DreamMaker2 Sample 例え記憶から消えようとも、一度結んだ縁は途切れない。


小さな小石を弾いては掌で受け止めて、掌の中の小石を遊ばせる。
夕暮れ時、空には生憎の曇天が広がっていた。今にも雨が降り出しそうな空模様の下、階段に腰かけた白髪の青年は、呑気に小石を弄っている。湿った気配に鼻を鳴らして、濃い夕立の気配に様子を見に来た青年の級友は、その背に声を掛けた。
「心配なら、硝子のところまで連れて行ってあげればいいのに」
白髪の青年は振り返らない。数百メートル先、大分離れた校庭の一点を見つめたまま視線を逸らすことはなかった。
掌の小石を弾いて、青年は答える。
「・・・それじゃ意味ねーんだよ」
視線の先で、動かずにいた一点がようやく置き上がる。黒髪を結い上げた、ジャージ姿の女だ。最も青年による訓練という名のしごきに髪は解れ、ジャージも泥にまみれ擦りきれた随分とボロボロな姿だった。校庭で大の字で倒れ気絶していた女は、体が痛むのだろう。動きは酷く緩慢だ。のろりと仰いだ空の、夕立の迫る鈍色にようやく気付いたのか、女は慌てて起き上がる。
女は一雨来る寸前で、体を引き摺るようにして校舎へと入っていった。

青年は小石をもう一度弾く。その様子を横目で見て、夏油は内心、素直ではないと呆れぼやいた。
一般人であれば気付くこともないだろう。だが日々呪霊と相対する夏油は、目が良い方だ。声を掛ける前、随分と距離は離れていたが、夏油は五条が男が手なぐさみに小石を弄っているのを見かけた。その内の一つ、小さな小石を弾かれる。ほぼ小石にも満たない、砂利のようなものだ。弾かれたソレは一瞬で飛躍した。音速で距離を伸ばし、更に遠くに離れた校庭の真ん中で、大の字になる人物の額へと見事命中する。
微小の石は当たった所で、本来であれば気付きもしないだろう。ところが投げた人間が人間だ。規格外の速さで当てたたため、いくら距離が離れていたとしても、多少の衝撃を受けたのだろう。額への衝撃に、伸びていた彼女がはっと目を覚ます。石は砂利といっても差し支えない大きさだ。体を起き上がらせる折に地面へと転がり落ちた小石が原因だとは、女は思いもしないだろう。お陰で夕立に降られる事無く、女は濡れ鼠になる前に校舎へと避難できたという訳だ。
ーーー雨が降り出す前に、わざわざ小石を投げあてて起こす程、気にかけている癖に。
唯我独尊といえば聞こえがいいが、お世辞にも人を気遣ったりしない性格の男である。そんな男の、不器用ながらも彼女だけに見せるあり得ない程の優しさに、これは雨が降るな、なんて思い直して、ああ、夕立が降りそうだった、と思い直して深く夏油は納得するのであった。
ポツポツと地面を叩き始めた雨に、夏油は持ってきた傘を広げた。夕立が降りだす前に、彼女も校舎内に戻れたから、持って来ていたもう一本の傘も不要のものだ。

白髪の青年は相変わらず階段に腰かけたままだった。雨足が強まり、本格的に雨が降り始める。夏油と違い青年は傘を差していなかったが、彼自身が濡れることはない。
衣服も頭髪も、触れる前に弾かれている。数ミリ先で弾かれた雨は霧状となり、青年の周囲は薄っすらとした膜で覆われているかのようだった。
青年は女が消えた先の校舎を、考えるようにしてじっと見つめていた。

訓練として称して女の相手をするようになり、数ヵ月が経っていた。しかしどれだけ鍛錬した所で、女は到底、呪術師は愚か補助監督にすら向いていない。豪胆さ無謀さ狡猾さ。呪霊と向き合うには、必ず必要な要素だ。かつ一つの要素だけでなく、いずれもある程度のラインまで合わせ持つ必要がある。女は多少呪力を持ちあわせていても、性質は何処までも一般人そのものだった。イカれていない女は放っておいても、数年もせずに勝手に折れるだろう。だから少しばかり、早い段階で何度も女の意思を叩き折ろうとした。
だが、何度やったところで女は折れない。
数えるのが馬鹿らしいほど、何度目かの地面に転がった女が体を起こそうとする。起き上がった女の目に思わず舌打ちをした。
無意識の内に口についていた。
「お前さ、その目ヤメロ」
言うつもりはなかった。五条悟としての矜持が嫌が応にも刺激される。指摘してしまえば、直視せざる負えなくなる。
だが、どうにもままならないらしい。

