋章の宿主である。新たな真の紋章の持ち主の登場、そして先ほどまで起きた出来事に呆然としていると、ティルの声が遠くから聞こえた。
「レックナートさん・・・!?」
振り返れば廊下の先にティルとラズリル、そしてテッドが居た。その三人ともが、彼女を見て驚きの表情を浮かべている。
ティルが腰を抜かして座り込んでいるに気づくと、駆け寄り、起こすのを手伝う。
「一体、何があったの?」
眉を寄せて、憔悴した様子のに尋ねる。そこでは、自身の体の痛みがいつの間にか消えていることに気付いた。 驚きに頭部へと手を当てるが、血はつかない。出会い頭であろう。レックナートが、全て一瞬にして怪我を癒してくれていたのだ。
「あんたがいるって事は、ただ事じゃなさそうだな。」
ラズリルとテッドの表情は強張っている。平静でいようと声はいつもと変わらぬものの、言葉に気の昂ぶりが見え隠れしていた。レックナートのみが動揺する事なく、淡々と答えた。
「ウィンディが彼女の命を狙い、亜空間へ呼び込んだのです。幸い、大事に至る前に、なんとか私が彼女をそこから連れ出すことが出来ましたが・・・。」
やはり先ほどまでの空間は亜空間であったのだ。どこまで続く暗闇に、首筋に当たる冷たい刃、高笑いが思い出され、は思わず体を強張らせる。それに気づいたティルがそっとを抱くのも気づかぬほど、の心は先ほどの出来事に芯まで冷え切っていた。あそこにいた二人はに殺意しか抱いてなかった。振るわれる力は圧倒的で、いつ殺されてもおかしくなかった。事実、間一髪でレックナートが現れなければを命を落としていただろう。
怪我をした様子はない。だが顔面を蒼白にさせ、着衣に血痕の痕を付けたに目を細めると、ティルはそっと抱きしめる力はそのままに、拳に力を入れた。その様子を見ていたラズリルが、レックナートへ視線を移すと言う。
「を助けてくれた事には礼を言う。けど、なんで貴方がここに居る?」
「あれは起きてはならない事。星の意志ではないからです。」
「星の意志?」
ティルが不可解な言葉に眉を潜め、レックナートに尋ねる。しかし彼女はそれに対して答える事をせずに、へと歩み寄った。
「さん、怯えさせてすみません。ウィンディが・・・私の姉が。」
は思わず、レックナートを見た。相変わらず表情を変えることのないレックナートだが、彼女は僅かに微笑んだ様だった。
「驚きましたか?あの人も、昔は普通の人だったんです。優しい人でした。私と同じ真の門の紋章を持つまでは・・・。全てが変わったのは、姉が世界を怨み始めてしまったからなんです。」
レックナートから告げられたそれは、ウィンディの悲しい過去の一部であった。世界を怨むという言葉に、は僅かに反応する。自身でさえ、真の紋章を知った時に抱いた感情だからだ。だが、だからといって、彼女が起こした数々を許すことなど到底出来はしない。けれど彼女もまた、真の紋章の災厄の、犠牲者であるのだ。
レックナートは唐突に、言葉を止めた。
「いえ、今はこの事はいいですね。 さん。私は貴方に伝えにきました。私の力を持ってすれば、貴方は貴方の故郷に戻れます。それも、全てが、この戦いが終わってからですが・・・。あちらに戻ったら、こちらにはもう二度と戻れません。・・・どうしますか?」
それは、が待ち望んでいた言葉だった。
突然現れを助けた女性、レックナートの言葉に、その場に沈黙が落ちる。
「今はまだ答えを聞きません。けれど三日後、私はもう一度あなたに尋ねます。どうかその時までに、答えを出してください。」
「いいえ。」
けれどそう言ったレックナートに、はゆるりと首を振る。
「今、言います。」
「けれど、」
僅かに慌てたように、レックナートが言う。けれどの心は既に決まっていた。三日後であろうと、心変わりする事はないだろう。
は僅かに笑みを浮かべて彼女を見た。
「私、帰りたくありません。ここにいたい。」
ずっと、元の世界に戻る事がの夢であった。それも、徐々に揺らぎ始めていた。それは大切な人が増える程である。
