Skyting stjerner1-38

ロッカクが攻め入られたというカスミの情報から、解放軍ではテオの軍勢に対する案が練られていた。
ロッカクを落とした今、各地の反乱を勢いづかせ、帝国軍とも渡り合えるほどになった解放軍を帝国軍が放っておくとは思えない。テオの軍勢はこのまま、ガランの関所を攻めてくるだろう。ティルとマッシュを筆頭に、ガランの関所から引き上げる手筈が進められていた。今の解放軍では百戦百勝と名高いテオ率いる鉄甲騎兵団に勝つ見込みは低いと判断したからだ。大分増えたとはいっても、カスミから知らされた情報により勢力もまだ二万ほどこちらの方が衰えている。テオ・マクドール率いる鉄甲騎兵団があるというだけでさえ切り札のない解放軍は不利なのだ。何しろテオは勿論のこと、鉄甲騎兵団もまた負け知らずである。
鉄甲騎兵団とは、ガルホースといった特殊な動物を使用した隊だ。ガルホースは大きく頑丈な体躯に反し、脚力に秀でた動物で、当然ながら馬よりも早く駆け抜ける。その頑丈な体の体当たりだけで、馬に乗る者を騎乗から落としてしまうほどである。欠点といえば持久力が低いということだが、ガルホースの体力が尽きるまでには戦が片付いてしまうため、欠点とは言い難い。そんな戦を有利に運ぶガルホースが何故広く使用されていないのかといえば、それは一重にガルホースを扱うことは難しいからだ。その為扱えるのは五大将軍の一人、テオ率いる鉄甲騎兵団しかないのである。
無敵とも言える甲騎兵団に対し、やはり解放軍には切り札がない。
幸い、ガルホースは地を駆けてこそ本領を発揮する。解放軍の本拠地は瑚に囲まれており、策を生み出すまでトラン城に篭ることにした。
だが湖に囲まれたトラン城といえど、安心は出来ない。帝国側にはまだ五大将軍の一人、ソニア・シューレン率いる水軍がある。
水のソニアに陸のテオ。この二軍に同時に攻められてしまうにはいかず、そこでマッシュの提案から、元々ソニア率いる水軍と対立している湖賊へと使いを出し、ソニアの目を解放軍から逸らしてもらうことにした。
そうして対策も立てられ、実行に移している最中、しかし思わぬことが起きる。
敵の情報を詳しく得るため放った斥候が早く戻ってくると、テオの軍勢が既に近くまで攻めてきたと知らせたのだ。予測していたよりも、ガルホースの速さは尋常ではなかった。
既に関所の上から見ても遠目で土埃が見えてしまうほどである。撤退するにも船の準備があり、間に合いそうにもない。だからといって今戦をしたとしても、勝ち目のない戦であるのは明白だ。ティル達は撤退の準備をしつつも攻めてくる帝国軍を迎撃せねばならなかったのである。
一方といえば、ガランの関所より少し奥にある、森を抜けた湖に用意された撤退用の一隻の船に乗っていた。
剣劇の音こそ聞こえないものの、たまに魔法でも使ったのか爆音のする森の先へと、もうずっと視線を向けている。 戦に出るな、と言われた事は本当であるらしく、突然の事でついていけなかったという事もありは押されがままに船まで連れて来られたのだ。力で捩伏せられてしまえば体力は少しは上がっても、総じて平均よりも力のないにはどうしようもない。
湖を波打たせる風が、の髪を揺らす。ローブこそ着ていてもフードを被る事はせず、ビクトールから貰った仮面も付けずにいた。と、いうか、仮面はの手にはない。一昨日、目が覚めた時にはベット脇の小さなテーブルにあったものの、今朝目覚めたらなかったのだ。誰かが没収してしまったらしい。その誰かといえばを戦に出すことを禁じた一人しか思い浮かばないのだが。
あの野郎、戦前に一度、それこそ船へと無理矢理連れて来られる前に会いに行こうとした時ですら会おうともしやがらなかった。と内心口悪く思っているもののは彼が心配であった。怪我をしないか、無事なのか。守る力を得ることは出来たというのに、今数十メートル先で行われている戦で力になれないことが歯痒い。彼だけでなくビクトールやフリック、キルキスや同じく女性であるクレオやバレリア、カスミでさえも戦に出ているというのに。何度目かの抵抗を試みて、やはりびくともしない腕には焦燥感も加わり苛立つ。一方を片手だけで止めている長い橙色の髪を、後ろで一つで括った男、シーナの父レパントといえば呆れた表情でを見た。
