「僕は一生、あんたを許さない。」
そう言って君を睨みつけた。それから150年、その想いが変わることはない。
***
先ほどまで荒かった呼気も、今では大分落ち着いている。しかしはその場から動こうとしなかった。汗で首回りに張り付いた漆黒の髪を退けると、濡れたタオルで拭いてやる。金色の目を閉じ眠るティルは、それでも身じろぎひとつしなかった。薬が効いているのだろう。眠るティルの様子は穏やかだ。ベッドに横たわるティルを心配そうに見つめるに、壁に背を預けて佇んでいた青年が碧い眼を細めた。
「いい加減、そろそろ休んだら。」
語調を僅かに強くして言うラズリルに、しかしは振り向くこともしない。それまでと同様、眠るティルに視線を落したまま答えた。
「まだ、もうちょっと。」
彼女の返答にラズリルは片眉を上げた。預けていた背を壁から離すと、の傍まで歩みを進める。僅かに目を鋭くして彼女を諫めた。
「2時間前からずっとそう言ってる。」
旅の途中で、ティルが倒れた。慌てて宿をとり、診断してもらった医者によると、風邪であるらしい。体調管理を自身でこなす彼にとって、それは殊更珍しいことである。
数年ぶりの珍しい現象に過敏に反応したのは、なにも彼のお付きであり親のように彼を見守るグレミオだけではない。もまた、動揺したのである。なにしろ、彼は決して弱みを見せることをしない。彼の弱い部分を見たことのあるにとっても、両手で数えることが出来るほどだ。それに彼が倒れるなどと、幼少のころから共にいるグレミオと違いは一度も見たことがなかった。
そういったこともあり、グレミオよりも動揺したといってもいいは、ティルが倒れてからというものの、彼の傍から極力離れず看病し続けていた。休みを取ろうともせず、もう二日目だ。いくら周りが休むように言ってもは心配だから、とティルの傍から離れようとしなかった。
しかしそれも、もう限界だ。
「こいつはもう大丈夫だって、医者も言ってたでしょ。」
「うん・・・。」
そう返しても、 はベットの脇に置いたスツールから動こうとしない。視線すらも、ティルから離そうとしないのだ。心配と、彼だけに向けられる優しさの入り混じる目で彼を見続ける。
ただ一人だけを、ずっと。
滾々と黒く熱い何かが降りてきて、内に溜まる澱みが、増した。ラズリルは無駄だと思ってはいても、その澱みを吐き出すように息を吐く。
「それとも、 も薬飲む?」
ティルの飲んだ薬には催眠効果もある。だからこうして物音に敏感な彼も起きることなく、眠り続けているのだ。
そこでようやく、の目がラズリルを映す。一回、二回、瞬きをすると僅かに眉を寄せた。
「・・・・わかったよ。」
はようやく、その場から立ち上がったのだった。
「見送らなくても、ちゃんと戻るのに・・・。」
宿で割り当てられたの部屋に戻る際、付いてきた青年には不満気に言う。しかし彼女の場合、目を離したら何をしでかすかわからない、といった認識がラズリルにあった。その為ラズリルは彼女の抗議を素知らぬ顔で流す。
はそのまま、大人しくそのまま部屋に戻るかと思われた。しかしドアノブに手をかけたところで、 彼女はその手を唐突に止めた。訝しげな視線で彼女を見れば、は逡巡するように手を彷徨わせてから、体の向きを変える。
「やっぱり、せめてグレミオさん達が戻ってくるまで・・・。」
旅の仲間であるグレミオは、病人であるティルの為に滋養のつく食材を買いに行っている。この宿に食堂はあるが、さすがに病人食はメニューにないからだ。一日目は医者を探しに街を探し回り、時間がなかったが、今日はそうはいかない。ティルのお付きであるグレミオとしては、言語道断なのである。自身で作ろう、と宿の者に許可をもらい、台所を貸してもらうことになっていた。最後にテッドであるが、彼は旅で消費した薬草などを買いに行っていた。いつ何が起こるかわからない為、常に用意しておくことに越したことはない。彼らが戻るまで、彼女は彼の傍にいるつもりらしい。しかし街道沿いにあるこの宿から街へは遠い。既に元々ない彼女の体力も、限界であるはずだった。
