DreamMaker2 Sample 漂う香ばしい香りに、食器の擦れる音がする。年季の入った食堂は伽藍としていて、椅子の背もたれに背を預けた際に軋む音すら目立ちそうだった。銀色のスプーンを行儀悪く口に咥えたまま、ぼんやりとカウンターの向こうを眺める。
自分以外いない食堂で、ただ手持無沙汰なだけだった。今日も今日とて、厨房では食堂のおばちゃんが夕飯の支度を進めている。
人数は少ないとは言っても、体が資本である呪術師だ。しかも、只でさえエンゲル係数の高い食べ盛りの学生達である。忙しない動きではないが、無駄なく、きびきびと動き次から次へと調理を進める様は、さすがベテランである。慌てた様子もなく、埃を立てない様気を付けてはいるが、それでもバタバタとした小走りにもならない。ちょこまかと動き回り、さすがに包丁を持つ手は怪しくはないが、それでも大きな寸胴の鍋を抱える危なっかしい姿に、思わず眉を寄せて、此方がハラハラさせられる事もない。少しでも慣れようとするのはいいが、何を気負っているのか、恐らくは年齢なんてものだろうが、それでも呪術を学ぶ生徒だ。そちらだけに専念すればいいのに、朝も昼も夜も、いつの間にか厨房に立ち、生徒達ににこにこと笑みを浮かべながら配膳をしている。だから何時までも雑魚なのだ。他所に笑顔を振りまく暇があるなら、ととびきり組手で扱いてやれば、夜にはちゃっかりと厨房に立っているのである。ボロボロになりながら。思わず舌打ちが零れた。だから、ふらつきながら寸胴を持つなよ、と何度苛立ち立ち上がりそうになりながらも、そこはおばちゃんが察して途中で制したお陰で激しい貧乏ゆすりだけでとどまった。

おばちゃん一人の立つ厨房は、平和である。イライラさせられる事もないし、何よりもどっしりと構えていることもあって、安心感がある。平和な食堂を満喫する五条は、食堂に入ってきた青年に気付いた。
「おー、傑」
五条が声をかけた黒髪を後頭部でお団子にした青年──夏油だ。夏油は返事の代わりに五条の向かいの席を引き、どかりと腰を掛けた。
「今帰りかい?」
「まぁな。たっく、北に行ったかと思えば次はま反対の南って、人遣い荒いったらねぇよ」
休む暇もねぇーの、と苦言を零す五条に、夏油は苦笑を浮かべる。
呪術師は人数が極端に少ないため、彼自身も人使いの荒さはよく身に知っていた。階級が高いほどそれは一押しで、二人は残念ながら、学生にして既に特級を冠していた。
特に、今年の夏は日照りが続いた事からより呪いが活発化している。同学年であるが、こうして互いに顔を合わせるのも随分と久しぶりだった。夏油は一呼吸置いて落ち着いてから、自身も夕飯を取りに席を立った。おばちゃんは溌剌とした笑顔ですばやく配膳して、湯気立つ夕飯のお盆を手に、夏油はすぐに戻ってきた。戻ってきた夏油は、盆を手に早々に言う。「それにしても、七海と灰原が無事でよかったよ」
「二人とも、怪我は酷かったけど。硝子が治療してるから、大丈夫だろう」
がつがつと掻き込むように食らっていた五条は、夏油の言葉に手を止める。
「補助監から聞いた。あいつ等爪が甘いからな」
一学年下の後輩である七海と灰原が、任務で怪我を負ったと知ったのは、五条が高専へと戻る道中だった。共にいた補助監督からは、二人とも怪我を負ったものの、既に治療を受けて無事だと聞いている。後で揶揄いがてら見舞いにでも行こうと考えていたが、夏油は既に様子を見に行っていたのだろう。二人とも能力値が低い訳ではなく、むしろ年齢からすれば十分なほど優秀であったが、それでも特級である五条からすれば脇が甘い。
「ま、これからは気付けンだろ」
何事も、見極めることが大事だ。特に命を張って戦う呪術師からすれば死活問題である。五条ら特級であれば直感で動けるが、それは限られたごく僅かでしかない。怪我を負ったと聞いた時は一瞬柄にもなく心配したが、一度経験すれば彼等も学ぶ。今回は見極める事こそ出来なかったが、あの二人なら大丈夫だろう。学ぶ能力はあると、五条は知っている。
再び、皿へと手を伸ばした五条に続いて、向かいに座った夏油も両手を合わせる。さて、と自身も食欲の誘う食事に手を付けようとした寸前で、夏油は気付いた。五条の表情が、どこか心あらずといった表情だったからだ。
「……どうした?」
思わず尋ねれば、五条は指摘されて気付いたのだろう。がっついていた手を止めて、食器を盆の上へと置く。
眉を寄せて、五条は苦々しい表情で呟いた。
「……あー、うちのカレーってこんな味だっけ」
「おばちゃんの?」
五条の答えに、夏油は思わず目を瞬かせた。
視線を自身の皿へと向けてみるが、いつも通り、いい香りのするカレーである。特に変わった様子も見られない。
「変わらないんじゃないかい? 今日も彼女の特製だろう?」
まだ食べてないけども、匂いも見た目も、彼女手製のものだろう。五条の不可思議そうな表情が、夏油には分からなかった。きょとんとした表情の夏油を前に、五条はもう一度納得する。「だよな」
再びスプーンを持って、カレーを掬う。口にじんわりと広がるのは、スパイシーな香りと、家庭的ないつものおばちゃんのカレーである。気のせいだ、と五条は流すことにした。