「いい加減、諦めないか。」
「レパントさんが離してくれたら、諦めます。」
このの返答も既に何度目かである。当初の時よりただ感情に任せ、がむしゃらに暴れはしないがレパントを見上げる目は衰える事なく鋭い。レパントは息を吐きそうになった。何しろ隙をついて戦場へ行こうとするのだから始終捕まえてなければならないし、抑える力の加減も出来やしない。今こそ撤退用の船を用意させ、の事を軍主から頼まれているものの、何度も将として戦を駆けたレパントにとって始終拘束していることは苦ではない。だがこの細い手首をした、大した力もない彼女にとっては痛いだけであろうに。それでも彼女は痛がる様子も見せず抵抗をし続ける。
レパントはが真の紋章持ち、先の戦で一番の功労者といえる狐だと知る、数少ない幹部の一人だった。だからこそ縄で縛れば恐らく解かれてしまうだろうということも知っていた。
レパントは森を、正しくはその先を見ようと視線を向けているを見る。何度か彼女を見かけたことはあった。それは軍主とともにいる時や自身の息子とともいる時、洗濯籠を持って忙しなく働いている時も――そしてその中でも一番多く見たのは、今は亡き彼に笑顔を浮かべていた時。
先の戦では、そんな彼女が起こした奇跡とも言える紋章の力に驚いてはいた。だがやはり、彼女は普通の少女である。それでもこうして戦に出ようとするのは、彼らを守る為か。それとも、二度と彼のように亡くしたくないという恐怖からか。どちらにしろ、ハルモニアという真の紋章狩りを行う国から特定されてはいないものの刺客を送られたというのに、彼女の守ろうという意志は変わらない。
しかしまた彼らも、特に軍主は彼女を守ろうとしていた。だからこそ彼女を戦に出さず船へと追いやり、こうして自身に託したのだろう。
自身よりも半分以上離れた年若い少女らだというのに、身を挺してまで守ろうとする固い意志に、胸をつかれないといった事はない。それでも片方は軍主であり、命令は絶対である。彼女を戦に出すわけにはいかず、レパント自身もせめて彼女だけでも戦には出したくないと考えていた。それは軍主としてティルを認め尽き従ってはいるものの、少なくても自身より一回り下の彼を戦の前線へと立たてしまう罪悪感を感じていたからだ。
今前線に立ち、指揮を取っているだろうティルは、既に準備が整った船へと撤退して来る様子はまだない。兵を使わし、伝達を受け船へと撤退する兵は多いというのに。
いつの間にかレパントもと同じように森へと視線を向け、軍主達が撤退してくるのを待つ。
けれど待てど軍主どころか、将も戻ってこない。森の向こうより更に離れた場所から紋章の火柱があがると、思わずレパントは呟いていた。
「遅いな。」
どこか焦れたように放たれた言葉に、詳細は知らないもののは今回の戦は悪い方向に向かっているのだと知る。
思わずは再び居ても立ってもいられず、レパントの拘束を外そうと行動を起こそうとする。
だがそれよりも早く、動く者がいた。
「――俺達はガルホースなんかに負けるか?」
同じ船に乗り込んでいた赤い鉢巻きをした巨漢の男、パーンだ。
彼は唐突に立ち上がると、同じように船に乗っていた兵達へ尋ねる。彼と彼の率いる隊は歩兵ということもあり、度重なる戦と、今回ガルホースを相手にすることから戦力に回されず、達と同じように撤退の準備へと回されていたのだ。は割合いつも無口な彼が口を開いたことに驚く。
しかし彼の部隊であるらしい兵は、驚くことをせず笑みを浮かべた。
「いや、負けないですね。なんのための歩兵ですか。」
「そうそう。すばしっこさなら自信がありますよ。」
