DreamMaker2 Sample からりと晴れた空に、塩気を帯びた涼風が吹いていく。穏やかに波打つ海に、見通しのよくきいた砂浜。日本列島の海岸沿いのどこか。
力拳を作り、口元まで持っていく。あー、ごほん、ごほん。と業とらしく喉の調子を整えたフリをして、男は晴れた青空に向かい、声を張り上げた。「これより、」
「東京呪術専門高等学校、秋の大運動会を初めまーっす!」
快晴の空に、男のテノールの声がよく響き渡る。テンション高く、拳を上げて張り切っているのは白髪の長身の男のみだ。
態々高専関係者を収集し、帳を降ろした上での宣言である。しんと静まり返った周囲はなんのその。男はグレーのスウェットにブルゾンと、動きやすい恰好で既に準備万端であった。
視線を向けていた生徒達の視線の温度は急下降していく。しかしながら、笑みを浮かべた男の胆力は怖ろしく強靭で、生徒達の絶壁の如く冷え冷えとした視線にも怯む様子はない。
「秋っていうか、もう冬ですね!」
鋭い突っ込みは、暗色のジャケットを羽織る黒髪の青年のものだった。全員思ってはいるが、突拍子もない男の言動に呆れかえりすぎて、敢えて突っ込まずにスルーしていた箇所だった。一人だけ指摘を上げた黒髪の青年は、この状況を苦にも思っていないような爽やかな笑みだ。黒髪の短髪に、凛々しい眉と鋭い顎先と、よくよく見ると精悍な顔立ちをしているが、丸々とした大きな瞳の印象から若く見られがちな、常に全力でポジティブシンキングな一級呪術師、灰原雄である。
一方、げんなりとした心境を隠すことなく表情に出していた生徒達のうち、長い黒髪を後頭部で結い上げた眼鏡の少女、禪院真希が鬱屈とした溜息を吐く。
「休みの日に呼び出したと思ったら、これかよ……」
「嫌な予感はしてた」
「すじこ」
同意するのはスラリとした手足に、ハリネズミのような硬さを持つ黒髪、涼しげな瞳をした少年と、迷彩柄のマスクをした色素の薄い髪の少年だ。冷めた表情を受けべるのは1年生の伏黒恵、マスクをした少年は真希と同じ2年生である呪言師、狗巻棘だ。
伏黒はシックなネイビーのステンカラーコート。棘はパーカーの上にダウンジャケット、真希は鮮やかな虎の描かれたジャケットと、集められた者は全員が全員、私服姿である。

本日、週末。呪術高専は例にもれず休日だった。過去形であるのは、教師の五条が大事な用事がある、と各々に連絡を寄越し、この場所に集めたからだ。折角の休暇を満喫していた生徒達は、なんかこれ前にもあったよな……と既視感を募らせながらも、後で面倒なことになるよりは、と渋々足を運んだわけである。その為、彼等はいつもの制服とは異なり私服姿でいるのだった。五条の事だ。突然の任務という線もなくはない為、それなりに動ける格好はしているが、当然ながら誰も彼もやる気は皆無である。そもそも、真冬の海という集合場所からして嫌な予感はしていたのだ。

