それは、降り積もる雪のように

DreamMaker2 Sample ―――気付けば、男は蒼穹に佇んでいた。
「・・・は、」
前触れはなかった。彼はまだ、高専の校内で倒れ込んでいるはずだ。直前に瀕死の怪我を負っていた。なのに今は、怪我一つない。それを不思議に思うよりも、何故だろうか見覚えのない空間に無性に、既視感を覚える。
懐かしい―――見た事もないのに?
ようやく―――何を待ち望んでいた??
突然胸にこみ上げる熱い想いに、反射的に冷静な部分が返す。
醒めるような青空に囲まれた空間に見覚えはない、はずだった。


喉元、足、額とめった刺しにし、惨たらしく追い討ちをかけられた。
強制術式解除の特級呪具での攻撃に、無下限呪術で傷を追うことのない五条悟であろうとも、死んだかと思われた。地面に出来た夥しい血の水溜まりに倒れ伏し動かなくなった五条に、相対していた伏黒も男の死を確信して、その場を後にする。

赤黒い血黙りに沈んだ五条悟は、動かない。だが、彼の脳は凄まじい早さで動いていた。
『反転術式』
怪我を癒すことの出来る術式は、攻撃的ではないが滅多にない貴重なものだ。極めれば腕がとれようとも、問題なく再生できる。
彼は刺された直後、唐突に今まで使うことの出来なかった反転術式の糸口が見えた。反転術式は感覚によるものが強い。珍しくも同期に反転術式使いの家入硝子がいるが、彼女の説明はまったくもって理論的ではなく当時は早々に投げた。しかし、感覚を掴めてしまえばあとは一瞬だった。攻撃を上回る早さで五条悟は致命傷を追った傷を再生させる。破壊された細胞、血管を一から組み上げ、脳への損傷も凄まじい早さで直していく。
伏黒の念の入れようは相当なものだった。
しかし、五条悟は只人ではない。
反転術式を習得してすぐに、全身を修復させていく。五条悟だからこそ出来た回復は、まさに天才の所業だった。心臓が止まろうとも、呪力で意識を保つ。
不思議な感覚だった。体は確実に、死んだ。一度死に、再生へと向かう。今までは生まれもった莫大な呪力を五条は上手く調整することが出来なかった。けれど今は些細な動きだろうと、まるで息を吸うように出来る。
呪力の流れを思うがままに操れる。
呪力の流れに意識を向けたその先で。

五条悟は、見知らぬ青空の空間に立っていた。

空は晴天の青空。足元に広がるのも、頭上を反射させたような空。どこか、自身の生得領域「無量空処」と似たような空間。
「無量空処」は宇宙のそれと似ているが、この無限に広がる青空の空間も、自身の術式と関係しているのだろう。けれどそれ以上に、五条悟は混乱していた。
見たことのない景色だった。なのに酷く懐かしくて――無性に胸が締め付けられる。
眉を潜めた彼は、その時視界に映ったそれに、蒼い目を見開く。

