世は金、人は金

DreamMaker2 Sample 玄関の前で、一人の黒髪の男が靴を履いていた。大きな上背は振り返ることなく、靴を履き終えると屈んでいた体を起こす。のっそりと起き上がった男は、熊のように屈強の体をしていた。いや、幼い自身には、大人がそう見えただけかもしれない。実際にはなかった光景だろう。記憶にもない男だ。ただ幼さからの夢想で、そんな姿を見たような気がした。どんな男だったかも思い出せない黒く塗りつぶされた男ーーー父親は振り返らず、気軽にひらりと片手を振るう。
「じゃあな」
顔のない黒い男。それが自身が覚えている唯一の姿だ。

人は裏切るが、金は裏切らない。それは伏黒恵が父から教わった、唯一の事だった。母親は赤子の頃に亡くなり、後に父親は再婚したものの、物心ついた頃には二人とも幼子を残して蒸発していた。あまりにも幼い頃の話だったから、義理の母親は愚か、実父の容姿すら記憶にはおぼろげである。どんな声をしていたか、どんな容姿をしていたか。それすらも覚えていないのに、だからこそ恵は身をもって教わったのだ。ロクデナシの父親のように、血の繋がった家族ですら人は平気で見捨てることが出来る。当然、血の繋がりのない赤の他人であれば、裏切る以前の問題だ。だから昔は愛想もよく、優しかった家主は、支払う金がないと初めは困った顔を浮かべ、それがひと月過ぎれば玄関の向こうで怒鳴り声を上げ、扉を叩き続ける。しきりに頭を下げる義姉に、罵詈雑言を浴びせる。滞納する家賃に、家中を探し回り、帰ってこない義母が持っていた鞄や衣類等、ブランド品を売る事で生活費に回した。碌に片付けもしない両親だったので、有り難い事に脱ぎ捨てられたズボンのポケットや、鞄の底に僅かばかりのお金が忘れられたまま残っていることもあった。かき集めた僅かばかりの金を空のガラス瓶に詰めて、二人で生活を送る。
転機は、白髪の胡散臭い男だった。一応、恩人ではある。男の進言から呪術高専から金銭的援助を受け、生活を切り詰めることが無くなれば、周囲の反応は掌を返すように変わった。すっかり怒鳴り癖のついていた家主は、翌日から掌を変えてにこやかに笑って挨拶までしてくるようになっていた。同様に給食費も払えるようになれば、厳しかった教師の目も優しくなっていく。
世の中、金さえあればそれでいいのだろう。別に、何も間違えではないし真実である。だからといって禄でもない屑の両親のようになるつもりは毛頭もないが。そう思いながらも周囲の大人を見る恵の眼差しは冷めていた。信じられるのは自分達だけ。他は信用に値しない。教師も、周りの人間も。だからといって呪術師という輩も、まともな神経ではない。恩人とはいえ、白髪の男は修行と称して無理難題押し付けるだけに留まらず、平気で化け物の前に子供を放り投げるような男だ。呪術師はイカれてるやつしかいない、と幼少の頃の伏黒の呪術師嫌いは五条の所為であったりするが。あちらが利用してくるなら、こちらも利用し返せばいいだけだ。小学生の身でありながら、伏黒恵は随分と冷めた少年になっていた。
「・・・やるよ」
だから女に缶ジュースを差し出したのは、特に意味もなかった。夕暮れ時、公園の脇の路地。車の通りも少ない道の隅で、スーツを着て蹲っている妙な女だ。
