DreamMaker2 Sample 8月中旬の真夏日。花子は同級生と共に、初めて遠方への任務に出ていた。ようやく、任務に同行できるようになったものの花子は一人でこなすだけの技術、能力がない。その為、基本的には他の呪術師と組み、補助として同行している。
年下ではあるものの、二年へと進級してからは体力と呪力共に申し分なく既に二級呪術師である灰原雄。同じく冷静に分析を行いながらも、意外にも呪具である鉈を振り回し力でゴリ押ししがちな二級呪術師、七海健人。補助監督志望として、場に慣れるために同行はするが、未だ四級呪術師ではあり呪霊に慣れていない花子がこの日の任務のメンバーだった。
任務の内容はこうだ。ある土地で観光客5名がいなくなった。数日後、1名は無残な姿で発見されていた。手足は愚か銅すらも螺子曲がり、凡そ人の仕業とは思えない惨たらしい姿だった。更に数日後、行方不明者の二人目が遺体で見つかる。2人目の遺体も1人目同様の凄惨さで、不審に思った窓が確認した所、その場に微かに呪力の痕跡、残穢が確認された。呪霊の仕業だろう。未だ見つかってはいないものの、残り3名の生存は絶望的だった。

東京都立呪術専門高等学校から離れる事、約半日以上。現場は都会の喧騒から離れた田舎町だった。地方であるものの緑が豊かで食事も美味しい、と近年では避暑地として観光客で賑わっているらしい。
早朝に出発し、昼過ぎに現地入りした花子達は村に到着すると、早速呪霊の手がかりを得るべく調査を行った。
調査は花子と七海、灰原と補助監督と二分して行った。日が暮れる前に落ち合った花子達だったが、お互いに調査の結果を報告し合ったところ、結果として目ぼしい手がかりは得られずにいた。
「手がかり、見つからないね…」
5名もの行方不明者が出ているのだ。少しぐらい原因が分かってもいいものだが、5名が居なくなった場所に向かってみても残穢は途中で途切れてしまい手詰まりである。
難航する調査に肩を落とした花子に、別方向で住民に聞き込みを行った灰原が頭を掻く。
「この村、特に信仰しているものもないって」
負の感情、思想は呪霊に転じることが多い。人の怨嗟や恐怖心から生まれる呪霊、信仰や思想から生まれる仮想怨霊。理論的な分析が得意な七海がいる花子達は客観的な観点から捉えるために現場へ、コミュニケーション能力の高い灰原は住民から信仰や噂話がないか調査を行ったが、両方面から怪しい点は見受けられない。
待ち合わせの喫茶店で頭を突き合わせるものの、手がかりもなくそれぞれが悩み込む。
一度、思考を晴らそう。花子は頼んだアイスコーヒーを一口飲むと、ふと思った事を零した。
「…それにしても、この村、結構観光客多いね」
平日にも拘わらず、喫茶店はほぼ満席だ。外は数分前から降り始めた雨で、慌てて逃げ込んできたのだろう。サラリーマンやOLというよりは、家族連れ等の観光客が目立っていた。雨で人通りの少なくなった外と比べ、店内はがやがやと賑わっている。
「空気が美味しいし森もあって涼しいから、避暑に人気なんだって」
灰原は手元のジュースを一息で飲み終えると、そう言って喫茶店の壁を指し示した。「町おこしも成功したみたいだよ。ほら、あれ」チラシの内容は、町を上げたイベントの案内だった。
「…変だな」
その時、腕を組んでいる七海がぽつりと呟く。視線が七海へと向かう。七海は眉を寄せてチラシを見た後、手元の資料へと視線を戻した。
「これだけ観光客がいて、何故被害者があの5人だけだったのか。5人とも、宿泊場所も観光先も違う…」
「七海、何見てるの?」
七海の向かいに座る灰原が、向かいの席から覗き込むように手元の資料を見た。
「窓からもらった資料だ。被害者5人の情報が載ってる」
情報を洗い直しているらしい。花子も横から覗き見て、思わず声を漏らす。
「あ」
「…どうしました?」
資料を捲る手を止めて、七海が尋ねてくる。花子は咄嗟に首を振り、その箇所を指し示した。「ううん、知った名前があって」
七海は視線を手元の資料へと戻し、ページを捲るのを再開する。ぺらり、ぺらりと数分程してページを捲っていた七海だったが、ふと何かに気付いたようにページを捲るペースが短くなっていく。
七海は被害者5名の情報をテーブルの上に広げると、一か所を指し示した。その箇所を見て、七海の言わんとしていることに花子達も気付く。
「此処で巻き込まれたわけではなさそうだ」
5名には共通点があった。一つ目は、この地に訪れていた。
次点の共通点は、出身。
埼玉県 所沢市 □□□小学校。
年代は違うものの、全員が同じ小学校の出身だった。