女が一人立っていた。

「悟くんは将来何になりたい?」
あの頃はまだ、女を信用していなかった。
女に何度話しかけられても言葉少なげで、無視をすることもざらだ。それでもめげない女に、反応を返さなければこの女は黙らないと最低限反応を返すようになった。なにせ、女は無視し続ければ頬をひっぱり「もち肌〜〜!」やら髪を撫でまわして「さらっさら〜〜!!」などともみくちゃにしてくるのだ。
神童であった彼は抵抗しようとすれば容易く出来た。けれど、貧弱すぎる女を見るとどうにも気力すら失せてしまう。人よりも醜悪で巨体な呪霊を簡単に祓える自分が、女を叩いてしまえば、簡単に骨が折れてしまうのではないか。一瞬、そんな懸念が浮かんでしまって。結局顔を真っ赤にさせて罵倒を浴びせるだけだったが、女はにこにこと笑って響いた様子もない。暖簾に袖押しとはまさにこのこと。
反応せず、撫でまわされては溜まらない。この時も仏頂面のまま睨むように女を見た。
「・・・あんたは?」
「私?」
女は目を瞬かせた。自分から尋ねておいて、思ってもみない言葉だったのだろう。顎に手を当てて、僅かに思い悩む様子を見せる。やがて何かに思い当たったのか、口を開く。
「私は・・・うん、悟くんが幸せだったら、いいなぁ」
女の思ってもみない言葉は、今度は子供の目を丸ませた。
子供の様子にも気付かず、女は肩を竦める。
「ほら、もう私も将来の夢とか言う年齢じゃないしね。
 だから、悟くんの幸せが私の将来の夢かな」
「・・・何だよ、それ」
憮然とした表情を隠さない少年に、女は優しげな眼を崩さない。いつだって、この女はそうだ。
「悟くんの笑顔が、一番好きだから」
そう言って、女は柔らかく笑った。整った顔かと問われれば、平凡な方なのだろう。悪くもなければ、良すぎもしない。少年のように、歩けば誰もが振り向き唖然とするような、恐ろしく端正な顔立ちでもない。
人間離れした容貌でもない、ただのふにゃりと崩した笑み。だというのに。
――ああ、好きだ。
この瞬間、すとんと唐突に子供は理解した。
厳密にいえば、女の言う意味は自分のものと違っているのだろう。
少年は能力に溢れ、誰よりも特別であった。
対して、なんの能力もなく特別な力もない非呪術師の女。
けれど無性に惹かれてしまう。血に濡れたこともないだろう手に、触れることを躊躇しても、遠慮なく触れてくる手。柔らかな笑みは日溜まりのようだった。弱いくせに、強者の幸せを祈る頓珍漢な女。けれど女の笑みが曇るぐらいなら、心の奥底の欲望も全てを覆い隠して、弱い子供の振りをして女の側に居続けたいと願っていた。

男は小さな子供ばかり見て、こちらを振り向かない女に、無意識の内に手を伸ばしていた。手を伸ばし触れる直前、ぱちんとシャボン玉のように弾ける。瞬間、堰を切ったように記憶にない思い出が、雪のように降り積もっていく。
止むことない、記憶の濁流に男はただ愕然とした。

初めて彼女に誕生日を祝われた日のこと。
ただ笑っただけなのに、きょとんとした後、彼女が心の底から嬉しそうに破顔した日のこと。
くだらない話をし続けた日のこと。
桜の下で、彼女と花見をした日のこと。

蒼穹の空間には、彼女との記憶が次々と降り続ける。時間にすれば数瞬にも満たない一瞬だっただろう。けれど、それで充分であった。晴天から降り続ける雪のような記憶に、五条は目を眇める。
彼女と過ごした、数年間。
記憶を忘れてしまっても、ぽっかりと胸に空いたような空虚感がようやく埋まる。
音もなく降り積もり、重なり続けた想いは際限なく。
―――ようやく、思い出せた。
何度願っても、夢でしか会えない。目が覚めれば陽炎のように消え去り、心の奥底だけに消えない燻りを残していた人。

この空間での逢瀬を繰り返す内に、早い段階で彼女は違う次元の人間だと五条は感づいていた。彼女には伝えていなかったが、一通り文化は似ていても彼女が言う、彼女の住む地域は存在しない。初めは、たったそれだけの僅かなズレだ。けれど夢の中の僅かな逢瀬で、彼女に知られず検証を重ねるうちに明らかになっていく。神童といえども、次元を超える事は容易くはない。だからこっそりと、気付かれないように彼女に縛りをかけた。そうすることで、いつの日か彼女と必ず出会えるように。
現実で触れたいと、恋続けた彼女。
結んだ縛りは、彼が記憶を思い出した事で鮮明になる。幼いながらにも離れるものかと、独占欲、執着心で彼女の無知に付け込み結んだ縛りはきちんと発動されていた。
―――彼女は、この高専内にいる。
理解した瞬間、ぶわりと浮かんだ熱が体中を覆い、背筋が震えた。あれだけ、渇望したその人が。すぐそこに、彼女がいる。
幼い頃の独占欲、執着心なんて、たかが知れている。ましてや愛欲だなんて。そう楽観視する部分も成長し、青年となった彼にはあった。どうせ外を知らなかった子供の頃の話だと。
しかし、まあ。無理だなコレは。
記憶を思い出す度に、彼は嘘にも楽観視出来なくなっていった。失っていた記憶を思い出す中、彼はもう一度、彼女に焦がれてしまったのだから。