突拍子もない出来事の全ての大本、ほぼ大体いつもの発案者の男、こと五条は、いつもの怪しさ極まる目隠しもなく、黒のサングラスをかけた出で立ちである。普段のアイマスク姿であれば職質待ったなしの男だが、私服姿であれば端正な顔立ちが一際目立っていた。にも関わらず、男は唇を尖らせて膨れ面を浮かべる。顔を歪めた変顔とも呼べるように表情は、大抵の人間であれば不細工になるのだが、この男の美貌は口を尖らした程度で霞むことはない。
三十路近い成人男性の癖して、女子高生らしいきゃぴきゃぴとした様子がキモイどころか顔面偏差値の高さ故に許せるって何。担任の面の良さを利用した暴挙に、今時の女子高校生である野薔薇は内心イラッとした。いい大人がぶりっ子してんじゃねぇよ。
「だってー、ったら僕が先生やってるって言っても、今一つ信じてくれないんだもん!」
もー、プンプン!なんて擬音すら聞こえてきそうな様子だったが、果てしなくどうでもいい内容だった。仮にも教師であるはずが滅茶苦茶私情に走っていた。他の面々と同じく、のんびりとした休暇を過ごそうとしていたところを五条に連れてこられた花子さん。もとい本名 神崎 は思いもしない事実にぎょっと目を剥く。 
「え!?私の所為ですか!?」
現代に戻ってこれたは、慌ただしい日々を送っている。大前提として、ちゃっかりが寝ている間に籍を入れた五条の所為であったが。本来本人の同意なしには出せない婚姻届けは出せないはずなのだが、そこは五条悟。天上天下、唯我独尊の男だ。御三家の一つ『五条家』や最強の呪術師『五条悟』の力をフル活用して、本来ないはずのの戸籍謄本の偽装から入籍まで滞りなく、本人が気付いた時は全てが終っていた。周りが引く程の鮮やかなまでの用意周到さで、外堀を完璧に埋められた訳である。
は当然五条に抗議したわけだが、残念ながら、そんな禄でもない男に心底惚れてしまっている。今更入籍に対して不受理届を出すこともなく、五条への不満をつらつらと思いつく限り述べるだけで終わってしまった。「ノッポ。巨神兵さながらの手足長人間。お前の又下何センチ。ヘソがブラジルにある癖に言わなくていい恥ずかしい事ばっかり素直に言ってくるタラシ。30手前のおっさんでよく見れば小皺だってあるのに、笑った顔が少年みたいに可愛いってなに。顔がイケメン過ぎ。遊んでそう」などなどの思いつく限りのエトセトラ。……惚れた弱みから不満とは見えないと惚気が多分に含まれていたので、当然ながら五条へのダメージは大してなかった。の不満を受けて、五条はデレデレと締まりのない表情である。「うんうん。僕もがだーいすき。食べちゃいたいぐらい好き。昨日も美味しく食べたけど。
あ、もしかして疑ってる?大丈夫。五条さん家の悟くん、にしか反応しなくなっちゃったから。証明しよっか?僕の大好きなお嫁さん。きちんと責任取ってね!」
と、まぁ、五条に舌先三寸で叶うはずもなく。まるっと丸め込まれて朝からパクンチョされたである。長くなったが、さて、話を戻そう。この時、の五条への苦情の中には、確かに五条が『先生』に見えないという内容も含まれていた。常に不真面目な男なのでそれも差もありなん。
あの後も飄々としていた為、まさかここに来て、それを引っ張ってくるとはも思いもしない。休日に集められた原因である事に焦り、訂正しようと慌てて五条の衣服を掴む。服の裾を掴まれた五条と言えば、それをするりと外しての手を握った。
「と、いうのは正直な理由。9割ぐらい。あとはホラ、皆の戦力が1年でどれくらい上がったか、しっかり確かめさせてもらうのが1割」
「それ、ほぼほぼ私の所為じゃないですか!止めてくださいよ、皆、せっかくのお休みだったのに……!」
「僕が格好良く指導している姿、網膜細胞にしっかり焼き付けてね!」
「聞いて!」
と手を繋ぎ、五条といえばにこにこと満面の笑みだ。聞いちゃいなかった。涙目のに、ゆるゆるとした締まりない表情を浮かべる担任。……これさぁ、どう考えても五条先生の為じゃない?と疎いと言われがちな虎杖すら思った。
は五条に対して猛抗議している様子だが、軽く往なす五条はちゃっかりと指と指を絡めた恋人繋ぎだ。非難のために近寄ったと五条の距離も近い。周囲の目があろうと、むしろ周囲の目があるからこそ距離を縮めたがる五条に対して、いつもは常識的に距離を取りたがるにしては珍しかった。余程テンパっているのだろう。五条は分かった上で敢えての言動であるのが、ひしひしと感じられた。外堀を埋めた上で周囲の牽制も忘れない、独占欲全開の男である。
五条の意図を察してしまった生徒達の中、効果覿面となる約一名の目が怖かった。ソレ、担任に向ける目じゃねェって、やべぇよ伏黒。いつもは涼しい目が殺気交じりに据わっていく様子に、隣にいる虎杖は背筋を凍らせる。
クールな顔立ちが般若を背負い始め、今にも式神を出しそうな伏黒の首根っこを掴み正気に戻すべきかと虎杖が悩み始めた所、ようやく五条の周囲への牽制が終わる。が何を言っても無駄、と諦めて肩を降ろし身を引いたからだ。
五条はようやく、置いてきぼりにされている周囲へと向き直った。陽気な表情を浮かべて、ひらひらと片手を振る。「あ、コレ、非公式でーす。学長にはオフレコでお願いねっ!」
「あとで正道にどやされても知らねぇーぞ」
毛糸のカラフルな耳宛をしたパンダが突っ込む。一見とても愛らしいが、その声はおっさんの如くの太く、パンチ一つで岩をも砕く呪骸のパンダの助言は、当然ながら右から左であった。五条は続ける。
「1.2年合同!真冬の海でサドンデスバトル!砂浜ならいくら暴れても問題なし!ついでに障害物もなければ倒壊物もない!
今のご時世、教育一つに対して世間様の目はとても厳しい!ま、そもそも体罰ってよくないしね」
腕を組んで説く五条は、珍しく教職につく大人らしい発言だった。ふむ。日頃からあれこれ無茶ぶりをして、学長であり元担任教師でもある夜蛾にプロレスの関節技を食らう度、「学長!体罰!反対!」「やあかましいっ!」といったやりとりをする五条だからこそ学んだのかもしれない。なんて先生らしい五条の意見に、は見直しかける。
五条は満面の笑みで、親指で海を差した。
「というわけで、負けた方が真冬の海にドボン!
いやー、いいこと尽くしだね!」
「いや、アウトだわ」
全員の心境を代弁して、野薔薇の鋭い指摘が飛ぶ。は肩が下がる心地がした。
が、当然ながら男は聞いちゃいなかった。テンションを下げることなく、むしろ火がついたように盛り上げていく。
「買った組にはー!美味しい高級焼き肉を!奢ります!七海が!」
「お、そうなのかい?」
ここでノってきたのは、糸目の美丈夫の男だった。
「さすが太っ腹だねぇ、七海は」
黒く長い髪をハーフアップにした男は本来ならば3年の担任であるものの、3年生全員が休学中であることから1、2年の副担任を務めている。五条と同級生でもある、夏油傑だ。虫も殺せぬ害のないような笑みを浮かべているものの、この男、笑顔で踏み潰す男である。
学生時代、自業自得とはいえ悪徳な村の住人全員を、思わず目を覆いたくなってしまう程完膚なきまでにボコボコにして、にこにことした笑みを浮かべていた戻ってきた男だ。
学生服のボンタンズボンは黒色で目立ちにくかったが、慣れている七海達から見れば血で汚れ、草臥れ水分を吸う程だった。保護した子供を連れていたからか、白いシャツや目立つ箇所に返り血一つ付着していなかった事も、恐ろしく覚えている。
揃いも揃って、禄でもない先輩である。嫌な先輩の悪ノリに、突然振られた後輩である七海は無言のままだった。五条は更に煽る。
「人の金で食う肉は旨いよー?」
「・・・フーッ」
肺の中にある酸素を全て吐き出すように、深々とした溜息だ。海岸沿いの日差しを浴びて眩いはずの七海の金髪の髪は、心なしか色褪せ草臥れて見えた。明らかに両隣で重圧をかけてくる面倒な大人2名の所為である。にやついたその面が果てしなくウザかった。常に温厚で、高専内の一部の女性達からは『微笑みの貴公子』なんてあだ名で呼ばれている夏油の仏顔も、学生の頃から知る七海から見れば他者を見下したものだ。サングラスのブリッジを抑えて、七海は言う。「呆れて何も言えません」
「君たちは、このような大人にならないように」
「ジョーダンだって!
 このGTGことサトル・ゴジョウ先生が、勝者のグループには焼き肉を奢ってあげましょう!ま、高級ではないけど」
バシン、と思い切り七海の肩を叩き、五条のからからとした笑い声が海岸に響く。遠慮の欠片もなく叩かれた肩はいくら七海が鍛えていても、そこは五条悟だ。肩に走った地味な痛みに、うっかり七海の額に青筋が浮かびそうになったが、心頭滅却して耐えた。

