帰る場所

DreamMaker2 Sample 五条悟は最強である。他者の追随を微塵も許さず、揶揄なく、容赦すらなく。六眼に無下限術式、生まれ持った数百年ぶりの能力すら類まれなるセンスで容易く熟してしまう。
世の中には、稀なる才能を持つ人間がいる。あらゆる分野ごとに逸脱し、凡人とは異なる彼等は往々にして偉人と呼ばれる存在だ。五条悟は残念ながら、全ての才を集めたような人間だった。やろうと思えばなんでも出来てしまう、凡人には理解し得ない人間である。

生まれながらにして、呪術界を震わせ、世にはびこう無類の呪霊の在り方すら変えた。神童は成長が進むにつれて、一歩、また一歩と高みに進み、衰えることもない。男の道に陰りは生まれず、同学年の友人に親友。恩師や後輩達学友に、教え子達と関わり人間としての情緒が進む先で、五条悟は一人最強に至る。
一人最強であることに疲れたかと周りから問われれば、五条は軽く首を傾げるだろう。なぜなら五条にとって己の位置こそが不変なのである。

才ある人間は、凡人には理解し得ない。故に、男が周囲から理解されることもない。男は一人、孤高である。だが、男は差して困らなかった。寂しいと蹲るセンシティブな感情は、成長と共に軽く蹴とばしてしまった。なぜなら、人は生まれて死ぬまで一人だ。呪術師の世界は人の生死なんて当然のように転がっていて、生まれながらにして御三家の一つ、五条家の嫡男として、幼い齢から男は十二分に理解していた。
感情が死んでいるのかと言えば、そうではない。むしろ男程感情豊かな大人はまずいない。
それは強さを得たからこそなのか、真理に近づいた男ならではなのかもしれない。根本的な部分で男は軽薄だった。川を流れるせせらぎのように、風に揺れる枝葉のように。ありのままの全てを受け入れる。男の持つ生得領域は、男の性質が強く表れていた。宇宙に似た亜空間の男の生得領域は、六眼という全てを見通す目を持つからかもしれない。
精神が達観しているのかと言えば、決してそうではない。男はむしろ、欲に忠実である。男は己の希望を通してしまえるほどの強さがあった。
それでも、男は強さを盾に大逆無道へと走る事はない。確かに常識はずれな傍若無人さはあるものの、世の理まで己から変えようとはしない。例え、男であれば容易く出来てしまう事であってもだ。男は、個の意思を尊重する。

五条悟は、軽薄である。しかしそれは他者に対してではなく、己に対してなのかもしれない。自分自身すら俯瞰して見てしまう。それが自然の有様だと、自らの内で納得できてしまうのだ。
その男が、初めて時の流れから抗った。文字通り、過去へと遡ってみせたのだ。誰一人扱うことの出来なかった特級呪具。幻想級の代物。たとえ時を遡れたのは五条一人だけによるものでなくとも、『五条悟』がいなければ成し得なかった。
不可能を可能とし、男はまた一歩高みへと登る。

五条は初めて、心の奥から欲した。何事にも手放しがたいと手を伸ばした。
そこには、才能あふれる天才とは程遠い、凡人の女一人。
男が強さの代わりに差し出した、唯一の在り処、ひとつ。

抱きしめた腕の中で、女が身じろぎをする。こちらを見上げて、我に返ったのだろう。彼女は疑問を口にした。「悟さん、どうやってここに…?」
腕の中から少しでも離れてしまうのが、名残惜しいだなんて女々しい気持ちを表に出さぬよう内心しまい込んで、五条は笑った。
「そりゃあ、もちろん。愛の力でしょ!」
五条の言葉は思いもしなかったのだろう。唖然とした表情で見上げていた花子だったが、言葉を理解するや否や、ぼ、と音が鳴りそうなほど耳の先から頬まで赤く染めた。五条の視線から逃れるように、黒い目が泳ぐ。
「……やめてくださいよ、そういうの」
「え、なになに?照れてる?ヤダ可愛いー!」
えい、えい、と赤く染め上げた頬を人差し指で突いてくる五条の指を、花子はこれほどへし折ってやりたいと思う衝動に駆られることはなかった。ひくり、と頬が引き攣る。
「ちょっと、やめて。本当、その性格やめてください。迷惑です」
「とか言いつつ嬉しい癖に!顔赤くしちゃって、可愛いんだからもー!」
五条はそう言って、抱え込む力を増した。ぐりぐりと頬を摺り寄せてくる大男に、花子は顔を顰めて掌で追いやろうとするも男にはまるで効果が見られない。暖簾に腕押しどころか、微塵も動かない巨大な岩を相手にしているようだ。
両手で抵抗してくる花子は、五条からすれば子猫がじゃれついてくるようなものだった。彼女は全力で抵抗しているのだろう。しかし顰め面の彼女の頬は、赤く上気している。愛らしく仕方がない様子に、五条の心の柔い部分が擽られた。頭からぺろりと食べてしまいたい衝動を、押しとどめて頬づりするだけに留めている。五条としては、ぜひとも感謝してほしい所だった。
凡人で、大人しく見える癖に、変なところでじゃじゃ馬。朧げだった愛しい人の輪郭が、はっきりしていく。彼女と再会できたことで、五条は花子に関わる記憶を全て思い出せた。ばらばらだったパズルのピースがかちりと嵌る。
五条はようやく両腕の力を少し緩めて、花子を見た。
「意地悪はこの位にしてあげる。今はね」
不穏な言葉尻に、嫌な予感を察して頬を引き攣らせた彼女を無視して、五条はにっこりと笑う。最強の己を謀ったのだ。無事でいようだなんて甘い考えは持てる筈がない。軽い物言いと仕草で、男は微塵も気にしているように見せないくせに、なぜだろうか。笑顔の表情の裏側で、不穏な空気がびしびしと漂っている気がする。
言葉の節々から感じる徒ならぬ気配に、花子は顔色を悪くした。

