Skyting stjerner1-17

日が暮れ早めの夕食をとると、それぞれ明日はまた強行軍であるということと、その日の疲れを取るため誰ということなく早めの就寝をとることとなった。
とクレオという女性メンバー二人がテント内で寝ることとなり、もう一つのテントではキルキスとルックが使用する。
他のグレミオ、ティル、パーン、ビクトールはそれぞれ交代して火番をし、念のためすぐに動けるようにとテント外で眠ることになっていた。

そうして各々最初の火番であるグレミオ以外、眠りについたわけなのだが。

(――しまったなぁ。)
最初こそ眠りに付けたものの、は深夜に起きてしまった。
(夢も見ないで寝れると思ってたんだけど。)
グレミオが心配していた通りになってしまいは毛布の下で小さく溜息を吐いた。
はよく夢を見る。それもほとんどが悪夢で、似たような夢だ。ドワーフの村に居た頃は週に1回あるかないかだったそれだが、最近では本当に頻繁に見るのだ。
お陰で深夜に起き、厨房でビクトールと仲が良くなったりということもあるのだが大抵は一度悪夢を見るとなかなか眠れず寝不足がちになってしまう。しかしグレミオにそれを知られて以来、休憩時間の昼寝に付き合ってもらったり睡眠薬を調合してもらったりと大分マシになっていたのだが。
睡眠薬を使っても、偶に悪夢を見てしまう。見る回数は以前より減ったのだが――それでも多いとは思う。週に最低でも4日は見るのだ、同じ夢を。グレミオ曰く相当キツイという睡眠薬も毎晩使っているというのに。どう考えても異常である。
夢は深層心理の現れだというがそれほどまでに自分は恐怖を抱いていたのだろうかと自身で怪訝に思ってしまうほどである。
しかしまさかこの日、見ることとなるとは。グレミオにこっそりと心配された時、睡眠薬もあるし始めての乗馬で疲れたからぐっすりと眠れると笑っていたというのにこのザマである。
自身の手が少し震えているのを見ては自嘲を浮かべた。
瞼を閉じてしまえばいいと思うのだが、瞼を閉じると暗闇になる。真っ暗で何も見えない。その暗闇の中はの見る悪夢と似ていた。光も何もない暗い水の中。
それは自身がこの世界に来る直前、落ちた水の中と酷似していた。
手を伸ばしても陸に届かない。体はいつもその水の中へと引き込む黒い塊の手のようなものに捕まれて泳ぐことも出来ない。ただ手を伸ばすだけ何も掴めず、泡沫が上へと昇っていくのを見るしかない。
苦しくて苦しくて――そしてその水に落ちる前、必ず自分の周りにいる人達に会えない事も苦しくて。
涙ばかり流して、それもまた同じ水だというのに、何故か泡沫となって昇っていくのを自分は苦しみながらただ見ているだけなのだ。
何もない、誰もいないその水中の中でもがき苦しむ。