「よおーし!では!これにて、
 開っ催ー!!」
「「おー!」」
張り切る五条と、取りあえず乗る陽キャ灰原、虎杖。彼等程でもないものの、棘は無言で拳を上げて、夏油は両腕を組んで胡散臭い笑みを浮かべて見守る体制だ。他面々は、怠い、面倒くさいといった気落ちした表情を隠すことなく。

ここに呪術高専、秋(真冬)の大運動大会が開催されたのだった。



「赤組ー!偉大なる五条ティーチャーの元を旅立ち、冴えないおっさん呪術師・日下部先生の元、見た目の通り地道にこつこつ積み重ねて成長したか!?
禪院 真希、狗巻 棘、パンダ!なお、同じく2年の憂太は海外任務中の為、不参加です!憂太がいなくても、頑張れるかな?2年ー!」
「誰が冴えないおっさん呪術師だ」
「ところどころ、腹立つ物言いだな」
「いらん所いちいち煽ってくんのが、悟だよな」
「しゃけしゃけ」
折角の休日を、緊急収集と偽られて引っ張られてきた草臥れたトレンチコートを羽織る長身痩躯の男ーー日下部が、煙草の代わりに咥えた棒状のキャンディを咥内で転がしながら、苦言を零す。
だが、当たり前だが五条は聞いちゃいない。流れるように紹介を続ける。日下部が担任である2年の真希は、五条の物言いに頬を引き攣らせ、パンダは深く同意する。唯一怠そうな表情は浮かべていないものの、というかマスクの所為で今一つ表情の読めない狗巻棘だけが、おにぎりの具を言う。とはいえ、呪言師として言葉に呪いが宿りやすい為、おにぎりの具を言語とする棘の語彙的には、同意を示す意味なので、彼らが1年時の元担任への雑な扱いが伺えた。今時の高校生はドライでシビアといえども、五条がいかに常日頃から無茶ぶりをしているか分かる垣間である。
ドライな2年の空気にもめげない、諦めない。むしろ欠片も気にしていない五条は、勢いをつけたテンションのまま1年へ向き直った。さすがのも、2年と五条の温度差に若干引いていた。恋人の破天荒さは時に、いや、結構しょっちゅう真顔で「なんでこれで付き合ってるんだろ…」と内心首を捻りまくっても答えが出ない案件だが、頼むから、次はまとまな紹介であってくれ。空気を読めとは彼の性格的に難しいだろうから言わないが、せめて、教師としてのTPOを……。
「青組ぃー!呪術師としては、まだまだ殻を被ったままのぴよぴよのヒヨコ同然!でも気概なら誰よりも一人前!将来有望なルーキーズ、一年!
僕のセンセーショナルで革新的な教育により、この1年でどれだけ成長してみせたか、実に見ものだね!」
「「あ?」」
「二人とも、メチャ切れとる……」
の切実な願いは届かなかった。思わず頭を抱える。
五条の言動は、人の地雷の上をスキップする。恐らくは分かってはいるだろうし、人の痛みも分かる男だが、どうしても、彼は人の反応で遊ぶ癖があった。一見明るく友好的に見えるからこそ質が悪い。どSといえばどS。KYといえばKYとも言う。どSKY。見る人から見ればサイコパス。字面が見ても出来れば関わりたくないやばい奴である。の目が死んでいく一方で、1年の野薔薇、伏黒の表情は固い。なにせ野薔薇は旧家とはいなくても、それなりに古い家で高専に来る前から呪術に携わっていたし、伏黒に関しては五条が師でもある。プライドが刺激されるというものだ。
表情を強張らせた二名の同級生の傍ら、呪霊に関わった事から高専に入る事になった虎杖だけが、頬をかく。「俺はわかるけどさ…まだまだ一人前だし」
「ご覧の通り、気概だけは十分でしょ。見てあの眼光!一年で出せる鋭さじゃないよね。僕、仮にも担任よ?
触れたら切れる、ナイフみたいなお年頃なんだよね」
五条の追撃は止まらない。わかった!みたいな爽快な表情の五条に反して、野薔薇と伏黒の重々しい空気は鈍重になるばかりだ。
「悟さん…それぐらいにして下さい」
は思わず、米神を抑えた。

