流れ星を、握り締めて



波間で漂うよりも深く、深海の底で悠々と泳ぐ魚のように、思考が揺蕩んでいる。ふと、揺蕩んでいた意識が、ゆっくりと浮上していく。
寝起きにも拘わらず、両目は鮮明に周囲を映していた。そもそも目隠し越しであろうとも、見えすぎる男の両目は問題なく全てを映す。
職務室に入るまでは、声を落とさず歩いていたくせに、五条が身じろぎせず一人椅子に座っていると気付くなり、そろりそろりと足音を殺して近づいてくる生徒達。まったく、何をしようとしているのか。好奇心を宿した二人の表情から、どうせ禄でもない魂胆だ。
もっと彼等が近付くのを待ってから、逆に驚かせてもいいけど。生憎と、今日は用事があった。五条は微かに床板を軋ませて、近づいてくる生徒達に声を掛けた。
は?」
「げっ。起きてんの?」
途端、バツが悪そうに顔を歪める生徒達に、五条はぐ、と両腕を上げて背筋を伸ばした。「残念、今起きたよ」細かく言えば、二人が職員室の前の廊下の端を歩き初めた頃から目は覚めていたけれど。別にそこまで言う必要はないだろう。
ソファに腰かけたまま居眠りしていたからか、体の節々が固くなっている。筋を伸ばす五条に、生徒の一人が苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる。
「起きてるか起きてないか、目隠しの所為で分かりづらいのよ、アンタ」
眉を潜めるのは、五条の受け持つ高専一年の釘崎野薔薇だ。野薔薇と一緒に何かしら悪戯でもしようと思っていたのだろう。同じく一年の虎杖が、苦笑いを浮かべながら頬を掻く。
さんなら、帰ったよ」
「ええー!ひっどい!待ってたのに」
口を尖らす三十路前の担任教師に、虎杖は乾いた笑いを浮かべる。不貞腐れた表情を浮かべる五条に気にすることなく、野薔薇といえば五条の目元をじっと見つめていた。それ見えんの?と尋ねてくる野薔薇に、五条は己の目隠しを貸してやると、二人の興味は早速そちらへと移っていく。
午後は珍しく、五条の任務が入っていない。代わりに午前中一杯は任務で外に出ていたのだが、早々に終わらせて高専へと戻ってきたのだ。
この日、1年生と見学のは、任務のある五条の代わりに、引率の日下部共に課外実習に出ていた。
折角だから、と戻って来るのを待って一緒に帰宅しようと待っていれば、窓からの麗らかな陽光に誘われて、五条はうっかり居眠りしてしまっていた。先に一言、連絡でも入れておけばよかった。仲良く帰宅するプランが崩れて、肩を落としながら机の上をさっさと片づけると、五条は生徒達に振り返る。
目隠し一つにきゃいきゃいはしゃぐ彼等が移り、ふ、と口元が緩ぶ。「はいはい、返した返した」奪い返した目隠しを素早くつけて、五条は生徒達に片手を振るなり、帰路に着くのだった。