我ながら悪趣味な夢だなぁと思う。ああ悪夢だから仕方ないのか。は無意識に溜息を吐いた。

瞼を閉じることもなく、は寝返りをうつ。何もすることがなく、せっかくだからと同じテントで寝ている美人さん、クレオの寝顔を見ようとも思ったがクレオはテントの壁の方に顔を向けてしまっているため が移動しなければ見れない。美女の寝顔、見たかったなぁとは何度目かの溜息を吐く。
さてこの暇な時間をどうするか。いつもなら厨房、もしくはいつの日かルックの部屋へと突入した際に彼からかっぱらった何かの本を理解することなくただ眺めるか、 あとは部屋の掃除をして眠気がくるのをひたすら待つのだが。睡眠薬を使ってもいいのだがグレミオ曰く相当きついらしいので一日に二回も使うのは躊躇われる。
とりあえず上半身を起こしてみて、直後痛みが走り再び毛布へと沈む。不慣れな乗馬でお尻が痛かったことを忘れていた。
体はこんなにも疲れているというのになぜ夢など見てしまうのか。自身の脳に恨みさえ抱いてしまう。
それからゆっくりと痛みが引くのを待って、再度は恐る恐る起き上がる。今度は少しの痛みだけで上手く起き上がれたことに、思わず諸手を上げてガッツポーズをした。
「あれ、起きてる?」
そのままの状態で固まった。テントの外から聞こえてきたのはティルの声である。よくよく見ればテントが薪の火で透けていて、人影が映っていた。
つまりも外にも見えていたらしい。どうする、じぶん。この格好を一人でしているところを見られたのは非常に恥ずかしい。誰もいないと思って鼻歌を歌って実は誰か居たときぐらいに恥ずかしい。
はそのまま動かなければ何かの錯覚かと思ってくれるかと思ったのだが――そんなわけがない。
数秒動くことなくそのままの体勢でいて、相手も気のせいかと通り過ぎてくれることもなかったのでは羞恥に顔を染めながら体を起こした。
テントから出ればそこにはやはりティルと、薪の傍に座るどうやら今の時間帯の火番らしい、ビクトールがいた。
「なんだ。お前さん、起きてたのか。」
ビクトールは目を瞬かせてテントから出てきたに声をかける。はそんな彼に苦笑を浮かべた。
「ごめん。俺が起こしちゃった?」
するとテントの入り口付近にいたティルがすまなさそうな表情を浮かべてそう言ってくる。まったくもってそんな訳ではない。自身は恐らく、ティルが起きるよりも早く起きていただろうし、 起きたのは悪夢のせいである。は慌てて首を振った。
「ううん!全然そういうわけじゃないんだけど。」
「けど?」
あ、やべ墓穴掘った。ティルにそう尋ねられは思わず固まる。こういう時はどう答えればいい。まさか悪夢を見て起きましたなんて言えやしない。子供じゃあるまいし。なにか答え、答えを。私の脳、早く答えを!
「ああ。もしかしても喉渇いたの?」
「うん!もー喉渇いちゃって!」
自分の脳が答えを出すよりティルがそう言ってくれて即座には頷いた。喉が乾いた。そうだその手があったかと、今更思い浮かぶ自身の脳にほとほと呆れる。
安堵の息やら呆れの溜息やら吐きたいが、そこは堪えては必死に笑顔を浮かべていた。
「じゃあすぐ近くに湖があるけど、夜の森は危ないから一緒に行こっか。」
あれ、なしてそうなった?しかし今更ここで喉が渇いていないなんて言えず、はにっこりと笑みを浮かべるティルに笑顔を貼り付けたまま頷く。
ビクトールに気をつけて行けよ。と見送られながらとティルは、キルキスから教えてもらった近場の湖へと向かうのだった。

「で、本当はどうしたの?」
なんだかティルに誘導された感がなくもない、と思っていたら案の定そうであったらしい。湖についた途端そう尋ねられは思わず遠い目をしたくなったが、自分をじっと見つめる金色の目から現実逃避するわけにもいかない。
どうする、今こそ自分の答えを出すときである我が脳。しかしすぐに答えを出してくれるほどの脳は便利に出来ていなかった。
この辺りがルックに馬鹿女と言われる所以かとまったく違うことを考え脱線した脳を、今すぐそこらに生えている木にぶつけてやりたい。
「あー、うん。」
何がうん。だ何が。特に何も案を浮かべることも出来ず、まるで誤魔化しは効かないかのようにまっすぐに見つめてくるティルの目に耐え切れずはそう口にして心の中で突っ込んだ。
とりあえずの時間稼ぎ、とは頬を掻いてみるがそれでも良い案が浮かんでくる気配がない。というかたとえ浮かんできてもそれがティルに通用しなさそうである。所詮ティルと自分の頭の出来具合は違う。ああまた脱線しやがったこの頭と は再び木にぶつけてやりたい衝動に駆られる。
必死に笑みを貼り付けながらもその内もんどりうって考えているに、ティルが逸らさずにに向けている目の色を変えた。
「俺には言えない?」
眉尻を下げて、いつも強く真っすぐな輝き持つ目が悲しみの色を帯びる。それはまるで寂しいと言っているようで。
「グレミオには言えても、俺には言えない?」
そしてそんな表情でそんなことを言われてしまえば。
ティルはきっと、寝る前にがグレミオに心配されていたのを見たのだろう。
ずるい、とは思う。そんな表情でそう問われて――どうして無理だと言えようか。ここで断れば彼は傷ついたような表情をするに違いない。本当に、大したことがないというのに。
は苦笑を浮かべて彼にその情けない理由を話そうと口を開きかけた時だ。
ティルが素早くの腕を掴み、そして自身の背後に隠すように立ったのは。
彼のその突然の行動にがついていけず、瞬きしていると彼は前――湖ではなく森林の方を真剣な表情で見つめていた。
「何か、いる。」
どうしたのかと口にしようとして、先に彼が警戒も露にそう口にする。それには息を呑む。何か――それはモンスターだろうか。
他の仲間であれば彼がこうして警戒を敷く訳がない。ならやはり。
ティルの向いている方向をも震えそうになる膝を叱咤して見据える。そうして出てきたのは――