それでも、かき込んだカレーの味は、何故か味気なかった。



***



「なるほど、な。あんたか」
邂逅一番、その男は形の良い柳眉を顰めた。

直毛の短い黒髪に、鋭い眼光。がっしりとした屈強な体格に口元に傷跡のある男は、大変野性味のある風貌だ。
元呪術師殺し。花子の記憶では金で高専臨時体育教師として引き込んだ男だった。五条達とともに過去から戻ってきた花子達は、広々とした部屋へと出た。家具一つない部屋は、鍛錬用のものなのだろう。しかし壁や床に皹が入ったり、焦げ臭い匂いがしたりと随分とボロボロな様子だった。
男は胡坐をかいて、部屋の中心に座していた。過去から戻ってきた花子からすれば、あれから随分と時が経っているはずだ。あの頃の時点で、男は三十代半ば程の年齢のはずである。それにしても、年齢を重ねたようには見えなかった。よくよく男前の顔立ちを見て見れば、確かに彫の深みは増しているかもしれない。だが、元の男前の風貌に拍車をかけたようにしかみえなかった。世の「悪い男」好きの女性は、さぞかし放っておかないだろう。それでいて、二人の子供がいるのだ。それも花子がよく知っていて、恩人でもある。恵と津美紀の実父である──伏黒甚爾は、しげしげと花子を眺めている。その視線にたじろぐと、伏黒甚爾は顎に手をあてて、溜息を吐いた。
「趣味わりーな。こんなンのどこがいーんだ……?」
伏黒甚爾がぼそりと呟いたそれは、何も物のない室内に遮る事無く響いた。恐らく、花子に聞かせるつもりはなかっただろう。だがこちらを配慮するつもりもなかったに違いない。男は独り言をつぶやいた後、しきりに首を傾げていた。ひくり、と頬が引きつりそうになる。なんだか分からないが馬鹿にされたのは花子にも分かった。
この場にこの男がいるということは、今回の件に力を貸してくれたのだろう。こうして元の時代に戻れたのである。お礼を、と当初は思っていた花子だったが、初っ端から男の不躾な態度に、告げようとしていた感謝の言葉が憚られていく。なんだか癪である。とはいえ、未来の五条と再会できたのは男の協力があってだ。
ぐっ、と腹の中で堪えて、花子はにっこりと笑顔を浮かべた。
「お久しぶりです。伏黒甚爾さん、ですよね?
 有難うございます。お陰様で、こうして戻って来れました」
頭を下げた花子が、顔をあげる。
伏黒甚爾は小指を片耳につっこんでいた。
「俺はそこのガキに依頼されただけだ。オイ、五条。金は忘れずに振り込んどけよ」
「忘れてねーよ。まあ精々、全額スらなきゃいいな」
呆れたように、背後に立つ五条が答える。過去の時代の頃から、伏黒甚爾は随分なギャンブル好きだった。どうやら、今も変わりなくお馬さんに夢中らしい。よくよく男が胡坐をかいている傍を見て見れば、折り畳みの新聞とスマホが置かれている。待っている間もスマホで興じていたようである。花子は今回の件で上がった好感が、どんどんと下がっていくのを感じた。片手間か。馬券片手に私は助けられたのか。義理も温情も何もあったものではなかった。男の子供達とは正反対である。確かに、少年の方は若干素直ではないが、それでも彼は素直になれないだけで性根は心優しい。ぜひとも、爪の垢を煎じて飲ませたかった。
花子がドン引いている内に、伏黒甚爾は新聞とスマホを後ろポケットにねじ込んで立ち上がる。要は済んだとばかりに部屋を後にしようとする男は、帰り際にぼやいた。
「……ま、他にも煩い連中がいたからな」
それをどういう意味か、と尋ねる前だ。部屋の入口が勢いよく開かれる。

