秋雨



壁のような矢鱈と固い感触が、米神に触れる。いや、岩かもしれない。退かそうと掌を伸ばせば、ごつごつしているのに表面の肌触りは良く、質の良い布に覆われているようでほんのりと温かい。けれどどうにも固く、寝づらい。は眉を潜め、寝返りを打とうとする。
すると掌の先で、温かい岩が動いた。
「おはよう」
頭上から降ってきた、聞き知った低音。微睡んでいたの意識は一瞬で浮上して、ぱちりと目を開いた。
視界に広がる黒い布。次いで顔を上げれば、すぐ近くで端正な顔立ちがを見下ろしていた。 寝起きには心臓に悪い、完璧なまでの美貌である。キメ細やかな白い肌に、筋の通った鼻筋。薄く弧を描く唇は艶やかで、黒い目隠しで目を覆っているものの、男の視線はこちらを向いている。が岩だと思った正体は、五条だった。
驚いて体を後ろへと引いたの腕を、五条が掴む。
「おっと、僕から離れない方がいいよ。
濡れるからね」
濡れる? 五条の言葉に怪訝に思い、問いかける前に、は現状が視野に入る。

確か、高専内の境内に設置されたベンチに座り、一息ついていたはずだ。途中から意識が途切れているから、途中で居眠りしてしまったのだろう。夏の残暑は過ぎ去り、秋の空はからりとしていて、過ごしやすかった。
五条は今日、任務で都心まで出かけていたはずだ。が居眠りしている間に、戻ってきたのだろう。が起きている間に五条はいなかったから、何時から彼が肩を貸してくれていたのかは分からない。

