DreamMaker2 Sample 「おはよう、花子さん」
にっこりと、晴れやかな笑みは正に早朝に相応しい爽やかさだ。花子はうっかり、手に持っていたコップを落としそうになった。
早朝、食堂で顔を合わせた夏油は昨夜の様子の欠片もなく穏やかな笑みを浮かべている。背後から光すら差しているような気がする、と思えば事実、よくよく見えれば窓から陽光が差し込んでいた。天候すら味方するとは、正に非の打ちどころのないアルカイックスマイルだ。しかし花子は、思わず顔を顰めてしまう。
「なんか、うさんくさい・・・」
夏油の爽やかな笑みに胡散臭いと思ってしまうのも、無理もなかった。昨夜、帰り際の彼は、虫けらを見るような凍えた眼差しで、花子へ一言罵倒を零していた。
今までの優等生とした温和な様子はどこにもなく、あまりの温度差に花子は衝撃を受けたのである。そんな彼が打って変わって爽やかに笑みを浮かべているものだから、それまであれば気もしなかっただろうが生憎花子の記憶に昨夜の夏油の表情は色濃く残っている。
「いや、昨日の傑君を見れば、違いすぎだし・・・」
言い訳するように連ねてから、花子は夏油を仰ぎ見た。出会い頭から失礼な言い方だったかもしれない。もしかしたら、昨夜は単に気分が優れなかっただけかもしれない。人間であるし、気分が乗らない日もある。昨日はそう、偶々。そもそも、見間違いといった線もあるかもしれないし。花子は改めて思い直す。少なくても今までの夏油であれば、何も可笑しく感じる事のない爽やかさだ。失言だったと謝罪を口にしようとした花子だったが、夏油が口を開く方が早かった。気分を害した様子もなく、にこやかな笑みを浮かべたまま夏油は言う。
「そうかい、良かった。
ただでさえ、私の同学年は君に対する当たりは強いから、私ぐらい優しく接してあげないと、と思ってたんだけど。私もわざわざ君に敬意を払う労力は無駄かなと思っていたところだったんだ。
助かったよ。有り難う」
「・・・お礼を言われてるんだけど、なんだろう・・・・」
凄く嬉しくない。花子は思わず頬を引き攣らせた。
昨夜の彼は見間違いでもなんでもなかったらしい。好青年なんて、ただの幻想だったようだ。花子はハハハ、と力なく笑う。
「爽やかな笑顔で、エグい言葉放つね・・・」
心外だと言わんばかりの涼しい表情で、夏油は首を傾げた。
「いやだな、私は素直に本心を言っているだけだよ?」
「ひねくれてるー・・・」
優等生然とした彼の裏表の激しさに驚きは禁じ得ないが、ここまでくるといっそ清々しい。
脳裏に彼の同級生が浮かび、納得した。夏油と同じ2年の家入はクールとはいえ比較的温厚だし、未成年で既に喫煙者である事を覗けば比較的まともであるけども。いや、まあ、確かに。花子はこれ以上なく腑に落ちた。
「さすが、同学年なだけあるね」
類は友を呼ぶ。常識というものを息をするよりも早く、容易く蹴っ飛ばしてしまう五条の親友なだけあった。
夏油は笑う。
「はは、君と同じ学年でなくて良かったよ。匂いが移ってしまいそうだ」
ちょっと待て。