伏黒に念入りに受けた怪我は深く、まだ完全治癒には程遠いだろう。だが男は構わなかった。

血が流れたままでも構わない。足が動かないならば引き摺ればいい。
彼女と違って、無心に尽くし幸せを祈り続けるなんて到底出来やしない。だって、俺の幸せは彼女が隣にいることなのだから。
だから、ごめんね。
悪いとは思ってるけど、反省はしていないんだ。
彼女が願う幸せは、彼女がいなければ成り立たないんだから。
例え何年過ぎても、きっと俺は同じことを繰り返す。

―――男は、女を迎えに行く。


***


――――高専地下、薨星宮参道
「下がっていて下さい!!」
いち早く我に返り、下がるように声を荒げたのは、黒髪を後頭部でまとめたボンタンズボンの学生であった。
銃で撃たれたはずだったは、何故か傷ひとつない様子に混乱し、現状を今一つ把握できないながらも理子に腕を引かる。
「行かせるかよ!」
口元に古傷のある精悍な顔つきの男、伏黒甚爾が、すぐさま鎖つきナイフを旋回させた。呪霊も見えないには、男は武器を突然空中から手元に現せたようにしか見えない。
正確には、収納呪霊を使用しそこから様々な武器を取り出しているのだが、非呪術師でしかないは驚きと、向けられる鋭利な凶器に恐怖に身を竦ませる。理子を助けれたのは、咄嗟の無意識の動きによるものだった。自身が生きていることだってジュリョク?とやらのお陰らしいが、にはさっぱり男の言い分がわからなかった。現状は把握しきれていないままだ。けれど、男は何故か理子を狙っているようなので彼女をこの場から逃がさなければならない。
理子に引かれた腕を握り返し、伏黒と相手取る青年を背に昇降機へと向かう。しかしこの時、背を完全に向け昇降機へ意識を向けていた非戦闘員の二人は全く気付かなかった。
青年、夏油傑は一級呪術師である。――しかし、相手が悪すぎた。黒髪の男、伏黒甚爾は呪力を持たない代わりに、身体能力が異様に強化された天与呪縛をもっている。異様な速さと力で夏油の持つ呪霊の隙をつき、鋭い鎖つきナイフが二人の背後を襲う。
「危ない!!」
気付いたのは、メイドであり理子の護衛でもある黒髪の女性、黒井であった。
赤い鮮血が宙を舞う。
「「黒井(さん)!!」」
黒井の肩をナイフが抉る。咄嗟にと理子が声をあげた。向かう狂刃に気付いた黒井はすぐに仕込み武器を取り出し、対応しようとしたが想像以上の素早さと、投与されているにも関わらず想像よりも重い一撃に、押し切られてしまったのだ。一級呪術師である夏油を出し抜く相手に、一護衛である黒井が叶う相手ではなかった。
致命傷ではない。けれど黒井から流れる血にと理子は足を止めてしまう。その隙を伏黒甚爾が逃すはずもなかった。黒井を傷つけたナイフはそれだけで終わらず、今度は理子へと向かう。
「理子ちゃ・・・!」
が手を伸ばすが、間に合わない。腕を掴み押しのける前に、刃が理子の首元へと向かう。けれど、その刃が理子を傷つけることはなかった。
ガキン、と金属を弾く音と共に、見えない壁に刃が防がれたからだ。理子の腕を握ったまま、は目を瞬かせる。これは、銃で撃たれたときと同じ現象??
「・・・っとに面倒くせェ女だな!!」
黒髪の男が舌打ちを零し、苛立だしげに声を荒げた。呆然とするだったが、すぐに思い直す。これなら、いけるかもしれない。
恐怖よりも先に、一縷の望みに震える足を動かす。理子の腕を掴んだまま、怪我をして顔を歪ませる黒井に肩を貸し背後を気にせず昇降機へと向かう。追撃しようとする伏黒の攻撃は、やはりの予想通りだったらしい。だけでなく、が触れるものにも謎のバリアを発動されるようだ。耳元で弾かれる音に身をビクつかせつつも、銃で撃たれた時のように衝撃に放心せず駆ける。
幾ら追撃しても、傷一つ負わない彼女たちに男は他の手に出ることにした。
ようは逃げる手段を破壊すればいいのだ。昇降機へ向かう男の手足を、しかし黒く長い髪が拘束する。
「行かせないよ」
黒く長い髪の女の呪霊を現せた、夏油だ。彼は額から血を流しながらも、伏黒の動きを阻止せんと戦闘意欲を失う事はない。
そうしている間に、達は昇降機まで辿りつくことが出来た。理子と出血に意識をぼうろうとさせる黒井を乗り込ませた所で、はようやく背後を振り返る。青年はこちらにやってくる様子はない。
黒井もそうだが、足止めを買って出てくれている彼は随分と血を流している。対して、黒髪の男は傷はほとんどなく体に付着しているのはほぼ返り血なのだろう。は無意識の内に、首元の蒼い石のネックレスを掴んだ。
―――元の世界ではなかった、夢の中で少年にもらったネックレスは、何故か理子達に助けられた時に身に纏っていたのだ。初めは不思議がっていたが、身元もなくなってしまったの今までを思い出させてくれるこのネックレスは、今ではお守りのような存在になっていた。
蒼い石をぎゅっと握りしめる。夢の中で会った、石と同じ瞳をした少年が胸中に浮かんだ。
不思議な蒼穹の空間よりも、吸い込まれてしまいそうな青の瞳を持った少年。雲のように白くふわふわの髪と、青空と似た色彩もそうだが。白く細い手足に小さな背にも拘わらず、常に凛と佇み誰もよりも相応しい青空の覇者のようだった。当初、が少年を実在しない夢の中の人だと思ったのもそれが原因だった。けれど接していくうちに、彼が零す反応は大分スレてはいるが子供そのもので。堅い殻に閉じこもっていた少年の、酷く人間味の溢れる内面が零れる度にはいつの日にか、少年の幸せを祈るようになっていた。
この世界に来てから、気が付けばあの不思議な夢を見なくなって数か月。きっと今頃中学生活を満喫しているだろう少年が、励ましてくれているような気がした。は己を奮い立だせると理子へと振り向く。
「理子ちゃん!黒井さんをお願いします!!」
「なにを・・・!?」
いつも涼しい表情を浮かべている黒井の額には脂汗が浮かんでいる。もしかしたら何かナイフに塗られていたのかもしれない。理子へと声をかけたは、返事が返ってくるのも待たず昇降機のボタンを押す。慌てる理子の声にも振り返らず、はそのまま、扉が閉まりきる前に外へと出たのだった。