「。」
諌めるように彼女の名を呼ぶと、視線を落としながらは言う。
「だってあんなに苦しそうにして・・・」
「数時間前の話でしょ。もう落ち着いてる。」
医者にもう心配ないと言われたのだ。今では彼の様子も良い。しかしは眉を寄せたまま、頑なに頷かない。「でも、心配だから・・・。」
なぜ、そんなにあいつに拘るのだろう。
「いい加減にしなよ。」
思わず口調が荒くなってしまった。ラズリルはまた一つ息を吐くと言う。
「このままじゃ、が倒れる。」
「私は大丈夫だよ。それよりもティルが・・・。」
眉を寄せて言うの目に、嘘偽りはなかった。まっすぐに、一人だけを。今も、昔も。前を見続ける彼女は決して振り向くことはない。だからこそ、ラズリルは彼女が嫌いだった。散々、周りを、自分を振り回しておいて。その癖彼女は揺るぎもしないのだ。
あの時から、ラズリルは許せずにいる。
だからこそ。彼女の想いの方向を改めて見せるそれは静かに、彼の線を越えてしまった。ふつりと、溜まっていた澱みが溢れ出す。
「そんなにあいつが大事?」
淡々としていて、けれど僅かにいつもより低い声。
は驚いたようにラズリルを見た。ラズリルは普段は変わらぬその相貌に薄い笑みを浮かべていた。冷たい笑みだと、は思った。いつも見る柔らかなそれとは違う。そこでようやく、はラズリルの様子がおかしい事に気づいたのだった。ティルのことを気にかけていたこともあり、気づくのが遅れたのだ。
深い蒼の目がを射抜く。思わず息を飲んだ。彼はを見下ろしたまま目を細めた。
「自分を犠牲にするほど、大事なの?」
ラズリルが一歩近付くと、その分は思わず足を後退させた。蒼い目から目が逸らせず、何故か肌に緊張が走っていた。
「ラズ・・・?」
戸惑うの腕を、ラズリルは掴む。力の強さには顔を顰めたが、抗議の声を上げる間もなく腕を引かれる。ラズリルはそのままに割り当てられた部屋に入ると、すぐに彼女を部屋に置かれた寝具の上に突き飛ばした。
「い、いた・・・」
突き飛ばされたが眉を寄せる。さすがにここまで乱暴にされると、も不愉快になった。いくら寝かしつけようとしてでも、これはない。しかし文句を言おうと顔あげて、はぎょっとした。ラズリルの整った顔が間近にあったのだ。
「ちょ、ちょっと・・・・!!」
覆いかぶさるような体勢の彼に、は慌てて彼の肩に手を置き押し返そうとした。しかしその手は逆にラズリルに掴まれ、そのままシーツに縫いとめられる。
ラズリルはこれでもかと目を見開くの首筋に顔を埋めると、突然彼女の肌に唇を当て強く吸い上げた。
「あ。」
の喉が驚きからひくつく。そこに唇を落とせば、再び震えた。
「ラズ、どうしたの・・・!?」
突然のことに放心状態だったが、そこで我に返った。幾つもの所有印をつけていたラズリルも顔をあげる。搗ち合った蒼い目はどこまでも、深い。
「別に、どうもしないよ。」
そう言って、掴んでいたの両手首を頭の上で一つで纏める。空いた片方の手がの衣服に触れた。
「ラズ!!」
視界で捉えたが目を開き声を上げた。しかし彼女の非難も構わず上着のボタンを外し前を肌蹴させると、ラズリルは再び顔を沈める。
「ちょっと、ラズ・・・・!!!」
刺激は徐々に下がっていく。まだ衣服を着ていようとも、危機感を覚えられずにはいられない。しかし手足をばたつかせても、片手だけだというのに掴まれた手はびくともせず、足などはばたつかせても組み敷かれている状態では意味がない。の心中にじわり、と恐怖が広がり比例するようにの声も大きくなる。
「ラズ!やめて!!!」
だがの叫び声を聞きとめる者はいなかった。丁度部屋の前を通った忙しく働く宿の者も、別室であろうと物音に敏感なはずのティルも、今は薬の効果から目を覚まさない。ラズリルも構いやしない。皮膚の弱いところに唇を当てては吸い上げ、何度 が声を上げても止めることをしなかった。
やがて空いている手で体を愛撫し始めれば、が息を呑む回数も増えていく。