息を切らして走ってきたのだろう。額からは汗を流し、いつも涼しい表情が崩れていた。親譲りの直毛は、風で崩れ勢いをなくしている。とげとげとした髪型がへたりと勢いをなくし、鋭い目つきも相俟り、いよいよ伏黒甚爾にそっくりである。違うのは、顔立ちが中世的であるところだろう。青年は花子を見ると、くしゃりと顔を歪めた。
驚いた花子が彼の名前を言う前に、無言で駆けだした青年が花子を抱きしめた。
「よかった……!!」
すっぽりと花子を覆う体躯の青年に抱き着かれ、バランスを崩しかけた花子だったが、しっかりと抱き込まれている為転倒することはなかった。細身に見えて、彼も呪術師である。花子の体重一つで倒れ込む程軟ではない。全体重を支えてもぐらつきもしない青年に驚きつつも、花子は勢いをなくしている黒髪をそっと撫でる。
心優しいとはいっても、青年は素直ではない性格だ。それをここまで表に出すまで心配させてしまったのだ。青年が小さい頃から知っている花子からすれば、相当なものだった。
「……心配かけて、ごめんね。恵ちゃん」
頭を撫でるという行為すら、津美紀は喜んでも、幼い恵には嫌がられ何度も拒絶されていた。しかし宥めるように伸ばした手は、拒絶される事無くすんなりと受け入れられた。
返事の代わりに、恵の両腕にぐっと力が込められた気がした。苦しくはないが、花子は身動き一つ出来ない。それでも、恵が素直に甘えてくれたのだ。気が済むまでと思った花子であったが、首筋にあたる恵の髪がくすぐったいな、なんてふと思った頃だ。
「はいはい、そこまでー」
べりり、と音を立てるように恵から離される。五条だ。五条は合間に入るなり、ガードマンよろしくしっしと片手を振る。
「お触りは禁止なんで。離れて離れてー」
合間に入った長身、五条のお陰で花子から恵は見えないが、向こう側から鋭い舌打ちがこぼれた。並の人間では、恵の人一人殺りそうな視線に即座に怯んでしまうだろう。しかし五条はそれを鼻で嗤う。それでいて、口元は笑みを浮かべていても視線は酷く冷ややかである。
五条と恵の師弟の睨み合いに、なんだか面白いな、と目を弓なりにして傍観する夏油。花子は花子で、一瞬で陥った険悪な雰囲気に、慌てて仲介に入ろうとした。一歩踏み出した、その刹那、ぐらりと視界が揺れる。

地面についたはずの足が、宙に浮いたように不確かになっていく。手足から力が抜けて、体が崩れる。五条か、恵か、誰かが気づいて声を荒げた。
床へぶつかる衝撃に咄嗟に備えるも、いくら待っても衝撃はこない。それどころか固いけれど、暖かい何かに抱き止められている気がした。
明滅する視界の中で見上げた先には、花子を抱き止めた彼の蒼い目が、慌てた様子で花子を見下ろしている。