折角のへの紹介なのに、まだまだ紹介が足りない、と不服そうな五条を抑え込み、無理やりは五条の背を押す。観戦者も各々浜辺から離れ、岩で出来た塀まで下がっていった。
残された学生達は、改めて波打ち際の浜辺で向き直る。
「勝ったら肉!焼き肉!!」
「虎杖は単純でいいわね…」
肩を回して張り切る虎杖を横目に、野薔薇はため息を吐く。
「何が悲しくて、休日に砂まみれにならなきゃいけない訳。肉だけじゃ釣り合わないわよ。ねぇ伏黒」
野薔薇の投げかけた言葉に、伏黒の反応は薄い。視線は合わず、どこかを見てるようだった。
冷静な伏黒のことだ。貴重な休日を潰され、てっきり同じようにうんざりしているだろうと思っていた野薔薇は、伏黒の様子に眉を潜める。

五条と夏油と違い、伏黒恵には一つの記憶しかなかった。原因は、過去を巡ったが幼い伏黒恵と直接出会っていないからだ。もし幼い頃に出会い、彼がなんらかしらの強い重いをに抱けば、あるいは伏黒の潜在能力であれば、記憶が統合されていたかもしれない。だが、幼い伏黒はと出会わず、違和感を抱いたのは、大切な何かが消えたことに焦燥と喪失感抱いた高専の伏黒だけだ。
が過去にいた高専時代で関わりのなかった伏黒姉弟は、おおむね元の世界線と同じ経路を辿っていた。が初めて出会った頃、既に天涯孤独となっていた姉弟だが、伏黒甚爾は存命である。しかし、定職についたものの、伏黒のギャンブル好き、放浪癖のある一匹狼といった性格は抜けなかったようで親がいようがいまいが、ほぼ彼等の生活は変わらなかったのである。一点だけ、変わった点があるとすれば、姉である津美紀が呪われなったことだ。津美紀は高校生の頃、呪いの影響で目を覚まさなくなってしまった。寄り付かないといっても、ごく稀に思い出したように姿を表す伏黒甚爾がいたことから、呪いから未然に防ぐことができたのである。

伏黒は出会っていないのだから、が過去にいたのも知らない。しかし、元から違和感を抱いていたから、の記憶を取り戻し、再び会うことが叶った。それは恵だけでなく、義姉の津美希も同様だった。
が伏黒達兄弟と出会っていた世界線をAとすれば、過去へとタイムスリップした世界線をBとする。Bの記憶はないものの、伏黒甚爾の育児放棄によりAと似た世界線を辿り、消えていた彼女の記憶を取り戻したのが、今の伏黒恵だ。そうなれば、彼の本質はなんら変わらなかった。
無意識の内に目で追う伏黒と、彼等を応援しようとするの目が合う。
思わず目が合ったは、数回目を瞬かせる。本来ならば、高専生徒達を平等に応援するべきところだが、関係が長い相手は別である。誰だって贔屓目が出てしまうというものだ。
ましてや、恵はにとっての恩人だ。目が合った恵に、は声に出すことなく口を動かす。ーーー『頑張って』
「……やるか」
じっと見つめていたかと思いきや、明らかに意中の女性の応援に途端掌翻して、やる気を出す伏黒。
普段のクールさはどうしたよ、伏黒さんよ。胸中突っ込みを入れ、げんなりした様子で野薔薇は溜息を吐いた。
「男って……」