「・・・・。」
は出てきたそれになんともいえない表情になった。確かにモンスターであった。しかしこの森によく出現するひいらぎみたいな小さなそれらや 葉の羽を生やし、人のような形をしたのではない。それはモンスターを2、3度しか見たことのないでも見たことのある形をしていた。それは。
「スラッグか。」
「え、何?カタツムリじゃないの?」
思わずは素でそう尋ねてしまった。
カタツムリ。ティルはスラッグと言ったがどこをどうみてもカタツムリだった。
ただそれが人ほどに異様にでかく、紫色をしている血色の悪いカタツムリであるだけで。自然とはそんなそれに肩の力が抜けた。しかし直後は思わず頬を引きつらせる。
「ちょ・・・・!」
そのカタツムリのようなモンスターは一体だけではなかったのだ。森の中から一体、二体、と出てきて、計六体ものそれらが達へと向かっていた。
それらは当然ながら、一体目のカタツムリ同様でかい。人程のそれが六体も。こちらは念の為と持ってきていたティルの武器である棍があるだけである。
え、むりじゃない?とは思うわけだ。何しろでかい。血色の悪いカタツムリではあるがでかいのだ。そんなのが六体もいてこちらはティル一人。
「ティ、ティル・・・!」
思わずが声を上げてティルの服の裾を掴む。しかしティルはそれらに警戒しているものの、先ほどまでのように緊迫した様子ではない。
「大丈夫。数は多いけど、あれは弱いから。は下がってて。」
声音も先ほどとは違い、いつも通りといって差し支えない。よ、弱いと言われても。本当に大丈夫なのだろうか。そうは思いつつもにあれらと対抗する術もなく、 むしろ足手まといになるのは明らかではゆっくりとティルに言われた通りその場から少し離れた位置に移動する。
それを見届けてからティルは腰を落として棍を構える。場違いではあるがその棍を持ち直す様が、風を切り低い音を出す程速く、は思わずおお、かっこういい!などと思ってしまった。
ティルがまた見目麗しいのも手伝い、それまでの雰囲気とは違いピンと糸が張ったような空気が流れた時、月明かりを浴びたその様は一種神聖さを持っているような気がした。ではまず醸し出すことのできない雰囲気である。
そしてが一度瞬きをした間にティルは真横へと移動していた。素早いその動作に感心するよりも先には小さな悲鳴をあげる。ティルが先ほどまでいた場所にはカタツムリ、の頭。
そうなかなかの距離があったはずのその場所にとカタツムリの首部分が伸びていたのだ。伸びすぎである。というかキモイ。その不気味さには背筋が震える。何しろ血色の悪くでかいカタツムリだ。小さければ円らな瞳と呼ばれるそれもでかく、よく見ればなんだか口みたいなものだってあるのだ。まるでカタツムリがゾンビになったかのようだとは思う。
しかしカタツムリの首が伸びたことに意識を取られてる間に、ティルはカタツムリの集団に攻撃をしかけていたらしい。
が彼に気づいて見てみれば既にその場には二体ほどカタツムリが力なく地に倒れていた。はこの時、いつも目を逸らしたい衝動に駆られる。駆られるが同時に、逸らしてはいけないと思っていた。
の世界では滅多にその光景は見られない。何をせずともスーパーなどに行けば食材として既に売っているからだ。だからそんなものがないこの世界はが自覚せずにいた食物連鎖を突きつける。
モンスターなどは達人間は食べないが、向こうは違う。人を食事とするのだ。もしくは外敵か。どちらにしても殺らなければ殺される。
自分は生きたいのだ。生きて――元の世界に返る。
そしてが今まで自覚していなかった生と死の世界を、慣れるのではなく乗り越える。それが自然の摂理であるからだ。いくら知性を持とうとも、自我を持とうとも。人間がその枠から外れることはない。
安堵とした世界で、何百年も何千年も前に築かれていた自然の摂理はいつの間にか踏み外していたように思えたけれど。 それは何千年もかけての先祖達が築いてくれたものに、自分は立っていたのだと。その道は外れてなどいない。生きる上でそれは決して、外れることはないのだ。自覚した今、自分は乗り越えなければならないとは思っていた。