恵にとって、別に純粋な善意から手助けをした訳ではない。家に帰れば取り立ててくる人間が煩いからと、空腹に腹を空かせながら公園の隅で蹲っていた。昔の自分に似ていた。たったそれだけだった。
俯かせていた黒い前髪の隙間から、濡れた黒い目が見上げてくる。情けない面だ。女との邂逅は時間にして、たった数分程だっただろう。親切心で手助けしてやった訳でもない。なのにそれから幾日か過ぎ、妙な女が記憶の隅へといった頃だ。女は態々、あの時の礼だと恵を探してきた。それからだ。女は気まぐれに缶ジュースをやっただけなのに、恩義を感じたのか度々家にやってくるようになる。
女は家族でもない、赤の他人である。信用に値しないし、この女も何時かは掌を返すに違いない。警戒を緩めることなく、どんなに義姉と女が煩くても恵だけは静かに傍観し続けた。元から多弁に話す気質でもないから、苦でもない。女がやってきたところで手元の本を読み続けるか、義姉に変なことを仕出かさないか監視するか、時には女を観察するか。
ふと、ある時思った。
(「・・・なんだか、犬みたいだな」)
使役する玉犬ではないが。女が似ている気がした。恵はそれまで決して警戒を緩めることなく、女には極力近寄らないようにしていた。しかしある時、お人好しの権化である津美紀に腕を引かれ、女が手土産に買ってきたケーキの前に座らされた。渋々、仕方がなしに恵は一口に口にする。食べ物には罪はないからだ。たったそれだけで様子を見ていた女の表情は明るくなった。気の所為か尻尾がぶんぶん振られているような気すらする。警戒するのも馬鹿らしい程ふ抜けた表情だった。
女はそれからも、恵が僅かに反応を返すだけで嬉しそうに表情を緩ませた。どんな些細な事にもそんな調子で、だからかもしれない。気が付けば警戒するのも馬鹿らしいと、諭されてしまった。
信じられるのは家族の津美紀だけ。他人は相変わらず信用できない。だが、女は善人と呼べる人間なのかもしれない。女は、津美紀以外で初めて善人と思えた。なお、呪術師は相変わらずイカれたままである。善悪の括りに入る事すら烏滸がましい部類である。呪術師以外の人間は、信じてもいいのかもしれない、と女をきっかけに思い始めた頃だ。
(あの呪術師とこの女が、会ったらどうなるだろうか)
散々周囲をけなしながらも、恵は自身が真っ当な人間であるとは思えなかった。近頃は、口で解決するよりも物理でどうにかした方が早いと面倒くさい連中は無言のまま暴力で解決してしまう。親父のようになるつもりは毛頭ないが、性格が捻くれているのは自覚していた。加えて、自覚していても直すつもりもない。
それでも、あの女には叶わない。イラつけば口よりも早く、反射的に手が出るようになったが、あの女を前にすると也は潜み、気が付けば意思に反して手足すら動かなくなる。家族でもないのに、だ。
なのに無防備な女を前にすると、ここ最近腹の底でぐるぐると凶暴な何か渦巻く。かと思えば、女が笑えば一瞬で肩の力が抜けて、霧のように消えてなくなる。
どれだけ腹を空かせたと訴えてきても、目の前の女の笑みを崩したくはない。ただそれだけであったが、だからこそ女には弱いのだろう。捻くれた自身にとっても、女の傍は心地よい。
自身ですらそうなのだから、精根螺子曲がったあの術師は?
