Skyting stjerner1-35

頭から被ったローブを夜風に靡かせ、これから行われるだろう戦闘に否応なく意識を高める。
決行は太陽も完全に落ちてしまった宵夜だった。夜は視界が悪くなる。それでも夜を選んだのはの事があるからだ。
全身からローブを羽織ったは、知っている者が見なければ彼女だとわからない格好をしていた。ローブで頭部まで隠し、狐のお面を着用し戦場へと向かうは、他の兵達にはさぞ異端に見えたことだろう。これはティルの指示である。
が戦に出る上で条件がある。何があっても、だとばれてはいけない事。
――ハルモニアの事は知ってるよね?あそこは真の紋章を求めてる。
真の紋章の為なら戦も厭わないっていう噂もあるけど、所詮は噂。もしそれが真実なら数百年前から威力を保つハルモニアほどの大国は、とうに全ての紋章を手に入れているか、そうでなくてもここ数十年間に戦も幾つかあったはずだ。けれどここしばらく、ハルモニアとの戦争はない。だからその点は問題ない。
でも、戦こそ起こさなくても、秘密裏に刺客を放ってくる可能性はある。何よりも、真の紋章を狙うのはあそこだけじゃない。もしかしたら帝国も手を出してくるかもしれない。だからだという事をばれる訳にはいかない。』
初めて通された軍議室で、中央奥に座るティルに、は真剣な表情でそう告げられた。
渡されたのは黒のローブ。それを頭まで被ると、加えて念の為に顔はどうするかという話になり、そこで会議に陳列していたビクトールが声を上げた。いい案があると言った彼は部屋に戻り会議室に戻ってくると、一つのお面を持っていたのだ。手渡されたのは狐のお面である。なんでもビクトールが屋台で見かけて、面白そうだと買ったものだという。これを着けて戦場に出るのか、とは頬を引きつらせそうになったが、他の面々はその案に乗り気であったらしい。その為は狐のお面つき、という実に面妖な格好をすることになってしまったのだ。
それに連なって呼び名も変えようということになり、は案を求められ考えた。自分の呼び名だ、何がいいだろうとそこでは言ったのだ。
『キツネはどう?』
まんまじゃねぇかとその場に思った者がいたとかいないとか。少なくてもその場にいたルックには鼻で笑われた。
ティルも思わずなんともいえない表情をしていたのだが、ふとそれを変えて顎に手を当てた。
『けど、いいかもしれないね。』
逆にその方が見たまますぎての本名を連想し辛いと。他にいい案もなく、本人がそれがいいというならば。そうしての名前、戦場での呼び名は『キツネ』ということになった。
最後に、ティルは言う。
『そしてもう一つ。何があっても、無茶をしないこと。無理そうだと思ったら、すぐに引き返すこと。』
真剣な表情のティルはをまっすぐに見つめてそう言った。はそれに頷き、会議室を出たのだ。


「おい、大丈夫か?」
これから向かう戦場、遠くに聳え立つスカーレティシア城の前を固めるかのように立つ多くの帝国兵達は、灰色に蠢く波の様だった。それ程までに多い敵兵へと視線を向けているに、彼女の隣に立ったビクトールがそう尋ねる。
今回の戦に、馬は使用できない。花が撒き散らす毒に、馬もまた痺れ動かなくなってしまうからだ。
兵達は解毒薬を染み込ませた布で口元を覆い、またビクトールやフリックは将であることから指示を出す必要があり、その妨げにならぬよう直に解毒剤を服用していた。将ではないが、もまた布はつけていない。仮面があることから、更に息が苦しくなってしまうだろうという考慮のためだ。
しかし馬の使用がないからこそ体力の不足しているは、一層この戦では疲労する事が予想され、また地面に足をつき、いつもと変わりない視点から戦場を目にしなければならない。
また馬がなければ――途中で戦場から抜け出すといった事態になってしまったとしても、混戦の中難しい。
けれどは、ビクトールを見ることなくはっきりと言う。
「はい、大丈夫です。」