遠方の任務かと思えば、花子達はとんぼ帰りすることになる。
長距離の移動で時間がかかり、埼玉県についた頃には既に日も暮れてしまっていた。現地は小雨が未だ降っていたが、もうじき止むだろう。三人は小学校の裏山にある墓所へと向かっていた。土砂降りの影響でぬかるんだ地面を歩きながら、携帯を切った灰原が言う。
「行方不明者、他にもいたって」
新幹線での移動中に、補助監督に調査を依頼していたのだ。結果を聞いて七海は眉を潜める。
「これで10人か…」
観光地で行方不明になったことから原因はその地にあるかと思っていたが、原因は他にあった。行方不明になった5名の他にも、出身の人間が数名行方不明になっている。更に観光地での行動以外も遡ってみると、全員が同じ行動をしていた。数日前に墓参りに行っていたのだ。真夏のお盆の時期である。ここまで来れば、原因はそれだと予測がつけれた。
「よし!さっさと祓って解決しよう!」
腕まくりをした灰原が気合を入れる。移動中に過眠はとったものの、時刻は草木も眠る丑三つ時。現代のAM3時だ。丑三つ時は、鬼や妖怪、幽霊なども出てくると言われる。呪霊にとっては上面え向きの、最も出現しやすい時間だった。ようやく呪霊に慣れてきたと言っても、深夜の墓所に緊張に駆られる花子に灰原が緊張を解すように話しかけた。
「花子さんも早く五条先輩と会いたいもんね?」
「灰原君…!」
かっと顔に熱が集まり、暗闇の中でも分かりやすく染めた花子に灰原は快活に笑う。「はは!冗談だって」
揶揄われたと若干怒りが湧くも、灰原は花子の緊張を解すために態とそう言ったのだろう。妹がいることもあり灰原は気配り上手で、とても心優しい少年である。とはいえ、花子はしばらく羞恥に顔が火照り熱が下げられずにいた。その横で呆れた様に灰原を見ていた七海だったが、顔を引き締めると改めて問いかける。
「…どう思う?」
七海の問いかけに、灰原は肩を竦める。
「鉄板というかなんというか」
丑の刻参りをした訳でもないだろう。被害者の経歴は人に恨まれている様子もなく、また逆もなさそうであった。清廉潔白に近い。で、あれば呪いの正体は。
「墓所は負の感情が集まりやすい。憑かれたんだろう」
「ここのお寺は氏神だしね」
腕を組んだ七海に、灰原は事前に聞き込んだ情報を口にする。氏神。血縁に根付いた信仰である。墓所の隣にある寺に念のため聞き込んだが、この寺は個人的なものだという。しかし今は血縁者はこの地から離れ、他の者が管理している。氏神は血縁者に根付くから、血縁者が不在であれば氏神の線はない。原因は墓所の方だろう。
七海が手元の腕時計を確認する。深夜三時を回ったのだろう。顔を上げた七海の目配せに頷いて花子達は墓所へと踏み込んだ。
真夏の深夜は少し肌寒かった。肌に当たる雨は小雨程度で、すぐに止むだろう。視界を塞ぐほどではないが、それまでの雨の影響で大地はあちこちぬかるんでいて裏山の墓所には雨の名残で霧が立ち込めていた。
立ち並ぶいくつもの冷たい墓石の奥。一本の太く黒い線があった。よくよく見れば、それは大木である。七海は鉈の持つ手に力を籠め、灰原は身を構える。墓所を満たすじめじめとした空気は、雨上がりの所為だけではない。異様なほど禍々しいさを纏う大木が、元凶だった。七海達は霧の中、視線の先の大木から視線を逸らさない。
すると、苔むした幹の表面から、ぬっと鋭利な爪先が現れた。
ーーーズシリ、と周囲の空気が呪力で満たされる。
白い仮面に、木々を優に薙ぎ倒せるほどの巨大な黒い体躯。体躯に見合う巨大な手足は地面につき、爪は鋭い鉤のようで、四つん這いになった地面を抉り、深い爪跡を残している。
周囲は異様な空気に包まれていた。喉元を抑えつけるような張りつめた空気に臓腑を撫でつけてくる強烈なまでの威圧感。息を呑んだ七海が、現れた呪霊に苦々しく言う。
「氏神か…!」
恐怖にも似た威圧感は、呪霊が墓所に集まった呪霊ではない。いるはずのない、氏神だった。
七海の表情は険しい。なぜ、血縁者はこの地にいないはずである。もしやまだ遠縁がいたのか。丑の刻は確かに呪霊が出現しやすい時間帯だ。しかし、なぜ寺の方角ではなく、墓所に氏神がーーーそこまで考えて七海は気付く。
方角だ。
丑の時間と寅の時間の間の丑寅は「鬼門」。鬼が出入りする方角である。対して、未申の方角は「裏鬼門」。神の通り道として、一般的に清潔を保つ方角で風水や、建築物にも考慮される。
呪霊が現れたこの墓所は、南西。ーーー「裏鬼門」だった。

