DreamMaker2 Sample 緑に囲まれた山奥に佇む、呪術高等専門学校。その地下にある、生徒たちは愚か一部の人間しか知らない広々とした地下室に二人の男がいた。
地下室の存在を知らなかった黒髪の男は、連れてこられた先で関心したように部屋中を見回している。地下とは思えないほど、広々とした部屋だった。四隅は遠く、天井も高い。
鍛錬場には打ってつけだろう。何よりも壁中に張り巡らされた札が、高専内で張られている結界の上から更に強固なまでに上付けされ、よほどの事がなければこの部屋が崩れることはないだろう。無駄ものもなく邪魔が入らないだろう地下室は、いっそ完璧なまでの厳重さで呆れた溜息すら出る。
「恵といい、テメェといい。何がそんなに必死にさせんだか…」
男のぼやきに、ここに連れてきた男は両ポケットに手を突っ込んだまま何も答えなかった。
高専の地下に鍛錬場があるのは分かる。しかし札を張り付けたのは十中八九目の前の男だった。害あるもののみ弾く結界は引く程完璧で、物理的な攻撃は愚か人間であっても、何一つ拒むだろう。認識障害も施されているから、弾かれたことに気づきもしないはずだ。
施された術式は幾重にも張り巡らされて、ここまでするか、というほどの徹底ぶりは、目の前の男らしくもなかった。確かに常に軽薄であるにも関わらず、敵には容赦ない男だ。しかし万が一にも、失敗しないように対策を何十にもとるのは、珍しくみえる。なにせ男は癪な程、なんでも簡単にこなしてしまう。
「(それだけ、必死って事か)」
こちらを振り返らない男は、自他共に認める呪術界最強の男だ。誰に頼る必要もない。唯我独尊とは、この男の為にあるような言葉だった。
目の前の男は、男がガキの頃、一目見た時から気に食わなかった。それは男も同じのようで、所謂、互いに毛嫌いする仲である。にも拘わらず、その相手に頭を下げてきた。
首後ろをかきながら、突っ立たままの男に声を掛ける。
「うちのガキどもがうるせぇーから、手伝ってやるがよ」
勝手に必死になるのはいいが、男自身、無駄なことは嫌いだった。身内が随分とうるさいから仕方がなしに手を貸してやるが、男は言わずにはいられない。
「そいつは過去にいんだろ」
過去の人間に会うなんて、絵空ごと。目の前の最強の男は人間が度々夢に見る『時を遡る』ことを、どこから見つけ出してきたのか、呪具で行おうとしていた。当然、特級中の特級、禁忌の枠に入る呪具である。しかしそうした呪具が存在していたにも関わらず、今まで誰一人成功した者はいない。発動出来る呪術師が、誰一人いないのだ。
最強の呪術師に、特級クラスである黒髪の男。片方だけでも十分であるというのに、両名が揃えばまず、失敗は考えられない。だが、規格外の2名が揃っているにもかかわらず、成功するかは定かではなかった。
呪力を持たない呪術師が使用。更に必要になるのは莫大な呪力に、遡る時の記憶を込めることで術式は成功する。まず矛盾した条件であったが、黒髪の男は天与呪縛を持っている。呪力を持たない代わりに、超人的な身体能力を持つ。それが男の天与呪縛だ。
男が呪具を発動させたところに、もう一人が呪力をこめる。ここまでくれば、課題はクリアできたように思えた。なにせ、呪力を込めるのは呪力切れを知らない最強の呪術師だからだ。ーーーにも拘わらず、失敗する可能性の方が高い。
黒髪の男ーーー伏黒甚爾は冷静なまでの鋭い目つきで男を見ると、続きを口にする。
「なのに俺も、他の連中ですら記憶にない。過去から繋がる俺たちの記憶が戻らねーってことは、だ。そいつはとっくに、」
「黙れよ」
瞬時に、ピリリと空気が凍り付いた。重力を何十倍にも増したような空気は、目の前の男の呪力だ。
邪魔な目隠しを首元に降ろした男が振り返る。蒼い目は爛々と鋭さで、いつぞや二度と見たくないと思った凶悪さだ。いや、それ以上だろう。遠く離れた四隅の壁が、男の迸った呪力に耐えきれずミシリと軋む。

伏黒甚爾の言葉を、頭の回転の速い五条が想定出来ないはずがなかった。むしろ女が過去にいると気づいて、すぐに察したことだ。
女が成仏した時、周囲からアイツに関わるすべての記憶が消えた。女と関わりがあり、執着の根深い五条や恵が辛うじて違和感を覚える程度だ。
生存している伏黒甚爾のお陰で、アイツが過去にいることは分かった。それでも、未来にあの女は存在しないし記憶も戻らないままだ。
ーーー示すところは、ただ一つだった。