この時のために、はいつも以上に師匠であるルックに助力を仰いで、力をそれなりに意識して使えるようになっていた。以前ティル達と組み手をしたときのように、ただ我武者羅になって放っていたときとは違う。
そんなを見て、仮面をつけているため表情は見えないが、声を震えわせる事なく発したその様子に目を瞬かせてからビクトールは苦笑を浮かべる。
声ははっきりしていて、微塵も不安そうな様子はない。しかしその足は微かに震えていた。
本人が気付いているのか気付いていないのか、それはわからないが。本当に強情な奴である。真の紋章を持っていたとしても戦に出たこともない、ましてや戦う術も知らないというのに彼女はこうして戦場に立とうとしている。そんな彼女のビクトールとは反対側の隣に、青いマントを夜風に靡かせフリックが立った。
「大丈夫だ。俺達がいる。」
そう言った彼に、ビクトールとは目を見張る。ややあって、苦笑を浮かべた。
彼ら二人は、将でありながら、今回の戦で紋章を扱うの護衛であった。けれど護衛の任を受けた当初、フリックはが戦に出る事を認めておらず、なんで自分が、といったようだった。なにしろ彼女は普通の少女、それも戦う術を知らず家事手伝いのみをしていたのだ。そんな彼女が戦に出るなど、フリックには戦場を馬鹿にするなといった憤りがあった。それもが彼に、なら自分を試してくれと頼み、手合わせの開始直後に彼の持つ木刀を破壊したことで、多少は認められる事になったが。
そうであっても数時間前まで、頑なに彼はを認める事をしなかったのだ。だからこそを心配するような事を言った彼に、ビクトールとは目を見張り苦笑を浮かべたのだ。
彼が実は優しい事をビクトールのように旧知でなくても、この4日でなんとなくもわかっていた。
最初こそ戦場を馬鹿にされたようで憤っていた彼だが、それも彼女と手合わせをし、その嘘偽りのない眼差しに一日も足らずして彼女が真剣であるとわかり、憤りも治まっていた。しかしそれでも認めていなかったのは、戦に一般の少女を出すことが厭われていたからだ。
それを彼と腐れ縁であるビクトールは勿論、なんとなくではあるがも感じ取っていた。つまり今までは表面に出すことが出来ないだけで、ただ心配してくれていただけである。
そしてこうして今、表面に出してそう言った彼に、ビクトールもも小さく笑みを浮かべたのだ。
「はい。」
は笑みを浮かべて頷く。
未だ彼女の体の震えは止まることがない。けれど怯えを臆面に出そうとせず、前を見つ続ける。そんな彼女を横目で見て、ふとビクトールは4日前の事を思い出した。
4日前行った会議。そこにはも出席していて、はティルからの条件を飲むと会議室を出て行った。
数々の葛藤をしたのだろう、悲しみを帯びた目でティルはを見送っていた。そんな彼を見て、彼女を心底大事にしていると知っているビクトールは彼女の要望といっても、戦場に出さなければなくなったティルに同情の念を禁じえなかった。
それからティルはその場に残っていた、の護衛であるビクトールとフリックへと頭を下げたのだ。
を、頼む。』
本当は自分が傍で守りたいだろうに。それでも彼は、全体を指揮する軍主で、またの力もいくら上達したといっても、前戦でしか意味をなさない。
だから彼らに頼むしかない。彼らは信頼しているし、常に前戦で戦い抜いてる彼らが、強い事も知っている。けれどどうしても、そう頼まざるには得なかった。拳を握りしめるティルに、ビクトールは苦笑を浮かべる。
『任せろ。絶対に怪我させたりしねぇよ。』
『仮にも上に立つ者が、早々下に頭を下げるな。お前が命令して、それを俺達必ず遂行させる。それだけだ。』
彼の様子を見たからだろう。いつもはティルを認めようとしないフリックも、そう言っていた。フリックもまた愛する人――今は亡きオデッサを、彼女がリーダーであるが故傍にいて守ることも出来ず、戦場に立たせていたのだ。だからこそ彼の想いが、痛いほどわかっていた。
ティルはそんな彼らに顔を上げて、苦笑を浮かべたのだった。
ビクトールはそこで回想を止めて前を見続けるを見る。