は嫌な予感がした。ガルホースのことは聞いている。ガルホースは馬より早く駆け、体は体当たりをすれば馬を倒してしまう程頑丈らしい。しかしどんなに頑丈といっても、急所はあるもので。そう、たとえばアキレス腱などだ。馬より早く駆けるガルホースに上回る早さ。には想像もつかないが、次々にパーンの言葉に相槌をうつ歩兵隊の彼らは、自身達の方が早いと自負してるようだった。
そこまで考えて、はどうしようもない不安に駆られる。それを察したように、兵達へと向き直っていたパーンがを振り返り言った。
「俺は晩飯はからあげがいい。」
「パーン、さん?」
はそんなパーンに目を見開く。話の展開についていけない。ついていきたく、ない。
しかしそう願っても、パーンの言葉に伝染されたかのように他の兵達も声をあげだした。
「俺!海老天ぷら!!」
「あ、俺は肉じゃが食いてえなぁ。」
「餃子だろ。」
「いや肉まんも捨てがたい・・・。」
「野菜炒め、お願いします!」
「あ、じゃあ帰ったらユーリさんの好きな人を・・・」
「馬鹿!お前空気読めよ!!」
「ま、まってください!無理です!なにを、そんな、」
誰もかれもそう言い出してしまい、は思わず声をあげた。止めて欲しい。そんなこれからどこかに行ってしまうような。
今この場で、はそれは一つしか思い当たらない。そしてその憶測は当たっていた。縋り付くように見るに珍しく、恐らくは初めてだろう笑みをパーンは一瞬だけ浮かべる。
それを確認する前に、彼はに背を向けた。次の瞬間、森を、そしてその向こうを見据えながら彼は周囲へと響かせるよう、声を張り上げた。
「お前ら、晩飯前の運動がしてえやつはついてこい!」
応えるのは空気を震わせるような雄叫びだ。
船を降り森へと走り出した彼に続き、次々に船にいた兵もそして違う船に乗っていた兵達も降りだしていく。
はその一連の出来事に目を見開く。我に返ると彼らを追いかけようとした。それは当然のようにを拘束しているレパントに阻まれる。
は腕を掴んで離さないレパントに声を張り上げた。
「レパントさん!離してください!離して!私も!!私も行きます!!!」
何を考えている。ティル達でどうにもならないかもしれないというのに、どうして彼らがどうにかする事が出来るのだ。ならば自分が行った方がまだ力になるはずだった。しかし自身はこうしてここにいる。
痛み訴える手首さえ気にせず、は拘束を逃れようと暴れる。さすがに片手では足りなくなったのか、レパントはもう片方の手を伸ばす。
しかし伸ばされた手はの手首を拘束せず、肩に置かれた。
「――みなの顔は見たか。」
気づけばレパントと向き合うように体を反転され、拘束していたはずのもう片方の手も の肩へと置かれている。
両肩に手を置いたレパントがをまっすぐに見る。レパントの言葉にはパーンを始めとして、森へと駆けて行った者達を思い出す。
誰もが笑っていた。だからこそは最後まで信じられなかったのだ。彼らは戦に、行くというのに。
どうしてああして笑っていられるのだろうか。の動揺をつくようにレパントは告げる。
「時には信じて、待つことも必要だ。」
思わず息をのむ。レパントの視線から逃れるように、は顔を俯かせた。
信じて、待つ。
確かにパーン達の表情に恐怖や悲壮感といったものはなかった。きっと以前のならば、そんな彼らを信じて待つことが出来ただろう。けれど。
は俯かせた顔を上げるとレパントを見た。
「だけど、信じて、
待っても!どれだけ信じていても帰ってこない時は帰ってこないんです!!!」
誰を信じ、誰が帰って来なかったのか。
レパントはの睨むかのような強い視線と言葉に、思わず息を呑む。
脳裏に亡くなった彼に向かって幸せそうに微笑んでいた姿が浮かんだ。それはレパントがよく見かけた彼女の様子で、その相手はもういない。彼が残したのは、緑のマントのみだ。
レパントはもう何も言うことは出来なかった。けれどそっと目を伏せると戦場へと必死に向かおうとするの首の後へと手刀を降ろす。