「・・・え、まさか加齢?」
聞き捨てならない、と花子はテーブルの上に手に持ったままだったコップを置く。勢いのあまり、僅かにコップの中の水が飛び散ってしまった。
「いやないからね、私まだそこまで年とってないから
ちょっと、ねぇ、傑くん。
お願い無視しないで、その辺り詳しく教えて」
追いすがる花子に、夏油はさっさと身を翻していた。花子と違って、既に朝食を終えているのだろう。背を向けて戻る気満々の夏油を花子は追いかける。
「お願いだから、傑君待って。行かないで」
食堂の入り口に差し掛かった時だった。見慣れた白銀の髪が、入り口の天井に頭をぶつけないよう若干背を屈めて入って来ていた。五条だ。
気付いた花子が声をかける。
「あ、おはよう「朝から盛ってんじゃねぇよ」
花子の言葉を遮るように、サングラス越しの碧い目がこちらを鋭く睥睨した。一瞬、なんのことかと虚を突かれた花子だったが、すぐにはっとする。戻ろうとする夏油を必死に追う姿から、勘違いされてしまったのかもしれない。
「え、違う、誤解だよ。傑くんも、ってもういないし!」
周りを見れば非情にも、夏油の姿は既になかった。入れ違うように扉を潜ったのだから、悟君の声は聞こえていただろうに。絶対、面倒くさがったな。脳裏で今朝と同じ爽やかな笑みを浮かべた夏油が思い浮かぶが、花子にはその姿がすっかり悪人にしか見えなくなっていた。
冷めた眼差しを向けてくる五条に、花子は弁明する。
「いや、だって傑君が匂うって言うから、気になって・・・。・・・もしかして、そんなに私匂う・・・?」
「は?」
話している内に、花子の中で再び不安が湧いてくる。今度は五条へと尋ねると、唐突な言葉に五条は形の良い眉を潜めた。何言ってんだコイツ。匂い?そんなん、いつもと変わらねぇし、不快にも思わない。鍛錬の時ですら、なんとも思わなかった。むしろ、だ。すれ違う度に、組手で肌が触れ合う度に。香るこいつの匂いはーーーそこまで思考を巡らして、五条は唐突に声を張り上げた。
「ばっかじゃねぇの!?」
唐突の大声だった。五条の声に、少ない高専生が集まっていた食堂内は一気に静まり返る。目の前で叫ばれた花子も、目を丸めて五条を見た。
いつもであれば五条はすぐに何見てんだ、と周囲を睨み返すだろう。しかし周囲の視線を気にすることなく、五条は勢いよく捲し立てる。
「ばぁーか!!ばぁーーっか!!」
小学生か、と思わんばかりの語彙力のなさだった。しかし当の本人である五条はどうにも必死な様子だ。白磁の肌をカッと赤く染め上げると、長い足で後退る。
その拍子に禄に背後も気にしていなかったから、五条は入り口の天井に思いきり後頭部をぶつけてしまう。無下限を解いていたのか、ゴン、っと痛々しい鈍い音が響いた。あ、と花子は反射的に手を伸ばしかける。
音が鳴るほどなのだから、さぞ強く後頭部をぶつけただろう。だが五条は僅かにも気にする事無く、ずざざざと勢いよく入ってきたばかりの食堂を後にする。
手を伸ばしかけた格好のまま、後に残された花子はぽかんとした表情を浮かべるのだった。