そこで、花子の視界は暗転した。


***



家入の診断では、花子の昏倒は深刻なものではなく、数時間すれば目を覚ますだろうというものだった。まず、過去から未来へ、なんてことのないように空間を移動した五条と夏油だが、それは彼らが規格外であるが故だった。普通の人間であれば呪力の巡りに肉体がついていかず、反動が来る。
体が馴染めば、次期に目を覚ますだろう。問題はない、といった回答に五条は心の底から安堵した。

「灰原といい七海もさー」
花子の眠る傍らのパイプ椅子に腰かけた五条は、ふと疑問を口にする。
「なんで僕が悪いみたいに言ってくんの?」
「過去から連れて去ってきたのは君だろ」
本を片手に視線を上げる事無く答えたのは、夏油である。
大したことはないからと、家入は解剖の続きに向かいこの場にいるのは夏油と五条だけであった。恵も花子が目を覚ますまでこの場に居たがったが、彼の本業は学生である。ずっと抜け続けるわけにもいかず、問題ないのだから、と五条に追い払われてしまった。大変不服そうな表情であったのは教師であり特級呪術師であり忙しいはずの五条が、居座る気満々だったからである。連れ戻すために必要となる過去の記憶があるがゆえに、今回の件では主に動いていたとはいえ、男がこうして居座っているのは無茶を通しているからだ。一方、夏油も教師であるが、担当している三年生は停学中である。偶然にも特級呪術師としての任務もなかった故に、この場にいるだけである。親の仇を見るような目つきで五条を睨みつけ、それをへらへらと嘲笑い煽る五条。愉快愉快、と夏油は傍観するのであった。


花子が戻ってきたことにより、記憶が戻ったのだろう。程なくして灰原と七海もやってきた。彼らは年齢が異なるとはいえ、花子の同期だ。それも彼女との最期が最期であったから随分と焦った様子だった。
眠ってはいるものの、じきに目を覚ますと聞いて安堵の息を吐く。しかし、運悪く二人そろって任務が入ってしまい、二人は既にこの場にいない。なんてことない、五条が押し付けた任務である。特級程度じゃないし、二人ならいけるっしょ、と白々しい顔で押し付けたのである。口調こそ柔らかくなったものの、中身の暴君具合は相変わらずだった。任務については、不肖不肖請け負ってやってもいいだろう。しかしこれだけは、と去り際、二人は揃って不満を口にしたのである。
仲間であるはずの夏油すら、連れ去っただなんて言う。五条は不満げな表情浮かべて、抗議した。
「言い方酷っ!ちゃんと同意も得てますぅー!」
口を尖らして五条は不満を口にする。とはいえ、五条も彼らが言いたいことは理解していた。
同じ人間は、同時に存在しえない。パラドックスの定義である。花子の存在が過去から消えた為、彼女は未来の人間となり過去の記憶は消えた。灰原も七海も、彼女の記憶を今の今まで思い出すことがなかったのはその為だ。つまり、『助けるだけで良かった』のだ。彼女が死にかけたあの時、呪霊は祓ってしまったのだから、そこで未来の五条達だけが戻れば、灰原達の記憶がなくなることもなかった。
ややこしくしたのアンタだろ、という七海に、エー!うっそ。気づかなかったー!なんて白々しく返した五条であったが、恐ろしく頭の回るこの男が理解できていない訳がないのである。