途端気を失い力無く後ろへと倒れそうになったを支えた。
全てが夢であったと。
それは無理なこととはわかっているが。せめてこの時は、この戦いが終わるまで彼女の悪夢であったとさせたかった。
願わくば彼女が目を覚ましたとき、それが悪夢となることを。

そうしてが気を失っている間に出た船は、五隻の船とパーン達歩兵を残しトラン城へと出航した。



が次に目覚めたのは、既に夜も更けた頃だった。
見慣れたトラン城の自室で目が覚める。しばらく鈍い脳の回転で呆然としていたが、意識を失う前の出来事を思い出すと勢いよく体を起こす。ここはの自室である。しかし船の上でレパントと会話をし、後ろ首に衝撃を受けた先の記憶がにはなかった。恐らくはレパントに気絶させられてしまったのだろう。
窓から見た月の角度から、恐らくは深夜だ。もう既に皆寝ているだろう。それでもは自室から出て、人を探さずにはいられなかった。戦に出た人、ティル達は無事なのか、夕飯までには帰ると言った、パーン達は。
否応なく心臓を激しく脈打たせながら、は城内を走る。しかし焦れる心から早まっていた足をふと止めた。特に目的地はなく歩いていたのだが、気がつけば足は厨房へと向かっていたのだ。 厨房に行っても彼らはいないだろうに、習慣となっていたらしい。うす暗い廊下の中、思わず小さく笑う。いつの間にかは廊下の壁につけられた燭台に明かりが無くても、窓から差し込む月明かりを頼りに一人で歩けるようになっていた。

厨房へと向けていた足を、同じ階にある食堂へと向ける。食堂であれば深夜でも誰かいるかもしれない。偶にこういった深夜に、ビクトール達が酒を飲んでいたりするのだ。
扉に手をつき、食堂へと入ると、中に人がいる事はいた。けれどそれは一人だけだ。
大抵、彼女がいる時には居る他の者達はいない。思わず入口付近で固まるに、食堂の扉が開く音で気づいたのか、杯をテーブルに置くと彼女は振り返る。
、目が覚めたのか。」
「・・・はい。」
がいる事に、少し目を見開いたのは短く切り揃えた茶髪の髪をし、長い睫毛に切れ長な蒼い目と涼しげな美貌を持つ女性、クレオだった。
食堂に一人いる彼女に頷いたの表情はどこか強張ったものだ。クレオは微笑みを浮かべ、を安心させるように口を開いた。
「ティル様は無事だ。キルキスやバレリアもな。勿論、ビクトールとフリックもだ。あの二人は火炎槍とかいう、帝国に対抗する武器を取りに行ったから今城にはいないがな。」
「そうなんですか・・・。」
はそこで安堵の息を吐き、表情を和らげる。ビクトール達が今いないのなら、いつも彼らとともに飲んでいるクレオが食堂に一人居ても可笑しくはない。そこでふとは浮かんだ疑問を口にした。
「あ、パーンさんは?」
ビクトール達がいないのはわかったが、クレオが食堂にいる時、彼も共にいることが多い。
そうだ、だからクレオが一人こうしていることに違和感を覚えたのだ。ビクトールとフリックは戦が終わったばかりだというのに城を出ているが、彼はどうなのだろう。
はこの時、みなが無事で彼もまた当然無事なのだと思っていた。それが違うのだと知ったのは微笑んでいたクレオが悲しげに眉尻を下げたからだ。
「パーンは・・・」
そこでクレオは言葉を詰まらせ、顔を伏せた。
「・・・晩飯までには帰るって、言っていたんだけどね。」
呟かれた言葉は小さいものであったが、とクレオしかいない静かな食堂内では思っていたより響く。
なによりもはその似たような台詞を、つい先ほど聞いていた。
(『夕飯はからあげがいい。』)
そう言った彼は、その後どうしたか。
遠くなる背。それは戦場へと消えて。は思わず足を後ろへと後ずらせる。「そんな・・・」
響いた足音と、声にクレオは顔をあげる。そしてが目を見開き動揺もあらわにした表情に、彼女は察ってしまったのだと知った。
遠からず、知られることであっただろうが、今伝える気のなかったクレオは罰の悪そうに眉尻を下げた。たださえ、つい先日グレミオを失ったばかりだというのに。だが、もうごますことは出来ないだろう。クレオは詳細を話し出す。