振り回されるだけならば、普段あれだけこちらを振り回しているんだ。ザマァミロと見てみたい気持ちもする。しかし幼くとも無意識下で冷静に分析が出来ていた恵は、確信にも近い、予感があった。
思い浮かんだ考えは心底不快で、それから恵は徹底して、あの胡散臭い呪術師と女が会う事のないよう数年手を回し続けるのだった。

***

世の中、金である。ディスプレイを前に悩む花子は睨み付けるように見つめて、腕を組む。穴が空く程見つめても、表示されている価格は変わらない。嗚呼、無常。ゼラチン状のナパージュで固めることできらきらと輝いて見えるフルーツに、白いふわふわの生クリーム。生地の焼き色はこんがりきつね色できっとサクサクだろう。津美紀ちゃん喜んでくれそう。手土産に渡した箱を開いた途端、焦げ茶色の瞳を輝かせ、頬をうっすら紅潮させて喜んでくれる少女の姿が脳裏に浮かぶ。斜め下のビターチョコレートケーキもいい。むっすりとした表情でも、無言で口にしてくれる少年の姿も脳裏に描ける。しかしどれだけ価格表をガン見しても、金額が変わるはずもない。店員から笑顔で、しかし視線から『はよせい』といった無言の催促を受けても花子はぐぬぬと唸り声が出そうなほど悩んでいた。少年少女の喜ぶ姿はみたい。だが無情にも、花子の財布の中身はとても侘しかった。悲しいかな、休日にも拘わらず高専の服を着ているほどだ。

一か八か、こちらの世界に戻る事に賭けて花子は元の世界で半年間駆けずり回った。とはいえ、今から戻れるよ!なんて前もって神様の天啓等あるはずもなく。こちらに戻れたのは偶然なのだろう。花子も一応、念のためと事前に神社巡りをする際は貯金を鞄の奥底に沈ませていた。なけなしの貯金を銀行から引き出し、持ち歩く事は万が一落としてしまったら、と考えると非常に心臓に悪かったが、もしも世界を渡れたとき、金もなく苦労するのは既に身をもって経験している。全額とは言わずとも、花子が元の世界での預金8割程。お札にすれば意外にもあまりない札束だが、お陰で以前のように生活苦で死にもの狂いになる事は避けられている。予想外にも若い頃の五条と出会い、高専で保護されたことも助かった。だが、だ。ここで実は現金もってるんです〜なんて現ナマ数百万を元に生活してみろ。なんでコイツ、神隠しにあったはずなのに事前にそんな大金持ち歩いてんの?と不審がられることは火を見るよりも明らかだった。既に一度世界を渡ったことがあります、なんて正直は周囲に暴露することは花子には出来ない。
出会って既に数か月。夜蛾をはじめ、五条達高専生徒達はとても親切だ。けれど、だからといって全幅信頼を勝ち取っているとは思えない。彼等を疑っている訳ではないが、だからこそ、正直に言って頭が疑われるようなことはさすがに言えなかった。結局、花子は元の世界から持ってきた貯金は必要なときにだけこっそり使用して、後は切り詰めた生活をせざるを得なかったのである。
花子の生活費は、高専持ちだ。所謂出世払いである。呪術について学び、安定してくれば保護監督や事務員でもいい。高専関係の職について、生活が安定すれば返してくれればいい、と初対面の当初はあまりの強面に内心ヤのつく職業の方かとびびりまくったが、実は手芸が趣味で、キモ可愛いと定評のあるぬいぐるみ(呪骸)を作る夜蛾の言葉である。「突然のことで、貴方も混乱しているだろう。無理はしなくていい」とあまりの仏具合に花子は拝みかけてしまった。
花子がこうして高専外を一人で歩けるようになったのも、夜蛾から渡された呪具のおかげだった。花子の特異体質である呪霊を集める性質を抑える呪具である。こちらに戻ってから既に数か月が経ち、花子はこの春ようやく、一足遅れで1年生に編入することが出来た。それでもしばらくは一人で外出は出来ずにいたが、数週間前、夜蛾から渡された呪具のお陰でようやく解消されたのだ。呪具はお守りのように掌サイズのものだった。昔、未来の五条から貰ったものと酷似している。元の世界に戻った際に無くしてしまっていたそれだが、当時は短時間だけ呪霊を寄せ付けないものだった。
今回のものは短時間という使用上の定めもなく、持っているだけで寄せ付けない優れものである。夜蛾には「大事に使いなさい。無くすなよ。・・・無くすなよ」と再三真顔で念を押されたので、恐らく貴重な物なのだろう。未来の五条も入手に苦労したと零していたから、ふと、疑問が湧いて高専にあったものなのかと聞いてみれば、夜蛾は渋顔を更に渋くさせた。「ご・・呪術界で、古い名家からの、寄付だ」奇特な家もあったものだ。せめて、お礼をと思ったが夜蛾は「悪いが、授業がある」とすぐに踵を返してしまったので、結局どこの家からの寄付なのか知ることは出来なかった。
外出出来るようになり、まず花子は必要最低限の身の回りの物を揃えた。今までは高専経由でしか出来なかったからだ。そうして、ようやく腰が落ち着け始めた頃だった。花子は思ったのである。
「(恵ちゃん達、どうしているかな?)」
花子にとって、恩人の少年と義姉の少女。この頃なら、彼等は随分と幼いはずだ。ーーー元気にしているだろうか?
