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DreamMaker2 Sample 結われた黒髪は肩に流れ、無防備な寝顔を晒している。相当深い眠りについているのか、窓から差し込む心地よい日差しに誘われたまま、彼女は起きる気配もない。無音の室内では女の健やかな寝息だけが微かにしていた。
傑は徐に携帯を取り出すと、アイコンをタップする。
パシャリ
二人しかいない室内にシャッターを切る音が落ちる。
音は思いの外響き、これはさすがに起こしてしまったかな、と傑は女を見た。
女は変わらず、すやすやと寝息を立てて身動ぎすらしていない。それはそれで傑は不安になった。こんな調子では、親友が過保護になってしまっても仕方がないのかもしれない。


全てにおいて常軌を脱した、人の枠を超えたような存在である親友が人の子らしく驚く程柔らかな瞳で見つめ、深く想っている女性。
 
身元もない彼女は今高専に保護されている。といっても、それは五条家の力でゴリ押ししたようなもので、彼の根回しによるのは明白であった。
知らぬは呪術と関わりない一般人の生活をしていたらしい彼女ばかりで、彼女が僅かでも害されれば、確実に五条悟の逆鱗に触れるだろう。同時に五条悟の心臓となり得る存在は、あまりに非力で今更呪術と関わりのない一般社会には戻せない。
生まれた時から懸賞金のかけられている彼は、年々力を増し今や国一つ二つ買ってもあまりある程の莫大な賞金をかけられている。
呪術師一級程度であれば、戦車以上の力。この年、特級呪術師となった五条と夏油はそれよりも更に上の、核爆弾と相当の力を持っていると認められたが、親友である彼は最早それ以上のレベルに達しているのだろう。
同じ特級呪術師であり親友の目線から見ても、五条悟には底の見えない能力がある。 逆に何を持ち得ていないのかと疑問に思えてしまうほど五条悟は別格であった。 彼ならば国は愚か世界をも承服出来かねない。だからこそ、必然として彼の唯一の弱点たる非力な一般人の彼女が狙われないはずがなかった。
彼女の身に何かがあれば、誰が見ても明らかに彼女を溺愛する五条悟が、どうなるかは予想できない。少なくても良い影響は与えなく、一番良い想定であれば、五条悟の存在に怯え動きを抑えていた呪霊達が一斉に動き出す程度だろう。良くてそれであるのだから、呪術界どころか世界にとって回避せねばならない事態である事は明白であった。
五条悟は、僅かでも彼女が離れることを望まない。呪術界にとっても、五条悟の弱点は是が非でも保護せねばならない。
今は天内理子により無理やり身元を用意された彼女だが、彼女には身元がもともと存在しない。上層部が調べればすぐにわかる事実に、あっけらかんと「あ、彼女違う次元の人だから。後はシクヨロ☆」と高専に連れてきた初日に告げるというよりは笑顔で明らかに殺気を纏って脅してきた最強に、頭が真っ白になった後なにやってんじゃこのクソガキが頭を抱えたが、救いは女が常識を持ち得ていたことだ。
星漿体を辞退した天内理子と護衛である黒木はしばらく匿われる形となり、非呪術師であり守る術を持たない彼女は雇い主である天内から離れざるを得なかった。正直、天内達と共にいられるよう手配しようと思えば出来たが。彼はそれを望まない。
身元は存在しないが、成人している身としては一人で働きたい。
当初は高専のもと、すなわち五条悟のもとで保護される予定であったが、彼女からの申し出に、結果大手を振って高専の非呪術師の事務員として雇われることになったのである。

の言葉に、不馴れな上に呪術師という化け物じみた人間ばかりいる、と最もらしい事を言って難色を示した彼も、彼女の意思には逆らえれないようだった。不承不承頷き、今では事務員として同じ学舎いる彼女に頻繁に会いに行っている。初めは授業や任務すら放っぽりだしていたのだが、彼の担任である夜蛾がぶちギレた。五条悟が抜け出す度、逐一女に報告するようになる。女に嗜められ、授業や任務から抜け出すことはなくなったが。それでも、季節が一巡りした今も空いた時間があればすぐさま彼女のもとへ飛んでいく。
そんな彼が、長期の海外の任務に繰り出されてしまえば。
特級となり海外への任務の増えた夏油は、この日は珍しく高専にいた。その授業中の事だ。忍ばせた携帯へのメールは山のようであった。