呪術師は通常、自身の等級より下の呪霊に宛がわせられる。七海と灰原は2級呪術師。花子は県外である4級呪術師以下。血縁に根付く氏神(うじがみ)は、個人的に祭られた信仰であり、2級〜3級程度だ。だが、目の前の呪霊は3級レベルではない呪力だった。恐らく、氏神の中でも強い部類である2級相当。同じ等級である七海達であっても、苦心するレベルである。
花子達が冷汗を流しすぐに動けずにいる中、先手に出たのは灰原だった。
学生服に忍ばせていた、携帯の三節棍一直線に連結させ、一本の棒状にすると重い打撃を繰り出した。実直でもある灰原は、性格に違わない努力家である。その甲斐もあり、武術の面では三人の中で一番優れていた。花子は未だに、灰原の動きを目で追うことが出来ない。
一瞬で呪霊へと迫った灰原は、続けざまに棍を崩して呪霊の腕へと巻き付ける。ギチギチと腕へと絡みついた金属が音を鳴らす中、対象を逃がすことを許さず、今度は呪力を込めて拳を振りかぶった。防御を何もしていないにも関わらず、呪霊は一撃で地面を凹ませるほどの灰原の初撃に、怯んだ様子はなかった。暗闇の中、白いお面が首を傾げて灰原を振り返る。
「わ」
ぐん、と呪霊が腕を引っ張った。引き寄せようとしていた腕に、灰原が逆に引き寄せれてしまう。
白い面から、幾つもの鋭い牙が浮き上がる。生臭い吐息が肌に当たり、大口を開いた呪霊が眼前に広がった。
咄嗟に、灰原は根の柄を口の中へとねじ込んだ。付き立てた肘で飲み込もうとする咥内を抑え、浮いた足で蹴りつける。喉奥への衝撃に、さすがに呪霊も呻き声をあげた。腕を振るい、灰原を投げ放つ。数メートル先の地面に投げ飛された灰原に、花子が声を上げた。
「灰原くん!!!」
「ダイジョーブ!問題なし!」
受け身を上手く取って地面に転がった灰原が、明るい声を上げてぴょんと起き上がる。
蹴りつけた右足の、踝付近の裾が短くなっていた。咥内から外へと戻す時に、呪霊の鋭利な牙で抉られたのだろう。血が滲んだ様子に花子は眉を寄せる。すぐに止血しないと。戦闘でまず役に立たない花子は補助としてこの場にいた。元気そうな表情でびっこを引く彼に包帯とテーピングを用意しようとする花子を他所に、今度は七海が呪霊へと畳みかける。
呻き声を上げて怯んだ隙に間合いを詰めたのだろう。腕が駄目ならば足を。七海は油断なく鉈で斬撃を繰り出した。
七海の術式は、上手く的中したはずだった。
しかし切れることも、傷すらついた様子もない。足が駄目ならと、七海は胴体を狙いを定める。気付いた呪霊が手足を振り回し七海を攻撃しようとするが、寸前のところで鉈で往なす。しかし胴体へと迫る手前まで来て、呪霊の鋭い鉤爪が七海の学ランの裾を掴んだ。
「チッ」
鋭い舌打ちを零して、標的を変更する。胴体への斬撃を諦め、鉤爪を横殴りに殴る。学ランが破れ、七海は一度呪霊から離れた。
距離を取り着地した七海は、乱れた呼吸を整える。
「はぁはぁ…」
次の瞬間、空気が震えた。呪霊がビリビリと空気を揺らすほどの咆哮を上げたのだ。形容しがたい悲鳴にも似た怒りの咆哮を上げて、呪霊が追撃してくる。
構えた七海と灰原が同時に黒い呪力ーーー黒閃を纏った。
土煙をあげて迫る呪霊に、七海が術式を展開させた鉈で呪霊の手足を狙う。呪霊は上空へと逃げようとするが、頭上には飛び上がった灰原が拳を待ち構えている。呪霊はよけきれない。七海は手足を狙うように見せかけて、そのまま灰原と共に上下から呪霊の胴体へと黒閃を打ち込んだ。