気になり始めると、居ても立っても居られなくなった。彼等は幼いながらも二人でしっかりしていたが、花子と会った時点でまだ小学生だった。
その頃よりも幼い今、二人で上手くやれているだろうか。両親は蒸発した、と言っていたが、この頃はまだいるのだろうか?
思い立てば気がかりで仕方がなく、気もそぞろで日課になりつつある五条との組手では、顔を合わせた途端五条に顔を歪められてしまう。
かと思えばずんずんとこちらにやってくるなり、「やる気あんのか、ゴラ」と思い切り額を小突かれたのは記憶に新しい。
傾いた頭が戻る度に額を突かれ、後方へと傾き戻ればまた小突かれ。鳥が嘴で木をつつくように高速で連打され続けた。あまりの速さにぐわんと眩暈すらした。最早コントロールのボタンか何かと勘違いしているのではないかと呼べる程の速さだった。
「さっさと寝ろ」
ぐるぐると目を回す花子に、五条はそう言って背を向けた。明日から五条達は長期の任務に出るらしい。しばらく間を空けることになるから、せっかくの機会だったのだが五条は既にその気はないらしい。
結局その日の訓練はなくなり、花子はとぼとぼと寮へ戻ることになった。
そうして、一晩寝た翌朝。
すっきりした頭で花子は思い立った。
「(よし、恵ちゃん達に会いに行こう!)」
せめて、一目だけ。遠目から見るだけでも。元気な様子を見れればいい。花子は数日後の休日に、恵達に会いに行くことを決めたのである。
恵たちの住んでいたアパートにこの頃から彼らが住んでいるかは分からなかったが、花子が知っているのはそこだけだ。電車を乗り継ぎ、彼等が住んでいる地元の駅で降りる。道中商店街を通る。そこで花子は一件のお菓子屋さんに目を止めた。
昔彼女たちに手土産に渡した際、津美紀が大層喜び、その頃はまだ懐いてくれずに素っ気なかった恵も、ぎこちないながらも食べてくれたケーキ屋さんだった。
足を止めた花子は、ケーキ屋の前で数十分悩むことになる。腕を組み、内心唸る。
そもそも、見知らぬ人間から食べ物を貰って食べるか?と考えれば、まず、あの頃から既に思慮深く冷静だった恵が止めるだろう。いや、ご両親の知り合いという体でいけばいけるかも?一度も会ったことないけれど。土産を渡す言い訳にはなる。それなら遠目とは言わず、少しぐらい会話もできるかもしれない。津美紀ちゃんと恵ちゃんの喜ぶ顔をが見たいなぁ・・・。でも、待って、私今無駄に使えるお金ある?貯金はあっても、何かあった時用に、と寮内の自室のタンスの奥底にしまわれている。この先、何があるかはわからない。そもそも今の生活費は出世払いということになっているが花子としては落ち着いた頃合いで、元の世界から持ってきた貯金を徐々に返済に充てるつもりだ。花子は悩む。慎重に行くべき未来設計。幼子二人の屈託なく輝く笑顔。いや、恵ちゃんは笑わないだろうけど、でも、食べてくれるし。部屋の隅で我関せずにいる恵ちゃんがむっすりとした表情でも、食べてくれるだけで十分なほど嬉しい。ぐぬ、ぐぬ。と花子はディスプレイのケーキをねめつける。店員の視線も鋭くなってくる。この人買う気あんの?ないなら邪魔だから帰ってくれないかな、辺りは思っていた。
最終的に、花子は苦渋の決断をした。
白い四角い箱を片手に、ほくほくとする花子と、買ってくれるならいいのよ、と今度こそ心からの笑みで見送る店員の姿があった。
金よりも代えがたい思い浮かべた二人の尊さに、花子は勝てなかった。

恵たちの住むアパートに着いたのは、それから数分後の事だ。日差しは丁度真上に上り、昼を過ぎた頃だった。