自身でもわからなくなっていたのだ。本当に帰りたいのか、帰りたくないのか。けれど今こうして実際に言われた時、すとん、と気づいたのだ。
抱きしめてくれている、この温もりを、離したくはない。
それが答えだった。散々迷った挙句、こうして直面した今、呆気ないほど簡単に答えは出たのだ。何を犠牲にしてでも、傍に居たいと思う人がここにいる。それは今まで何度も、感じてきたものだった。それがどうして今更、変えられよう。
「・・・それで、本当にいいのですか?」
眉を寄せて尋ねるレックナートに、は笑みを浮かべて頷くことが出来た。
「はい。」
この手は、どんな事はあっても離さない。離したくは、ない。がそれを実感した時であった。
***
ウィンディに襲われた不測の事態から、ティル達は一層過保護になった。彼女が住まう星見の塔へと戻る間際、レックナートは二度とウィンディが手出しが出来ないよう、トラン城から湖まで結界を張ってくれた。それでも心配は消えないようで、どこに行くにも誰かしらが傍にいた。ラズリルかテッドか。ティルも傍にいたがったが、彼は軍主である。最終決戦も間近であるため、はここ最近彼と顔を合わせる事すらなかった。
始終傍に人がおり、も普段なら反発するところだ。だが彼女も痛み付けられた記憶が深く根付き、今回は素直に従っていた。とはいっても、残された日数は少ない。いつものようにラズリルの元鍛錬をする事で変わりない日々を過ごす事で日々は過ぎる。そうして翌日を最終決戦に備えた二日後の夜。共に向かったテッド達よりも素早く湯浴びを終えたは、ティルに会いに行く事にした。軍主である彼は、前日であるものの、やはり確認する事が多いらしい。ここ最近、夜もが寝入る頃に戻ってくるといった風であった。あまり休むことが出来ず、軍主として働いてくティルに一目会って少しでも話したいは思う。彼を心配に思う気持ちも勿論、翌日が最後の戦いになるであろう事に、もしもを考えると、やはり後悔をしたくなかった。
軍主の執務室へと階段を上っていると、前方から靴の音がした。視線を向けてみれば、それはティルだった。
「ティル。」
を見ると、ティルは笑みを浮かべる。そして彼の言葉に、は目を瞬かせた。
「丁度よかった。に会いに行こうと思ってて。」
ティルに連れられた先は、城の外であった。城の外になんのようがあるのか、戸惑うに、けれどティルはひたすら先に進む。どこに行くのか、尋ねるがティルは後で分かるというのみであり、一向に答える様子がない。は戸惑いもそのままに、ただその後に連いていく。
たどり着いたのは、何故か船着場である。置いてあった一隻の小船に乗り込むティルに、はどこかに行くのか、と思うのだった。しかし小船でか。手動で二人でだぞ。町に向かうには、少し無理がある。
「さ、乗って。」
しかしやはりティルはの戸惑いもお構いなしだった。
が乗り込み、座るのを確認すると、ティルが櫂を漕ぐ。ゆっくりと前に進みながらティルが口を開いた。
「元気だった?」
前述の通り、ここ二日、はあまりティルと会うことが出来なかった。だが、それもたかだか二日である。とはいえたった二日でも、自身にとっては長く感じられる事には苦笑した。
「元気だったよ。ティルは?お仕事は大丈夫?」
「うん。確認も全部、終わったよ。」
後は戦を残すのみ。自然とその場に沈黙が下りた。沈黙を破ったのはティルだ。
「はい、到着。」
櫂を漕ぐ手を止めると、そう告げる。到着といっても、未だ湖の上である。見渡す限り湖が広がっており、岸さえ見える様子はない。は戸惑う。
「え、えーと・・・」
ティル、こういうのもあれだが、忙しさで頭いかれた?とすら思ってしまう程だ。けれどティルは笑顔で上を指差すのみである。怪訝に思いながらも従い、上を見上げてみる。そうして視界一杯に広がった夜空に、はようやく理解した。
「、星、見るの好きでしょ?湖の真ん中で見るのも一挙かなって思って。」