は腰から下げていたナイフを抜き取り、いつ自分へと向かってきても立ち向かえるようにとナイフの柄を握り締める。
ティルは圧倒的な強さでモンスター達を劣勢へと持ち込んでいた。ただ数が多いのか、首を伸ばし攻撃してくる回数が多いこともありなかなか 近づくことができず数を減らせずにいる。それでも自分へと向かってきた首を棍で往なし、そのまま一体へと向かいながら次に別のスラッグが攻撃してきたそれを体の重心を斜め後ろのすることで避け、縮まった距離で二度目の攻撃をしてきたスラッグの甲へと棍を叩きつけそれだけで地に伏せさせる。そしてすぐさま後ろへと距離を取ると先ほどまでティルがいた位置には違うスラッグの攻撃が繰り出されていた。
ティルはスラッグは弱いが、一人にしては数が多いことに早々に決着をつけれず自然と眉間に皺を寄せた。あともう一人いればどちらかが攻撃をしている間片方が守りをしてさっさと片付けられるというのに。
そもそも大森林にスラッグいること事態不思議であった。ティルが知る限り、これらが生息するのはティル達が本拠地にする前、幽霊屋敷そのものであった以前のトラン城だ。
そこでティルははっとした。そう自分達が殲滅したはずであったが、もし、スラッグが泳げていたら。湖を渡り――
!そこから逃げて!」
答えを出すより出現した複数の気配と水音にティルはへと振り返り声をあげる。スラッグはどこから来たか。それは恐らく、トラン湖からこの湖へと流れ着いてきたのだ。
そうしてそれらが森の方から出て来たことから自然とティルは森側へと向かっていたが今出てきたそれらも――そして後方へと下がっていたも湖の側にいる。
「え。」
しかしは這い上がってきたそれらに気づかず、ティルの方だけに集中していた。せめて自分へと向かってきたら立ち向かえるようにと構えていたのが仇になったのだ。
素人があるが故、一方にしか集中できない。そうなると自身の背後へと警戒などしていなかったのだ。
戦闘中であるというのにティルに険しい表情で即され、そこ?と理解する前に、は自身の体に何かが巻きついたのに気づいた。
気づいたときにはもう遅く、体は後方へと傾き湖へと落ちていく。
水しぶきを上げ、はスラッグと共に湖へと沈んでいった。