秋晴れの空には、何時の間にか厚い雲が広がり、頭上からは細やかな雨が降っていた。外にいる達は例外なく濡れ鼠になるはずだが、しかし衣服は濡れた様子もなく、乾いている。五条の無下限術式のお陰だ。五条自身だけでなく、触れているものも対象にできる無下限術式で、は雨に濡れずに済んだのである。
体の周りで透明な膜が覆ったように、小雨を弾いている。
秋真っ盛りの境内には、イチョウや紅葉で色鮮やかだ。枯れ葉が雨に弾かれて、さざめく。枯れ葉が揺れる音は、静かな川のせせらぎにも似た音で、雨に降られて、彩った紅葉が次々に落ちていく。色鮮やかに散っていく景色を前に、思わずはぽつりと呟く。
「……不思議な景色ですね」
傘を頭上に広げていては視界が遮られてしまい、こうも広い視野で見る事は出来ないだろう。そもそも、雨の中で悠遊と過ごそうと思うこと自体が稀だ。
秋雨。掴んでいたの腕から移動させて、手を重ねた五条が、長い足を投げ出してのんびりと言う。
「秋の季節は変わりやすいからね」
そこで五条の首がぐるりとに振り向く。
「僕の帰りを待っててくれたの?」
どこかワクワクした口調の五条に、は首を真横に振る。
「いえ、住職さんが困られていたので、境内の掃除を。一息ついたんで、ちょっと座って休んでいたんですけど。うっかりうたた寝しちゃったみたいです」
秋真っ盛りの東京呪術高等専門学校。高専内に隣接された、寺の境内の紅葉は、例年見事なものだった。その代償ともいえるが、枯れ葉の掃除も大変である。
は現在、高専の事務員として働く傍ら、時々1年生に交じり呪術を教わっている。五条のゴリ押しによりお世話になったといっても過言はないが、呪霊に対して術の持たないを、快く受け入れてくれた夜蛾学長を中心に、少しでも出来ることはしたい。
だが、五条はの返答が不満だったようだ。浮かれたような口調から、若干声のトーンを下げると、不貞腐れたように唇を尖らす。「まぁ、そんなことだろうとは思ったけど」
「別に、そんなことしなくてもいいのに」
「そうはいかないですよ。働き先を凱旋頂いただけでなく、呪術についてもお教えていただいているんですから」
とて疾うに成人した身だ。呪術について学ぶことを、事務員として働く福利厚生のようなもの、その分給与も差し引いている、と夜蛾は言っていたが、それでも破格の待遇だ。何しろ、自身が訳ありである。受け入れてくれた呪術高専には頭が上がらないと思うのも当然だろう。の思考は比較的、まともな意見であるはずだが、五条は、ふん、と高い鼻を鳴らす。
「普段から僕が身を粉にして貢献してるんだから、いいのいいの!」
「それは悟さんのものであって、私のものではありません」
毅然と答えたに、しかし五条は柳眉を潜める。
「君も五条さんでしょ」
「私は受け入れてません」
今度はが眉を潜める番だった。視線を逸らしたの横顔を眺めて、五条が深々と溜息を吐く。
「粘るねぇー……。いい加減、諦めなよ」
恨めしいような、じとっとした視線だ。不思議と目隠しをしていても感じる熱視線を横から浴びるが、こればかりはも譲るつもりはない。
しかし五条に手を握られている今、彼の追及から逃げられそうにもなかった。無駄な抵抗とは分かっていても、はしばらくは沈黙を押し通す。
二人の間に落ちる沈黙の中、さあさあと降る雨足が、僅かに勢いを落ち着かせ始めていた。けれど、五条の視線が弱まる気配は欠片もなく、周囲の空気ばかりが重くなっていく。やがて、は一つ息を吐いた。
「……悟さんは、私の事を守ろうとしますよね」
白旗を上げたのはだ。ようやく開いた、彼女の重い口から出た言葉に、当然とばかりに五条は頷いた。
「そりゃね。好きな人なんだから、当たり前でしょ」
五条の言葉は、本来ならば喜んでも可笑しくない言葉のはずだ。感情をどストレートに表す五条に対して、照れ屋な彼女の事だ。五条は彼女が可愛らしく頬を赤らめる可能性も入れていたのに、彼女の表情が晴れない事を、ようやく不思議に思う。
の表情は曇ったまま、雨と共に散る紅葉を目で追う。
「でも、違うと思うんです。夫婦って、持ちつ持たれつじゃないですか」
男が外で働いて、女が家庭を守るとか、生活の事ではない。家事も出来る五条は、残念ながらよりも料理が上手かったりして、は度々悔しい思いをするが、そうではないのだ。
「……もし、もしですよ。私が先に亡くなったら、悟さん、どうしますか?」
紅葉から視線を外して、伺うようなの視線を受けて、五条は目を瞬かせた。
僅かな思考を挟むことなく、綺麗な笑みを浮かべる。
「聞かない方が、いいと思うよ」
色鮮やかな紅葉が霞むほど、美しく微笑む顔。やはり、とは思わずにはいられなかった。正面切って投げかけた事はなくとも、否定されなかったことに、沈む気持ちを抑えられない。