数百年ぶりの六眼に誰もが無意識の内に畏怖する。誰もが跪き、事実、高専に入学するまで友人という存在すらいなかった。対等の立場の同級生。打算を持たない後輩達。敬うことは決してないが、こちらに頭を下げてこない上級生。教え導こうとするお節介な教師。誰もが五条悟を一人の人間としてみる。新鮮で、同時に五条にとって高専というものは、大きい存在となっていた。力を伸ばすために役に立つかといえば、大してそんなことはない。独学で進めた方がむしろ効率が良く、早く強くなれるだろう。それでも、腐りきった呪術界も、まァまァ、捨てたものではない。と思い直す程度には価値があった。だから、再び五条悟として見ない人物がいたところで憤りは覚えないし、またかと肩を落とすような繊細な神経は生まれた頃から持ち合わせていなかったので、気にもしない。全てが有象無象と変わりなく、風景の一部である。
ところが、この女。
この女だけは、駄目だ。
最初はただの違和感だった。何時しか脳裏にこびり付いて、離れなくなる。特に女が何かした訳でもなく、高専の人間達と同じように肩を並べた訳でもない。気が付けば目は女を追いかけているし、挙句勝手に頭の中の片隅に住み込んで、思考からすらも追い出せなくなっていた。
友でもなく、ましてや此方側に益をもたらす存在でもない。そんな事は明白な、平凡な存在。
なのに、この女だけは手放せない。
理論的なものはなく、直感的なものだ。この女は、腹の底を掻きまわす人間である。散々自身を振り回し、制御できない感情を体の奥底に植えつけた。
だからこそ、自身を通して誰かを見る。到底、許容できるはずがなかった。

女の黒い目が、脳裏にこびり付くのだ。どちらかというと、五条悟への畏敬ーーーそれも憧憬が近い。だが、それとも妙に違う。
気に入らない。気に食わない。
積りに積もった鬱屈とした感情は、堰を外した様にあふれ出す。苛ただしさを隠さず、五条は鋭い眼光を向ける。
「お前が誰を通して俺を見てんのか知らねーけど、俺はお前の理想にはならねぇよ」
女の視線の先には、いつも他の誰かがいた。五条を通して、誰かを見ている。その女の目に苛立ちを抱くようになったのは何時の頃かだっただろうか。思えば、初めからこの女はそうだった。五条自身を決して見ることはない。五条は滲ませた嫌悪を隠すことなく、吐き捨てる。
「鬱陶しーんだよ」
五条家、六眼持ちの無下限術式。周囲が五条に向ける視線は、そういったものだから、女の自身を見る目にもすぐに気付いた。五条にフィルターを掛けている見ているのかと思えば、最悪なことに他の誰かを通して見ている。しかも、軽く突けば転ぶような驚く程軟弱なくせに、強い意思を宿して何度も懲りない。起き上がりこぼしか。
苛々と吐き捨てる。
「残念ながら、俺は優しくないんでね。思う存分アンタをボコってやるよ」
サングラス越しの碧い目は、冷え冷えと女を睥睨した。
「なんだったら、呪霊の前に突き出して引きずりまわしてやろうか」
両手をポケットに突っ込み、胸倉を掴んでこそいないものの、男の眼差しは鋭く空気は凍てつくようだった。気圧する青年に、大の男であろうとも凍り固まるだろう。あるいは身を縮めて、壊れた人形のように首を縦に振る。女は、そのどちらでもなかった。
小さく空気が揺れた。五条は眉を潜めて、あろうことか小さく口元を綻ばせた女を見る。女も表に出すつもりはなかったようだ。漏れてしまった笑みと、五条の視線に気付き、慌てて眉尻を下げる。
「ごめんね、そんなつもりはなかったんだけど」
女は、眦を緩めた。
「・・・うん。五条君は、五条君だなって」