もしかしてこれ、逆セクハラだろうか。
白銀の髪から覗いていた赤い耳に、残された花子は真剣に後悔した。貶され、罵倒され朝から散々だとも思えるが、相手は夏油。そして五条である。彼等は周りを煽っていくのが通常スタイルだ。夏油だけは違うと、信じていたかったけれど。
これが学生であればまだしも、仮にも花子はとっくに成人済みである。あれくらいでいちいち目くじらを立てるほどでもない。
やっべ、と真剣に後悔する花子の押し黙った姿に、一部始終を見ていた一年生は勘違いしたのかもしれない。気にしなくてもいいよ!と肩を叩いてくるフレンドリーな灰原に、相変わらずの無表情であっても、先輩たちは録でもないですからとフォローをかけてくる実は面倒見のいい七海。良心的な同級生に励まされながら、花子は反省するのだった。


***


日が沈み、辺りはすっかり寝静まった頃だ。薄暗い廊下を歩き、灯りの漏れる共有スペースの前を通りがかると、一人だけソファに腰かける人物がいた。そのまま気にせず素通りしかけて、ふと先ほどの光景が脳裏に過る。
僅かに逡巡して、小さく舌打ちを零した。

どさりと頭上から降ってきたものに、花子は目を白黒させた。視界を遮るそれを取ろうと触れると、それを投げて寄こしてきただろう人物の声がする。
「馬鹿は風邪引かないっていうけど、猿は分からないからね」
今朝方、聞いたばかりの声である。ようやく視界からそれを退けると、案の定、夏油が面倒くさそうに顔を歪めてこちらを見下ろしている。
視界を覆っていたのは手触りの良い裏起毛のブランケットだった。日が沈んでしまえば、まだまだ冷え込む時期だ。寮母の気遣いで共有スペースの隅に常備されたものである。確かに、気が付いてみればシャツ一枚では肌寒かった。いつのまにか冷えていた鼻をすん、と鳴らして夏油に渡されたブランケットを肩にかけながら、花子は夏油の言葉の意味を咀嚼する。
「あ、なるほど。猿って私かー。
・・・いちいち煽ってく、そのスタイル止めません・・・?」
夏油は晴れやかに笑った。
「すまない、本音が零れてしまって」
悪びれもせず言ってのける。この男、欠片も直すつもりはなさそうである。ものの見事に遠慮がなくなったなぁ、とは思うが、それが良いのか、悪いのか。まぁ、外面ばかり優等生な彼なことだ。花子自身も今まで彼の表に騙されていたが、どうにも傑君は潔癖なところがあるようだし、少しでも本音を曝け出せるのはいいことだと、思い直すことにした。人間、皆元をたどれば先祖は猿だし。心を広くして猿扱いも了承しましょう。少なくてもこうしてソファに座り込んでいる花子を気にかけて、わざわざブランケットを寄こしてくるのだ。ちょっとばかり口の悪くなったが、根っこの優しさは変わらないのだろう。
てっきりそのまま踵を返すものだと思っていた夏油は、意外にもまだその場にいた。視線を感じて見れば、腕を組んで怪訝そうにこちらを見ている。眉を寄せ酔狂だといわんばかりな眼差しだ。
無言で問い正してくる夏油に、花子は苦笑を浮かべた。
「私は強くないですから。待つこと位しか、出来ませんし」
花子の言い分に、夏油は片眉をあげる。ややあって深々と溜息を吐くなり、夏油は向かいのソファにどかりと腰かけた。膝に両腕を置き、手を組む。上半身を僅かに前屈みにして、夏油がこちらを見る。
「この際だから、はっきり言おう。君は呪術師に向いていないよ」
目を瞬かせる花子に、夏油は続けた。
「強さはもとより、気質そのものが非呪術師でしかない。呪霊を見て、君は何を思う?」
「・・・怖いな、とは」
何を、と問われれば恐怖しかない。幽霊となり視えるようになった頃から、化け物でしかない呪霊を前に、花子は四の五の言わずに逃げ回っていた。率直に返した花子に、夏油はやれやれと肩を竦める。
「猶更、前線向きではない。立てば君は確実にーー」
唐突に、そこで夏油は言葉を切る。訝し気な視線を向ける花子を気にも留めず、夏油は一人納得したように小さく呟いた。
「・・・なるほど、だからか」
向かいに座っている夏油の零したその言葉は、花子には聞き取れなかった。視線で続きを促すも、夏油は再度口にする気はないらしい。顎に手を置き納得した様子だったが、花子に対してはにっこりと笑った。「別に、大したことではないよ」
夏油の脳裏に浮かぶのは、彼女だけ自棄にあたりの強い同級生だ。気にくわないだとか、目障りだとかそんな感情かと思っていたが。その癖数週間前、彼女が仕組まれた任務で命を狙われたときの様子は到底そんなものではなかった。ちぐはぐな言動は、幼子のように感情が分からないゆえか。そう推測をつけたが、どうやら分かった上での行動かもしれない。節々に持て余す感情はあるようだが、あの男なりに敢えて厳しくしているのだろう。それにしても、アピールがへったくそだな、と思いはするし、そもそもする気はあるのか?とも思うが。まぁ、それは当人たちの問題である。わざわざ部外者がここで告げる事でもない。案の定気づいていないだろう彼女は、夏油やあの男の思考に気づくことなく、先ほどの会話の続きをする。眉を寄せて不満そうな表情だった。
「わかってますよ、自分が向いてないことぐらい。だから補助監督を志望して、呪術師のサポートを」
「君は、それだけではすまないだろ」
遮った夏油の言葉を、しかし彼女は意図を理解できていないようだった。呆れた、とばかりに夏油は溜息を吐く。
「猿の扱いは、面倒だ」
言うだけ言って、夏油はソファから早々に立ち上がった。既に背を向けた夏油は答える気もないようで、去り際に切れ長の目を花子へ向ける。
「私は誰かみたいに優しくないんでね」
肩を竦め、夏油はそのままその場を後にした。