五条悟は正常な感覚を持ち合わせていない。元からは鈍くもないので、五条の想いの強さも肌で感じ取っていた。
残念なことでも五条を想っているので、彼の想いを否定する事はないが、それでも、一般的にこれは『危うい』と呼ばれるものである。
だからこそ、は五条を受け入れる事は出来ない。
「……私が先に亡くなっても、逆に悟さんが私を残したとしても。どちらかが欠けたら駄目なんじゃなくて」
一人残した先で、こんな想いをするくらいなら、出会わなければ良かっただなんて、共に過ごした事を後悔するような想いを残したくはない。
下らない事でも、一緒に過ごした日々の思い出で、その人を幸せにしたい。それだけで、十分だったと思えるほどに。は続ける。
「心の片隅で、記憶でもいいから、想い合って支え合い続けるような関係が、私の理想なんです。
……だから、私は悟さんを幸せにできるまで、頷きません」
の返答に、五条は片手で顎を摩る。
「なるほど、ねぇ」
思い切って口にしたものの、結局のところ、とて五条のことを想っている。だからこそ、受け入れないといって、五条に愛想を尽かされてしまったらどうしよう。視線を落としたまま顔を上げられずにいるに、予想に反して、五条の言葉は穏やかなものだった。
「僕の最愛の人は、逞しいね」
どうしてだろうか。五条は不思議で堪らなかった。
肩を並べる強さもなく、後を連いて来る力もなく。視えるだけの呪術師、いや、呪術師とも呼べない、ほとんど一般人の彼女は、五条の勝手で此方の世界に引きずり込んだようなものだ。
誰よりも弱くて、本来ならば見向きもしない有象無象。童話の中の美女と野獣ではないけれど、理解して欲しい等と思いもしないはずなのに。
どうしてか彼女には何時だって、心を惹かれてやまない。避けられない因果律とは、こういうものを言うのかもしれない、なんて運命論すら疑うのだ、この己が。
こちらの想いだけでうっかり潰してしまう弱さで、なのに彼女は変なところで、踏まれても伸びるのだ、雑草のように。
そんなところが、とてつもなく。五条は鳴らしそうな喉を勤めて抑えて、感情が乗らないよう、軽い口調で口を開いた。
「僕の愛って、まぁまぁ重いからさ。
僕が居なくても、君の幸せを願ってる、なんてこと。残念なことに、嘘でも言えないんだよね」
彼女の隣に、己とは違う人間が立つなんて、想像しただけでうっかり呪ってしまいそうだ。
幼い頃から慣れ、息をするよりも自然に行っていた感情の制御が、想像だけで堰が外れてしまいそうになる。つくづく、彼女は自覚すべきだと五条は思う。
「あ、勿論だけど、僕は君の傍に居れて幸せだから。むしろ君がいないと幸せになれないから。そこんとこ、変な勘違いしないでね」
変な勘違いをしやすい彼女の事だ。念のため、と付け加えてから、五条は言う。
「価値観の違いかな。こればっかりは、諦めて」
両手を叩いて、はい終わりと言わんばかりの軽やかさだった。それを言ってしまえば、御終いである。が散々思い悩んだ思いを、あっさりと切って捨てた五条に、思わず唖然とした表情で振り向く。
「代わりに、これだけは約束するよ」
ところが、の予想に反して五条の表情はいい加減なものではなかった。
五条は目元を覆う黒の目隠しを片手で下げると、穏やかな青の瞳が此方を見つめていた。顔を片手で覆ってしまえるほどの大きな掌が、の頬を優しく触れる。
「僕は君と一緒のお墓に入るし、生まれ変わった先も、更にその先も。
君が涙で頬を濡らさないように、絶対に会いに行く。必ず」
柔らかな光を帯びた瞳が、至近距離でを見下ろす。相変わらず吸い込まれそうなほどの、美しい青の瞳だ。瞳だけでなく完璧なまでの造形で、けれどその神が完成させたような美貌が、幼い少年のようにくしゃりと歪んで破顔した。
「だから、待ってて」
嬉しいと思ってしまうは、もう取り返しがつかないのだろう。息を詰まらせたに気付いたのか、五条はの頭部を軽く綯交ぜる。
「もし、俺が約束を破ったら呪ってよ。大歓迎だから。
君限定で、いつでも無下限は解いてるしね」
少年のような表情で笑って、目尻に浮かぶ微かな皺。一つ一つそれを数えて、数えきれ無くなっても、はこの人の隣に居たいと思う。そう思ってしまった時点で、完敗だ。
は肩の力を抜いて、両手を上げてしまいたい心地だった。何時になく張り詰めていたからか、なんだか腹の底から、可笑しな気持ちが込み上げてくる。
「君はずっと、笑っててよ」
降りしきる色鮮やかな濡れた紅葉が、雲間から差し込んだ陽光に照らされ、微かに煌めく。
鈍色の空から、少しずつ青い空が覗いていた。


秋雨















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