溢れ出る澱んだ感情が止まることはない。愛しいのに、愛しく思う程、その分それが心を抉り、ラズリルはどうにかなってしまいそうだった。彼女の気持ちは他の男に向いて、まっすぐと向かうその想いが、痛い。
確かに彼女の幸せを願うのは変わらない。それでも、譲れないものもあった。
白い肌に幾つもの赤黒い跡が残る。拘束している手首にも、跡が残ってしまうだろう。けれどそれだけでは足りない。抑え込んでいた黒く澱んだ感情は、確かに本心だった。訴える、強い想い。
彼女の目も心も体も、奪ってしまえばいい。誰かに奪われてしまうなら奪えばいいのだ。そうして彼女が自分のものになるなら、
たとえ彼女の想いを捻じ曲げてでも、欲しかった。誰にも奪わせたくなかった。
やがては、拘束を解こうと暴れなくなった。幾らが暴れようとも片手ひとつで拘束していたラズリルは、なくなった抵抗に顔をあげる事はしなかった。しかしふと視界に入ったそれに、動きを止める。
が泣いていた。涙は頬を伝い、シーツに染みを作る。
「やめて・・・!」
ぼろぼろと涙を零しながら、は言った。涙を流す彼女に、動きを止めたラズリルはそっと彼女の頬に手を添えた。親指で目尻に溜まる涙を拭ってやる。それでも涙は次から次へと溢れ出す。
泣いて叫ばれても、止めるつもりはなかった。しかし彼女の涙を見た途端、あれほど荒れ狂っていた感情は静まり、ラズリルはただ彼女の涙を止める方法を探していた。眉を寄せて涙を拭う。無意識の内に口を開いていた。
「ごめん。」
の涙は止まらない。肩を震わせ泣き続ける。
それでもやはり、ラズリルは止めるつもりはない。けれど彼女の涙も止めたいと思う。眉尻を下げて、傍若無人な彼には珍しく、ラズリルは途方に暮れていた。
やがてに変化が現れる。
「・・・?」
突然、彼女の力が抜けたのだ。力を抜かして目を閉じる彼女は、確かに気を失っている。しかし上下する肩は変わらない。嗚咽の為に上下しているかと思えた肩は、荒い息の為だったのだ。気のせいでなければ触れる彼女の体も熱い。ラズリルは咄嗟にの前髪を分け額に手を宛ててみる。触れた額の熱さに息を呑んだ。
そしてラズリルが勢いよく身体を起こしたのと、ドアがノックされたのは同時だった。
「、いる、」
ノックと共に、蜂蜜色の髪をした青年がドアから顔を出す。しかし言葉は半ばで途切れ、ドアを開け横を通ろうとしたラズリルの腕を青年、テッドは掴んでいた。
「ちょっと待った。お前、に何をしようとした?」
テッドの声は低く、硬い。足元にはそれまで彼が持っていた紙袋が落ちていた。
不必要な程乱れたシーツと衣服を乱してベットに横たわる少女。
目の前の光景にテッドは、心のどこかでやはり、と無意識に納得している部分があった。少し考えれば、予想が出来ていたはずだったのだ。それが出来なかったのは、ティルのことにグレミオと同様、少なからず自身も動揺していたからだ。
彼のことに失念していた。普段穏やかで静かな海は時として容赦ない荒波に変わる。感情の激流の先にいるのは、今も昔も彼女だ。
よく見れば、露わになった彼女の肌には赤い印が幾つも浮かんでいる。痕に気がついたテッドはラズリルの腕を掴む力を知らず強くした。
「おい!!」
答えないラズリルを、テッドは鋭い眼光で睨んだ。いつも陽気で明るい彼からは想像出来ない剣呑さだった。しかしその変貌に驚くことなく、腕の痛みに顔を顰めることもせず、ただ静かにラズリルは目を細めてテッドを見返す。
「離せ。」
しかしその内に籠もるものは、静かとは言えない。苛立ちと殺意、そして、
思わずテッドは掴んでいた手を放していた。
掴まれていた腕を放されると、ラズリルは振り返ることなく宿の階段を降りて行った。残されたテッドは険しく眉を寄せてラズリルの背を見ていたが、すぐに見えなくなると頭に手を置き、唸り声をあげる。それでも行き場のない怒りと不可解さは残った。
彼は動揺していた。誰が見てもわかる程明らかで、普段感情を表に出すことをしない彼にとって、可笑しな程だ。