五条が夕方の任務を終えて寮へと帰宅したのは、時計の針が深夜を指す直前だった。大きな欠伸を一つ零して、薄暗い廊下を歩く。五条にとって対して強くもない呪霊相手で、夕暮れ時に転がり込んだ任務はすぐに終わるかと思われた。しかし現場に向かってみれば中々呪霊が現れず、こんな時間までかかってしまった。祓う時間は一瞬でも、待ち時間があまりに長かったのである。
ダリィ、とうんざりしながら、五条は食堂へと向かう。お陰様で夕飯を食いっぱぐれた。眠気はあるものの寝る前に何らかを胃に掻き込んでなければ、空腹で寝つけに寝つけないだろう。成長途中の青少年には死活問題である。
既に飯はないだろうから、冷蔵庫を覗くなり、カップメンを探すなりして適当にあるもので食えればいい。だるさを隠さない表情で、さっさと食堂へと向かっていた五条の足がふと止まる。食堂はやはり人がいないようで、灯りは消えていた。しかしその手前、共有スペースから廊下へと明かりが漏れていたのだ。
なんだ、誰か起きてんのか。そう五条は思ったが、話し声も特に聞こえない。この時間であれば各自の部屋でなく、共有スペースの大画面で映画でも見ている場合もあるが、その気配もなかった。訝しがり覗いた五条は、ソファに沈む一塊の毛布を見つけた。

毛布の塊の前で、五条は足を止める。くるまった毛布から覆いきれない手足がはみ出し、それはこれだけ人が近づいても起きることもなく、呑気な顔を晒している。
一つ学年の下の編入生。神隠しによって高専に保護され、根付くことを避け、新名の変わりの偽名を安直にも花子と名乗った女である。
どうせ、ろくでもないだろう。五条は花子がわざわざ共有スペースにいる理由を、そう検討付けた。女が元非術師だからといっても、元からの気質だろう。この女はお人好しな気質がある。
気弱な雑魚のくせして、粋がる目障りな奴だ。こんなとこで寝てたら、風邪ひくだろ。内心罵倒を零しながらも、五条の眼差しは凪いだ湖のように静かだった。
しばらく女の呑気な寝顔を眺めてから、未だに寝こけている女を起こすべく、五条は手を伸ばす。指先が触れる直前だった。女が小さく零す。
「ーーーさん、」
伸ばしかけた手が止まる。

たった一瞬で、胸中をどす黒い靄が覆っていく。
ーーーこの女は、いつもそうだ。
自分を見ない。自分を通して名前も知らないソイツを見ている。
時には目を細め、ソイツを慈しみ。どれだけ厳しい鍛錬でも、今までと異なる環境にもかかわらずだ。折れずにまっすぐと見つめてる先には、きっとソイツがいる。

飲み込みがたさに、意味もなく生唾を飲み込んだ。いつの間にか伸ばしかけた手を戻し、筋が浮く程握り締めていた。
女を見つめるサングラスの奥の蒼い目には、既に慈しむ色はない。冷え冷えとした眼差しには、全てを燃やす尽くすほどの炎にも似た苛烈な色が浮かんでいた。



くすぶる灯火





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