「パーンは、パーン達歩兵隊の皆は戦場に残ったよ。テオ様、・・・・テオの軍勢は、強かったから。」
クレオが言葉を詰まらせてから言い直したのは、幾らテオが以前仕えた者であっても、こうして解放軍として帝国軍と敵対したというけじめからだった。それでもクレオはテオと敵対してしまったという事実に苦しみがあり、それは彼女のどこか硬質な声音と、一瞬歪められた顔から伝る。
察しても、ティルの父親であり、クレオやパーン、グレミオの元主であるテオは、今戦を行う敵側の将。は彼女に掛ける言葉が見当たらなかった。
良い人物では、あるのだろう。彼らが付き従い懐を分かたった時点でも彼を敬うことを止めずにいたこと、そしてティルの父親なのだから。けれど帝国側であることには変わりはない。関わりのないと思っていたもまた、帝国に奪われたものもあるのだ。
クレオは続ける。
「あいつら、さすが体力自慢なだけがあるよ。ちょろちょろ動いて、鉄甲騎馬兵の唯一鎧のない部分、足を攻撃してたんだ。
・・・だからあいつらに食い止めてもらっているうちに、私達はあの戦場が逃れることが出来たんだ。」
クレオは顔を一度伏せてから、重々しくなった雰囲気を一掃するかのように笑った。
「あの馬鹿、とうとう脳みそまで筋肉で固まっちまったのかもね。」
まるでなんでもないといったように、屈託なく。戻ってこない彼は言った言葉すら忘れたのだと、冗談のように彼女は言う。
けれどはそれに、泣くまいと食いしばっていた顔を思わず歪めた。
彼女がこうしているというのに、自身がどうして彼女の悲しみを増幅させるように泣けるだろう。けれど夕飯に戻って来ず、深夜までこうして一人食堂にいる彼女は何を思ってここにいたのだろうと。戦場に残った彼らが戻って来ないというのは、最悪の事態で。それでも彼女は待ち続けていたのではないのかとは思った。
酒を飲むとしても部屋で飲む事が出来る。だというのに彼女はこういった夜に、恐らくは自室で一人飲む他の面々と違い、食堂に一人いた。彼女はパーン達が、パーンが帰ってくるのを待っていたのだ。刻々と過ぎる時間に現実を受け止めながら、それでも希望を抱いて。
唐突に、クレオが立ち上がった。 の前で足を止めたクレオは、武芸を営んでいるといっても細く白い、女性特有のしなやかな手を伸ばす。
「何、泣いてるんだい。」
は歯を食いしばり、泣くまいと思っていても、涙を止めることは出来なかった。微笑みながらもそっと涙を拭うように触れたクレオの指が冷たく、それがの涙を更に零れさせる。
「ご、ごめんな、さい・・・・!」
発した言葉は情けなくも、いくら我慢しようともこみ上げる感情に嗚咽交じりなものになってしまった。彼女は笑って耐えようとしているというのに、はそんな自分が情けなくなる。案の定、彼女は変わらず気丈に微笑んでいたけれど、その目は何かを耐えるように細まれてしまった。
「謝る必要なんて、ないんだよ。」
彼女の声は相変わらずのように嗚咽交じりなものではなくはっきりとしていたが、それでも先程とは違い、どこか淡々としてか細い。
込み上げてくる涙は止まることを知らず、は思わず両手で目を覆った。涙が止まってくれるようにとしたことであったが、一向に止まる気配もなく咽び泣く事こそしなくなったが、耐えるかのように肩が震えてしまう。
そしてクレオもまた、そんな彼女を見ているうちに一筋の涙を零していた。



が目を覚ましゆっくりと体を起こすと、まず首が痛みを訴えその鈍い痛みでは思い出す。あれからは泣き、そしてクレオもまた涙を零し、二人して落ち着こうとひとまず椅子に座ったのだ。けれどそれからの記憶がない。が上半身を倒していたのはテーブルの上で、未だ暗くはあるが、少し明るくなった食堂が視界に映る。もしかしなくても、あの後そのまま寝てしまったのだろう。そこでは、自身の肩に何かが掛かっていることに気がついた。
(・・・毛布?)