第一試合。呪術高専1年、虎杖 悠仁&釘崎 野薔薇&伏黒 恵VS呪術高専2年、禪院 真希&狗巻 棘&パンダ。
学生同士の戦いの火蓋が、切って落とされようとしていた。呪具の一つである三節根を軽やかに宙で凪ぎ、肩に担いだ真希が首を回し筋肉を解しながら、虎杖達に視線を向ける。
「一年、ハンデだ。先手は譲ってやるよ」
真希は通常、呪術師が持っている術式がない。しかし女伊達らに呪具を振り回し、身体能力のみで呪霊を圧倒する。天与呪縛だ。彼女の強さは、日頃の鍛錬で扱かれ虎杖達はよく知っていた。
「ウス!有り難く!」
既に準備運動を終えた虎杖は真希の申し出に遠慮する事無く、拳で掌を軽快に叩く。野薔薇、伏黒も異論はないのだろう。僅かに腰の重心を落とし、構えようとした真希だったが、次の彼等の行動に目を点にした。それぞれがズボンや胸ポケットを漁り、何かを取り出したのだ。虎杖達が攻撃を仕掛ける様子はない。ゴソゴソと動いたかと思えば、取り出した何かを耳に嵌め、ようやく構えをとる。
2年生の一人、狗巻 棘は呪言師だ。彼が一言『止まれ』と命令してしまえば、動きを止めざるを得なくなってしまう。聞くかわからないが、ないよりはマシ。イヤホンをしっかり嵌め、スマホのbluetooth機能でグル―プ電話を接続する。簡易無線の出来上がりである。
虎杖が再度拳を叩く。
「ッス!これで準備万端!」
「……なるほど、まずは呪言対策か」
真希はその様子を呆気に見ていたが、1年の意図した内容に頷く。先手を譲ったはずが、攻撃を仕掛けず対策を講じた1年に、パンダが顎を摩る。
「確かにアリだな」
律儀といえば律儀。正々堂々、根が曲がっていない1年らしい。真希は彼等の様子を静かに見つめ、口の端を上げる。「だが、悪手だ」
準備を終え、いつどちらが先手を切っても可笑しくない。初めに場を裂いたのは、破裂音だった。乾いた音に瞬時に虎杖達は警戒するも遅く、一瞬にして周囲は濛々と煙る砂塵に覆われる。パンダの仕業だ。可愛らしい見た目に反し、瓦礫も容易く粉砕する剛腕で砂浜を叩くと、視界を悪くさせたのだ。視界を覆う砂塵に混乱する事無く、瞬時に一番頭の回転の速い伏黒が指示を飛ばす。
「行け!虎杖!」
イヤホンから聞こえた伏黒の指示が聞こえるや否や、虎杖は駆けだす。前へと一歩踏み出した瞬間、鋭い暴風が横凪に流れ、虎杖の視界を空けていった。伏黒の使役する鵺だ。空けた視界のには、つい数秒前までは数メートル離れた位置にいたはずの真希が迫っていた。
真希と虎杖。釘崎とパンダ。棘と伏黒。
それぞれが近場の相手との交戦が始まる。脅威の身体能力を持つ真希と虎杖。パンダの重い攻撃を躱しながら、たった一撃で致命的にもなり得る己の術式を叩き込む隙間を探る野薔薇。棘は1年の呪言対策により呪術は使えないが、元々身体能力は高い。伏黒の術式を素早い動きで避ける。
一見、拮抗しているようにも見えた戦いだった。しかしその数十分後、勝負はついてしまう。
膝をついたのは、1年だった。
「連携とれねーだろ」
砂浜に転がされ、息を乱して大の字で倒れる虎杖を見下ろし、真希が呆れたように言い放つ。
呪言対策にイヤホンを使用し、簡易無線としたのは一見対策としては効果的に見えた。だが、1年の個々の能力は高いが、まだチームプレイでは二年生に劣る。呪術師の戦闘は、コンマ0秒の差が結果を別ける。にも拘わらず、イヤホンを使用した事から1年の連携にはほんの僅かばかり、遅れが生じていた。当然、真希達が其処を見逃すはずはなかった。担いだ三節根で肩を叩きながら、真希が言う。
「折角、先手を譲ってやったんだ。初めは3人がかりで棘を潰すべきだったな」
「高菜っ!?」
同級生であるはずの真希の冷酷な判断に、棘が思わず非難の声を上げた。
パンダといえば、負傷した虎杖、伏黒を両脇に、野薔薇を肩に担ぎ上げて、ノシノシと浜辺を後にしていた。

緊急の怪我人だと連絡があり、伊地知と共に来てみたものの、蓋を開けてみれば同期の思い付きによる悪ふざけである。浜辺を見下ろせる階段に腰かけ、眺めていた救護班として連れて来られた保険医、家入 硝子は、ようやく患者だ、と背筋を伸ばし、重い腰を上げるのだった。