何かに掴まれ湖へと引きずり込まれたと理解したは慌てて引きずり込もうとするそれらを引き剥がし陸へとあがろうとした。
けれどの四肢を掴むそれらは強く、などの力では外せる様子がない。それは彼女が非力なのではなく、相手はを掴んでいる部分だけで攻撃を行うスラッグである。
他は脆くても、その部分の力だけは特化しているのだ。もがいてももがいても外せず、自身の手にいつの間にか持っていたはずのナイフがないことを悔やむ。どう足掻いてもはずせられないそれら。そこで はっとして陸を見上げれば沈むスピードは速く、だんだんと陸が離れていっていた。このままでは本当に溺死してしまう。いずれ自力では陸へと上がることが出来なくなってしまう。
そう思うのに、は自信の力が抜けていくのを感じていた。突然湖へと引きずり込まれたこともあり、息を吸い込む間もなかったのだ。
それに最初に自分の四肢を掴んでいるそれらを外そうとして奮闘してしまったせいか、酸素もだいぶ抜けてしまっている。
最初から少ししか吸い込んでいなかったのだ。自然とはもう吸い込む酸素が何もなかった。せめてもの抵抗にと手を伸ばして上へと上ろうとするが体を引きずる力が強く 少しも上へとあがる気配はない。
体から力が抜けていくのを感じながらは思った。これではまるで、いつもの夢みたいであると。
自分の体を掴むそれらはいつしか夢の中、いつもを暗い水の中へと引きずり込む黒い塊の手のようなものに思え、途端の胸中は恐怖に満たされた。
夜のせいもあってか、月明かりと星の光しか届かぬ湖の水の中もまたうす暗い。それは体が沈んでいくほどに徐々に暗くなっていく。
息が出来なくて苦しい。苦しくて。

伸ばされた手が誰にも届かないことが苦しい。

ああ、やはり。誰にも届かないのだと。自分はこの暗い水の中に一人で。誰も助けてくれない。誰も手を掴んでくれない。伸ばした手は何も掴めない。
恐怖とともに、は胸中に悲しみのあまり笑みすら浮かべてしまうような、諦めの念を抱いた。
自分は―――一人だ。
きっとこの暗闇の中、永遠に。



そんなの手を掴んだのは誰だっただろう。
は閉じかけていた目を再び開ける。そして見たのは闇。がいる水中以上に暗い、純粋な黒のそれ。が見る悪夢の中の水中のような闇の色だった。
けれどの手は誰かに握り締められていた。力強く握り、離さないそれは確かにの手を掴んでいた。
誰も掴んでくれないと思っていたそれを握ってくれる手。
やがての四肢に絡み引きずり込もうとしていたその力がそれまでの強さが嘘のように緩む。は掴まれた手に導かれるようにして体が上へと上昇していった。
先ほどの闇の色は嘘のように消え、元のうす暗い水中へと戻る。
そしては自身を抱きかかえて上がってくれる人物を見た。
闇のような髪をして、それとは正反対に金色に輝く瞳を持つ少年――ティルだった。


達はそれから程なくして陸へと上がった。は勢いよく酸素を吸い込み、苦しみに悲鳴を上げていた肺に突然酸素を送ってしまったからか思わず咽る。
!ごめん!!」
そうして落ち着く前には自身の体を強く抱きしめられていた。強く、力の加減も忘れを掻き抱くのは、をここまで引き上げてくれたティルだ。
「ごめん!俺がもっと早く気づいていればこんな・・・!!」
「・・・・そっか。」
「え・・・?」
けれどそんなティルにはまったく気にした様子もなく呆然と呟く。の視線は彼女の右手へと向けられていた。の右手を強く、未だ掴んでくれている手。
自身をここまで引き上げてくれたティルの手だ。
誰も掴んでくれないと思っていたのに。
「ばかだ、私。」
忘れていた。
言ってくれたじゃないか。ティルはの側にいてくれると。グレミオもの側にいてくれると。自分はどうして忘れていたのだろう。どうして一人だと思ってしまったのだろう。
こうして自分の手を、しっかりと掴んでくれる人がいるのに。
小さく笑ったそれはもう、諦めたような笑みではない。ただ気づかなかった自分への嘲笑だ。
「ありがとう、ティル。」
は自分を強く抱きしめていたティルを抱きしめた。自分を助けてくれてありがとうと。
暗闇から救い出してくれてありがとうと。感謝の気持ちを伝えるように。