そう、彼に言われなくてもわかっているのだ。どんなに体が打ち震えても、前を向こうとする強情な彼女を、放って置ける事など出来やしない。戦に立とうとも、彼女は一般人で、ビクトールだけでなく軍を志願した者達が守りたいと思う、平和の象徴の一人なのだから。
「心配いらねぇよ。ちゃんと守ってやっから。」
ビクトールはそう言っての頭に手を置いた。はその仕草に自然と記憶が蘇り重なる。
ビクトールの手は、彼の人の掌の大きさと同じくらい。厚さもまた、似ていた。けれど彼の人はもっと優しく触れて、そしてその手は彼よりも指が長い。そこまで詳細に思い出し比べてしまい、は苦笑をする。
本当に、大好きだった。
もういない。大好きで大好きでたまらない人。
本当に優しかった。暖かかった。それを思い出すだけで、彼がいないということを思いの胸中に否応なしに悲しみが湧き上がる。
それでも。
瞼を閉じて彼の人を思い出す。彼は色々な表情を見せてくれたけれど、一番多かったのは彼の性格を現すような、柔和な笑みだった。
は彼に呼びかける。
――大丈夫です。グレミオさん。
だれも、失わせません。
今度こそ、誰一人失うことなく。彼の人を失ったようなことなど、させやしない。
絶対に負けない。そして誰も、失わせない。
は閉じていた目を開くと、前を向く。映るのはこれから戦場になる場所。遠くにはスカーレティシア城。手前に闇夜に白い天幕がいくつも点々と浮かんでおり、更にその前には達と同じように肉眼では全てを収められないほど多くの帝国兵が草原に並び立っていた。
「時間、みたいだな。」
と同じく戦場に視線を向けていたフリックが、そう言葉を漏らした。はそこで前方から、フリックの見やる方向を見る。後方で青く染め抜かれた旗が振られていた。
それは解放軍の旗であり、更に後方にはそれを振る軍師がいるのだろう。そして旗が振られたということは、戦がもう始まるということだ。
青い旗が10回振られれば、進軍は開始される。
は右手に嵌めている腕輪を外し腰に携えているポーチに入れた。元から戦前に外していた左手とは違い、右手の黒い手袋を外すと、戦の合図を知らせる旗の回数は終わりに近づいていた。
自然と誰もが無言となり、辺りに静寂が落ちる。そうして旗が丁度、十の回数になったのだろう。ビクトールがの肩を軽く叩いた。
「――行くぞ。」
それには頷かず、一度だけ目を閉じた。
――――行って来ます。グレミオさん。
彼がいつも城を出る時に言ってくれたように、瞼の裏に焼きついたように鮮明に思い出された彼に、もそう告げる。
そして目が開けた時には戦が、始まった。
「行くぞお前ら!!」
「今度こそ帝国軍に、解放軍の力見せてやれ!!!」
将であるフリックがそう叫び、ビクトールもまた闇夜に声を轟かせた。
それに応えるように、数々の雄たけびが上がる。
ビクトールやフリック、達が駆け出そうとする前に、草原に響いた声が聞こえたのだろう、動く様子のなかった帝国兵達も動き出した。
やがて目がそれらの詳細を捉え始める。剣を振り合げ構えたまま駆けてくる帝国兵。そして両軍が衝突する前、弓兵が放った矢が宙を雨のように降ってきた。それをどこか、命の危機かもしれないというのに冷めた感情で見ながらは右手を上げると、思い切り振りかぶった。閃光と風が迸る。
一瞬の出来事だ。けれどそれが止むと、宙で折れた矢は速度を無くし地面に落ちる。ようやく肉眼で捉えられるようになった数十メートル先にいる、剣を構え駆けていた帝国兵達の剣は柄から二つに折れていた。
それに帝国兵は目を見開く。雄たけびすら止まり、駆けていた足が失速すると、鈍い音を立てて草原へと何かが落ちていき、体が軽くなる。驚いて見やれば、防具でさえも留め具が壊れ外れると、地面へと落ちていっていた。
何が起きたのかわからず、武器も防具も一瞬でなくしてしまった帝国兵達は大いに戸惑う。
動揺は兵達の後ろを駆けていた為、無事だった兵達にも広がった。
そんな中、動きを止めた多くの帝国兵とは異なり、駆けていた達は解放軍は、帝国兵との距離がほぼなくなってきていた。
五十メートルを切ると、残り十メートル、五メートル―――数歩。