一人で生活していた頃は、一々帰宅するの億劫で高専で寝泊まりするのが主だったが、と暮らすようになり五条の拠点はマンションへと移行していた。帰宅して早々、三和土で靴を脱ぐと、廊下の先の扉から灯り零れて出て人が息づく気配がする。
「ただいま〜」
扉を開けて間延びた声をかければ、キッチンからひょっこりと愛しい人が顔を覗かせた。
「お帰りなさい」
いつもなら、例えが嫌がろうが問答無用でお帰りのちゅーをせがむ五条だが、この日は違った。華奢で小さな体を両腕で抱き込むと、ぐりぐりと頬を彼女の頭部に擦りつける。
ちゃん酷い。せーっかく、一緒に帰ろうと思ってたのに。
僕、待ってたんだよ?」
ごめんなさい、なんて軽く謝りながら、は動きを止めない。完全にひっつき虫と化した五条を軽く往なしている。のつれない様子に、五条の頬が幼げに膨らむ。
は慣れた様子で、小泣きじじい宜しくへばり付いている五条を無視ししたままリビングへと向かい、淡々と言う。
「今日、日下部先生と課外実習で外出してたでしょ?日下部先生って本当に物知りだね」
「はぁ?僕の方が断然知ってますけど!」
「……」
いや、張り合われても。一瞬、が何かもの言いたげな表情で五条を振り返ったが、彼に言っても暖簾に腕押しなので、すぐに止めた。
「……呪霊は普段姿を晦ませているから、見つけ出して祓うには、原因を調査する必要もあるじゃない?
で、そーいった因果関係をささーっと見抜いちゃって、後はすぐ。やっぱり一級呪術師は凄いねぇ」
「僕は特級呪術師ですけど!?」
だから、張り合われましても。もう一度、は五条を振り返った。そこにはブスッと膨れ面を浮かべる五条 悟(28歳)がいた。
駄目だ、この人。知ってはいたが大人げない五条に、出そうになる溜息をぐっと堪えて、はぽんぽん、とへばり付いたままの五条の固い肩を叩く。
「悟君も、凄い凄い」
だが、とて五条との生活も大分慣れてきていた。有体に言えば受け流してあしらうのが上手くなったのである。今日は一緒に帰宅できなかったからと、帰ってくるなり五条の様子は大分面倒、いや鬱陶、いやうざったい。どうやっても本音が零れ落ちてしまうが、はスルーすることを覚えた。ここで五条の機嫌を取ろうと言う事を聞いてやれば、翌日の己の体調が死ぬのが目に見えている。せめて弁明ぐらいさせて欲しい。は五条の様子を気にせず続けた。
「でね、祓った後に、呪霊の被害にあった、っていうご年配のご夫婦がいらっしゃったんだけど、これ、貰ったの」
「……笹?」
「今日は七夕だからって。折角だから、飾ろうと思ってね」
の手には、細く弛んだ堅い茎に、幾つもの葉を連ねている。今日は7月7日。七夕だ。動く度に手に持つ枝葉が、しゃらしゃらと涼しげな音を鳴らす。
「こういうの、何年振りかな。偶には大人になってからもいいですね。
はい、悟さんの分」
さすがにこれは予期していなかったのだろう。五条はきょとんとした表情を浮かべて、から渡された長方形の短冊と、ペンを握る。行事事が好きな彼の事だ。てっきり、すぐに乗って来るかと思いきや五条の反応は鈍い。思わずは首を傾げた。
「あれ、もしかして知らない?」
「いや?知ってるけど」
五条はようやく、へと凭れかかっていた体を離すと、片手でペン先を回して遊ばせて首を捻っている。そんな五条を他所に、は視線をベランダの外に広がる夜空へと向けた。
「晴れるかな?」
思いついた、とばかりに五条が顔を上げた。
「あ、雲吹き飛ばしてあげようか?」
「止めてくださいよ……」


