DreamMaker2 Sample 燃える火のような、夕陽だった。茜色は鮮明で、塗装の剥がれかけた学舎の壁を橙色に染める。高専内の境内に、黒く長い影が伸び一人の男が歩いていた。射干玉のような黒い髪は肩まで伸び、無造作に後頭部でハーフアップにされている。すらりと長い手足に、広い肩幅。一見、高身長から細身に見える男だが、ただ歩いているだけでも動きに無駄はない。ゆったりとした黒いジャージを纏っていても、鍛えあげられた体躯の良さが伺えた。夕暮れに照らされる横顔は、大層な男前だ。切れ長の漆黒の瞳に薄い唇、筋の通った鼻筋。涼やかな表情は、沈む夕日を浴びて憂い帯び、男の顔立ちをより妖しげにみせていた。
東京呪術専門高等学校三年担当の教員、夏油傑。彼はとある事情で三年生が休学してからは、一年と二年の副担任を勤めていた。男は次の鍛練で一年生達に扱わせる呪具を見繕う為、高専内の武器庫へと向かっていた。長い上背を僅かに丸めて石畳を歩く夏油の正面から、風が吹く。黒の長髪が靡き、視界を枝木から落ちた枯れ葉が横切る。その刹那。
ガツン、と頭を殴りつけられたような衝撃だった。夏油の眉が寄せられ、三白眼が見開く。漆黒色の瞳に映る赤い洛陽はそのままに、無数の残像が溢れ出ていく。
記憶が重なったのは、そんな何の前触れもない時だった。
瞼の裏で、フィラメントが明滅する。夏油は俯きがちのまま、思わず片手で顔を覆った。気が付けば手が震えていた。憎しみと怒りがない交ぜになり、一つになっていく。夏油が己の思考とは別の考えに、違和感を頂いたのは随分と前のことだった。違和感とやり場のない怒りを抱えて数年を過ごし、それでも終ぞ原因を突き止めることは出来なかった。気の所為と流すには余りにも大きな違和感だった。自らを乱されたようで、何度も腹の底が煮えくり返るような怒りを覚えた。ーーーそれも、そのはずだったのだ。夏油の直感は、誤りではなかったのである。
本来、己の辿るべく道に、バグのような存在がいる。
違和感を常に抱き続けた。僅かなささくれにも似た違和感が、あの女を思い出す事で明確になっていく。同時に、それでも残り続けた違和感を夏油は無視しなかった。なぜ、女をバグのような存在だと思うのか。今の今まで記憶から消え失せていたからか?否、違うーーー。妥協せず懐疑心を抱き続け、かつ並大抵の呪術師では辿りつけない特級という冠を抱いているからこそだろう。夏油は女を思い出しただけでなく、きっかけとなる違和感の糸を掴んだまま、直感に従い、呪力でもって紐解いていく。成し得たのは、夏油傑であるからだ。彼は本来ならば知りようのはずもない、もう一つの枝分かれした道をこの時全て思い出す。否、統合された、というべきか。

非呪術師の民衆を猿と唾棄し、利用し、手を血に染め尽して思うがまま殺戮した日々。
学生の頃、一人の女を猿と罵倒し、嫌悪し本音を取り繕うことすら馬鹿らしくて、止めた日々。

このタイミングで女を思い出したのは、今の今まで綺麗に記憶から消えていた『バグ』となる存在の未来が、確定した為だろう。もとより、あれは神隠しで現れた不安定な存在だ。女に関わる記憶が、全て消えても可笑しくはない。
ーーー例えそこに深い爪跡を、残したとしても。
夏油が気に入らないのは、そこだった。