にこにこと笑みを絶やさない男を前に、顔面蒼白したじろぐ花子を救ったのは思いもしない人物だった。
砂利を踏みつける音に、花子は反射的に視線を上げる。五条により天井や壁すらぶち壊され、夜が明け始めた空が広がる開放的な瓦礫と化した女子トイレの区画。
五条にも劣らない高身長の黒髪の男性が、文句を呟きながらやってきていた。
「やれやれ、なんで私が…」
男の背には、見慣れた人間が抱えられている。森林に隠しおいてきた自身の生身の体だ。花子は目を瞬かせる。端正な顔立ちは、正に男前といえる。通った鼻筋に、切れ長の黒い瞳。薄い唇は普段、緩やかに弧を描くことが多いが、自身の前では引き結ばれ、穏やかな口調で抉る程の容赦ない言葉を放つ。
学生の頃から既に花子より高い身長だったが、五条同様、あれから更に伸びたようだ。後頭部でお団子にされていた黒髪は、無造作にハーフアップされ、男が纏う上下黒の衣服は男の長い手足が強調されて見えるが、がっしりとした体幹から華奢に見える事はない。
学生の頃から、明らかに数年成長した姿だった。
「傑くん…!」
思わず名を呼んだ花子を、夏油は片眉を潜めて見る。隠す事のない、まさに面倒くさいといわんばかりの表情だ。
五条が肩を竦める。
「高専で教師やってるよ」
五条の言葉に、花子は人知れず胸を撫で下ろした。花子が見た五条のアルバムに、夏油の姿はなかった。
姿があったのは、アルバムに挟まれていた入学当初に配られたのであろう、現像された本来の写真のみだ。彼の身に何かあったのかーーー途中から姿を消してしまう灰原と同様に、懸念していた花子は、目の前の夏油の元気そうな姿に心から安堵した。未来で彼に何があったのかは分からない。それでも入学当初からいなかった存在とされるには、余程の事がなければ、あり得ないだろう。
何が起こるかも分からず、原因もわからない。花子に出来るのは、アルバムから消える夏油と灰原を、殊更気に掛けるだけだった。ヤキモキしながら、本当にこれでどうにか出来るのだろうか。何度も自問自答してーーーけれど、夏油はこうして目の前にいる。
思わず涙腺が緩みかけた花子の傍までやって来ると、夏油は微笑む。
「やあ、久しぶりだね」
先程まで浮かべていた表情を一変して、優美な笑みだった。生身の花子を抱えながらも片手を上げ、気心知れた挨拶だ。
にこにことした笑顔で、しかし正反対に花子はちっとも安心を抱けずにいた。あれ、これデジャブじゃない?気が付けば浮かびかけた涙は引っ込み、代わりにダラダラと冷汗が浮かぶ。
夏油は優美な笑顔を浮かべたまま、緩やかに小首を傾げる。
「君には色々と話したいことがあるんだ。あとで私に時間をくれないかい?」
『わざわざ猿に、私の時間を割いてやるんだ。逃げんじゃねぇぞ』
校舎裏への呼び出し宜しく、花子には夏油の言外の言葉が聞こえた気がした。
花子は思った。
この二人、柔和な笑みを浮かべてる癖に、ちっとも笑ってない。なんて器用なんだ、と感心する余裕は、残念ながら現実逃避から生まれたものである。
恐怖に胃が縮み、花子は引き攣った笑みでーーー本当なら断りたいが、恐怖の笑みを浮かべる相手に対して異を唱えることが出来る筈もなくーーー花子は曖昧に頷くしかなかった。