その日は丁度、星がよく見えていた。 雲一つない夜空には、星が鮮明に輝いている。闇夜にばらまいた宝石のようで、いつ見ても圧倒される。思考を止めて見惚れていたは、ややあってティルを見た。ティルの金色の目もまた、星のように美しい。いや、それ以上だろう。透き通るような金は不思議と深みを帯びて、時にまるでシトリンのようだ。ティルは金色の目を細め、喜ぶに優しげな微笑みを浮べていた。も思わずはにかむ。しかしふと、ティルの微笑みが曇った。
「やっぱり屋上の方がよかった?」
即座には首を振る。屋上で見るのも星が近く感じられて好きだが、こうして湖の爽やかな風を感じながら、視界の隅に何も入らない夜空を見上げるの好きになりそうであった。そして何よりも、
「ティ、」
ティルといられるならどこでも。
「ティルって意外とロマンチストだね。」
と、そんな臭い台詞はやはり言えなかった。意気地なし、とは自身を叱責しながら凹んだ。ティルが笑いながら言う。
「そうかな? が好きそうだと思って、ここにしたんだけど。」
あと邪魔が入らない所、とティルの心の中ではそんな言葉続いたりする。今まで散々邪魔されてきたのだ。しかしこの時だけでは、邪魔されるわけにはいかなかった。
「あのさ、 。」
ティルは何処か緊張した面持ちで切り出した。常に迷うことなく、自信がある彼には珍しく、視線を横へと泳がしてから尋ねる。
「はこの戦が終わった後どうする?」
ティルの問いは、が彼に尋ねようとしていた内容であった。
は息を詰まらせる。しかし今しか機会はないだろう。僅かに逡巡した後、口を開いた。
「あのさ、ティル。もし、よければ、なんだけど・・・・。ティルと、一緒に、居させて欲しい。」
頬が赤くなるのを止められない。の申し出に目を瞬かせたティルに、慌てて続けた。
「も、もしよければで!その、料理とか、日常の事なら出来るし、別に雇って欲しい訳じゃなくて、」
しまった、これでは逆プロポーズしてるようなものではないか!はそれに気づくと暗闇にも分かる程顔を真っ赤にし、更に慌てた。
「いや!そうじゃなくて!ええと、」
「あのね、。」
そこでようやく、驚いていたティルが口を開いた。顔を赤くしながら、はティルを盗み見るように見る。湯気すら出そうである。何を言われるか、どんな表情なのか、知るのが怖い。恐る恐る見たティルは、しかし微笑んでいた。目だけは、真摯な色をして。
彼のまっすぐと見つめる痛いほどの強い金色の目に、は目を逸らせなくなった。
「に傍に居て欲しい。」
時が止まった気がした。湖から吹く風すらも気にならない。ティルは変わらず真摯な目で言う。
「ずっと、俺の傍に居て欲しいんだ。」
は込み上げてくる感情に、泣きそうになってしまった。彼が何を考えてそれを言っているのかはわからない。
けれど傍に居られる。想像しただけで胸中を溢れんばかりの感情が占めた。
は思う。
―――ああ、幸せだ。
違う世界で、こうまで幸せを感じる事が出来て、やはり帰ろうと思う事など、出来ないと実感する。溢れそうな感情を必死に抑えて、はただそれに頷きを返した。ティルもまた、柔らかな微笑みを零す。湖と星空の元、静かな夜の出来事だった。
その帰りである。岸に着くと、何故かテッドが居た。首を傾げる達に、苦笑いを浮かべた彼は言う。
「ラズの奴が探せって煩くてさ。」
それにやはりあいつは、とティルは思うのだった。こうして船で彼女と二人きりになるという方法はあたっていたのだ。これがもし違う所であれば、話の途中で彼が割って入ってくるだろう。
溜息を零すティルに、は苦笑いだ。同様に苦笑いを浮かべていたテッドが言った。
「さて、と、明日も早いしもう戻るぞ。」
踵を返す彼に、達も続くのだった。その後ラズリルに遭遇し、ひと悶着あると、四人はすっかりいつもと変わらぬ時間に寝ることになるのだが。