非呪術師全てを見限り、呪った夏油と、非呪術師、呪術師を己の天秤で図る、呪術師の夏油。
呪詛師と、呪術師としての道。どちらも紛れもなく夏油傑である。呪詛師としての己は言うまでもなく、例え呪術師の道を歩んでも、人たり得ない非術師は嫌いだ。全てを許せるかと問われれば、到底無理な話だった。害悪は悪でしかなく、善にはなり得ない。夏油傑が学生の頃に抱いていた、青臭い理想には疾うに枯れ果てている。それでも。覆い尽くした建前すら隠すのが馬鹿らしいと呆れ、過ごした日々があった。あれだけ嫌悪したというのに、非術師と変わらない相手に対して、息をつけてしまったのだ。その事実から、夏油は目を逸らせない。
侮蔑しても気が抜けるように笑う女を、夏油は知っている。否定しても女は構わず己の手を引いてきた。泥だらけで地面に倒れこみ、いかに己の力が無力であるか骨の髄まで痛感しても、意地汚く向かうことを諦めない。痛みや悔しさにも、へらへら笑って図太く立ち続けた女。取るに足らない猿だ。彼女もまた、下らない記憶による感傷を抱く対象であり、呪力もほとんどなく、非術師とさほど代わりはない。理想の世界のために必要のない存在である。夏油傑にとって、猿の象徴。女がいなくても、夏油傑は息が出来る。其処にいようがいまいが、関係はない。
だが夏油傑にとってほんの少し、小指の爪の垢ほど、ふとした時振り返ってしまう。女は本当にほんの少しばかり、生かす価値があった。ーー少なくても、人の了承を得ることなく、勝手に思考の片隅で掘りごたつを引っ提げたかのように居座り続けた怒りを、ぶつけるまでは。人を散々振り回し、コケにしてくれたお礼は必須だろう。

自身が思い出したということは、当然、あの男も思い出しているだろう。いや、既に動いている、か。
夏油は足裏で、石畳が微かに振動しているのを感じ取っていた。地震にしては長く、何よりもタイミングが良すぎた。
「(ーーーこれは、地下か)」
上手く隠れているのか、慣れ親しんだ友の呪力を感知する事は出来なかったが、大地が揺らぐ程の術を放つ規格外の人間を、夏油は一人しか知らない。

俯いていた顔を上げる。いつもと変わらぬ、腹の底の見えない表情だ。
唇が弧を描く。弓なりになる黒曜の瞳には、ぎらついた陽炎が浮かんでいた。

 

ーーー女が現代に連れ戻される、数十分前の出来事だった。



***



現代へと戻り、数日。ばたついていた諸々の手続きが終わり、ようやく少し息をつけるようになった頃だ。
目の前には、にっこりとアルカイックのように輝かんばかりの笑みを浮かべる男。しかして細められた黒曜の瞳は、微塵も油断もない獰猛種そのもので、は腹の底から身体が震え上がった。なんて器用な男である。元より器用な男であったが、眼光一つで人を殺せそうな人間にならなくてもいいだろうに。
「この度は各種方面、各々方様につきましては大変ご迷惑をおかけしまして……」
先手必勝。少しいいかい?なんて柔和な笑顔を浮かべつつも、言外に横面に顔貸せとくっきりと書かれた、ヤクザですら裸足で逃げ出しそうな男に呼び出されたは、全力で逃げたい気持ちにも関わらず、その場に居合わせた同期の黒髪の青年に満面の笑顔で、もう一人のクォーターには無表情で見放された。やたら笑顔の夏油の後を、死んだ顔で着いていき、こうして高専内の談話室の片隅で顔を突き合わせることになったのだ。
席に着くなり、はすぐに上記の口上を述べて、誠心誠意平伏す。落ちる重々しい沈黙。ちらっと顔を上げ伺うも夏油の表情はちっとも変わっていなかった。逆に怖すぎる。目が泳がせ、視線を合わさないようには尋ねる。
「ご、ご要件とは…?」
声すら震えそうなに、夏油は優しげな表情だ。だが、見た目だけだ。
夏油は微笑みを微塵も崩さず、席を立った。
「まぁ、少し待っててくれ」
イヤだ超逃げたい。そう思うも、柔和な表情を浮かべている癖に、去り際の視線の鋭いこと。笑っているのに笑っていない夏油に、蛇に睨み付けられた蛙の如くは身じろぎ一つ出来ず、ただ待つ事しかできない。
ほどなくして、席を立った夏油が戻ってきた。夏油は手に持った皿をの目の前のテーブルの上に置くと、いっそ神々しいまでの笑みで指さす。
「忙しくて、食べるどころじゃなかっただろう。君のために、とびきり腕によりをかけて作ったんだ」
ただし、目は笑ってはない。がのろのろと視線を落とすと、皿の上には積み重なり小盛となった黒々しい丸い塊が載せられていた。
とても既視感があった。夏油の呪霊玉である。過去、バレンタインデーには夏油へ、冗談混じりに呪霊玉に似たビターチョコを渡したことがあった。いや、それにしてもここまでは毒々しくはなかったはずである。なんかもう、見た目からしてヤバそうな雰囲気である。え、そんなに嫌でした…?せめてもの慈悲を求め、は視線を上げる。
藁をもすがる視線を向けるに気付いた夏油は、仏のように慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「ほら、遠慮せず食べなさい」
「…は、はは……」
の頬は引き攣った。