昼間の日差しは燦燦としていて、長袖でいると少しばかり汗ばむ。懐かしい古びたアパートを前に、鼓動が早まる。恵ちゃん達は、いるだろうか?そわそわして落ち着かない胸で袖を捲り、錆びついた階段に足を掛ける。恵たちが住んでいたのは2階の角部屋だ。段差に足が付くたびにカンカンと乾いた音を打ち鳴らして、階段を上り終える。塗装の剥げかけた外装の廊下の奥に、目を向けた。
扉の前に、一人の男がいた。
出てきたばかりなのか、男の背後の扉が音を立てて閉じる。男が振り返り、花子は目を瞬かせた。
短髪の黒髪に、精巧な顔立ちの男だった。背は高くがっしりとしている。男が着る黒いTシャツの上からも筋骨隆々とした様子がうかがえた。鋭い切れ長の黒い目に、鼻梁は太く男らしい。薄い唇の端には古い傷の跡があった。男は誰かに似ている、なんてレベルではない。吊り上がった目に、尖ってはいないものの、力強い髪質の黒髪はどうみても恵と酷似していた。明らかに血縁者だろう。声をかけようか、いつもお世話になってます?でも、まだこの頃は恵ちゃん達に会えていない。いきなり話しかけるのもーーーなんて花子の考えは、すぐに消し飛んだ。
突然、目の前の男が消えた。
目を見開いた花子が気付いたのは、首への圧迫感が先だった。顔を覆える程の、一回りも大きな筋張った手が花子の動脈を抑えるように首を掴んでいた。
締められている訳でもなく、ただ抑えつけるようなものだ。息苦しさは感じない。それでも、突然の事に花子は息を呑んだ。
頭上から、男の低い声が降って来る。
「星漿体の居場所、知ってるか?」
消えたと思った男だ。男は数メートルはあった距離をたった一瞬で詰め、花子の首を掴んでいた。
男の鋭い目つきが、花子を見下ろす。
恐怖に身をこわばせる中、花子は聞きなれない言葉に一度、瞬きをした。せい、しょうたい?
「…チッ、外れか」
花子が何か言うよりも、男にはその一瞬で十分だったらしい。顔を歪めると、掴んでいた首から手を離す。花子は首から離れた解放感に、どっと息を吐いた。締め付けられていた訳でもないのに、恐怖感で上手く呼吸が出来なかった。首に手を当て、暴れる心臓を抑える花子を他所に男は既に見向きもしない。
その時廊下に電子音が鳴り響いた。男はズボンの後ろポケットから携帯を取り出しながら歩き出す。
背後から、階段を下りていく音がした。電話をしながら降りていく男の声が、遠くなっていく。
「…あ?ガキに会えたか?ちげぇーよ。忘れもん取りに行っただけだ。それよりターゲットはどうだ?ーーー」
必死に心臓を落ち着かせる花子は、不審者を警察に通報だとか、そういったことすらもすぐに考えが及ばずにいた。
せっかく買ってきたケーキの四角い箱は、気が付けば地面に落ちて、中身は無残に潰れてしまっていた。


「(…なんだったんだろう)」
花子は首を摩りながら、とぼとぼと帰路につく。手土産のケーキも潰れてしまい、花子は結局、あの後恵達に会う事はなかった。
男は、十中八九恵たちの血縁者だろう。それ以外考えられない。けれど、いきなり首を掴まれ、謎の問いかけをされ花子は混乱するしかなかった。明らかに普通の人間ではない。しかも電話で話していた『ターゲット』という単語も不穏過ぎた。ちょっとこれ、もしかしなくても危ない人なのでは?警察に通報するべきか、しかし恵たちの血縁者と考えると躊躇われる。
ケーキは潰れてしまったもののの、実害はなかった。ひとまずは、それで良しとしよう。それにしても、男が言っていた『せいしょーたい』。・・・どこかで、聞いた事があるような。