原因を考えたとして、それはのことでしかない。開け放たれたドアを閉め部屋に入ると、テッドはの傍に寄った。赤い跡が目につく度に沸くそれはなんとか抑え、彼女の様子を見る。そうしてすぐに額に手を置くと、不可解さも解した。
ティルと症状が同じである。恐らく移ったのだろう。そこで先程の彼の目が思い浮かび、テッドは僅かに彼に呆れた。
風邪であの慌て様。はっきり言って、ばかにも程がある。そこまで慌てる必要もないというのに。―――自分も人のことを言えたものではないが。
テッドはそんなことを考えながら、人が来た時を考えの乱れた衣服を急いで正す。あの様子では、あのまま医者を呼びに行っていても可笑しくない。衣服を正すことに、何で俺が。といった思いが大いにあるが。正し終えると、毛布を掛けてやる。あとは、と考えテッドはタオルと氷、そして水を取りにその部屋を後にした。部屋を出た後に、共に帰ったグレミオにも伝えようと思いつく。無意識に繰り出す足は駆け足になっていた。
***
押し倒されたとき、は確かに恐怖を感じていた。抵抗しても抑え込まれ、声をあげようとも彼は止まらない。あの時、は彼が怖かった。
恐怖と共に、怒りも感じていた。もう二度と口を利かないと思っていた。しかし目を開けて、視界の端に移った彼の表情を見るとは思わず微笑んでいた。
「なんて顔してるの。」
普段なら、決して見ることのない表情だった。眉尻は下がり、常ならば揺らぐことのない蒼い目は頼りなく揺れている。
そんなラズリルを見れば、怒りは苦笑に変わっていた。まるで捨てられた子犬のような必至さで見てくるのである。いい歳の男が、情けない。
そう思いながら上半身を起き上がらせれば、横へと体を引っ張られ、何かに包まれる。
「・・・!」
顔だけでなく、声もまた必死さを帯びていた。これでどうして、苦笑以外浮かべられようか。
この時ばかりはも抱きしめられる事に抵抗することはなかった。
を抱きしめながら、ラズリルはそっと瞼を閉じた。訪れるのは暗闇だ。その暗闇の中、先程まであれだけ冷えていた心を、腕の中の温もりが安堵へと導いていく。
彼女はいつもそうだった。どんな時でも自身を導く。例え必要としていなくても、勝手に。あまりにも強引で、勝手で、迷惑な存在。
無くなることのない、要らない感情を芽生えさせる温かい存在。
「私はラズと今みたいにこうしてるのは好きだよ。ドワーフの村で悪い夢を見たときも、こうしてくれて、安心したもの。」
今もまた。彼女にとっては何気ない言葉で、心の内が暖かくなる。
どんな怒りや悲しみも溶かしてしまう。
ああ、彼女の傍はなんて―――
「だけど」
「うん。」
そこで続けるの言葉を、唐突にラズリルは遮った。体を離してを見る。そして見た彼の表情に、は思わず目を見張った。
見慣れてはいる。しかし、彼が浮べた笑みは、酷く柔らかかった。
「僕はの傍にいたい。」
彼が異常なほど整っていることもあり、見惚れてしまいそうになるその表情に、は慌てて我に返る。この時、数秒見惚れてしまったという事実は眼を瞑って頂きたい。
「ごめん、私はティルが―――」
けれどそうして言った言葉を、再びラズリルが首を振り遮る。「誰が好きだとか、それ位で諦めがつくものじゃない。」と。
「は、」
思わず呆けた声を出してしまった。しかし呆然とするに構わずラズリルは身を乗り出し、気がつけばどこかで見たことのあるような体勢、そうが意識を失う前と同じ体勢になっていた。
は思わず頬を引きつらせる。
「あの、私風邪を・・・」
引いていなくともお断りだが。しかしこちらは弱っているというのに一体どういう了見だ。そもそも彼の先ほどの言葉が理解できない。理解したくない。
そんなに、ラズリルは先程とは違う、無駄に爽やかな笑顔で言った。
「汗をかいたら治るよ。」
「テッド助けて・・・!」
その時丁度部屋に入ってきた人物に、が縋りつくように声を上げたのは当然だった。
今も昔も、求めるものは変わらない。
そう言って君を睨みつけた。それから150年、その想いが変わることはない。