後輩達が去った後、五条は投げだしていた長い足を組み替えて、頬杖をついた。
「過去の僕だろうが、この僕から彼女を奪おうなんて千年早いよ」
薄く笑みを浮かべた五条をちらりと横目で見る。五条はしれっと続けた。
「やきもきするだろーけど、未来で会うんだ。問題ないだろ」
記憶がないのは灰原達だけではなく、学生時代の五条達も同様だ。こればかりは致し方ないだろう。現代最強の五条悟一人だけであれば、同じ人間だ。とっかかりが残ったかもしれないが、この術式には同じく特級の夏油、伏黒まで加わっている。さすがの自分も、記憶の枷を破れまい。とはいえ、花子さんに放った言葉は嘘じゃない。
「例え記憶があろうがなかろうが、僕は花子さんに惹かれる。こればっかりは自信を持って断言できるね。
 未来は変わらないし、これぞハッピーエンドってね」
両手を叩く五条に、夏油が呆れた視線を投げた。
「君だけだろ?」
五条は鼻で嗤う。
「冗談言うなよ。お前だって変えられただろ」
「私はどちらの道も、後悔はないさ」
「ホンッット、素直じゃねーの」
舌を出して苦々しい表情する五条に、夏油は変わらず涼しい顔で、視線を本から逸らすことはない。
「本心だよ」
しかし目のいい五条は知っていた。夏油は速読が出来る人間である。常日頃からそうしている訳ではないが、それにしてもページを捲る手は遅い。思考が何かに気にかけているからだ。五条はわざとらしく肩を落として嘆く。
「腹ん中真っ黒で吃驚だよ。なんでこんな奴が生徒たちに慕われてるんだか」
「……君にだけは、言われたくないんだが」
こればかりには、心外だと夏油は本を読むのを止めた。手元の本を畳んで、眉を顰める。
「彼女、目が覚めたら、さぞ驚くだろうね。いつの間にか苗字が五条になってるのだから」
夏油の指摘に、五条は曇りない眼を瞬かせる。
「え?だって花子さん、もう死んじゃってるし。
困るだろうから、戸籍を用意してあげた親切心じゃん」
花子はそもそも戸籍がないのだが、知ったのは最近の事だ。それでは困るだろう、と五条が偽の戸籍謄本を申請済みである。もちろん、五条家の力は遺憾なく発揮済みだ。五条家パワーで戸籍を得るついでに、ちょっとしれっと本人の了承抜きで婚姻届けも成立させたが、さして問題はないだろう、と五条は考えている。開き直る五条へ、夏油は胡乱な視線を向けた。
「じゃあ、その指輪は?」
「僕の純愛」
「憂太に謝った方がいいね」
はあ、と夏油は隠す事無く溜息を吐いた。彼女が眠っている内に、花子の薬指には銀色の指輪が嵌められていた。陽光を受けて煌めくそれは、華美すぎずシンプルなデザインだが、ぱっと見だけでも随分と値が張るものだと分かるだろう。しかし問題はそれだけではないのだ。何しろ、その指輪には五条悟の想いがこもっている。呪霊が視える人間であればぞっとする程の。多分、あれ外れないだろうね。という夏油の見解は見事正しかった。五条はけらけらと笑う。
「周りを用意しただけだって。また居なくなられたら、今度こそ僕、呪っちゃうだろうから」
大したことではないというように笑う五条だが、十二分に問題しかなかった。
戻って早々、花子が目を覚ますまでに既に外堀を埋めた上で、五条はようやく準備が出来た心地だ。フライングも度が過ぎた速さで下地をこさえて、五条は楽しそうに笑う。「ま、まずは」
「彼女の名前から、聞くとするよ」