は怯むことなく左右をビクトールとフリックで固め、先陣を切って武器も防具もなくなり、自然と戦意を喪失してしまった帝国兵達の合間を掛ける。
そして防具と武器を持った者達を見つけると、すぐに右腕を振り上げていた。
―――その戦は奇跡であった。
後に人にそう語られるそれは、解放軍に味方した一匹の、狐の化け物の仕業だと言われた。
その戦いはあまりにも圧倒的で誰もが戦意を削り、一匹の化け物に一万二千もある帝国兵の、その半分以上をも投降させたのだという。
奇跡であるその戦を、後に「無血開城」と呼ばれた。
それはそれを起こした狐の故郷の歴史に名付けられた出来事と同じ名称であるなどと、誰も知りはしなかったが。

何度手を振り降ろしただろう。武装している兵士を見つけると、すぐに手を振り上げる。それをはひたすら繰り返していた。
額から汗が噴き出て、張り付いた髪から首筋へと伝っていく。走る事に慣れていない足も重たくなっており、脹脛は愚か太腿でさえもが張れていた。それでもまだ、武装している兵はいる。
は右をビクトール、左をフリックと固定しひたすら城へと駆けていた。フリックとビクトール率いる隊も続き、一方でクレオやパーンが将となり率いる隊は、武装解除により戦意も消え、ただ投降することしかできずにいる帝国兵達を縛り上げている。そこで厄介なのは紋章だったが、戦前に斥候を放ち知った帝国側の紋章兵団の場所には、ルック率いる紋章師達が対応に当たっている。それでもは何度か、帝国兵の武装を壊してしまう前に攻撃はされたが、それもすべてビクトール達によって未然にふさがれていた。兵が持つ紋章も、発動前に察知した二人によって防がれている。
ビクール達が兵を相手とる間も、は振り上げる手も足も休めなかった。一度ビクトールに、もう止めろと声を上げられたが、は止まらず、草原を駆け城へと向う。
少しでも多くの兵を戦闘不能に追い込まなければ。の辺り一体では、怒声や悲鳴が聞こえても、剣戟の音はしない。
けれどそれは奥にいる者、城近くに陣を張る者が出てくるまでだ。一撃ですべての武装を破壊出来ればいいのだが、の力ではそこまで出来なかった。
武装を壊すことのできる距離は、最大で数千メートルほどであると、最初の打撃でわかった。それが主に意図して放つ事や命中させる事を目的としたルックとの訓練とは違い、実践という事から意識が高められまた全力で出したの精一杯の力なのだろう。しかしは今ではその距離も狭まってしまっているような気がした。
だからこそ必死に手を振りかざしながら強く念じる。
(「誰かを恨んで、戦に出ても――」)
そう言ったのはティルで、そしてその時の答え同様に、グレミオを死に追いやったこの戦に、憎悪がないといえば嘘だった。それがないと、には言えない。
だが、ただ元の場所に戻るために。守りたい人を傷つかせないために。そう思うのまた事実であり、それが今少しでも出来る事に、運動嫌いな自分でも珍しく、は我武者羅に走り光と風の閃光を走らせ続けていた。
そうしてようやく、城の門が見えてくる。
はそこに辿りつけた喜びと安堵、そしてこの中にもまだ帝国兵がいるという恐怖、緊張、不安。更にはいよいよグレミオを殺した張本人と出会う可能性もあり込み上げてくる黒と白の混ざった感情を、奥歯で噛みしめ耐える。
それらを吐き出すかのように門前を固める帝国兵達へと、力強く手をふるう。精神は不安定であるものの、閃光はその想いを受けたかのように力強く放たれた。は止めていた足を踏み出し――ぐらり、と体が傾く。
突然のことには驚くが、それでも支えようと手を前に出す事すらできず、見開かれるはずの瞼もまた、重くなっているように感じた。
草と土の上に倒れ、はそこで気付く。鉛のように重い体。襲ってくる頭痛に、壊れるかと思うほど激しく脈打つ心臓。呼吸も走り続けて上がっていたそれ以上に乱れていく。必死に酸素を送り込もうとしても、肺を圧迫されたように呼吸もままならず、の目尻に自然と涙が浮かんだ。