に会いたい
ムリ
死ぬ
が不足してる
話したい
抱きたい

などなどと、五条のいる向こうは深夜であろうにメールは止むことない。最後は明らかに脱字ではない親友の願望だろうが、それにしたって私に言われても困る。そもそも未だそういった関係にすらなれていないだろうと多いに飽きれた傑だったが、そんな正論で諭されても五条悟が大人しくなるはずもなく。
基本、真面目な彼女は仕事中に携帯をいじる事はないのだろう。それ故に電話もメールも反応もないと嘆く親友は散々傑へと駄々を捏ね、最後は付き合いきれないと無視を決め込んだ傑も、あまりにも煩い携帯のバイブレーションと電源を落としたとしても起動した後の送受信数にうんざりしそうだったので仕方なく親友の要望を飲むことにした。
最強の彼の要望はただ一つ。即ち、彼女の写真を撮って送って、との事だった。


任務を達成し、携帯をポケットにしまっても女は起きる気配はない。
この学校の者であれば折ろうと思えば片手で折れる華奢な首の頂を晒して眠る彼女は、人の気配にも気付かず、呑気に眠り続けている。不用心すぎないか、そう思いつつも中学まで普通校に通っていた傑は彼女の様子も致し方ないと思えた。

非呪術師はおおよそ、生死が絡む環境にいない。見えない彼等は、その出入り口にすら立てないのだ。
見える呪術師が対処する。それが力あるものの責務だ。
傑の両親は見えない、普通の両親であった。けれど周りに見えないものを見える傑を拒絶せず、どこまでも理解を示そうとしてくれていた。高専への入学も、両親は反対することなく。善良で何処までも一般的な、勤勉な両親。そんな両親に育てられた傑は、思春期である高校生になっても今どき珍しい好青年で―――だからこそ、呪術師の世界へと足を踏み入れた青年を悩ませた。
呪霊という化け物と相対する、非現実な日々。
非日常の現実では死の境界線は曖昧だ。呪霊相手では重症を負うこともざらで、気を抜けば容易く命をも落とす。どれだけ呪術師が命をかけて守っても、守ったはずの非呪術師はこちらを理解することはない。―――それは、皮肉なことに両親でさえも。
見えない彼等にとって当然の事なのだろう。理解してくれと、駄々をこねる気持ちは幼い頃に捨て去っている。到底、無理なのだ。口には出さずとも、暗黙の了解で理解している。非呪術師と呪術師は理解し得ない。それでも大事なものをとりこばさないように呪術師は戦っている。
けれど傷つく仲間は数えきれない。呪霊が想定より強ければ、階級が下の呪術師は容易く死ぬ。
夏の始まりに、数少ない後輩は想定された二級の呪霊ではなく、一級の呪霊と相対した。運よく彼らが生き残れたのは、千切れて落としたの守り石という名の、五条悟が長い間かけて作成した呪具を、後輩が持っていたからだ。
もし、親友が彼女が他の人間、特に男を寄せつけるのを良しとせず常に妨害しようとしていなければ。
もし、彼が運良く彼女と会う機会があれば、出会い頭に渡せるよう常にポケットに忍ばせていなかったら。
もし、五条悟が彼女に会っていなければ。
きっと、後輩のどちらかは助からなかった。
冷酷な答えは、間違いなく。呪霊と戦いの経験から簡単に導き出された。


呪霊を相手にする呪術師は最も死に近しい。
夏油傑の今は、呪術師のいる高専で世界を作られている。―――呪術師がどれだけ死んでも、守られる非呪術師は、そんなに大切なものだろうか?
去年の夏、女子中学生である天内理子を殺そうとしたのは非呪術師だった。
任務先や善意をもって祓った所で、見えない非呪術師は、当然として得体の知れない呪術師を罵倒する。
仕方ない、
仕方ない、
彼らは見えないのだから、
温和な笑顔を浮かべて、怒る事もせずそういうものだと受け止めて。
けれど呑み込んだはずの仄暗い思いは、泥のように胸の内に沈殿していく。
今はそれが重くて仕方がなく、傑はここのところ眠りも浅いままだ。

きっと彼女は思いもしないのだろう。いくら高専が安全だといっても、だ。呪術界で別格の力を持った上で唯我独尊たる五条悟を妬み、疎ましく思う者達は数えきれない。
上層部なんて、その最もだ。表立たないのは、親友が全て力でねじ伏せているからである。
親友が大事に囲わなくても、守られるべきの非呪術師。