***


「どぅるるるるるるぅ!
さて、いきなりですが此処でウルトラスーパー五条クーイズ! 」
舌を巻いた効果音も口にする徹底ぶりに、目が覚めたばかりの花子は呆気に取られた。
寝起きには中々にきついテンションである。花子が目を覚ましたのは、一日にも満たない数時間後のことだった。傍らで花子を目覚めるのを待っていてくれたのだろう五条は、初めは花子を心配したようにあれこれと気に掛けてくれたが、体調が問題ないと分かるなりコレである。
「最強の呪術師、五条悟の大切なものが奪われました! 盗まれたのは何だ!?」
唖然とする花子に畳みかけるように五条は続ける。
「ヒントはありません!」
ちっちっちっ
秒刻みする五条は、反応の薄い花子に片眉をあげた。
「仕方ないなー。一つだけヒントを上げよう! ヒントは花子さんが持っています!」
ちっちっちっ……
「ぶー!残念!時間切れ!」
テンションについていけない。状況を理解できず固まるだけだった花子に、五条はやれやれと両手を上げた。
これって私がいけないのだろうか……?と少し離れたテーブルの椅子に腰かける夏油に視線を向ければふいと視線を逸らされる。そうだった。人当たりの良い外面だが夏油は基本ドライだった。この場に花子の味方はいない。
五条はずい、と身を乗り出した。ぱちり、と瞬く長い銀色の睫毛が、肌に触れそうな距離だ。
蒼い目を煌めかせて、五条は悪戯げに人差し指を突き刺す。
「盗むだけ盗んで逃げるのはナシね。ハート泥棒さん。
 観念して未来永劫、墓の中まで僕と一緒ね!」
花子は目を瞬かせた。
「え、嫌ですけど……」
思わず素で返してしまった。
素っけない反応に、五条は愕然とした表情を浮かべていた。まるで岩が脳天に直撃したかのようである。
前のめりだった体が後方へと怯み、椅子へと戻っていく。あれだけあった勢いがみるみるうちに萎れていき、今にも膝を抱えんばかりに両肩を落としていた。
花子とて、五条は嫌いではない。けれど、さすがにあんなテンションのプロポーズは嫌だ。意気消沈した五条の様子に一息吐いて、花子は花子なりの考えを説く。
「そもそも、早すぎですよ。もう少し関係性を──」
その時、室内に小さく笑い声が漏れた。
流れるようにプロポーズをして、怒られて、しょげる最強。中々に見られるものではない。その構図が面白くて思わず吐息が漏れるように笑ったのは室内にいるもう一人の人物だ。
喉を鳴らして笑いを零す夏油に気づいた花子が、何故か話を止めた。こちらを見る彼女は目を見張り、随分と驚いた様子だ。
「……何だい?」
「あ、いや……」
夏油の問いかけに花子は何故かまごついて、はっきりと言葉にしない。何度か視線を彷徨わせて言い淀んだ彼女は、へらりと気が抜けるように笑った。
「……久しぶりに傑君が笑うところ見たなぁって」
今度は、夏油が目を瞬かせる番だった。花子は続ける。「ほら、私過去にいたから……」
過去の夏油は、普段は温厚な表情を浮かべているが、忙しいこともあってか表情は硬く、気難しい表情をしていることが多かった。特に夏油が花子に遠慮のない素を見せるようになってからは顕著で、久しく彼が笑った顔は見ていない。だから思わずそう口にした花子だったが、間に生まれた妙な沈黙に焦る。
はあ、と五条が呆れたようにため息を吐いた。
「出た、人たらし。これ以上止めてくれない?」
恵に続いてさぁ……。と非難がましく言う五条に、花子は首を傾げたくなった。
「なんで恵ちゃん……?」
なぜここで恩人である彼が出てくるのか。彼は確かに普段はツンケンしているが、性根はまっすぐで心を開いた人間に対しては優しい。とかなんとか、彼女の事だから思っているんだろうな。弟子の捻くれた、呪術師に合う気質を理解している五条は、分かっていない彼女に弟子が若干不憫に思えたが、ライバルは欠片もお呼びでないため瞬時にその感情はかき消えた。なにせ、彼には既に『恩人』という五条には覆せない無条件の好意がある。そこへ変に意識されでもして、万が一にでも傾かれでもしたら困りものだ。うっかりしまっちゃうぞ。衝動に駆られて、相変わらず理解していない様子の彼女を抱きしめる。
「く、くるしい」
腕の中から呻き声を出す花子を、五条は無視した。
「浮気だ浮気。僕、絶っ対許さないからね」
ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる五条を宥めようと、花子は手を上げる。
「君は僕のお嫁さんなんだから。自覚を持って」
背を撫でようして、そこで花子は掲げた手に煌めくものが嵌められていることに気づいた。
「ん?」
なーんか、薬指に指輪が嵌められているような。しかもつい先ほど、追い打ちをかけるように五条が気にかかるワードを口にしたような?
花子は今度こそ首を傾げた。長考。
「……ん??」