頭痛は一層激しくなり、は奥歯を噛みしめ、掴んだ土に指を食い込ませる。それらの症状を、は知っている。幾度としか経験したことはないが、紋章を使いすぎた後起こる症状だ。
(・・・・まだっ・・・)
あと少し、あと少しで城へと入れるのだ。城内にはまだ帝国兵もいる。草原ですら、きっと未だ取りこぼした帝国兵がいるだろう。
けれどその意思とは反対に、足どころか指先さえ動かせず、はもはや嘔吐感も込み上げることない程の激しい頭痛に、意識がもやがかかったように暗くなっていく。
!!」
の名を叫んだのはフリックだ。そういえば、頑なに自身を認めようとしてくれなかった彼に、名前を呼ばれたのは初めてかもしれないと場違いにも思う。
はそんな彼に、起こしてくださいと言おうとした。
けれど口を開けることすら出来ず、言葉を発せられずにいると、そこでぷつりと、音と視界が途切れは完全に意識が闇に飲み込まれていったのだった。
闇に飲み込まれてしまえば、あとに見るのは暗い夢だ。
いつもより長く、まるでそれから起こることを予期させないかのように家族や友人に囲まれていた自分が、突然暗い水の底へと引き込まれる。
そうして自分が家族や友人を忘れてしまいそうになると、再びは彼らに囲まれるのだ。それからまた暗い水の底へ。一回しか経験した事がないわけではないのに、それでも毎回は絶望してしまう。
けれど何度目かの時、は水へと引きずり込まれた自分の手を、暗闇で誰かが手を握ってくれた、気がした。

***

ベッドの上に寝かされたを見て、ティルは胸に塞き止められない苦い思いが込みあげる一方、思考が止まってしまった。
寝かされているの顔は白を通り越し青白く、まるで眠っているというより、生命維持活動が極度に弱まっているように、―――またはもう既に死んでしまったかのように見える。
そんな彼女が突然顔を歪め、苦悶の表情で手がなにかを求めるかのように少し持ち上がると、ティルは思考こそは未だ戻らないものの、固まっていた体の呪縛が解ける。
それまで硬直していたのが嘘のように、扉の前から素早くのベットの脇へと寄ると、その手を掴んだ。
・・・!」
けれどその握りしめた手は、離されてしまった。
ティルは目を鋭くさせて、自分からの手を奪った人物を見る。しかし彼もまた、その目に剣呑な色を含ませティルを睨んでいた。
「触るな。」
ティルが部屋に入っても気にせずのベットの脇に座っていた芭蕉の髪をした少年、ルックはそれだけ言い捨てると意識を集中させ、回復魔法をかける。苦悶の表情を浮かべていたの表情が和らいだ頃、の体全体を覆っていた回復魔法の淡い緑の光は治まったが、ルックは掴んだ手を離さずそしてそのままティルへと視線を向ける。鋭い視線が互いを貫く。けれどルックは、軍主の敵意を剥き出しにした目はそんなものではない、と知っている。
刃の先どころの鋭さではない。彼が本当に敵意を剥き出しにすれば目でだけでなく、体から醸し出される雰囲気まで冷たく怜悧なものとなる。 数えきれない刃の先を突き付けられたというよりも、本能的に負けたと思わせる。絶対的王者だと彼は思わせるのだ。もっとも自分は他の者とは違い、そんな事など思った事はないが。
だからこそ敵意を剥き出してこない彼に、ルックは確信した。
「言っておくけど、あんたにこいつの事を黙ってるように言ったの、マッシュじゃなくて僕だから。治療の邪魔になるからね。まぁそうでなくても、あんたには黙っていただろうけど。」
既にスカーレンティシア城の攻略は終えた。今は先の戦で既に落としてあるガランの関所と、スカーレンティシア城の整備のため、彼らは本拠地に戻る事なくここガランの関所に滞在してるのだった。
そんな中、ティルは何度かに会いに行こうとしていた。彼女が怪我をしていないか無事か、と不安だったのだ。けれど彼の軍師であるマッシュに、彼女は無事で今は疲れて眠っていると言われ、こうして戦から1日経過しても彼女に会いに行く事はなかった。それも頑なに会わせようとしない軍師を不審に思い問い詰め、1日しか持たなかったのだが。