迸る二発分の黒閃の呪力に、朦々とする土煙で視界が覆われる。
直撃は免れなかった。やったか、と僅かに胸を撫でおろした花子に、七海が言う。
「今のうちに、逃げるぞ」
「…え?」
顔を上げてみれば、二人は安堵した様子もなく厳しい表情を浮かべたままだ。依然、鋭く土煙の先を見据えている。汗で前髪が張り付く。黒閃の反動だけでなく、七海の背筋を冷や汗が伝った。
「手応えがない」
花子は目を見開いた。黒閃。呪術師として技を極めたものが使える黒い呪力は、打撃の必殺技だと花子は高専で教わっている。学生にもかかわらず、二人は黒閃を扱えていた。それ故に既に二級呪術師である二人だったが、それが全く効いていないのだという。いつも陽気な灰原も固い表情のままだ。厭が負うにも、その場が嫌な緊張感に包まれる。
「捕まれ」
撤退する他ない。早々に結論を出し、七海は足首を負傷している灰原の肩へ手を回す。
視界塞ぐ土煙は、もうじき晴れる。花子は乾いた咥内に、馴染ませるように唾を飲み込んだ。
「…私が気を引くよ」
突然の花子の申し出に、七海は眉を寄せて、灰原は驚いたように花子を見た。花子を震えそうになる拳を握り締める。
二級呪術師である彼らが手に負えず、黒閃さえ効かない。呪霊は大きな体躯にも拘わらず動きは俊敏で、足を負傷した灰原を連れて逃げ切るのは冷静に考えて無謀とも呼べる愚策だ。それでも七海たちは灰原を見捨てる気は毛頭ない。だからこそ七海は灰原に肩を貸しているのだが、唯一迎え撃てる七海がそれでは、呪霊から無傷で逃げ切れるはずもなかった。仮に、花子が灰原に肩を貸しても、遅くて追いつかれるのは目に見えている。
ーーー活路があるとすれば、誰かしらが囮になること。
このままでは負傷している灰原が、確実に自身が囮なると言い出すだろう。彼はそれだけ勇猛果敢であり、正義感に溢れた人間だ。花子達が否定して、七海が無理やり連れて行こうにも、それでは三人共追いつかれてしまう。最善の策は、視えない花子が囮になることだ。五条や夜蛾から周りに言うなと言われている花子の性質を、同期である彼らは知っていた。
「私の体なら、呪具があるし。霊体ならみえない。でも物音で気を引くことは出来るから」
生身の肉体は、呪霊避けの呪具を持たせて隠しておけばいい。呪具がなければ花子の身は呪霊を寄せ付けてしまうが、霊体の姿は特別な眼がなければ視えることはない。戸惑う二人の背を花子は押す。
「早く!」
叱咤する花子に、二人は動こうとしなかった。灰原は納得している様子はないが、理性的な七海は既にそれが最適解だと気づいているだろう。それでも動こうとしない同期二人に、花子は苦笑を漏らす。
もうすぐ、視界は晴れてしまうだろう。花子は二人を置いて、身を翻す。
「待って!」
花子の背に、灰原の声がかかる。灰原に手を貸す七海の拳に、耐えるように太い血管が浮かんだ。
花子は決して振り返ることはなく、土煙の中へと消えた。