五条はそれに気づいた上で、諦めることはなかった。その程度で諦めがつく程、容易い感情等ではない。
そこには悲観も絶望も存在しない。蒼眼に灯った決意は、微塵も揺らぎはしなかった。
ーーー例え、地獄の底だろうがその手を掴み、引きずり上げる。
男はただ、愛しい女に会うだけだ。




いとし、いとしと呼ぶ声





目の前のテーブルに、コトリと音を立て掌サイズの物が置かれた。円形のカップの側面には小さな水滴がいくつも浮かび、使い捨てのスプーンの入った小さな紙包みが蓋の上に置かれている。視線を向ければ、女がもう片方に似たようなカップを片手に立っていた。
「アイス買って来たんです。よかったら食べません?」
訳ありの編入生ーーー花子だ。花子はそう言って、自身もピリリと紙包みを破いて使い捨ての木製スプーンを取り出す。しかし夏油はソファに腰かけたまま、目の前のカップに手を伸ばす様子はない。微動だにしない夏油を横目で見ながら、花子はばれないように小さく吐息を吐いた。「灰原君、心配してましたよ」
「ただの夏バテだよ」
「ただの夏バテなら、アイスぐらい食べれますよね」
にっこりと笑う花子を前に、夏油は片眉を吊り上げる。眉間にしわを寄せた夏油を前に、花子は続けた。「ローマの詩人ではないですけど、健全な精神は、健全な肉体に宿る、ってね」
「後ろ向きな考えは幾らでもできるよ。前向きな考えは難しいけど」
花子の言葉に、夏油はハッと鼻で笑った。
「さすが、思考を放棄した猿は違うね」
嘲笑を浮かべる夏油の目付きは何時にも増して鋭い。剣呑さ帯びた負のオーラは重々しい。だが、それはすぐに潜んだ。深々と息を吐くと、重々しい空気はたちまち四散する。
「…すまない。言い過ぎだ」
夏油はそう言うなり、ソファから立ち上がった。花子の追随の先手を打つように、夏油は言い捨てる。
「放っておいてくれ」
背を向け、完全に拒絶の姿勢だった。夏油の背に、花子は開きかけていた口を閉じる。踵を返し共有スペースを後にしようとする夏油に、少し離れた位置で寛いでいた灰原が気付いた。
「あれ、夏油先輩食べないんですか?」
「傑君、夏バテだって」
「ええ!?」
スプーンを咥えたまま、花子の元までやってきた灰原は、花子の言葉に口に咥えていたスプーンを落としかけて慌てて手で掴む。心配そうな視線を夏油へと向けた灰原だったが、すぐに名案を閃いたといわんばかりに黒い目を輝かせた。「…あ、そうだ!」
「なら、先輩も是非来てください!」
花子も夏油も、灰原の提案に目を瞬かせた。


外は晴天。ぷかぷかと浮かぶ白い雲と青空の境界線ははっきりとしていて、空に映えていた。日差しが強くなり始めた初夏。長袖のシャツの袖とズボンを捲り上げ、素足で立つ灰原は、ホースを片手に堂々と言い放った。
「これなら、水浴び放題です!」
水の満たされていない空のプールの底で、その傍ら同じくホースを片手に、もう片方にはデッキブラシを握る青年、金髪を七三に分けた七海が呆れたようにぼやく。
「清掃が目的なんだが…」
同級生である七海に、灰原はにっかりと歯を剥き出しにして笑った。
「そんな固い事言わないでさー!」
片手に持つホースを軽く握りつぶし、水圧を変える。ホースから垂れ流しのままの水が、勢いよく七海の顔面へと降りかかった。折角整えられた髪型が、水をぶちまけられた事により無残にも崩れる。分けられていた前髪が垂れ下がり水を滴らせる七海に、灰原は笑う。
「ね!涼しいでしょ!」
七海は無言だった。あまりの衝撃で両腕は垂れ下がり、微動だにしない。ぴちょん、ぴちょんと前髪から滴る水が、足元へと落ちていく。