見た目がヤバいチョコレートの塊は、見た目の通りの味だった。とんでもなく苦いのである。が苦しみ様を超絶笑顔で見ていた夏油は、ようやく邪気のない笑みで手を叩く。
「いや、君の愉快な表情に、僅かばかりだが溜飲が下がるよ」
とんでもなく精根捻くれまくりな男になったものである。最後の一つを手に、終わりが見えてきたは、頬が引き攣りそうになりながらも乾いた笑みを浮かべる。
にっこにこの表情で夏油は席を再び立った。これで済んだかと思い内心一息ついたの目の前に、すっと、もう一皿が差し出される。
「まだあるから、たんと食べるがいい」
「……やっぱり恨みでもある?」
思わず飛び出たの本音に、夏油は心外かのように片眉を上げた。
「失礼だな。本来ならば、遠慮なくぶん殴ってやりたいところだが、猿といえども一応、仮にも性別科学上、女性だからね。
そこはぐっと堪えてやったんだから、感謝される謂れはあっても、批難されるとは心外極まりないよ」
夏油は呪霊操術といった術式で、取り込んだ呪霊を意のままに操ることが出来る。性質上、呪霊に頼りきりになるかと思いきや、しかし本人は術式に頼らない肉体系ゴリラだ。後方に下がる事を良しとせず、操る呪霊と一緒に前線に出るような男である。過去ではよく五条と衝突し、殴り合いに発展している様を見た事のあるは、顔から血が引く心地がした。五条も五条で、無下限術式といった完全防御の術式を持っているにも関わらず肉弾戦も得意とする。あいつらストリートファイターでも目指してんのか、とは在学中、術式に頼らない喧嘩をする二人を見て何度思った事か。二人が喧嘩を初めれば周囲は誰一人止められず、破壊尽くされるだけだ。そんな男の片方に殴られでもすれば、下手すれば命すら危ぶまれる。
は引き攣りそうな頬を引き上げて、目の前に積まれた黒々しい塊を慌てて手掴み、口へと運ぶ。
「いやぁーオイシイナー!」
「あははは」
どうやったって、側目から見て、は無理くりに笑っているだろう。にも関わらず、夏油は冷汗流すの様を見て、花を散らさんばかりの笑みだ。
彼等の座るテーブルの一角は、異様なほど温度差に包まれていた。


肺腑に至る、福音




もくもくと死んだ顔で、甘さの欠片もない苦々しいチョコレートを頬張るを、にこにこと頬杖をつき、飽きることなく眺めていた性悪こと夏油は二皿目の残りを半分まで平らげた所で、ようやく口を開いた。
「君は猿だ」
「あ、ハイ」
開いたかと思えば、突然の暴言である。今度こそ、非難してもいいよね?と、顔を上げたは、先程までのにこやかな表情ーーそれもそれでどうかと思うがーーを一変させて、感情を削ぎ落としたような無表情で、鋭い視線を向けてくる夏油に、唱えようとした非難は喉の奥にかき消えて、即座に頷いた。この男、笑った顔も胡散臭いが、無表情もとんでもなく怖い。反射的に体を縮こまらせたを前に、夏油は腕を組む。