***
先ほどまで荒かった呼気も、今では大分落ち着いている。しかしはその場から動こうとしなかった。汗で首回りに張り付いた漆黒の髪を退けると、濡れたタオルで拭いてやる。金色の目を閉じ眠るティルは、それでも身じろぎひとつしなかった。薬が効いているのだろう。眠るティルの様子は穏やかだ。ベッドに横たわるティルを心配そうに見つめるに、壁に背を預けて佇んでいた青年が碧い眼を細めた。
「いい加減、そろそろ休んだら。」
語調を僅かに強くして言うラズリルに、しかしは振り向くこともしない。それまでと同様、眠るティルに視線を落したまま答えた。
「まだ、もうちょっと。」
彼女の返答にラズリルは片眉を上げた。預けていた背を壁から離すと、の傍まで歩みを進める。僅かに目を鋭くして彼女を諫めた。
「2時間前からずっとそう言ってる。」
旅の途中で、ティルが倒れた。慌てて宿をとり、診断してもらった医者によると、風邪であるらしい。体調管理を自身でこなす彼にとって、それは殊更珍しいことである。
数年ぶりの珍しい現象に過敏に反応したのは、なにも彼のお付きであり親のように彼を見守るグレミオだけではない。もまた、動揺したのである。なにしろ、彼は決して弱みを見せることをしない。彼の弱い部分を見たことのあるにとっても、両手で数えることが出来るほどだ。それに彼が倒れるなどと、幼少のころから共にいるグレミオと違いは一度も見たことがなかった。
そういったこともあり、グレミオよりも動揺したといってもいいは、ティルが倒れてからというものの、彼の傍から極力離れず看病し続けていた。休みを取ろうともせず、もう二日目だ。いくら周りが休むように言ってもは心配だから、とティルの傍から離れようとしなかった。
しかしそれも、もう限界だ。
「こいつはもう大丈夫だって、医者も言ってたでしょ。」
「うん・・・。」
そう返しても、 はベットの脇に置いたスツールから動こうとしない。視線すらも、ティルから離そうとしないのだ。心配と、彼だけに向けられる優しさの入り混じる目で彼を見続ける。
ただ一人だけを、ずっと。
滾々と黒く熱い何かが降りてきて、内に溜まる澱みが、増した。ラズリルは無駄だと思ってはいても、その澱みを吐き出すように息を吐く。
「それとも、 も薬飲む?」
ティルの飲んだ薬には催眠効果もある。だからこうして物音に敏感な彼も起きることなく、眠り続けているのだ。
そこでようやく、の目がラズリルを映す。一回、二回、瞬きをすると僅かに眉を寄せた。
「・・・・わかったよ。」
はようやく、その場から立ち上がったのだった。
「見送らなくても、ちゃんと戻るのに・・・。」
宿で割り当てられたの部屋に戻る際、付いてきた青年には不満気に言う。しかし彼女の場合、目を離したら何をしでかすかわからない、といった認識がラズリルにあった。その為ラズリルは彼女の抗議を素知らぬ顔で流す。
はそのまま、大人しくそのまま部屋に戻るかと思われた。しかしドアノブに手をかけたところで、 彼女はその手を唐突に止めた。訝しげな視線で彼女を見れば、は逡巡するように手を彷徨わせてから、体の向きを変える。
「やっぱり、せめてグレミオさん達が戻ってくるまで・・・。」
旅の仲間であるグレミオは、病人であるティルの為に滋養のつく食材を買いに行っている。この宿に食堂はあるが、さすがに病人食はメニューにないからだ。一日目は医者を探しに街を探し回り、時間がなかったが、今日はそうはいかない。ティルのお付きであるグレミオとしては、言語道断なのである。自身で作ろう、と宿の者に許可をもらい、台所を貸してもらうことになっていた。最後にテッドであるが、彼は旅で消費した薬草などを買いに行っていた。いつ何が起こるかわからない為、常に用意しておくことに越したことはない。彼らが戻るまで、彼女は彼の傍にいるつもりらしい。しかし街道沿いにあるこの宿から街へは遠い。既に元々ない彼女の体力も、限界であるはずだった。
「。」