理性的な七海がいれば、灰原を連れて逃げてくれるだろう。花子はすぐに生身を草木の間に隠して横たえると、幽体離脱をする。一度死んだ経験から、どうにも抜けやすくなった霊体が、まさかこうして役に立つとは思いもしなかった。花子とて死ぬつもりは毛頭ない。身が縮みあがるほど怖いが、霊体であれば見つかることはまずない。二人はすぐに応援を呼んでくれるだろう。それまでの辛抱だった。
高専からは1時間程距離がある。術式により『飛ぶ』ことの出来る五条は、まず前提としてルートを引いてなければ『飛ぶ』ことは出来ない。
五条は来ない。願わくば、近くに呪術師が運よく居合わせていればいいが、少人数であるがゆえにその可能性も薄いだろう。兎に角、今は音で呪霊の気を引き付けて、二人を逃がす。あとはほどほどに逃げ続ければいい。1時間の間逃げ続ければ、応援がくる。
花子は霊体のまま、呪霊のいるであろう墓所へと戻った。

薄れた煙に、呪霊は周囲を見回していた。七海たちを探しているのだろう。花子は呪霊が動き出す前に、さっそく小石を拾い投げつけようとした、その時だった。目のない白いお面が、のっそりと花子の方を振り向く。次の瞬間振り被った手足が、花子へと襲い掛かった。
「(視えてる…!?)」
花子は咄嗟に後方へと飛ぶ。霊体だからこそ、避けられたようなものだった。
背後を振り向けば、墓石をなぎ倒した呪霊が後を追ってきている。なぜ、視えているのか。霊体である花子は視えないはずだった。視えるのは特殊な眼ーーー六眼を持つ五条。そして、呪いの王を宿す虎杖だけだ。
その瞬間、花子の中に一つの仮説が浮かんだ。この呪霊は、七海の見立てから氏神だろう。そうであれば墓所、敷いては寺の中は氏神の手中範囲である。
簡易領域。
生得領域程の精密さではない。しかし氏神にとって、この場がそれに値するのだろう。
焦る花子は、急ぎ境内から逃げ出るために身を翻す。境内から出てしまえば、呪霊に視えることはないはずだからだ。墓所を出て、すぐに境内を超える。背後から、無理やり地面から石畳をはがした呪霊がそれを投げつけてくる。花子は身をしゃがめて、裏山へと逃げ込んだ。
暴れる心臓を抑えるように一息つく。
境内から出てしまえば、あの呪霊に視えることはない。これで、安心だーーー。花子は呪霊の様子を見るべく、そろりと背後を振り返る。しかし、そこに呪霊の姿は既になかった。
不思議に思う花子は、頭上に影が生まれたことに気づく。
視線を上げる。花子はそこで、森の中、止み始めたとはいっても小雨が不思議な程一滴もあたらないことに気づいた。花子の頭上から、覗き込むように白い面が浮かんでいる。
ぱかり、と牙を剥き出しにした大口が広がった。

みえない信仰というものがある。
産土の響きが、地名になる。氏神が血縁に根付くのであれば、産土は土地に根付くものだ。
だから例え土地から離れようとも、「○○様のお陰」「〇〇の恩恵」と信仰は耐えず、息づく。それが産土神だ。
しかし似た名前のその概念は、やがて氏神と同一視され、現代では薄れてきている。

二級呪術師である、七海たちが束になっても適うはずがなかったのだ。
呪霊は血縁から生まれた氏神(うじがみ)ではない。
産土神(うぶすながみ)
ーー土地神だ。


***


東京都立呪術専門高等学校、地下室。
囂々と部屋中に迸る呪力は、黒い光を通り越してした。赤と青が複雑に混ざり合い、紫がかっていた。部屋中隙間なく覆われた結界の札があっても、壁が軋みあげる。頭上は愚か、地面が揺れ動いているのは気の所為ではないだろう。数十秒続いた閃光のあと、ようやく光が散っていく。光の発生源には、一人の男がいた。
「チッ」
五条は散った呪力とは異なり、苛立ちの篭った鋭い舌打ちを零す。次の瞬間、男の真正面にいた黒髪の男が、額に青筋を浮かべて勢いよくが鳴り立てる。
「っざけんな!くそが!部屋のなかで打つんじゃねぇよ!」
呪力のない術師が使用した上で、遡る時の記憶でもって呪力を送る。前提を覆す条件ではあるものの、天与呪縛の伏黒甚爾によって最低条件は揃えられていた。
それでも呪具の発動は、難航していた。最強である五条悟をもってしてでも、呪力が不足しているのである。ただの呪力であれば、呪術師をかき集めればいい。しかし、あくまでも時を遡る上で、その時を特定できる記憶を有している必要があった。五条同様、僅かに記憶に違和感を残す伏黒恵がこの場にいないのは、それが原因だ。違和感を持ち、記憶もある人間。ーーーそれは五条しかいないのだ。