腸が煮えくり返る程、苛々する。そう、夏油傑は、苛立って仕方がなかった。
女は無力で、視える事はあっても術式も大したことのない。夏油からすれば、非術師同然の存在である。
ーーー非術師は全て消すべき、ともう一人の自分が囁く。害あるものは、すべて消してしまえ。無為に搾取される呪術師の為に。呪術師が生きやすい世界にするために。すべての呪霊の元となる、非術師は消えていなくなるべきだと。非術師に生きる価値などない。
けれど今の夏油は、こうも思うのだ。
脳裏に、こびり付いて離れない記憶がある。何時の日かの、誰もいない寮の非常階段で。月灯りも差さない夜空の下、自分の為だと言って、他人にはない能力を態々使い、非術師を陥れて清々したとあっけらかんと笑う。殴りたくても、殴る力ないからせめて能力を使って、卑怯で、浅慮で、そんな猿のような君が、
誰かのためにだとか、とんでもなく柄でもない。そうだろ?ーーー君も、私も。
「猿が、どうして人の役に立つ?人様の畑を荒らす野生の猿ほど、害獣はない。猿なら猿らしく、大人しく動物園なり檻の中で飼われてないと迷惑だ。君ごときでは何も変わらない」
夏油はそこまで一息に言うと、苛立ち紛れにトン、とテーブルの上を指で叩く。
ギロリと人を殺さんばかりの、黒く鋭利な視線がを睨めつけた。
「猿は部を弁えろ」
「ウス…」
暴言に続く、酷い暴論である。しかしはロボットの如く首を縦に振るしかなかった。五条ばかり暴君とされるが、この男も大概だ。正に類友。特級って自我強すぎない?しかし大魔王宜しく降臨されている夏油を前にして、異を唱えるだなんてそんな命知らずな真似ができる程、は空気が読めない訳ではない。だんまりとするに、夏油は視線をの指先へと向けた。目が覚めたら嵌られていた、の薬指にある指輪である。
「それがある限り、君はもう勝手なことはできないだろうが。次に勝手なことをしようものなら…首輪で済めばいいね?」
にっこりと笑いながら指摘されたソレに、の表情は固まる。
目が覚めたとき、嵌られていた指輪は、きつくもなく何故かピッタリで、何度か外そうとして外すことが出来ずにいた。正直に言おう。気味が悪かった。これって、呪われてるのでは…?なんて、診療してくれた家入に思わず尋ねたところ、白々しく視線を逸らされ話題転換をされた記憶に新しかった。その後、嵌たであろう当人である五条に直談判するも、とびきりの笑顔で黙殺される始末である。
「…もっと私にも優しくしてくれていいんですよ…?」
半笑いのに、夏油はきょとんと目を瞬かせた。
「?君に優しくして、私に何の徳があるんだい?」
至極、不可思議そうな表情を浮かべて、夏油あ首を傾げる。
数年越しの感動の級友相手にも関わらず、相も変わらず、夏油のに対する反応は塩辛い。むしろ増しているような気がして、スーパードライな友人に、は内心思わず涙がちょちょぎれ、膝を抱えたくなった。


そうして皿の上にある最後の一つを口に運ぶのを見届けると、早々に夏油は席を立った。残るは屍然としただけである。机に倒れ伏さん勢いでグロッキーになるを、元凶である夏油は振り返りもしない。
夏油が扉を潜ると、廊下の影から声がかかった。
「変えられない、ねぇ?」
白髪に黒の目隠しをした長身の男だ。男は扉の脇で腕を組み、壁に背を預けている。目立つ容姿は廊下の影に紛れ、談話室からは見えない。一見闇から現れたように見えた大男に、夏油は驚いた様子も見せず、胡乱気な視線を向ける。夏油のもの言いたげな視線を受けて、目隠しで見えないはずの男が片眉を上げる。
「なに?」
「…君みたいな猟奇的な男に狙われて、可愛そうに」
一体いつからそこに、なんて藪蛇を突くような野暮なことは言いやしないが。机の上に倒れ伏しているあの女は微塵も気付いていないだろうが、呪力を隠すことなく、あからさまに牽制して来た男である。醜いったらありゃしない。苦々しいものを嚥下したかのように、渋顔を浮かべる夏油に、白髪の男こと五条は肩を竦めた。
「ヤだな。だから一途って言ってよ」
あっけらかんと言う五条を、夏油はしげしげと眺めた。顎に手を当てて摩り、感慨深く言う。
「……つくづく、随分な変わりようだね」
「…まぁ、僕自身も吃驚だけど」
こんな自分がいることに。咥内でぼやいた五条の言葉は、口にはしなかったが、夏油には伝わった。五条は自由主義と言えば聞こえがいいが、放任主義。その性格は、全てに共通していて勿論恋愛面もそうだった。夏油と出会ったばかりは勿論の事。彼女と高専時代に出会わなかった世界線のこの男なんて、始終いい加減だった。五条は常に割り切っているのだろうが、女性側はそうはいかない。初めは理解はしていても、やがて情が芽生え、感情が追いつかなくなる。執着心のなさに揉めた末の五条の心無い言葉によって、毎度の如く頬に紅葉を散らした男を何度見た事か。
頬を叩かれるくらい呪術師からすれば虫に刺されたような些事なものなので、五条と言えば気にも留めなかったから学ぶこともなかったし、むしろそれで煩わしい関係が途切れたと態と煽るような言動をしたのだろう。なにせ、頭だけは異常に回る男である。
かと思いきや、現代のこの男は違う。あの女が現れるまでは同じであっても、学生時代に出会い、あの女が消えた後も、今の今までそんな影すらない。別の世界線のこの男を知っているからこそ、あまりに極端で、潔癖に近い。
「感情が動かないんだよね。興味ない奴といても、詰まんないし。時間の無駄だろ?」とは、あの女が消えた後、恐らく夏油と同じく記憶にもなかった頃の五条の言葉だ。入学当初と比べて随分と大人しい五条に、若干心配にもなり尋ねてみれば、そう言い放った男に当時は成長したものだ、と感慨深く思ったが。何のことはない。記憶がないにもかかわらず、根を張る感情。執着や恋という言葉にするには、とても可愛らしい表現であっても。さすが遠縁とはいえ、乙骨憂太の血族の大本なだけあった。病的なまでの、五条悟の献身だ。
呪術界の女性陣からは、三高の顔よし、地位あり、金あり、性格だけクズで全て台無しと言われる五条は、業とらしく続ける。「ホラ、僕って性格いいから」
「アイツに好きになってもらう為なら、過保護にも誠実にも、何でもなるよ。まぁ、そもそも。僕にとっちゃ、以外の有象無象はどうでもいいし。知ってるだろうけど。ーーー手段は選ばないさ」
真面目に言う五条は、心の底からあの女に惚れているのだろう。それが悪いとは言わないし、友としては喜ばしい事だろう。しかし夏油はこうも思うのだ。
なりふり構わない最強って怖いな。
文字通り太鼓判を押す程、あの女に会う前までの五条は、不誠実な人間だ。それがただ一人の女で、こうだ。