背後で動く機械音に、夏油は内心安堵した。
理子が拒絶した薨星宮へと入ることはなくなったが、高専に戻れば他の呪術師達がいる。天元様との同化の拒否に周りの呪術師からは反発はあるだろうがーー上には担任である夜蛾がいる。直ぐ様悪い方向へとはならないはずだ。
これで彼女たちは安全だろう。あとは、この男だけだ。
到底信じられないが、男は親友である五条悟を殺したのだという。しかし、男がこの場にいるならば、足止めしていた彼が無事である可能性はほぼない。親友の死に、夏油は怒りに殺意を膨らませる。護衛対象である彼女たちが離れ、もう理性を働かせる必要もなくなった。これで遠慮なく、眼前の男と殺り合える――
呪霊使役する夏油は、竜の呪霊で拘束したままの伏黒を捉え、建物の壁へとぶつけ続ける。
ガラガラと凹んだ石壁が砂埃を立てて崩れていく。けれど砂埃が落ち着くよりも先に、夏油の膨らんだ殺意は背後からの響くはずのない足音に拡散する。
「・・・っな!?」
黒髪の、この場に不釣り合いなメイド服を着込んだ女が、もうもうと立ち込める砂埃に咳込みながらこちらにやってきていた。理子の世話役だという非呪術師。黒井とは違い非戦闘員だという女性だった。夏油は声を荒げる。
「なんで、まだ・・・っ!早く逃げてください!!」
避難を促す夏油の言葉も聞かずに、女は彼の元までやってきてしまう。
女は傍にくるなり、唖然とする夏油の手を突然握る。
「わかりました!手を繋ぎましょう!!」
「・・・は!?」
会話が通じない・・・!?
思わず常に表面上は柔和な夏油も声を荒げてしまった。
女は頬を僅かに上気させて、照れているのかもしれない。何言ってるんだ、といった不審な感情を隠さない夏油を前にしどろもどろに提案する。
「よく分からないんですが、バリアみたいなのが張れるみたいなので・・・!」
原理は全く分からないが、は己と己が触れた人物へ攻撃が当たらないことに気付いた。だからこそ、は理子と黒井だけ上に行かせ、この場に残ったのである。
いい年して手を握るのはさすがに羞恥心を煽られるが、泳ぎそうになる視線をぐっと堪え青年を見上げる。
「子供に怪我ばかり、させていられないですよ・・・!」
青年は近寄れば近寄る程、見上げる背は随分と高い。けれど身に纏う服装は学ランのようで彼が学生だと検討づけられた。少なくてもボンタンズボンは土方のあんちゃんか、不良よりの学生が履いているイメージだ。纏められた黒髪といい品行方正なイメージに見えるが、ちょっとやんちゃしちゃったのだろうか。にはそう見えたのだ。
相手はナイフは愚か拳銃も持った、考えたくはなかったが暗殺者というものだろう。普通に生活していたにとっては、境界線の向こう側の物語の中しか存在しなかった。現実離れした現状に本音を言えば、はすぐさまこの場からとんずらしたい。―――けれど、
子供に任せて、大人が逃げる?
そう考えたとき、は逃げることを止めた。蒼い瞳を持つ少年と過ごした大切な日々が、を柄にもなく奮い立だせる。青年や傷のある男、メイド兼護衛の黒井のように力や能力がある訳でもない。それでも、僅かでも今のには役に立てる術があった。