トイレの花子さんと最強の呪術師

改め、
最強の呪術師とそのお嫁さん。





──半年前
2018年某月某日。東京都立呪術専門高等学校、職員室前廊下にて。
黒いスーツを着た、草臥れた様子の細身の男が、資料を片手に歩いていた。目的の人物を探し始めてもう数分程だ。ここにいなかったら後はどこにいるだろうか、そう思い始めたところで、ようやく、前方に求めていた人物を見つけた。
「あ、夏油さん!」
「やあ、伊地知。どうしたんだい?」
伊地知潔高──高専時代の後輩であり、補助監督である。
駆け寄ってくる伊地知に、髪をハーフアップにした美丈夫の男は足を止める。夏油傑。特級呪術師であり、曲者ぞろいの呪術師の中では比較的常識のある男だ。とはいえ、仮にも彼も呪術師だ。普通であるなんてことはまずあり得ず、冷酷な面も持ち合わせている。だがその実力は折り紙つき。さすが呪術師の中で最高であるランク、特級クラスの呪術師だ。彼であれば、この件も無事解決出来るに違いない。伊地知は昔から変わらない黒ぶち眼鏡を抑えると、夏油へと探していた詳細を話し始める。
話を聞いた夏油は、伊地知から渡された資料に一通り見たうえで頷いた。
「わかった。引き受けよう」
「ありが「しっかたないなー」
肩の荷が下りた心地で、伊地知は喜ぶ。しかし礼を述べる途中で彼らに近寄ってきた人物がいた。
無言で近くまで来た彼は、夏油が手に持っていた資料を奪い取ったのだ。え、と固まる伊地知に、銀髪に目隠しをした男がにんまりと笑う。
「僕が行ってやるよ」
ひらひらと資料を揺らすのは五条悟。夏油傑の同期であり、同じく特級。それでいて現代最強の呪術師だ。
伊地知と異なり、足音立てずに近づいてきた五条に気づいていたのだろう。夏油は驚いた様子もない。
珍しく積極的な五条は、訝しむ気持ちが表に出ていたのかもしれない。五条は深い溜息を吐いて、両腕を後頭部で組む。
「今日さあ、一日ついてないの。こういう時は八つ当たりが一番っしょ」
ははあ、なるほど。と五条の自分勝手極まりない動機に頷きかけた伊地知だったが、すぐに我に返る。この人、他に任務がなかったか? 
しかし五条という男は、人の話を聞かない。伊地知が気づいたときには、さっさと身を翻していた。「え!?五条さん!?」
伊地知の声掛けに、悲しいかな五条は振り返る気配もない。伊地知は内心涙目になりながら追いすがる。
「特級呪霊は!?」
「傑に回しといてー」
まあ、確かに夏油さんも特級呪術師だけれども。
長い足を駆使して、すたすたと先を行く五条に、伊地知は無駄だと悟り肩を落とす。ぽん、と慰めるように伊地知の肩を夏油が叩いた。


話を聞く限り、くっだらない任務だろう。とはいえお山の大将を気取った特級呪霊一体よりも、雑魚が何匹が集まっている方がストレス発散には丁度いい。ほら、ボーリングみたいに。量と質というが、五条悟にとって特級呪霊も須らく雑魚に変わりないのだ。適当に補助監督を捕まえて、資料を投げ渡すことで任務先へと車を回してもらう。移動中に仮眠をとり、現着したのは夜も更けた深夜だ。
ようやく、五条が詳細を確認したのは、既に帳を降ろし現地へと入った後であった。
ペラペラと書類を流し見て、五条は顎に手を当てる。想像していたよりも、くだらない任務らしい。尻尾のつかめない怪異。雑魚は雑魚でも、目的であるストレス発散には向かないようだ。持ってるのも面倒だし、と折角用意した書類を呪力で消し炭にして手放す。
とはいえ。いつもと一風違った変わり種であることには違いない。
にんまりと、口元が孤を描いた。
「なんか面白そう」
五条悟は軽い足取りで、小学校の女子トイレへと向かうのだった。




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