そっと手を伸ばす。
傍らに立っても、肩を上下させる女は起きない。女の無防備な寝顔を後に、傑は開いたままの窓の扉を静かに締めた。


***


「おはようございます 」
昼休憩中、うたた寝から目を覚ましたはぐっと背伸びをした。直後振ってきた言葉に驚いて前を見る。事務机を挟んだ向こう側で、パイプ椅子に腰かけた青年が片手に持っていた本からへと視線を向けていた。
「び、びっくりした・・・。いたなら起こしてよ、傑くん」
「よく寝ていらしたんで悪いかなと・・・」
黒髪を後頭部でまとめた、三白眼の青年は本を閉じると、目を細めて苦笑を浮かべる。
夏油傑。夢の中で会っていた五条悟の親友である。彼は悟と違って、随分と真面目なようだった。昔馴染みという事もあり随分と気にかけてくれている悟だったが、任務だと回収にくるのは専ら親友である彼である。結果的には彼とよく顔を合わせることになった。
悟くんは確か海外に任務でここにはいないけど、どうしたんだろう?は目の前に居座っている彼に内心首を傾げながら、席を立つ。
寝ぼけ眼で電子ポットで湯を沸かす彼女を横目に、傑はどう切り出したものか、と考えた。傑は真面目さ故に、写真の許可を貰おうと彼女が起きるまで待っていたのだ。しかし、なんて言えばいい?悟が写真を欲しがっているから送っていいですか?それだと許可なく寝顔を撮ったのがバレるな。どうするか。が起きてようやく考え始めた傑だったが、すぐ眼前にマグカップを差し出されて目を瞬かせる。
「はい、どうぞ」
自分のものを注いだついでに、傑の分も入れてくれたのだろう。湯気の立ち込めるマグカップからは微かに甘い香りがした。差し出された好意を無下にする訳にもいかず、傑はそれを受け取る。
「有り難うこざいます」
咥内に甘さが広がる。ホットココアだ。よく事務室に入り浸る甘党の悟に合わせて常備したココアは、甘くて上品な味わいでのお気に入りでもある。少し強張った表情を浮かべていた傑も口をつけて、肩の力が抜けたようだ。 その様子をちらりと見てから、は尋ねる。
「・・・傑くん、何かあった??」
の問いは思ってもみなかったのか傑は目を瞬かせている。ホットココアを啜りながら見る傑の目の下には、隠し切れない隈が浮かんでいた。
傑とは、それほど親しい間柄でもない。ですら気付けるほど傑は憔悴しているようだった。思わず声をかけてしまうのは、彼の様子を見れば仕方ないだろう。
「悟くんも家入さんも。夜蛾先生に傑くんのご両親でも、勿論私でよければ。なんでも聞くよ。」
「いえ、特には・・・」
傑はすぐに否定する。
けれど落ちた沈黙に、は何も言わない。促さずに傑が言いたいならば、と彼の意思を尊重して待ち続ける。
傑はに何も言うつもりはなかった。
懸想する親友とは違い、対して親交もない相手だ。親友にも話していないのに、胸の内を吐露しようとは思わない。そう考えていたはずである。
催促する訳でもない。こちらを気遣い、伺いすぎている訳でもない。ただそこにいて、彼女は待っている。
思っていたより自身が参っていたのかもしれない。
間に横たわる沈黙は思いのほか心地よい。ココアの甘い香りが胃の中へと落ちて沈殿していた仄暗さを僅かに軽くさせた。傑は気付けば、ポツリと話しだしていた。
「最近助けたはずの人間が、わからなくて・・・」
非呪術師である彼女をも否定したようなものだ。けれど非呪術師であるは、傑の言葉を否定しなかった。それどころか、頷いて見せる。
「あー嫌な奴って本当に何処にでもいるよね」
思いもしなかったの反応に、傑は伏せがちだった顔をあげる。はマグカップの縁を指先でなぞりながら続けた。
「悟君は上層部の腐ったみかん?が大嫌いだし、私も元の世界のクソ上司嫌い。
うん。傑君がムカつくくらなんだから、殴っちゃえ」
「え」
話しているうちに良い事を閃いた、と顔を上げてなんてことのないように言い出した彼女に、傑が唖然とした。しかし目を瞬かせる青年に、はいい笑顔で親指を立てる。
「命を助けたんだから、殺しさえしなければタコ殴りぐらい大丈夫!問題なし!
そのときは私が夜蛾先生に怒られてあげるから、おもいっきり、やっちゃいなさい」
いい笑顔でサムズアップをして、いい年をした大人が言うような事ではない。夏油傑はボンタンズボンこそ履いて若干反抗期に入っているものの、根は真面目な好青年である。呆然とする傑を尻目に、は続ける。
「ほら、悟くん嫌なことがあるとすぐ耳塞いで知らんぷりしちゃうじゃない?あーあー聞こえないーって。
正論つくと昔からそうなんだけど、今はどうなのかな?」
「・・・今でもそうですよ」
「あはは、本当変わらないな〜」
幼いころから変わってない、はそう言って笑う。
「でもさ、ずっとはりつめちゃってると疲れちゃうよね。それぐらい、いい加減でいいんだよ」
我慢する必要はどこにもない。大人になれば嫌が応にも我慢せざるを得なくなってしまう。労働はクソだが生活のために背に腹はかえられない。だからこそ、せめて若いうちは自由に過ごしてほしい。
再会した悟を見て、多少やり過ぎかな?と思うことがないわけではないが。基本真面目な傑ならば、いくらでも気を抜いた方が良いだろう。
少しは肩の力が抜けたかな?はちらりとマグカップの中身から傑の顔色を伺う。