***


夜の気配はあっという間にやってきて、達がベランダに出る頃には闇夜が広がっていた。
と五条の住まいは高層マンションの一室にある。ベランダから見下ろす眼下には、家屋の窓から幾つもの暮らしの明かりが漏れ出ていている。公園や道路脇の街灯、車のテールランプと、都心の明かりは夜も賑やかだ。緩やかな風は無風に近く、時折頬を心地よく撫でる。目を細めて夜空を見上げれば、空には運よく雲一つなかった。墨汁を垂らしたような、隙間一つないどっぷりとした暗闇に、星々が点々と煌めている。思わず、ほう、とは吐息を零した。
「スマホを見てから見上げる夜空って、なんでか、綺麗ですよね」
「そんなもん?」
の言葉に、五条は不可思議そうに首を傾げた。ベランダの支柱に出際よく麻紐で笹の枝を括りつけ終えると、五条はの隣に並んで、改めて星空を見上げた。
「都会の空は遠いけどさ、僕は目がいいからね」
目隠しをはずした五条の髪は、くたりと垂れて相変わらず癖ひとつない。時折吹く柔らかな夜風にふわりと靡く。五条の青の目が、闇夜の中でも淡く煌めいて見えた。いつ見ても女ですら羨むほどの、瞳を縁取る長い睫毛がゆっくりと瞬く。
夜空を見上げる五条の横顔は、相変わらずの白皙の美しさだった。
暗闇の中、肌も髪も白い五条は玉響にも似た、現とは思えない幻想的な美貌を浮かび上がらせている。加えて普段覆っている、不審者然の目隠しも今はなく、五条特有の青い目が覗く。世界に散らばる美しい蒼を集めたような、世界に一つとして存在しない青色。無数の星空よりも、息を呑んでしまいそうになる美しさだ。
「僕の目には今にも零れ落ちそうなほどの、満天の星が見えるよ」
晴れた空に星をちりばめた、出鱈目であべこべな虹彩。そんな神秘的な瞳を持つ五条に言われてしまえば、彼の言い分も本当かのように思えてくる。
都会では見えない、無数に煌めく天の川。五条の瞳にはそれが、視えているのだろうか?
「……本当?」
思わず鵜呑みにしかけたに、五条は掲げていた腕を降ろすと、にやりと口の端を上げる。
「うっそーん」
秀麗な顔で、悪戯が成功したとばかりに五条は笑う。ウィンク一つすら寄越してきそうな軽い調子だ。人々が見惚れる程の人形めいた外見も、多分、こういう下らない所で憎たらしく感じるのだろう。人外染みた美しさもあるから、裏切られた、と一層感じるのかもしれない。妖精すら躊躇う美しい容姿で、悪魔も呪霊も怖じける性格。
思わず、は小さく噴出する。
「言葉尻に『ん』は痛いですよ。アラサーなんだから」
「ひっどい!悟君はまだピッチピチですぅー!見てよ、この珠のような肌艶!!」
態々、上半身を屈ませて頬を指し示す五条に小さく笑いながら、は折角だから、とその頬に触れてみた。初めは恐る恐るといった様子で、五条の肌の手触りを楽しんでした。うむ、見た目に違わず乾燥知らずの赤ちゃん肌だ。可笑しいな、夜は勿論、朝も水で洗って無遠慮にタオルでごしごし拭くだけで済ましているはずなのに。今朝方の洗面所の様子を思い出しながら、は疑問ばかり抱く。日々年齢を気にする此方と違って、美容品なんて使った事はない癖にこれだ。ぷるぷる肌に、は思わず力を込もっていく。
「うん、相変わらずのピチピチのもちもちで、羨ましいです、本当に」
「……でえ、笑っでない?ぞれ絶対、笑っでない??」
無遠慮に五条の頬を押したり引いたり。歪みまくる己の頬に、半眼になった五条の批判が飛ぶ。
怨念を隠すことなく両方を挟んで、全力で潰した蛸顔は、イケメン片なしである。幾つか溜飲を下げて、は隠すことなく笑った。「あは、ばれました?」