女の表情は、ありし日の呪霊に追いかけ回された過去を思い出して零れた笑みだった。あの頃は恐怖しかなかったし、どうしてわざわざ呪霊に追い回させるようなことをするのかと、理不尽な五条を何度も恨めしく思ったものだ。てっきり、男の気まぐれ。人が嫌がる様を見て喜ぶように揶揄っていたのだと当時は思ったが、どうやらそうではなかったらしいと、学生の五条の言葉に気付かされた。何も初めから、とは思はないが。何時からか、自身の目的を諦めさせる為の行為だったのだろう。別れを避ける為か、あるいは、恩人である彼を想い人と勘違いしたからか。自分自身の淡い願望があるといっても、五条の今の言動を見る限り、後者が色濃い。
むず痒い気持ちと、未来の五条と同じ経験を積んでいなくとも、過去の五条も彼自身であること。
未来の五条を、学生の五条に重ねてみる、といったつもりはなかった。けれど無意識の内に重ねてしまっていた可能性もないとは言い切れなかったが、今この時、花子の中で未来の五条と今の五条が、ぴたりと重なった。
再認識した喜びに、花子は表情を緩めた。

一方で、五条は釈然としなかった。
散々恫喝したにも関わらず、笑みを零し喜ぶのだ。まるで、五条自身を見ているかのように。
僅かでも比べている人間がいる限り、許せない。比べているという事は、片隅にその存在があるという事だ。残念ながら、こと彼女に対しては狭量であるようで、未だにもやもやとした感情が残る。
なのに、女の綻んだ表情を前に、情けなくも五条は何も言えなくなってしまうのだ。
明快な頭脳を駆使するまでもなく、普段は動く口が、何も告げれなくなってしまう。



「クソ女」
雨足は強くなるばかりだった。誰もいなくなった校庭を眺めて、五条は呟く。
パキリ、と掌の中の小石を砕き、砂塵となったそれが指の間からさらさらと零れていった。



狭霧の君




掌から投げたそれは、快晴の空の下陽光を反射して煌めく。
必要のなくなったそれを掌で遊ばせていると、声が投げかけられた。
「何を持ってるんだ?」
ーーー数か月後。夏真っ盛り。
自販機に向かおうとしていたのだろう。夏油は財布を片手に持っていた。中庭に面したベンチに腰かけ、長い足を気だるげに放りだしていた五条は、ぽん、ともう一度、掌のそれを投げる。
「冥さん、最近色んな呪具集めてんじゃん?この前の助けた礼で、譲って貰った」
ま、しっかり金とられたけどな。さすが守銭奴。
だからこそ、こういった面では信用できるのだが。ぼやく五条に、今一つ要領を得なかった夏油は訝しげな視線を向ける。夏油の視線に気付いた上で、五条は振り返らない。
視線の先に、自販機横で話し込んでいる後輩達がいた。犬のような後輩と、生真面目で揶揄いやすい後輩。それと、起き上がりこぼし女。
女は、あれからも起き上がり続けた。何度もボコボコにしてもいつの間にか起き上がるし、へし折ろうとしても折れない。これでは拉致が明かないと、五条が気付くのにそう時間はかからなかった。
だが生憎と、それで諦めるようなものは、残念ながら端から持ち合わせていないのだ。
五条悟は優しくはない。男は自身でも、十分に理解していた。運命だとか、根拠のないものは信用しない。ロマンティックの欠片もなく、全ての理を揃え誂える現実主義者。あるのは徹底的に、利用できるものを利用する精神。
だから何度も忠告したのだ。
指先程のそれを弄り、問いを投げかけたまま視線を向けてくる夏油に、五条は答える。
「死神の目」
思いもしない返答に、一瞬夏油は呆ける。
五条が手遊びしているものは、変哲のない、平なガラス片のようだった。五条はガラスの破片を、死神の目という。
「・・・寿命でも視えるのか?」
思わず、夏油は尋ねた。死神の目、といえば。今まさに週刊漫画雑誌で火が付き始めた、某死神のノートから繰り広げられる漫画が思い浮かぶ。死神の目が持つ特徴は二つ。相手の寿命。そして、相手の体を表すモノ。
呪術師であり呪言という存在を知っているからこそ、あながち間違いではないのだと彼等は知っていた。逆にそれさえ得てしまえば、離れられない。
神隠しで高専に現れた女は、生きる時代が異なる。現れるのは唐突で明確な原因も分からず、故に、何時消えるかも分からない。消えた後に、何が残るのかもさえも。まさか、と問いかけた夏油に五条はようやくこちらを振り返る。口の端を吊り上げて笑う。
サングラスの下で蒼い目が薄っすらと弧を描いた。
「ジョーダン」
真夏の気温に浮かんでいた汗が、じんわりと冷えていく。

手が届かないと、諦めてしまう程、
五条悟は優しくはない。







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