身が焦がれるような焦燥感に煽られ、追い求め続け、ようやく彼女の手を掴んだ。
彼女が掌からすり抜けていく感覚は、もう二度とごめんだった。
「ようやく掌に掴んだんだ。離さないよ。絶対に」
軌跡でも偶然でも構わない。どんな手段を講じても、五条はようやく手にした彼女を、手放さないと決めていた。
柱に長身を預けていた五条は、そこで柱から体を起こす。両手を合わせ、話を切り替えた。
「さて、本題だ。
高専所属の夏油傑は、これからどうするつもりだ?」
にこにこと柔和な雰囲気で、五条は夏油に向き直る。弧を描く口元と穏やかな口調の割に、周囲の空気はピリついていた。
夏油と五条は、袂を分かたった。今の現代とは異なり、別世界線の話だ。五条も夏油も、を取り戻したと同時に、統合した記憶を所持していた。ともすれば殺気の滲む、異様なほど張り詰めた空気は、通常の人間であれば恐怖に息を潜め微動だに出来ないだろう。重厚な空気の中、夏油は肩を軽く竦める。
「何も変わらないさ。私は私のままだ」
あっけらかんとそう言うなり、夏油は身を翻す。簡単に背を向けたようにも見える。だが、見る人間が見れば、隙一つない動きだ。
掴みどころのない様子に、五条は首後ろを掻く。まだ学生の頃のように青臭い正義感を振りかざし、優等面のまま直情的に動いていれば分かり易かったのに。腹の底の見えない、ややこしい男になったものである。さて、似た者同士。図りもせず互いに良いところなのか悪いところかを吸収して、五条と夏油は、互いに同じような印象を多々抱く。他所から見れば全力で関わりを遠慮したい底意地の悪さだが、知らぬは己ばかり。五条は一息つくと、思いついたように夏油の背に声を掛ける。
「あ、そうそう。
一週間後、の出戻り記念兼、ここでは初顔合わせで歌姫達も呼んで飲むけど、傑はどうする?」
「予定がなければ寄るよ」
ひらりと、背を向けたまま夏油が片手を振る。遠ざかる背に、五条は思わず喉を鳴らす。
「本当、素直じゃない奴」
喉の奥で隠すような五条の笑いは、生憎と離れた距離にいる夏油の耳にも届く。思わず夏油は舌打ちが零れた。
ーーー本当に、面倒なやつ。
口には出さず、ぼやいた文句は奇しくも、同時に互いを罵倒し合う。
夏油は任務へ。五条は机に倒れ伏し弱っているの元へ、これ幸いと嬉々として世話しに向かう。

だが不思議なほど、互いに背を向けて、それぞれの道へ向かう足は軽かった。







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