幾分かすっきりとしたは、手すりに背中を預けると、改めて五条に尋ねた。
「悟さんは願い事、何を書いたんですか?」
笹を持ち出した時、予想と違って五条の反応は薄く、随分と渋っていたように見えた。もしかしたら、こういう事は口にしないタイプかもしれない。敢えて願い事を書いた短冊を見ないようにして、笹に背を向けて尋ねたに、ちょっと赤くなった頬を手の甲で摩りながら、五条は答える。
「僕の願い事は、叶っちゃったからねぇ」
は思わず、きょとんとした表情を浮かべた。五条は赤みの帯びた頬で、夜の冷たい空気を飲み込むと、すん、と鼻を鳴らす。
「でも、そうだなぁ……」
五条はの隣でベランダの笠木に頬をつくと、ぼんやりと星空を見上げた。五条の体躯を受けて、柵が微かに軋む。
「若い頃はさ、夢一杯、希望一杯で。挫折も知らない。
挫折を知った時、折れないようにするのが僕達、大人の役目」
先程までのふざけた様子が嘘のように成りを潜めて、五条は続けた。
「でもね、夢のまま走り続けるのも、道を変えるのも本人次第。どんな道を行っても、僕達は本人の選択を尊重する」
両腕を伸ばし、ぐっと五条は背筋を伸ばす。ただでさえ大きな長身が、隣で存在感を増した気がした。肺の中の空気を吐き出す音と共に、五条は続ける。
「生徒達を見てると、時々思うんだ。若人はさ、眩しいよね」
年だよねぇ〜、と五条はもう一度手摺に凭れかかると、笑った。「掌から溢れるのを、知らないからね」
「僕は誰の意思を曲げるつもりはない。だって、本人が選んだ道だからね」
頬杖をついて、五条は静かに告げた。五条の表情は穏やかだった。その眼差しは、まるで手の届かない星や太陽が、息とし生きる全ての生命の営みを見守るような、不思議と達観したもののようにには見えた。
常人であれば絶望し、悲しみに暮れたり、心が折れてしまうようなような出来事があっても、五条は省みる事はあっても、否定はしない。男にとって、そんなものは非生産的で、何も生まないからだ。腹の足しにもなりやしない。呪術師は良い言葉でいえば図太くなければやっていけない。露骨に言えば、人としてのネジが外れてなければやっていけない。その点でいえば、五条は随時を許さないからこそ、現代最強の呪術師だった。
人は誰しもそれぞれ、考えがあって、信念がある。他者に信を置くからこそ、五条は他者の選択を否定する事もないし、悲観もし得ない。五条悟は、前しか見据えない。ーーーそのはず、だった。
五条は頬杖をつき、ぼやく。
「でもさ、今は、」
人は独りだ。そうやって、五条は常に生きてきた。その反面で、呪術師が孤独にならないよう、マラソンゲームと化した今の呪術界の変革を目指して、強い同志を増やすために五条は教師になった。今の古い体制では、呪術師が一人一人と、使い尽くされて脱落していく。ならばどう手段を講ずるべきかと考えた時、一番効率的で現実的な道が、五条本人としては不得意手な教育という道ではあったものの。
けれど、その本質は世の理を理解している。全てを理解した上で、今までの自身であれば、それを否定しようとも、悲観をもしないはずだったのに。
人らしくない、と幼くして既に絶対的強者であった五条に恐れ、他者に陰で謗られた言葉を何度聞いた事か。傷ついたりする繊細な心は臍で茶を沸かすレベルでなかったので、確かに、とも五条は思ったのだ。そんな昔の自分が、今の気持ちを知れば、指差して笑いそうだ。弱くなったな、なんて言葉すらも浮かぶ。五条は吐息を零す。
「柄にもなく、君を失うのが怖いよ」
彼女が隣にいる、という己の願いは叶った。それでも、人は欲深い者で、すぐに次を欲してしまう。多分何度だって、彼女が隣にいれば己は人であると自覚するのだろう。

五条ほど、夜空に浮かぶ月のような人間はいないと、は常々思う。誰よりも浮世離れした人間で、手が届かない場所にいる。最も分かり易いのは容姿だが、それだけではない。男の持つ力は人が及ばないところにあって、誰も追いつけない。男の思考でさえも、常に斜め上を行く。そんな男の隣に立とうとしても、到底無理で、何度臆してしまいそうになったことか。それでも、そんな臆してしまう理性を吹き飛ばしてしまう程の感情がいつだってを動かした。は隣に佇む五条に手を伸ばす。
「じゃあ、私はその隙間を埋めますね」
そっと、五条の指の間に指を絡める。もしも、彼の掌から零れてしまうというのならば、
「こうやって」
重なった掌を持ち上げ、は笑った。
「こうしたら、何も零れませんよ」
彼が独りになるというならば、何度だって手を伸ばそう。

この時の情動を、なんと名付けるべきだろうか。隣い立つ華奢な体を、思わず力強く掻き抱いてしまいたくなるような激しい想いも。誰よりも慈しみ、真絹に包むように慎重に、大切に扱いたくなる想いも。自身の柔らかいところを擽る感情に、少し息がつめられて苦しくて、ふと想いに任せて泣きたくなるような、笑いたくなるような。
少なくても、何ヶ月、何年、何十年後であっても。瞼を閉じても、きっと、この温もりを思い出す。そんな予感にも似た、確かな確信を五条は抱いた。
柄でもないな、とふと口元から笑みが零れ落ちた。それでも、手放そうとは微塵も思いもしないし、何があっても隣に居続けるだろう。
たった一つの己の帰る場所。地べたを這いつくばろうとも、この先に何があろうとも。帰ろうと思う願いは呪いよりも純粋で、それでいて、なんであっても、決して祓うことは出来ないのだろう。
脳裏に過る、何時の日かの幼い自分へ
ーーー案外そうでもないよ。
なんて、幼い頃の自分に、五条は心の中で言い返した。

隙間なく握られた手を、五条は握り返す。
「……うん」
目を眇めて見上げた、なんてことのない何時もの星空は、不思議と、満天の星よりも尊く見えた。




流れ星を、握り締めて







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