目を瞬かせた傑はややあって苦笑を浮かべる。
「・・・なんですか、それ。
さん、まともそうなのに意外とダメな大人ですね」
温和な口調の割に、意外と辛辣な指摘である。 けれど表情が少し和らいでいて、ふとは微かな違和感に気づく。
初めて傑がの名前を呼んでくれたのだ。今までは名字を呼んでいた彼が、ようやく気を許してくれたような心地がしての表情も緩んでいく。「まともだからです〜」緩んだまま軽口を溢すと、傑もまた小さく笑った。

他愛のない話は昼休みを終える鐘がなるまで続いた。ここしばらく食欲が失せていた傑だったが、気がつけばマグカップの中身は空になっていた。
夕方まで任務はない。次の授業に出ようと彼女に別れを告げて事務室を出た所ではたと気付く。
写真を悟に送っていいか、聞くのを忘れた。今更になって、ポケットの中に入っている携帯のことを思い出したのだ。
だが戻ってわざわざ今更聞く気にもなれなかった。真面目な彼女は仕事に戻っているだろう。結局、傑は写真を悟に送ることはなかった。


***


校庭の近接戦訓練で、彼は一年生の相手をしていた。一年生は三人。少数派である呪術界では平均的な人数である。
釘崎野薔薇
伏黒恵
虎杖悠仁
三人ともまだ若く、まだまだ伸び代がある。訳あって面倒を見ている双子の彼女等も随分と大きくなり、今やこの高専の三年生だ。
若いっていいなぁ、と全力で突っ込んでくる彼等を軽くいなし、時には足払いや千切っては投げ。 汗だくで地面に伏してる虎杖悠仁を楽しげに見て、汗ひとつかかず涼しい顔の彼だったが、生徒から投げ掛けられた言葉は、思いの外彼を動揺させた。
「夏油せんせーってさんのこと好きなの?」
接近戦が不得意である釘崎と伏黒は早々に音を上げて、水を飲みに行っている。そもそも、既に近接戦訓練の時間は終了しているのだ。それでも授業を終えて三十分たった今もこうしているのは、体力馬鹿ともいえる虎杖が粘りに粘り、諦めなかったからだ。
いくら全力で突っ込もうとしても避けられ、拳すらも悠々と受け流す彼は、常に楽しげに笑みを浮かべて余裕のようだった。さすが特級というべきか。虎杖は愚か、一年全員でかかっても手も足も出なかった。
その常に余裕を崩さず、薄ら笑いを浮かべていた教師の笑みが消え、虎杖は焦る。
「あ、えっと、いや、その、
先生、凄く優しい目をしてたから・・・」
「・・・驚いた。虎杖君は鋭いんだね」
他人に対しては随分と冷静に見れているらしい。未だ焦っている生徒に、傑は笑みを溢すと口元に人差し指を立てる。
「悟にはナイショだよ?あいつ、さんに対してとんでもなく狭量だし、私もまだ死にたくはないからねぇ」
「・・・でも、先生はそれでいいんっスか?」
虎杖は今時の学生とは思えないほど、真っ直ぐな心根を持った青年であった。彼は純粋に、眉を潜め気遣わしげこちらを見る。
傑は笑う。
「私は悟とさんが一緒にいる姿も、好きなんだ。
自他ともに認める呪術界の最強が、お嫁さんの前じゃ形無しって見ていて面白いだろ?
―――彼女が幸せなら、それで良いさ」
口を引き結んだ虎杖は、微笑む傑を伺うようにちらりと見る。伺う様子の生徒を視野に、まだ、彼には分からないかな。と傑は苦笑した。
確かに傑とて彼女の隣に立ちたいと、笑顔を独占したいと思った事はある。
――けれど彼女を蕩けるような優しげな眼差しで見つめる親友と、彼の傍では誰よりも安心したように微笑む彼女の姿を見てしまえば――崩したいとは思えなくなってしまう。
凪いだ湖のように、彼女達を見つめる傑の心は穏やかだった。