大の男二人に囲まれて、哀れなほど肩を強張らせて身を縮こませる彼女は、不憫に見える。しかし五条からすれば、自分が一体何を仕出かそうとしたのか、彼女はまだちっとも理解出来ていないだろう。他者の宝物はよく視えても、自身のものは視えないように。彼女は特に、それが顕著なようだった。一度死んだ体だからといっても、兎に角も、自身に疎い。彼女に十分に分からせるのはまた後程。五条は息を一つ吐いて、昂りかけた感情を抑え込むと軽く切り出す。
「さて、と。じゃ、戻ろっか」
「あ、五条くん達に…」
「残念だけど、その時間はないよ」
花子の言葉を遮り、五条は続ける。
「そろそろ戻らないと、元の時代に戻れなくなる」
元々、未来の五条達はいてはならない存在だった。長時間留まることは出来ない。ドッペルゲンガーではないが、同じ存在は同じ時間に存在することは出来ないのだ。
学生の五条達に別れすら告げられない。表情を曇らせる花子を見止めて、五条は彼女の不安を和らげるように表情を和らげた。
「安心しなよ。君が元の時代に戻れば、この時代の僕らに花子さんの記憶は残らない。
僕だけなら多少違和感が残るかもだけど、こっちは特級三人がかりだ。全て丸く収まるし、全く問題ナシ!」
花子が去れば元通り、彼らの中から花子の存在は消える。このまま行方不明となり心配させるよりも、そちらの方がいいだろう。
彼等の中から花子の記憶がなくなる。恐らくそれが最善だ。花子はそもそも、本来ならばこの時代に存在しない存在である。それでも拭えない寂しさに、気落ちした花子の頭部に、微かな重みが乗る。
「過ごした記憶はなくても、残るモノはあるさ」
五条はそう言って花子の頭に手を置き、くしゃりと髪を撫いまぜた。花子の頭部を数回軽く撫でると、五条は背後で素知らぬ顔で立つ親友を仰ぎ見る。
「なあ?」
「…さてね」
五条の問いかけに、夏油は黒い目を弓なりに細めて肩を竦めた。相変わらず涼しい表情である。五条は親友の様子に鼻で嗤う。男がこの場に居る。それが答えだろうに。この場に及んでも白を切り続けるつもりらしい。学生の頃は正論ばかり言う優等生ちゃんだったが、随分と偏屈な性格になったものである。それでも振り切れてしまうよりはマシか。
五条と夏油には、二つの記憶がある。互いに確認したわけではないが、言動から鑑みるに二つの世界線の記憶があるのだろう。伏黒甚爾にはないようだった。恐らくは『いない存在』に違和感を覚えているか、いないかの差だ。
五条、夏油、伏黒の特級三人により、この時代から去れば、彼女の存在は消える。元から、彼女はこの時代の人間ではない。周囲の記憶からもなくなるだろう。
もし五条一人であれば、若い頃の自身や夏油に感づかれる可能性もあった。だが、さすがに三人がかりとなれば別だ。にも関わらず、彼女の存在が記憶から消えても、違和感は残り続けた。
五条はまだ表情の曇る花子の額を、軽く人差し指で弾く。
「舐めんなよ」
長身を屈めて、覗き込む五条の碧い目が鋭く花子を射抜く。
「僕らは必ずここで会う。僕に記憶がなくったって、探しだすさ」
きょとんとする花子に、ふ、と口角を緩めた。五条は覗き込んでいた上半身を戻すと、自信たっぷりに告げる。
「GTGに任せなさい!」
親指でトンと胸を叩く。軽い物言いで胡散臭いことこの上なかった。例え五条を知る人間であっても、大丈夫かなー…と不安に駆られるだろう。だが、花子は強張っていた表情が徐々に緩まっていくのを感じた。
花子にとって、この男以上に信用出来るものは存在しない。殊、このことに関しては。
例え目の前で別れて離れ離れになっても、五条は過去まで遡り見つけ出してくれた。男がこの場にいる。それが花子にとって、何よりも証拠だった。
花子の目の前に、筋張った大きな掌が差し伸ばされる。顔を上げれば、いつかのように五条は笑っていた。
「帰ろう」
不思議と、懸念や憂慮も生まれなかった。一回り程大きな掌は、いつだって救い上げてくれると花子は十分な程知っている。
花子は差し出された手に、己の手を重ねた。
「はい!」
しかと握られる一回りを大きな五条の手を、花子は握り返した。






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