初めこそ勢いがあったが、1年の奮闘も惜しく2年の無駄一つない連携には及ばず、初戦は赤組が勝利を収めることになった。
続いて赤組、灰原 雄。青組、七海 健人の1級呪術師対決だ。黒髪短髪、童顔の爽やか青年である灰原と、フィンチ型のサングラスをかけ表情は分かりずらいものの、アンニュイな空気を纏うクォーター七海。
一見正反対に見える彼らが、二人は同期だ。学生の頃と異なり、共に1級呪術師であることから任務が被る事はないが、今でも時間が合えば訓練として手合わせは行うし、プライベートでは飲みに出かける程である。基本的に快活で積極性のある灰原が七海を誘っているが、断りを入れない事から七海が嫌悪している訳でもない。人懐っこいシベリアンハスキーと、涼しい顔した長毛のハウンド犬、とは五条の主観によるコーナー紹介時の言葉だが、あながち間違ってもないとは思った。
そんな調子なので、当然、互いの欠点や長所も熟知している。白熱し、高専生徒達からすれば見ごたえのある戦闘だったが、最終的には2試合目は引き分けとなった。

3回戦目。2年担当教師、日下部 篤也 対 補助監督 伊地知 清隆だ。
「人手が足りませんでした!」と五条により引きずり出された伊地知は寝耳に水で、涙目だったと記しておこう。伊地知と共に来た家入は、回復要員である。と、なれば必然と候補は絞られてしまう。
「他の呪術師を連れてくれば良かったのでは!?」「みーんな任務。呪術師が暇な訳ないじゃん」嘆く伊地知に、首を傾げて答える五条。「……私達も暇ではないのですが」貴重な休日を潰された七海が、イラッとし苦言を零してしまうのも無理はなかった。
補助監督の伊地知とて暇ではない。なにせ、その忙しい呪術師をフォローし、任務に同行するのが補助監督の役目だ。とは勿論、五条相手に言えるわけもないので涙を呑んで、伊地知は日下部と向き直るしかなかった。
草臥れたトレンチコートを羽織り、その辺りに居そうな中年男性、日下部 篤也。しかし彼は呪術師と呪祖師の全盛期から伝わる『シン・陰流』の継承者であり、帯刀する日本刀で、最速の剣を繰り出す。とはいえ、伊地知も高専時代は呪術師を目指していた。2つ上である五条には特に散々扱かれ、僅かながらも戦う術もある。
「あいつ、やるよ」
自信満々で言い切った五条の表情に、1年達も、つい、期待に生唾を飲み込む。そういえば、補助監督である伊地知の戦っている姿を見た事がないのだ。
五条の後輩であり、高専時代は呪術師を目指していた伊地知。もしかしたら、出戻りの呪術師である七海同様にとんでもなく強いのかも
ーーーなんて僅かに思い始めるも、一瞬で勝敗は決してしまう。
日下部に背中から腰かけられ、地面に顔から突っ込んだ伊地知。
瞬殺された伊地知を、膝を叩いて爆笑する五条。
生徒達とは、白々しい視線を五条へと向けるのだった。

トントンに進んだ戦いは、ついに最後の番となった。大将戦、特級呪術師、夏油 傑VS特級呪術師、五条 悟である。
反転術式を使う家入 硝子の腕は確かで、ほんの数分で1年の傷は塞がり元の元気を取り戻した。野薔薇が声を張り上げて、全学年の副担任を担当する夏油に声援を送る。
「夏油先生!ソイツのバカ高いスウェット、砂まみれにしてやって!」
ところが、可愛い生徒である野薔薇の声援に非難するよりも、五条はその内容にきょとんとして振り返った。そして衝撃的な言葉を放つのだった。
「え?これ、し●むらだけど」
「なんですって…?」
思わず野薔薇は呆然とした。愕然とする野薔薇と同じく、話半分で聞いていた他の生徒達も、思わず視線を五条のスウェットへと向ける。
五条は特級呪術師だ。加えて御三家の一つ、五条家の当主でもあるから、彼が普段、うん十万のシャツを着ているのは生徒達もよく知っていた。それが、し●むらだと?
目を凝らしてみる。確かに、高級な生地に見えそうには、……いや、髪色といい、サングラスをしているものの、目鼻がはっきりとした一瞬で美形だと分かる顔立ち、スラリとした手足からか、どうしてもファストファッションには見えなかった。
クソ、いつもの不審者然とした目隠しさえしていれば、そうは思わないはずなのに。纏う人間によりこうも違うのか。スタイルの良さに、思わず妬みを抱く美意識の高い野薔薇を他所に、ブルゾンの下に着たグレーのスウェットを指先で摘まむと、五条は続けた。
「いやさぁ、持ってはいるんだけどね。でも、が怖くて洗えないからクリーニング出して、って言うしさ。
折角、僕ら一緒に暮らしてるんだよ?新・婚だよ?ふとした瞬間香る同じ匂いに、もしかして、アイツ等…?なんて高専連中どこらか見知らぬ通行人にすらところ構わずアピールしつくしたいのに、駄目だって言うんだよ?折角の醍醐味なのに!
なら、行くしかないでしょ。し●むらに買いに行ったよね」
新婚云々は五条が五条家の力をフルに活用し、の素知らぬ所での入籍だが、それはさておき。長身のモデル顔負けの矢鱈キラキラとした男が、し●むらで買い物する姿を想像してみた。
「似合わねー…」
思わず呟いた虎杖の言葉は、同じく想像した他の面々の胸中を代弁していた。
虎杖の言葉に、共にし●むらの買い物に同行したは、周囲から浮きまくっていた当時の光景を思い出す。五条は2m近くある長身だ。頭一つ飛び抜けて大きい彼にすれ違い様どころか、いつの間にかモーゼの波宜しく3メートル程引かれて様子を見られていた。なかなか忘れたくとも忘れらない光景である。虎杖の言葉に、は強く頷いたのだった。