確かにマッシュの考えもわかる。が倒れたと知らされ、自分は平静を保てるか――それは自身ですら不可能なのではないかと、ティルも自覚している。
軍を思うからこそのマッシュの考えだ。だから彼を責め立てるような事は、しなかったが。
「もうあんたも気づいてるんだろ。」
ルックの言葉にティルは一瞬、息が止まった。鋭い目をティルへと向けたまま、ルックは続ける。
「その紋章が何を求めているのか。」
張り詰める空気の中、ルックの確信を抱く言葉に、ティルは何も言えなかった。ただ押し黙り、ルックが一瞬視線を投げかけた皮手袋を嵌めた右手を、強く握る。
彼の言う通り、ティルもまたもう気づいていた。それは右手の甲に宿る紋章が、手の甲から腕を駆けるほど酷く疼いていることが何よりもの証拠だ。
ティルは顔を伏せ、唇を噛む。それでも視界から外したというのに、自然と脳裏に浮かぶのは彼女の笑顔、そして相反するように青白い顔をして眠る姿。
右手の甲の疼きは収まる様子も見せず、ティルは自身の動揺も加わりそれは一層強さを増したような気がした。
駆け寄りたいのに、駆け寄れない。触れて、彼女の無事を確かめたいのにそれすら出来ない。出来るはずが、なかった。
右手の甲に宿る紋章が何を求めているか、彼に言われるまでもなく自分がよく知っている。
それでも気付かない振りをしていた。気づいたら、それがより強くなるのではないかという危惧を持っていたからだ。
――今思えば、ただ自分が、彼女に触れられなくなるということが耐えられなかったというだけなのだろうが。
それも一人を失い、無意識の自覚と不安が意識を持った疑惑となり、彼女を失いかけるといった事から確信せざる得なくなってしまった。
口内に鉄の味がするほど噛みしめる。皮手袋が軋むほど拳を握りしめたティルは、そのままのいる部屋から、物音も立てず出たのだった。
ティルが部屋を出て足音も離れていった数分後。
ルックは眠るを見下ろし眉を寄せる。
(だから、あいつには近づくなって言ったんだよ。)
この馬鹿は、本当に馬鹿だ。ルックは心中で盛大に悪態をついていたのだが、ふと視線を上げた。
灯りすら付けずに窓から月明かりが漏れるだけの、薄暗い部屋を見やる。
「出てきたら?」
正確にその場所こそ見ていないものの、ルックは声をかける。
次の瞬間、誰もいないと思われた部屋の小さなバルコニーの扉が、音も立てず開く。
そして一つの影が降り立った。
「・・・まさか、気づかれるとは。」
うす暗い部屋の中、黒に身を包んだ者は唯一覆われていない目を、心底意外そうにルックへと向けた。
しかしルックはそんな彼など気にせず、眉間に皺を寄せ椅子に腰かけたまま言う。
「もう来たわけ?お早いことで。」
「・・・・わかっているなら話が早い。真の紋章の持ち主の居所、吐いてもらおうか。」
「いいよ。」
部屋に現われた影のように黒を纏った男は、あまりにもあっさりとそう答えたルックに訝しげな視線を向ける。
そんな彼にルックは口の端を上げ、笑みすら浮かべて告げた。
「あんたハルモニアから来たわけ?それとも帝国かい?まぁどっちにしろ、どうせ転移魔法でも使って慌ててここまで来たんだろ。」
「・・・何が言いたい。」
そう言った男に、ルックは変わらず軽薄な笑みを浮かべたままである。
「あんたが情報を持ち帰らなかったら、しばらくは向こうもあんたみたいなの、送ってこないだろ。」
――しかしその目は少しも笑ってなどいなかった。
部屋を緊迫した空気が覆い、男は殺気を放ち、隙のない構えを完全に攻撃態勢へと変える。しかしルックは変わらぬ態度で、ようやく椅子から緩慢に立ち上がった。剣呑な光を宿らせた蒼い目で、男を射抜くと彼は言う。
男が思わず息を飲んだのは、その少女のような綺麗な顔立ちをした少年の目が一流の暗殺者である自身が警戒を抱いていしまう程鋭かったからか、
それとも
「真の紋章の力、見せてあげるよ。」
彼の放った言葉にか。

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