夜遅くまで酒を飲む者は、そのまま食堂内で寝てしまうということがよくある。その為風邪を引かぬようにと食堂の隅の籠に常に毛布が置いてあるのだが、は毛布を出した覚えはない。は視界に映った同じように肩から毛布をかけ、テーブルに上半身を倒し未だ眠るクレオが掛けてくれたのだろうと思いあたる。
泣き腫らした瞼は未だ重い。だというのにこうしてまだ夜明け前だというのに起きてしまったのは、いつもこうして早く起きていたからだろう。
元の世界にいた頃ならありえない癖だ。ふと視線がテーブルの一角へと向く。それはいつの日か、彼が豆の処理をして座っていた場所。ティルと彼と自分とで遅い夕飯を取った場所。彼の定位置であり、そこから少し逸らせば、いつ見ても食事に夢中になっていた彼の姿も脳裏に浮かびあがった。思い返してみれば彼と出会ったのもこの食堂であった。彼は無口で、当初自身はあまりにも大きい彼を前に怯えたものだ。それが、今では―― は思考を振り切るように、座っていた椅子から立ち上がる。朝から感傷に浸りすぎた。ここは思い出が詰まりすぎている。
それは時には心を慰めてくれるけれど、今はきついものでしかない。は毛布を畳んでから、クレオを起こさないようそっと食堂から出たのだった。


は暗く沈んでしまった気分を変えるためにも、城外へと出る。自室に戻っても暗い思考が好転するとは思えなかった。だからといって厨房も、もう一人の人物との思い出が詰まっていて逆効果だ。は城の出入口から少し離れ、門番も見えなくなった場所で何を考えることなく、ぼんやりと空を見上げ立っていた。もうすぐ明け方ということもあり、残念ながらの好きな星は見えない。けれど、暗闇は暗紫となり、星の代わりに空の片隅から光が差し込んできていた。朝日が昇るさまを見ながら、は思う。いつかこの暗い時にも、終わりはくるのだろうかと。考えてはあまりに馬鹿馬鹿しい考えに小さな笑みを浮かべた。明けない夜はない。今こうして暗い気持ちでいても、数時間後には自分は笑っているだろう。けれどはこの時、それは途方もなく、遠く感じた。ぼんやりと眺めている間にも日の光はどんどん強まっていく。地平線の向こうから昇った朝日は、既に半分その姿を現していた。 眩しいそれには思わず目を細める。そんな時だった。
眺めていた方向から、朝日を背に立つ陰が現れたのは。
が眺め始めた頃より太陽は昇っていて、ちょうど逆光を浴びたその陰の詳細はわからない。
けれどそれは徐々に明確になる。
そして見たその光景に、は目を見開いた。


扉を強く押し開けば、慌ただしく走る足音に気づいたのだろう。既にテーブルから上半身を起こしていた。
「なんだい、一体なにが――」
振り返ったクレオはそこで言葉を詰まらせた。驚愕に目を見開き、開かれた食堂の出入口をただ凝視する。クレオを見ながらは笑みが浮かべた。もっとも、その目尻からはとめどない涙が流れていたが。
クレオは口を開こうとして、再び閉じる。
唇を噛み、そして再び開かれた時には一度すっと、息を吸った。
「朝帰りとはいい身分だね!もうとっくに、晩飯時は過ぎてんだよ!!」
扉を開けたのはだったが、自然と足を後退させて前に出させていた彼は、クレオの言葉に常日頃、無愛想な顔が渋る。「む、それは困ったな。」
「俺は腹が減ったんだが。」
「っ!あんたはそれしか言えないのかいっ!!」
クレオは吠える。いつものように、クレオに注意された彼は口を引き結び押し黙った。しかし、二人の口元は確かに緩んでいた。
そこでふと、彼がを振り返る。
「からあげは、出来てるか?」
「――ごめんなさい、まだです。」
「あほか!とうに晩飯は過ぎてると言っただろう!!」
声を上げるクレオに、は一層笑みを浮かべた。
変わらない。いつかの時のように彼女が彼に苦言を言って、彼が口を閉じる。
ただその時とは違って、みな口元に笑みを浮かべているが。出来るなら二人だけにしてあげたいと思う。けれど、はこれだけは言いたかった。
「パーンさん。」
視線をへと向けた彼に、笑みを浮かべたままは言う。気が動転してそれどころではなかったは、その時までその言葉を忘れていた。
「お帰りなさい。」
そう言えば彼――パーンもが一度見たことのある、それで最期だと思っていた笑みを浮かべて頷いた。



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