夏が本格的に始まる前に、この日七海と灰原はプールの清掃を言いつけられていた。2年生恒例の清掃業務であったが、そこに灰原は目を付けたのだ。しかしまさか初っ端からいきなり、予備動作もなく顔面に水をかけられるとは思いもしなかった。七海は基本的に優等生であり、生真面目な人間である。予測できなかったことに固まった七海だったが、我に返ると片手にぐっと力を籠める。
「「ぶっ」」
優等生であっても、七海は寛大という訳ではない。むしろ呪術師を目指しているのだから、ただ周囲が飛び抜けているだけで、彼自身、冷静そうに見えて血の気が多い方である。水を掛けられた恨みを込めて、思いっきり灰原へとホースを向けてやり返せば、顔面にあたったのだろう。くぐもった声が上がる。…ん?そこでその声が一人でなかった事に気付き、思わず二人は視線を向ける。「あ」
「灰原…」
灰原の斜め後ろにいた長い黒髪に背の高い青年が、頭からずぶ濡れになっていた。夏油である。丁度いいから、と灰原が無理やり連れてきたのだ。
あれ?と視線を追いかけてみれば、どうやら七海に水をかけられた衝撃で、うっかりホースを握りしめてしまったようだった。シャツは張り付き、全身濡れ鼠であるものの、いやはや、水も滴るいい男である。夏油に憧れる灰原は、思わず褒め称えそうになったが、夏油がにっこりと笑みを浮かべた事で引っ込む。あ、これは。
次の瞬間、激しい水しぶきが両名に勢いよく飛びかかった。

無礼千万、下剋上等。
ここに水かけ合戦がここに開始されたのであった。


「何やってんだ、馬鹿どもは」
ずぶ濡れの三人に、騒ぎにつられて出てきた黒髪に泣きボクロのある少女、硝子が呆れたように呟いた。
頭どころか下半身のズボンすら多分に水を含ませた灰原が、笑顔で顔をあげる。
「硝子先輩、こんにちは!先輩もどーっスか?」
咥えていた煙草を片手に持つと、硝子は首を横に振った。
「遠慮しとく」
しかし、戻るつもりはないらしい。日差しを遮る屋根のあるベンチへと移動すると、そこで煙草を吹かしている。その時だった。今度は花子が片手を上げてこちらへとやって来る。「おーい!」
反対の手にぶら下がる物を見て、思わず七海が呟いた。
「…なんですか、ソレ」
よいしょ、と両手で抱えた花子は、七海の指摘に目を瞬かせる。
「え?水浴びと言えばスイカかなーって」
買ってきました!と笑った花子の両手にあるのは、丸々として大きいスイカだった。ぐっと眩暈が起こるような心地がして、思わず七海は米神に手を当てた。
「フリーダムすぎる…」
「やった、スイカだー!」
「木刀も持ってきたよ!はい、目隠しも!一番手誰やるー?」
やいのやいのと騒ぐ同期2名に七海は遠い目をしたくなった。

灰原を筆頭に後輩達に巻き込まれ、強制的に水かけ合戦やらスイカ割りに参加させられていた夏油だったが、後輩二人の後に回ってきた夏油が見事にスイカをかち割ったことによってようやく一息ついた。今は各々が思い思いの大きさのスイカを頬張っている。すると、夏油の前にもスイカが差し出される。
「はい、どうぞ」
散々、騒いだお陰で思いのほか疲労したようだった。拒絶するのも面倒くさく、夏油は差し出されたスイカを受け取る。一口赤い果実にかぶりつけば、咥内にじわりと果汁が広がった。咀嚼しながら、思わず眉を潜める。
「…塩、かけすぎじゃないか」
「夏バテには塩分だよ」
花子はそう言うと、夏油の横に腰かける。プール脇に腰かけた夏油達の視線の先では、灰原や七海、様子を見に来て引きづり込まれた一年の伊地知が、水のないプールの底で揃って胡坐をかいてスイカを頬張っていた。夏油達から少し離れた後方で、一人涼んでいる硝子もスイカを口にしているだろう。スイカを手に足をぶらつかせながら、花子が口元を綻ばせる。
「私は何もしなくても、傑くんの周りが放っておかないよ。残念だったね」
一瞬、咀嚼が止まりかけた。だが、すぐに何事もなかったかのように再開する。
煩いな、と言い返してやろうかと思ったが、面倒だった。お陰様で全身ずぶ濡れだし、騒いだお陰で喉が渇いている。今はスイカの含む水分が欲しかった。
しゃくしゃくとスイカを咀嚼する音と、わいわいと騒がしい笑い声。煙る煙草の臭い。
花子が笑う。
「今度は五条君もいれてさ。また、皆でやろうね」
任務でいない五条が、この事を知ればのけ者にされたと騒ぐだろう。とはいえ、こちらには花子がいる。怒りの矛先はこの女に向かうだろうから、こちらには何の被害もない。捻くれまくった面倒くさい感情を向けられているにも拘らず、こうも気付かないものだ。女はず太いので傷つきはしないだろうが、困惑するなりする姿を見て笑ってやろう。そんな腹黒い仕返しを考えながら、夏油は無言でスイカを頬張る。
緑は青々しく茂り、日差しは強い。煩いほどの蝉の声はまだしないが、代わりに灰原達の声が響いていた。

ーーーもうすぐ、夏が来る。





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