花子は悶々としながらも、すぐに思い出す事は出来なかった。男の単語に億尾を引かれながら、思い出したのは高専に戻った、翌日の休み明けの時だった。


いつも通り1年生に交じり、呪術について学ぶ。授業が始まる前の事だ。同じ1年である黒髪の少年、灰原が2年の話題を出したのだ。灰原は手足をぶらつかせると、椅子の背もたれに顎を預ける。
「先輩たち、元気かなー」
「あの人達なら、問題ないでしょう」
答えたのは灰原の横の席に座る、金髪の髪に前髪を七三に分けた少年だ。デンマーク人のクォーター、七海である。七海は視線を手元の本から逸らすことなく即答する。灰原は返ってきた素っ気ない反応に眉を潜めた。
「えー、でも今回は懸賞金も掛けられてるらしいよ!だから今、先輩たち日本にいないんだって」
「まあ、刺客ぐらいであの先輩たちがどうにかなるとは思えませんが」
動じることなく本のページを捲る七海に、携帯を弄りながら灰原が声を上げる。
「あ、ほらほらコレ!」
ずいっと画面を見せてくる灰原に、ナナミは眉を寄せる。本の前に出されて、強制的に読書を中断されてしまったからだ。しかし、気にならなくもない。眉間の皺を片手で揉みほぐし、読んでいる箇所に栞を挟み本を閉じると画面を見てみる。七海の隣の席である花子も気になって、灰原の携帯を覗きこんだ。
灰原が見せたのは、例の闇サイトだろう。少女の写真と共に金額が掲載されている。載っている金額のゼロを灰原は数えていく。
「いちじゅうひゃく…。向こうも必死だねぇ〜」
「…星漿体ですからね。それだけ重要なんでしょう」
これには、七海も顔を僅かに顰める。その横で、初めは金額に呆気に取られていた花子も、七海の言葉にはっとした。
『星漿体の居場所、知ってるか?』
つい先日、聞いたばかりの言葉だ。黒髪の、恵達の血縁からの問いかけである。
せいしょうたい。星漿体。この事だ。
けれど、何故、恵たちの父親がそれを?いきなり首を掴んでくることといい、その後の会話に出た『ターゲット』という言葉と言い。
あの日、花子はいつも通りお金がないからと高専の制服だった。呪術高専の生徒だと知った上で、男は花子に問いかけてきたのだ。つまり、だ。恵達の父親は、今回の任務で五条達の敵側なのだ。ターゲットは十中八九、星漿体の事だろう。ここまで線と線が繋がった所で、花子はひっかかりを覚えた。恵達の父親と敵対している事は確かに心苦しい。けれどそれ以上に、ひっかかるのだ。何か、見落としているような。
そもそも、五条と恵は師弟だという。あの頃、幽霊だった花子の心残りだった恵。意外にも接点は身近にいた五条にあったのだ。
五条との師弟関係は、いつからなのだろうか?幾ら記憶の中を漁ってみても詳しくは聞いていなかったから、花子には推測しかできなかった。高専からの援助は二人が幼い頃から。花子が恵達に会ったころには、二人は既に生活に困っていなかった。なのに、まだ現状のところ共通点はない。五条達の話題にも恵達の話は出てこなし、高専側は把握していないのだろう。それなら、接点はいつ生まれた?思い浮かんだ予想に、ざ、と血の気が引く気が心地がした。
「…花子さん、大丈夫?顔色悪いよ?」
花子の顔色に気付いた灰原が、不安そうに声を掛けてくる。
「…ごめんね。少し、体調が悪いみたい」
花子はそう言うと、一限目は休ませてもらうと教室を後にした。手足は冷たいのに、気付いた可能性に心臓が激しく脈打っていた。
心配してきてくれる心優しい灰原達に少し休めば大丈夫だと告げて、後ろ手で教室の引き戸を閉める。

どうすればいいのだろう。もし花子の予想が外れていなければ、接点は今だ。