あの頃から10年。
学生であった傑は今や高専の教卓に立つ教師となっていた。未来とはわからないもので、まさか傑も教師になるとは思っても見なかったが。
呪術師の世界は常に残酷で、若く情緒の安定しない年頃の生徒は、容易く折れてしまう。
とのやり取りから1ヶ月後。
夏の日に訪れた片田舎の村で、傑は非呪術師の醜悪さを目の当たりにする。
呪霊の仕業を見える幼い双子のせいだと決めつけ監禁、当然だと虐待を続けていた村人は全員グルだった。あまりにも、屑で――ぷつん、と頭の片隅ではりつめていたモノが切れた音がした。
同時に、脳裏に親指を立てた彼女の姿が浮かんだ。
――言われた通り、傑は村人全員をタコ殴りにした。
簀巻きにして使役する呪霊に一時的に喰わせ、双子を抱えて高専まで連れていき、高専の校庭で村人達を吐き出させたところでこれは怒られるなぁと今更ながら彼は思ったのだが、慌てる教師達に紛れて、事態に気付いたもやってきた。
彼女は傑を見るなり目を見開いて――彼女も非呪術師である村人達と同じ反応をするのだろうか、一瞬でも過った不安はすぐに消し飛ぶ。
ボコボコにされて校庭に転がされた村人達よりも、返り血に濡れた彼と怪我の跡が残る双子を、は真っ先に心配した。怪我はないか、痛いところはないかと自分より非力で、確かに長身ではあるが、肩にも届かない小さな体であたふた心配する彼女に、胸の奥がじわりと暖かくなる。あれだけ胸の内に沈んでいた、泥濘が消えていく。
傑が無事だと分かると、は村人について自分の責任だと頭を下げようとしたので、傑はそれを遮り、すぐに事態の説明をした。
暴力は許されることはない。ましては傑は特級である。いくら反転術式で怪我が治るといっても村人達の中には全身骨折しているものもいた。 それでも、村人達の行いはあまりにも非道で、情状酌量の余地があると傑は1ヶ月の謹慎を申し付けられるだけだった。当初は三ヶ月の予定であったが、特級である彼の任務を減らすことで、呪霊の被害が増えることを鑑みて期間は大いに縮小されたのである。

あの頃、壊れかけた心をそっと支えてくれた彼女に、憧れ始めたのはいつだっただろうか。
守るべき平穏。
得難い平和。
訪れる度に彼女から差し出されるホットココアは今も彼の癒しだ。

周りに頼ることを教えてくれた彼女の言葉通り、改めて見てみる。担任の夜蛾に、後輩の灰原と七海。先輩の冥冥に歌姫。
同級生である硝子、
親友の悟。
そして分からないながらも、歩みよろうとしてくれる両親。
非呪術師の、
学生である傑の世界は狭い。
けれど、どれも大切だと彼は思ったのだ。
呪術師の世界は変わることなく過酷で、当然のように死は真横に転がっている。それでも守るべきものがわかってしまえば、あとはどんな現状すらも堪えられた。

難しい表情を浮かべる青少年を尻目にもう接近戦訓練の頭ではないだろう。傑はポケットに手を突っ込むと、身を翻し校庭を後にして指先に固いものが当たった。 今日はもう、後に続く授業はない。バイブ設定を戻さなきゃな。傑は携帯に触れた瞬間そう思い立った。


あれから10年。当然、何度も携帯の機種を変えた。
けれど悟に送らずにいた彼女の写真は、消せずにフォルダの中に残ったままだ。





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