日が昇り、とうとうその日が来た。いつもと変わらぬ時間に寝たものの、やはり体は慣れていた。却って動きになんの支障もなく、昨夜のティルの一件があった湖とは反対方面の陸地に、解放軍の面々と同様集まる。そしてそこにあったものに は驚いた。湖の上に、沢山の船が浮かんでいたのだ。それも全てが青白く、氷で出来ているように見える。
確かに、帝都を攻めるためには、クワバの城塞か、水上砦であるシャサラザードに進軍する必要がある。解放軍は船が必要なシャサラザードの攻防より、クワバの城塞をとるかと思われた。だがシャサラザードをとったのである。それには船が必要不可欠であり、その為に氷の船を作るとは、奇策もいいところであった。
隅の方で、ミリアがぶつぶつと不満そうに何かを言っていることから、恐らくミリアの竜、スラッシュを使ったのだろう。スラッシュのブレスで、湖面の水を凍らせて作ったのだ。よく見れば船大工達が得意げな面持ちでいる。
一足先に乗っていた、船主であるタイ・ホーが氷の船の上から声を上げた。
「こいつは、すげえや!水にちゃんと浮いてるし、結構、固いぜ。」
「約束通り五百の船、用意いたしました。一日様子を見ましたが、この通りです。」
マッシュが軍主であるティルに言う。ティルは頷くと、進軍の命令を出した。
湖を氷の船で進み初め、数刻もせず、前方に木製の船が見えてくる。ソニア・シューレン率いる帝国兵だ。
この戦いでは水上戦を突破し、頭である水上砦を陥落させる。その為に今回、の力が必要となった。
軍主達の船が無事水上砦に着くまでしか、力を使わないと昨夜ティルに約束させられたが。しかしそれでもティル達の命運を、僅かに担っていた。狐の仮面を被ったまま、は緊張から拳を強く握る。それに気づいたティルが、何かを言おうとしたがが首を振った。負けられない戦い。負けない戦いだったからだ。大丈夫、はそう自身に言い聞かせると手袋を外した。
降って来る弓矢を紋章の力で落とす。大半はそれで落とす事が出来たが、偶に外れた者等はの傍に居るティルが叩き落としたり、ラズリルが双剣で切り落とした。
同様に今回力になったのは、魔法を得意とするルックとビッキー、そしてまたしてもテッドだった。名手ともいえる彼の弓の技術は遠距離戦で重宝する。
そうしてテッド達と共に弓矢を退け続けていると、想定していた時間よりも大分早く、前方に水上砦が見えてきた。マッシュが声を上げる。
「よし、持ってきた油樽を準備しろ!」
水上砦を落とすには、火をつけても消されてしまう水門が邪魔であった。その為、カスミが予め調べていた情報で、砦の奥にある水門をティル達が閉じた後、油を流し、火をつけることになっていた。ただし、それが終えたらティル達は急いで砦から出て来なければならない。少しでも遅れれば、火に囲まれてしまうからだ。転移魔法が使えるビッキー、ルックは先の水上戦で大魔法を使った為残りの魔力も少なく、居残り組だ。ティル達は自力での脱出しなければならなかった。
はマッシュ達と共に船に残ることになっている。仲間を引き連れ、ティルが砦に向かう準備をし始め、その姿を不安な面持ちでは見る。気づいたテッドが陽気に笑った。
「大丈夫だって。ティルの奴は俺が見といてやるよ。」
身軽さを重視した砦への侵入組には、テッド、パーン、クレオがティルと共に向かう。動きの俊敏なラズリルは、解放軍内のスパイが炙り出せていないため、念のため居残ることになっていた。
「テッドも、気をつけてね。」
そう言えば、テッドは少し、意外であったらしく虚を突かれたような顔をした。やがて破顔するとの頭を軽くどつく。
「あったりめーだ。」
準備を終えたティルもまた、いつもと変わらぬ笑みを浮かべて言う。
「行って来るね。」
「・・・うん。」
頷きはしたが、は不安な気持ちが消えることはなかった。
その予感は、的中することになる。ティル達が砦へと向かい、しばらくした頃だ。予定した時刻よりも早く、砦から煙が燻り、空へと昇り始めたのだ。
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