ティルはそんなに驚いていた。今回はどうみてもティルの失態であった。湖に連れてきたのも自分。湖側へと下がるように言ったのも自分だ。
そしてが湖へと引き込まれてしまったのも自分の責任だ。
まるで時が止まったかと、ティルはその時思った。ゆっくりとが引き込まれていくのを目を見開き見ているしかなかった。
そして水しぶきをあげ、彼女が湖へと引きずり込まれたのだと理解すると、ティルの胸中には途方もない恐怖と、どす黒い感情に覆われていた。彼女を引きずり込んだモンスターに――そして守れなかった自分に。
ティルは理性など踪形も無く消えてしまい、激情のままに行動していた。考えることもなく感情のまま、ただ湖の沈んでしまった彼女を助けるために。けれど戦闘していた無駄に数の多いモンスターは湖へと向かおうとする自身の行く手を阻む。
――邪魔でしかなかった。
ティルはいつも嵌めている右手の皮手袋を外し、感情のままに、それを使うに中るだけの脅威ではないというのに使用した。
手の甲から発せられた闇の光が邪魔でしかないそれらを飲み込み消える頃には、それを見届けることなくティルは既に湖の中へ飛び込んでいた。
ただただを探していた。理性が吹き飛んでからは心の中で狂ったようにの名を呼び続けていた。
そしてうす暗い湖の中で引きずり込まれていくを見つけて、我武者羅に手を伸ばし力を無くしたようなの手を掴む。そして彼女の四肢に纏わりついているまた邪魔でしかないそれらにティルは右手を向けた。
手の甲からはティルのその時の感情のようにどす黒く、いつもより強い闇が生まれる。
闇に飲み込まれれば――消えるのみ。それはどんなものでも遮ることの出来ない絶対の死。
湖が闇に支配される中、ティルはの手を掴み、拘束の無くなったを引き上げた。そうして共に陸へと上がると、ティルは水中から出たというのに呼吸が出来ていないような気がした。
手だけでは足りない。彼女がそこにいるということを理解したい。
ティルはその感情のままを抱きしめていた。彼女が無事なのだと、自分の手の届かない場所にいってしまったのではないのだと。
そのぬくもりに徐々に理性が戻ってきたティルは、彼女をこんな事態に陥らせてしまった自分への苛立ちと悔しさで彼女に謝罪を述べる。
しかし彼女は抱きしめられるまま、どこか呆然とティルに恨み言を言うこともなく、ティルの言葉も聞いていないように呟いていた。思わず力の限り抱きしめていた腕を緩め、ティルはの顔を見る。
彼女の表情にはティルへの憤りも、この事態への恐怖もなく。
ただ安堵したかのようなそれは笑ってはいなくても酷く柔らかい表情だった。
そして浮かべた笑みは嘲笑のようであったが――それでもどこか柔らかい、安堵したかのような。
ともすれば泣き出してしまうかともいえる表情の彼女はそこでティルと繋いでいた手から視線をティルへと向けた。
「ありがとう、ティル。」
ティルが思わず瞬きを忘れてしまうほど柔らかな、微笑みをは浮かべて。そして彼を抱きしめた。 強く――ティルにとっては振りほどけてしまう強さであるが、にとっては強く彼を抱きしめる。
彼女はそんな動作などしない。少なくても人に触れるといった行動を自ら進んでするような少女ではなかった。
だからティルはその行動に、の浮かべた笑顔にどうすればいいかわからなくなってしまった。
女性に抱きつかれるのは初めてではないというのに、本当にどうすればいいのかわからない。頬が自分のものではないかのように熱い。
しかしその動揺の他にもティルの胸中にはひとつの感情があった。少女がそこにいるという、湖の中へと引きずり込まれてしまった彼女がこうして無事にいるという。

ティルはそっとの自分より細い体に腕を回した。
先ほどのように力の限り抱きしめることは無く、少し力を緩めて、けれどしっかりと彼女を抱きしめる。
ティルはゆっくりと瞼を閉じる。瞼を閉じても、腕の中にいる暖かい存在。
ただその存在を感じることの出来る幸せを、かみ締めていた。






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