いくら込めても発動しない呪具に、苛立ちよりも殺気がこもってしまうの致し方なかった。
五条は反転術式により、常に呪力が減ることはない。しかし、呪具に必要になるのは、あくまで瞬間的な呪力量だった。特級呪術師であり最強の五条の呪力が少ないということはまずあり得ない。男の容量は化け物染みて並外れているものの、呪具は「時を遡る」といった幻想級の代物だ。一筋縄ではいかない。一度で込める呪力足りないのならば、と呪力を精密練り上げ、放てば大地が抉れ、一瞬で無に返る程の呪力を浴びせたが呪具は未だ動く気配はない。
使用する伏黒甚爾からすれば、溜まったものではなかった。鋭い目つきを更に釣り上げ非難する伏黒に、しかし五条は聞く耳を持つ様子はない。
しかもこの男がこれだけの馬鹿みたいな呪力を練り上げるのは、その日初めてではない。なにせ初っ端からこれだったのだ。既に両手で数え始めるほどで、ガキどもにせがまれて仕方なく付き合ってやっているものの呪具を放り投げてやろうか、と伏黒が思い始めた頃だ。
「やってるねぇ」
部屋の扉が開き、一人の男が入ってきた。
部屋中に張り巡らされた結界が弾いていない。害のある人間ではないだろう。しかし認識をずらす術式も重ねられているにも拘わらず、男は涼しい顔をしていた。
長い黒髪を後ろでハーフアップにして、黒いジャージに身を包んだ優男。男は冷涼な顔に薄い笑みを張り付けて、片手をあげる。「や」
「夏油か」
知らぬ人間が見れば、男の爽やかな笑みに、忽ち黄色い悲鳴が上がるだろう。しかし男の内面を知っているからこそ、胡散臭い笑みに伏黒は眉を寄せた。
五条の同期であり、呪術高専の教師の一人。男は特級呪術師だ。この地下室が見つかるも不思議ではない。結界が張られていても、五条があれだけ暴れたのだ。この男に気づかれないはずがなかった。
ふと、その時伏黒は五条の様子が静かなことに気づいた。視線を背後へと向ける。
五条は、不気味な程静かだった。
目隠しもなく剥き出しの蒼い目は、目を見開いて夏油を見ていた。首を傾げる伏黒とは異なり、信じられないといった表情だ。
くつくつと夏油が喉を鳴らす。
「いやー、面白いぐらいに乱れてるね。五条悟の呪力を乱せるのはあの女ぐらいじゃないかい?」
別に初対面もないだろうし、伏黒から見ても、学生の頃からこいつらは揃えば問題児だ。だが、五条の反応はおかしかった。どんな時であっても恐ろしさを感じる程均一である呪力が乱れている。
負の感情ーーーいや、これは怒りか。瞳孔は開き切り、蒼い目は何かに対して怒りに震えている。
ーーー誰が、犠牲になれといった?
一途に五条の幸せを祈り、身を捧げろなど一度も零したことはないし、そんなつもりは毛ほどもない。
勝手に、僕の幸せを決めつけるな、と。
五条はこの場いない女に、怒りを抑えきれなかった。掌に残った傷跡を傷つけるように、拳を強く握る。
沸き上がる怒りを堪えて、五条は親友の男に尋ねた。
「…どっちだ?」
男の返答による様子を、微塵も見逃す気のない鋭い問いかけに、夏油は答えない。目を弓なりに緩めて、夏油は問いかけ返す。
「手を貸そうか」
目を細めた夏油に警戒する寸前で、五条はようやく気付いた。女のお陰で我を失い、気づくのが遅れたのだ。
愉快そうに張り付けた夏油の笑みの奥には、隠しきれない怒りが含まれていた。
「私もあの猿に用があるんでね」



一途









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