諌めるように彼女の名を呼ぶと、視線を落としながらは言う。
「だってあんなに苦しそうにして・・・」
「数時間前の話でしょ。もう落ち着いてる。」
医者にもう心配ないと言われたのだ。今では彼の様子も良い。しかしは眉を寄せたまま、頑なに頷かない。「でも、心配だから・・・。」
なぜ、そんなにあいつに拘るのだろう。
「いい加減にしなよ。」
思わず口調が荒くなってしまった。ラズリルはまた一つ息を吐くと言う。
「このままじゃ、が倒れる。」
「私は大丈夫だよ。それよりもティルが・・・。」
眉を寄せて言うの目に、嘘偽りはなかった。まっすぐに、一人だけを。今も、昔も。前を見続ける彼女は決して振り向くことはない。だからこそ、ラズリルは彼女が嫌いだった。散々、周りを、自分を振り回しておいて。その癖彼女は揺るぎもしないのだ。
あの時から、ラズリルは許せずにいる。
だからこそ。彼女の想いの方向を改めて見せるそれは静かに、彼の線を越えてしまった。ふつりと、溜まっていた澱みが溢れ出す。
「そんなにあいつが大事?」
淡々としていて、けれど僅かにいつもより低い声。
は驚いたようにラズリルを見た。ラズリルは普段は変わらぬその相貌に薄い笑みを浮かべていた。冷たい笑みだと、は思った。いつも見る柔らかなそれとは違う。そこでようやく、はラズリルの様子がおかしい事に気づいたのだった。ティルのことを気にかけていたこともあり、気づくのが遅れたのだ。
深い蒼の目がを射抜く。思わず息を飲んだ。彼はを見下ろしたまま目を細めた。
「自分を犠牲にするほど、大事なの?」
ラズリルが一歩近付くと、その分は思わず足を後退させた。蒼い目から目が逸らせず、何故か肌に緊張が走っていた。
「ラズ・・・?」
戸惑うの腕を、ラズリルは掴む。力の強さには顔を顰めたが、抗議の声を上げる間もなく腕を引かれる。ラズリルはそのままに割り当てられた部屋に入ると、すぐに彼女を部屋に置かれた寝具の上に突き飛ばした。
「い、いた・・・」
突き飛ばされたが眉を寄せる。さすがにここまで乱暴にされると、も不愉快になった。いくら寝かしつけようとしてでも、これはない。しかし文句を言おうと顔あげて、はぎょっとした。ラズリルの整った顔が間近にあったのだ。
「ちょ、ちょっと・・・・!!」
覆いかぶさるような体勢の彼に、は慌てて彼の肩に手を置き押し返そうとした。しかしその手は逆にラズリルに掴まれ、そのままシーツに縫いとめられる。
ラズリルはこれでもかと目を見開くの首筋に顔を埋めると、突然彼女の肌に唇を当て強く吸い上げた。
「あ。」
の喉が驚きからひくつく。そこに唇を落とせば、再び震えた。
「ラズ、どうしたの・・・!?」
突然のことに放心状態だったが、そこで我に返った。幾つもの所有印をつけていたラズリルも顔をあげる。搗ち合った蒼い目はどこまでも、深い。
「別に、どうもしないよ。」
そう言って、掴んでいたの両手首を頭の上で一つで纏める。空いた片方の手がの衣服に触れた。
「ラズ!!」
視界で捉えたが目を開き声を上げた。しかし彼女の非難も構わず上着のボタンを外し前を肌蹴させると、ラズリルは再び顔を沈める。
「ちょっと、ラズ・・・・!!!」
刺激は徐々に下がっていく。まだ衣服を着ていようとも、危機感を覚えられずにはいられない。しかし手足をばたつかせても、片手だけだというのに掴まれた手はびくともせず、足などはばたつかせても組み敷かれている状態では意味がない。の心中にじわり、と恐怖が広がり比例するようにの声も大きくなる。
「ラズ!やめて!!!」
だがの叫び声を聞きとめる者はいなかった。丁度部屋の前を通った忙しく働く宿の者も、別室であろうと物音に敏感なはずのティルも、今は薬の効果から目を覚まさない。ラズリルも構いやしない。皮膚の弱いところに唇を当てては吸い上げ、何度 が声を上げても止めることをしなかった。
やがて空いている手で体を愛撫し始めれば、が息を呑む回数も増えていく。