閑話休題。

さざ波が波打つ、静かな浜辺で長身の男が2人対峙している。誰ともなく生唾を飲み込む。飲み下す音が、辺りに聞こえそうな程の静寂だった。
同期であるだけでなく、特級呪術師同士の戦い。恐らく呪術師最上決戦といっても過言ではない。同年代の彼等は、学生の頃こそよく手合わせをしていたが、それぞれ教師となり、呪術師としても忙しい日々を送っている。片方こそ任務を選り好みするが、呪術界で5人しかいない希少な特級呪術師だ。彼の拒絶しない任務の傾向をよく理解した夜蛾や伊地知達優秀な補助監督により、回せるものはとことん回している。とはいえ、貴重な特級呪術師の内一名は、ロクに任務も行かず競馬場でよく見かけるが。彼は例外である。
時間もなければ、核クラスター級の2人が戦えば周囲もタダでは済まないので、稀に訓練の見本として学生たちに手合わせを見せるが、呪術ありの本気でぶつかる事はまずあり得ない。
しかし、この場は高専内の校庭グラウンドでもなければ、穴でボコボコになった校庭に激高し、特級2名を正座させて説教する元彼等の担任教師、夜蛾学長も不在だ。五条特性の特殊な帳により、一般人が巻き込まれることもない。まあ、砂浜は破壊尽くされるだろうが、ちょっと海面が上昇して地形が変わった、という事にしてしまえばいい。一夜の激変に、瞬く間にUMAか地球温暖化か、と不思議がられるだろうが、なんとか誤魔化せない事もないだろう。その辺り、一般感覚を捨てられない学生達とは、敢えて考えないようにした。

軽く膝を曲げて屈伸をする五条と、腕を伸ばす夏油。それぞれ軽い準備運動も終わると、互いに対峙する。生唾飲んで彼等を注視する生徒達の前で、五条はおもむろに口を開いた。
「僕は昔から気になってたんだよね」
呪霊を操る呪術操術使いの為、後方要員かと思いきや、呪霊と共に前線に出るバリバリの肉弾戦派の夏油は、抜かりなく周囲の立地を確かめていた。唐突に口火を切った五条へと視線を向ける。
向けられた視線に、五条はビシリと鋭く指さした。日が落ちる前の明るい陽光が、キラリと五条のサングラスを反射させる。
「傑、お前のこと好きだろ」
しん、とその場は静まり返った。静まり返った周囲をものともせず、五条は空に響かんばかりに声高々と宣誓布告する。
「勝った方がをもらう!」
「あ、棄権します」
夏油は即座に片手を上げた。
「はぁ!?」
五条を欠片も見やる事のない宣言だった。五条が非難の声を上げるが、夏油は神妙な、心の底から引いた面持ちで見返した。折角の美丈夫は崩れ、頬は引き攣っている。
「いや、だって…キショ、いや、急に気持ち悪いこと言い出すから、やる気がなくなったよ……」
「二回言ったな…」
「二回言ったわね…」
思わず二の腕を摩る夏油に、とんだ茶番になり始めた大将戦。いや、最初からそうだったかもしれない。遠い目で見つめる伏黒と野薔薇が指摘を入れる。
私と、あの猿が?「ないない」と嘲笑を浮かべて手を振り否定する夏油は、あまりのあり得なさに心の声すらも声に出ていた。
ふぅ、と五条は一息をつく。
「いくら煙を巻こうとしても、無駄だよ。この五条アイは見過ごさない!」
態々サングラスを額にずらしてまで、六眼を差して見せる五条。とうの本人と言えば「五条アイ」と含んだものいいで鼻で嗤う。
さすがに、そろそろ我慢ができなかった。ともすれば震えそうになる両拳を体の脇で抑え、堪忍袋の緒が切れ、おもむろに五条へと近づく人物がいた。
近づいた距離を避けることなく、未だに夏油を警戒し吠える五条の、キメ細やかな白い肌へと手を伸ばす。むんずと掴むと、思い切り横へと引っ張った。
「いた、いたたた、ちょっと落ち着いて」
「何でバカみたいなこというの!悟さんのバカ!嫌い!!」
身長差から体を傾ける五条を、は両拳で殴り始める。本人は大分真剣だろうが、特級である五条からすれば、子猫がじゃれつくような動きである。対してダメージは負わず、やだ、可愛いとデレデレと頬を緩ましかけた五条だったが、の暴言により心理的大ダメージを受ける。惚れた女の『嫌い』程、精神を抉るものはない。声なき悲鳴を上げそうになる程、長身をよろめかせ怯んだ五条は、即座にへと必死な弁解を始めた。
「だってアイツ、絶対虎視眈々との事狙ってるって!距離だって矢鱈と近いし!ほら、見てよ。人妻とか寝取り好きそうな顔してんじゃん!そもそも、僕が逆の立場だったらしてるね!!!」
「ね……っ!?仮にも生徒達の前で、そんなふざけた事言う悟さんは大嫌いです!!」
「だ、大嫌いはヤメテ……!!」
長身で縋りつく五条に、拒絶する
その場は混沌を極めていた。バカ夫婦に付き合ってられないとばかりに夏油はとっくに踵を返し、置いていた外套を羽織っている。彼等を眺める外野勢が呟く。
「収集つかないな」
「自分で呼び出したくせにこれかよ…」
「まあ、分かってたけどな」
真希、伏黒、パンダの疲れた声が空しく響いた。