の言葉に、青年がぽかんとした表情を浮かべる。本音は逃げ出したいのだろう、黒い瞳を不安げに彷徨わせ仕切りに瞬きする女は、しかしこの場から立ち去る事はない。
「邪魔になっちゃって、申し訳ないのですが・・・」
は当然戦えず、運動神経も平均的なものだ。素人目で見ても訳が分からない程人外な動きを見せている彼らであったが、青年には戦闘中もの手を握るというハンデを押し付けてしまうのだ。
けれど、手を繋いでいれば青年がこれ以上怪我を負う事はない。自身ももともと、何故か怪我一つ負うことはない。だからこその提案だった。
確かに、女の作戦も一理あった。
親友と似た――いや、同じ呪力を纏う女の術式も信頼できる。どう見ても、女が纏うのは五条悟のものだ。アイツが何も考えずにこんな事をするはずがない。むしろ見える者には見せつけるようで、これだけの呪力だ。恐らく見えない者にも影響を与えている。一体、どういうことだと問いたい気持ちを堪える。こちらの反応を伺う彼女は、やはりただの善良な一般人だった。
「・・・分かりました」
逡巡したあと、夏油は頷く。
その時だった。瓦礫の向こうから声が上がる。
「おー、作戦会議は終わったかぁ?」
声は毛ほどに怪我を負っている様子もなく元気なものだった。しかして落ち着き始めた砂煙の向こうから姿を現した男は―――やはり傷一つ負っていなかった。あれだけ壁を破壊する程、引きずり回されたというのに。唖然として伏黒を穴が開くほど凝視していただったが、直後、ぐるりと視界が回る。「しっかり捕まっていてください。」
「!?」
手を握って一緒に走る。はそれぐらいの範囲でしか考えられていなかった。しかし呪術師と非呪術師。加えて夏油は呪術師の中でも上から数えた方が早い一級呪術師だ。動くだけでも、彼女では到底追いつけない。
確かに随分と身長が高いものの、青年は涼しい顔でを横抱きに抱える。ドラマでも中々お目にかかれない漫画のようなお姫様だっこである。まさか年下である学生に、だ。目を白黒させただったが、しかし、のキャパシティは更に超えてしまう事になる。
「舌を噛まないようにしてください」
青年はそう言うなり掌を動かす。そして一足で宙を登ったかと思えば、地面に落ちることなく。そのままどんどん体が宙に浮いていく。には見えない呪霊の竜を手元に戻し、夏油はその身に乗っただけであるが見えないには宙が浮いているようにしか見えない。胃が恐怖に縮まる。早まってしまったかもしれない。これは確実に万国人間ビックリショーである。青年は宙に平気で浮いているし、傷のある男も狂気じみた笑みを浮かべて壁を駆けあがっているのだ。パルクールにしたって、そんなあり得ない。重力は最早どこに。目尻に涙を浮かばせながらも、は悲鳴を上げそうになる喉元をきゅっと絞る。
そして遠慮することなく、振り落とされないように青年の衣服を握り占めるのだった。