溢れ出る澱んだ感情が止まることはない。愛しいのに、愛しく思う程、その分それが心を抉り、ラズリルはどうにかなってしまいそうだった。彼女の気持ちは他の男に向いて、まっすぐと向かうその想いが、痛い。
確かに彼女の幸せを願うのは変わらない。それでも、譲れないものもあった。
白い肌に幾つもの赤黒い跡が残る。拘束している手首にも、跡が残ってしまうだろう。けれどそれだけでは足りない。抑え込んでいた黒く澱んだ感情は、確かに本心だった。訴える、強い想い。
彼女の目も心も体も、奪ってしまえばいい。誰かに奪われてしまうなら奪えばいいのだ。そうして彼女が自分のものになるなら、
たとえ彼女の想いを捻じ曲げてでも、欲しかった。誰にも奪わせたくなかった。
やがては、拘束を解こうと暴れなくなった。幾らが暴れようとも片手ひとつで拘束していたラズリルは、なくなった抵抗に顔をあげる事はしなかった。しかしふと視界に入ったそれに、動きを止める。
が泣いていた。涙は頬を伝い、シーツに染みを作る。
「やめて・・・!」
ぼろぼろと涙を零しながら、は言った。涙を流す彼女に、動きを止めたラズリルはそっと彼女の頬に手を添えた。親指で目尻に溜まる涙を拭ってやる。それでも涙は次から次へと溢れ出す。
泣いて叫ばれても、止めるつもりはなかった。しかし彼女の涙を見た途端、あれほど荒れ狂っていた感情は静まり、ラズリルはただ彼女の涙を止める方法を探していた。眉を寄せて涙を拭う。無意識の内に口を開いていた。
「ごめん。」
の涙は止まらない。肩を震わせ泣き続ける。
それでもやはり、ラズリルは止めるつもりはない。けれど彼女の涙も止めたいと思う。眉尻を下げて、傍若無人な彼には珍しく、ラズリルは途方に暮れていた。
やがてに変化が現れる。
「・・・?」
突然、彼女の力が抜けたのだ。力を抜かして目を閉じる彼女は、確かに気を失っている。しかし上下する肩は変わらない。嗚咽の為に上下しているかと思えた肩は、荒い息の為だったのだ。気のせいでなければ触れる彼女の体も熱い。ラズリルは咄嗟にの前髪を分け額に手を宛ててみる。触れた額の熱さに息を呑んだ。
そしてラズリルが勢いよく身体を起こしたのと、ドアがノックされたのは同時だった。
「、いる、」
ノックと共に、蜂蜜色の髪をした青年がドアから顔を出す。しかし言葉は半ばで途切れ、ドアを開け横を通ろうとしたラズリルの腕を青年、テッドは掴んでいた。
「ちょっと待った。お前、に何をしようとした?」
テッドの声は低く、硬い。足元にはそれまで彼が持っていた紙袋が落ちていた。
不必要な程乱れたシーツと衣服を乱してベットに横たわる少女。
目の前の光景にテッドは、心のどこかでやはり、と無意識に納得している部分があった。少し考えれば、予想が出来ていたはずだったのだ。それが出来なかったのは、ティルのことにグレミオと同様、少なからず自身も動揺していたからだ。
彼のことに失念していた。普段穏やかで静かな海は時として容赦ない荒波に変わる。感情の激流の先にいるのは、今も昔も彼女だ。
よく見れば、露わになった彼女の肌には赤い印が幾つも浮かんでいる。痕に気がついたテッドはラズリルの腕を掴む力を知らず強くした。
「おい!!」
答えないラズリルを、テッドは鋭い眼光で睨んだ。いつも陽気で明るい彼からは想像出来ない剣呑さだった。しかしその変貌に驚くことなく、腕の痛みに顔を顰めることもせず、ただ静かにラズリルは目を細めてテッドを見返す。
「離せ。」
しかしその内に籠もるものは、静かとは言えない。苛立ちと殺意、そして、
思わずテッドは掴んでいた手を放していた。
掴まれていた腕を放されると、ラズリルは振り返ることなく宿の階段を降りて行った。残されたテッドは険しく眉を寄せてラズリルの背を見ていたが、すぐに見えなくなると頭に手を置き、唸り声をあげる。それでも行き場のない怒りと不可解さは残った。
彼は動揺していた。誰が見てもわかる程明らかで、普段感情を表に出すことをしない彼にとって、可笑しな程だ。