大将戦、両者棄権によりドロー。
当然のような帰結に至るのだった。

冷え切った面々の中、咥え煙草宜しく、含んでいた棒キャンディを出すと、日下部が浜辺を指す。「よし、お前ら。遊んでよし」
「さすが!俺らの日下部!」
「たかな!すじこ!」
「呼び捨てはヤメロ」
受け持ちの2年から上がった歓声に、やれやれと日下部は肩を竦める。その後ろから、見る患者もいなく席を外していたはずの硝子が現れる。片手にコンビニ袋を下げ、彼女の後方には治療済みの伊地知もいた。
「おーい、お前ら、飲み物買ってきたぞ」
「あ、家入先生!さっすがッス!
 俺、ファンタ!」
「虎杖、よくこんな寒い中冷たい物なんか飲めるわね……。先生、あったかいのはある?」
「あるよ、ほれ」
すかさず手渡せれたホットココアを、野薔薇は両手を温めるように転がした。硝子と共に買い出しに行っていたのだろう。伊地知が日下部と夏油に飲み物を配り、七海、灰原、家入は並んで、はしゃぐ高専生徒達を眺めた。
紫暗色の空を残し、ゆっくりと日が落ちていく。吐き出す息は、白い吐息となり霞む。地平線の先、日が沈み始めた空は、橙色を滲ませていた。ぽつりと浮かぶ、三日月と一番星は空高く、輝いている。宵の明星。地平線から燃え上がり、天へ上る程濃紺を描いていく景色は、この僅かな瞬間しか見られない。
生徒達のはしゃぐ賑やかな声を横目に、五条とは未だわいわいと喚いている。
五条はしぶとい。暖簾に腕押し、糠に釘。口ばかりは反省を示していても、翌日にはケロッと忘れて、大人げなく惚気るし牽制もする。今日こそは、とが意気込んでみても、萎びた白菜よろしくしゅんとした五条の様子を見てしまうと、結局、は口を噤んでしまうのだ。しかし、五条はそれを十分に理解した上の行動なので、がチョロイだけともいう。
その辺りが五条が過保護になってしまう理由だったりするのだが、未だ彼女の知らぬところだった。例によって、最終的にが折れることになる。
しぶしぶが折れた頃には、大人勢は既に飲み物片手にくつろいでいた。
ようやく収まった二人の様子に気付くと、硝子が余っていた飲み物をくれた。彼女に礼を告げてから、は2本渡された事に気付く。
口を引き結んでから、は突っ立って生徒達を眺める五条の元へ行く。喧嘩していた反面、声をかけるのも癪で、は無言で五条の手に少し冷えた缶を握らせた。反射的に握った五条が、背後まで近寄ってきたに振り返る。思わずそっぽを向くに、五条の瑞々しい瞳は、満ち足りたように細くなっていく。
五条は離れたの手を追うように掴んだ。一回りも大きい、五条の筋張った手は容易くの手を捉え、そのまま自身の外套のポケットにいれる。冬の浜辺に底冷えした二人の掌が、互いの熱を分け与え、じんわりと温まっていく。

白い吐息が、宙へと溶けていく。並んだ二人の頭上には、一際輝く一番星が煌めいていた。
二人の間に言葉はない。けれど、今度はが五条から離れる事はなかった。

時の流れは残酷で、何時かは消えてしまう日常だ。 それでもこの一瞬は、消えてしまう事はない。心の奥底で芽吹き続け、数日後、何年後かにふと思い出すのだろう。
生徒達の賑やかな声が空へと響き渡る。何てことのない穏やかな日常の、夕暮れだった。



home sweet home(上)








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