金属音が絶え間なく空間に響く。
何度も向けられた男の攻撃は触れる一歩前で悉く防がれ、と青年は未だ傷を負わずにいられた。しかしそれは伏黒甚爾も同じであった。むしろあちらはのような壁も持たない為、傷一つ負わせられていない様が異様すぎた。
いくら青年がというお重りを抱え、時に小脇に抱え、時に首根っこ掴みながら戦わなければならなくても、青年と伏黒甚爾には漠然とした差があった。

伏黒甚爾は苛立ち始めていた。
一般人のメイドが現れてからというものの、予定が狂ってしまっている。さっさと呪術師を片づけてターゲットを追いかけるだけだと考えていたが、なかなかどうして、女に纏わりつく術式が厄介だった。
――あんの糞ガキ。本当に気に食わねェ。
好いた女だかしらないが一般人相手に容赦ない呪力を全身に浸るほど、これでもかと纏わりつかせるガキはさすが五条家の神童と言われるだけあった。相当イカれてやがる。
伏黒甚爾には切り札がある。その心底気に食わない五条悟を倒す際に使った呪具だ。全ての呪術式を解除する特級呪具のナイフ。しかし切り札というのはここぞという時に使用してこそ力を発揮する。やたらと使い存在を知られてしまえば相手に構えられてしまうだけで、先がやりにくくなる。
どうせ、五条のガキの呪力を込めた程度の無下限術式だ。何度が食らわせていれば破壊できるだろう。当初からそう想定し、緩めることなく食らわせ続けた伏黒の攻撃は、あれから15分経っている。しかし今なお呪術師は愚か、女にも傷一本怪我を負わせられていない。
どんだけ込めてやがるんだあのガキ。ほんとクソだな。心底伏黒は思った。
そろそろターゲットである天内理子が高専内の呪術師に保護されてしまっても可笑しくない時間だった。伏黒甚爾は当初の予定を変えざるを負えなくなる。
―――無駄な時間をくっちまった。
最初っからこうすればよかったのだ。
呪霊から取り出す新たな武器に、呪術師である夏油が構える。腕の中で抱えられている厄介な一般人のは既に目を回していた。
取り出されたのは小ぶりのナイフだった。けれど見た瞬間、ゾクリと肌が粟立つ。ナイフに纏わりつく異様な呪力と、あとは一級呪術師の直感だった。
あれは、触れてはならない。
一瞬で間合いを詰める男から距離をとろうとして、夏油は男の狙いが腕の中のであることに気付く。咄嗟に女を突き放し、代わりにナイフをこちらから掴みかかる。素手から血を流す夏油に、伏黒は弓なり口元に弧を描いた。
「っは!あんたもイカれてんな!!」
夏油が呪霊を向かわせるよりも早く、懐に入った伏黒が鋭い蹴りを空いた腹へと叩き込んだ。
吹き飛ばされた夏油は、そのまま壁へと衝突してしまう。天与呪縛により底上げされた脚力で蹴られ、軽く壁に罅が走った。肺が一瞬呼吸を止まる。呪力で強化していても内蔵がどこか傷つけられたのだろう。咳込んだ夏油の口の端から血が流れた。
庇われたは目を見開く。じゃりと、ちらばった瓦礫の小石を踏む音が、近くからした。
「あのガキと、同じところにいかせてやるよ」
駆けよらなきゃ、怪我をした夏油にがそう思った時には伏黒は既に目の前にいた。無意識の内に向けた男が握るナイフには青年の血が滴っている。あのナイフの攻撃は防げない。は男が振りかぶる様を、瞬きせず見上げた。
「それは、許せないなぁ」
その時だった。酷く、間延びした声が間に落ちる。
視界に影が覆う。すぐに鋭い打撃音がして、変わらず目の前にある影と、いくら待ってもやってこない衝撃には伏黒が吹き飛ばされたのだと知る。
視線を上げて、影の正体を見る。

と伏黒甚爾の間に入った男。
振ってきたように現れた男の白銀の髪はふわりと宙に舞う。スラリとした手足に随分と背の高い青年は、美しい蒼い目を細める。
男は口元に弧を描き、声は飄々としているのに、その目は隠し通せない程の熱量を宿した目をしていた。





/ TOP /