原因を考えたとして、それはのことでしかない。開け放たれたドアを閉め部屋に入ると、テッドはの傍に寄った。赤い跡が目につく度に沸くそれはなんとか抑え、彼女の様子を見る。そうしてすぐに額に手を置くと、不可解さも解した。
ティルと症状が同じである。恐らく移ったのだろう。そこで先程の彼の目が思い浮かび、テッドは僅かに彼に呆れた。
風邪であの慌て様。はっきり言って、ばかにも程がある。そこまで慌てる必要もないというのに。―――自分も人のことを言えたものではないが。
テッドはそんなことを考えながら、人が来た時を考えの乱れた衣服を急いで正す。あの様子では、あのまま医者を呼びに行っていても可笑しくない。衣服を正すことに、何で俺が。といった思いが大いにあるが。正し終えると、毛布を掛けてやる。あとは、と考えテッドはタオルと氷、そして水を取りにその部屋を後にした。部屋を出た後に、共に帰ったグレミオにも伝えようと思いつく。無意識に繰り出す足は駆け足になっていた。
***
押し倒されたとき、は確かに恐怖を感じていた。抵抗しても抑え込まれ、声をあげようとも彼は止まらない。あの時、は彼が怖かった。
恐怖と共に、怒りも感じていた。もう二度と口を利かないと思っていた。しかし目を開けて、視界の端に移った彼の表情を見るとは思わず微笑んでいた。
「なんて顔してるの。」
普段なら、決して見ることのない表情だった。眉尻は下がり、常ならば揺らぐことのない蒼い目は頼りなく揺れている。
そんなラズリルを見れば、怒りは苦笑に変わっていた。まるで捨てられた子犬のような必至さで見てくるのである。いい歳の男が、情けない。
そう思いながら上半身を起き上がらせれば、横へと体を引っ張られ、何かに包まれる。
「・・・!」
顔だけでなく、声もまた必死さを帯びていた。これでどうして、苦笑以外浮かべられようか。
この時ばかりはも抱きしめられる事に抵抗することはなかった。
を抱きしめながら、ラズリルはそっと瞼を閉じた。訪れるのは暗闇だ。その暗闇の中、先程まであれだけ冷えていた心を、腕の中の温もりが安堵へと導いていく。
彼女はいつもそうだった。どんな時でも自身を導く。例え必要としていなくても、勝手に。あまりにも強引で、勝手で、迷惑な存在。
無くなることのない、要らない感情を芽生えさせる温かい存在。
「私はラズと今みたいにこうしてるのは好きだよ。ドワーフの村で悪い夢を見たときも、こうしてくれて、安心したもの。」
今もまた。彼女にとっては何気ない言葉で、心の内が暖かくなる。
どんな怒りや悲しみも溶かしてしまう。
ああ、彼女の傍はなんて―――
「だけど」
「うん。」
そこで続けるの言葉を、唐突にラズリルは遮った。体を離してを見る。そして見た彼の表情に、は思わず目を見張った。
見慣れてはいる。しかし、彼が浮べた笑みは、酷く柔らかかった。
「僕はの傍にいたい。」
彼が異常なほど整っていることもあり、見惚れてしまいそうになるその表情に、は慌てて我に返る。この時、数秒見惚れてしまったという事実は眼を瞑って頂きたい。
「ごめん、私はティルが―――」
けれどそうして言った言葉を、再びラズリルが首を振り遮る。「誰が好きだとか、それ位で諦めがつくものじゃない。」と。
「は、」
思わず呆けた声を出してしまった。しかし呆然とするに構わずラズリルは身を乗り出し、気がつけばどこかで見たことのあるような体勢、そうが意識を失う前と同じ体勢になっていた。
は思わず頬を引きつらせる。
「あの、私風邪を・・・」
引いていなくともお断りだが。しかしこちらは弱っているというのに一体どういう了見だ。そもそも彼の先ほどの言葉が理解できない。理解したくない。
そんなに、ラズリルは先程とは違う、無駄に爽やかな笑顔で言った。
「汗をかいたら治るよ。」
「テッド助けて・・・!」
その時丁度部屋に入ってきた人物に、が縋りつくように声を上げたのは当然だった。
今も昔も、求めるものは変わらない。
たった一つの場所
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