今は敵対しているようだが、恵は近いうちに五条の弟子になる。もしかしたら向こうと和解するのかもしれない、と過った願望混じりの考えはすぐに打ち消されてしまう。花子が会った時点で、恵たちの親は既にいなかったからだ。
自身が出来る事はあるのだろうか。呪術も呪力もゴミカスと五条に罵られ、体術でさえコテンパンに打ちのめされ。これから五条達を追いかけ、運よく彼らの任務に割り込めたとしても。まず役に立てるかと考えれば自身ですら無理だと悲しいほど即答できた。ならば知力を巡らす。しかしながら、そんなものが出来ていたら昨日の時点で気付けているだろう。既に恵達の父親は高専と敵対している。ならば、何が出来るかと考えて。
花子はポケットから、高専から支給されている携帯を取り出した。

数時間後、花子は授業中に急遽夜蛾に呼び出される事になる。
空いた事務室で、向き直って座る夜蛾が、花子に印刷した用紙を差し出してくる。
とん、とある箇所を指し示した。
「これは、どういう事だ」
花子は、すっと息を吸う。世は無常。悟りを開いたような涼やかな表情で告げた。
「お金が全てです」
夜蛾が差し出してきた用紙は、闇サイトのページを印刷したものだった。そこには星漿体候補である少女に懸賞金がかけられている。
闇サイトは誰でも投稿が出来る。ゆえに、アンダーグラウンドの人間がターゲットの命に懸賞金をかけることが出来た。ならば、と花子はそれを逆手に取り、反対に動いたのだ。星漿体候補である少女、天内理子の命を守りきれれば、懸賞金を出すと投稿したのである。
我ながら妙案と花子は思いながらも、苦境に立たされ、若干、やけっぱちな面もあったかもしれない。花子はふっと笑った後、夜蛾に尋ねた。
「これ、経費で落ちません・・・?」
「ないな」
当然の返答に、花子は思わず両手で顔を覆った。
かけるのであれば、それを上回れなければ意味がない。
天内理子の殺害に賭けられた懸賞金の優に倍以上を掲示してみたものの、この後、まさか恵達の父親がこちら側に寝返り金を催促してくるとは、花子は思いもしなかった。
確かに、衝突は避けられたものの、相手が殺害を断念してくれれば、といった程度にしか考えていなかった。まさか金に目がくらみ、あっさり手を翻すとは思いもしなかったのである。ピンポイントで釣れた人間にやっぱ払うの無理!なんて言えるはずもなく。頭を抱える事も出来ず震えて若干涙目になる花子に、さすがに不憫に思ったのか夜蛾大先生が助け船を出してくれた。呪術師殺しとして散々非道を働いてきたのだ。本来ならば見つけ出したその場で処刑対象である。しかし、今回は天内理子を守り通したのも事実。ならばこれから高専側で働くことで処刑については目を瞑り、今回払う予定の懸賞金も様子を見て対価として払う、というものだった。当然、話が違う、と再び衝突しかけるが、前払い金を出す事で話は収まった。恵の父親は相当お金にだらしないらしい。力はあるにも関わらず、元々天内理子殺害の依頼も、前払いの金額よりも低かったのだ。
こうして、丸く収まり花子は莫大な金額を支払うという窮地を救ってくれた夜蛾先生に頭を下げまくった。

これから、恵の父親ーーー伏黒甚爾は高専の臨時体育教師として所属するらしい。敵対することは避けられたと安堵した花子だったが、後に顔を合わせた五条は、般若のような顔をしていた。
事情を知った五条により、花子は再び額を猛攻されるのだった。






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