ある麗らかな日

DreamMaker2 Sample 2006年1月6日 東京都品川区東五反田1丁目、取り壊し中の廃ビルにて呪霊が発生。
4級相当の呪霊と判断され、研修も兼ねて東京都立呪術高等専門学校 一年生1名、補助監督1名を派遣。
20時8分、現着。3階角部屋にて呪霊を目撃。討伐に入るも呪霊の等級に誤りがある事が発覚。
2級へと等級を変えた呪霊に対して、派遣されていた呪術高等専門学校 一年生1名は重症。

20時25分―――1級呪術師 五条悟、現着。

20時26分、呪霊の消滅を確認。



***



事件より数週間前、放課後の呪術高専にて。
年の瀬を前に帰省の準備を進める学生の多い中、校庭に佇む男は両手をポケットにつっこみ、けだるそうに声を上げた。
「三回目〜」
長身に比例した長い片足を降ろして、数メートル先に蹴り飛ばした一学年下の後輩を見る。汚れ一つない制服姿の五条と比べて、後輩の女は随分と見すぼらしいものだった。身に纏うジャージは砂に塗れ、結ばれた髪はボサボサ。何度目かの地面で蹲る女を、五条は冷たく睥睨する。
「お前、やる気あんの?」
口元は薄っすらと弧を描き、口調も軽薄なものの丸渕のサングラスから除く蒼い目は、冷え冷えとした色をしていた。声も出せず痛みに脂汗を流し、既に1時間は経過している鍛錬に女の息を未だに整わない。対して始終汗すら流さず涼しい顔で、息をも乱していない男は指折り片手に口にした。
「受け身すらとれてないのが三回。腹が三回に頚が二回。頭は五回。これだけで十以上は死んでんぞ」
最後の方は数えきれ無くなり、男は指折るのを止めて手を振るう。「弱すぎ。話になんねぇー」
「お前、現場に向いてねぇよ」
五条は軽薄な口調を一転させて、声を落として告げる。女は地面に蹲ったまま、動かない。
後輩とはいえ、女は既に成人を迎えていた。しかしこの春特例として、呪術高専1年に編入することになったのだ。ある日突然高専内に現れた彼女は、この時代の人間ではなかった。所詮、神隠しというものだ。仮名として彼女が名乗った名前は花子という。居場所もなく、帰る術もない彼女は必然的に高専預かりとなり、また彼女自身の体質から高専へと編入することになった。
女は呪霊を視ることができたのだ。しかし祓う術は知らず、神隠しによる副産物か、直近で視えるようになったのだろう。祓う術を知らず戦う術も知らない女は、今まで平穏な日常にいたのだろう。年上であるにもかかわらず、当然のように、高専内では群を抜いたドベであった。
これだけコテンパンにされては、年上の矜持が傷つくだろう。少なくとも五条の知る大人達はこの時点で顔を真っ赤にさせて憤る。または少しでも頭が回るようなら、覆しようのない実力差を前に掌返して年下だろうがへこへこと頭を下げてくる。反感を買うか言いなりになるか。そのどちらかだ。
女は俯かせていた顔をようやく上げた。
「やっぱり、駄目だねぇ・・・全然叶わないや」
悔しさに顔を歪めるのでもなく、女は苦笑を浮かべる。笑いながらも、女は手に持った呪具を離さない。呪具を支えに立ち上がる女を前に、五条は眉を寄せる。顎を伝う汗にほつれた髪は愚か、何度も地面を転がったから泥すらこびりついている。術師にありがちな闘志にみなぎるわけでもなく、へらりと気が抜けるような笑みを浮かべていた。
年上としてのプライドはねぇのか、コイツ。五条は喉の奥に異物が詰まったような感覚がした。
他の後輩達のように、あっさりと決した敗北に、起き上がる負けん気の強さがあるわけでもない。同級生のように、僅かな隙も逃さず耽々と勝機を狙うわけでもない。後輩だろうが自身に足りない面を少しでも学ぼうとする、上級生達とも違う。どんなに吹っ飛ばそうと、女にはギラついた目にはならない。さぞ平和ボケして、闘争心は皆無に近いのだろう。なのに女は不思議と、どれだけふらついても起き上がってくる。転んでも笑い、罵倒しても笑う。それだけであれば頭の中花畑の、ただの能天気な奴だと一笑して五条は相手にもしない。
起き上がった女の目は闘争心を抱くこともなく、ただ一心に。
女の黒い目は、いつだって前を向いていた。

見知らぬ得も知れない感覚が、じわりじわりと広がる。
数秒後、容赦なく五条により女は地面に吹き飛ばされるのだった。




教室の窓辺から、その様子を見ていた黒髪の青年が思わずつぶやく。
「あのままだと、あの人、辞めてしまうんじゃないかい」
例え訓練であっても、やりすぎだ。もとより五条は加減の知らない男だが、殊彼女に対しては特に常軌を逸している。いくら後輩の為を思ってと言っても、どうにも個人的感情が混ざっているようにしか見えない。少し変わった編入生といえど、女のどこかそこまで癪に障るのか、夏油には分からなかった。差して興味がないともいうが。五条にとっては蟻と変わらない弱さで辺りをうろつかれるのが嫌なのかもしれない。窓際に這う黒い小さな蟻を見つけて、夏油はそんな事をふと思った。
だが、ただでさえ人手不足の呪術界だ。貴重な視える人間をわざわざ追い出すのも勿体ないだろう。優面にも拘わらず、良心から口にしたわけではない、極めて打算からの夏油の言葉に外に向かって煙草の煙を燻らせていた硝子が手を止める。
「どうだろうな」
夏油は隣の窓際で頬杖をつく硝子を見る。てっきり同意されるかと思っていたが、彼女は振り向いた同級生に視線もやらず煙草の灰を外へと落とす。
「・・・アイツが、逃がさないだろ」
ぼんやりと五条達を眺める硝子の言葉の意図が、この時の夏油に分からなかった。
窓の溝を這っていた蟻の進行方向に、煙草の灰が落ちる。視界の隅に、道を塞がれた蟻が映っていた。


***


女が重傷の怪我を負ったと夏油が知ったのは、全てが終わった年明けの事だった。
等級違いの任務より、瀕死の怪我を負うも応援に向かった五条により命だけは助かったらしい。五条より一足遅れで高専に戻った夏油は、事の些末を聞いた後医務室へと向かう。
建て付けの悪い引き戸を引けば、件の重傷を負った女が未だ目を覚ます事無く滾々と眠っていた。休暇中に呼び戻された硝子により、怪我は癒されたのだろう。眠る女に深い傷は見当たらず、後は女の目が覚めるのみだ。入れ違いで治療を終えたのだろう硝子は既に医務室にはいない。
ベッド脇には、パイプ椅子に座る同級生がいた。
軽薄で、よく口が回る煩い男である。しかし男は夏油が入ってきたことに気づいているだろうに、振り返ることもなく無言で眠る女を見下ろしていた。いつも鍛錬で女を問答無用に吹き飛ばしている手は、まるで触れたら壊れてしまうような、繊細な硝子細工に触れるかのように慎重に女の頬に触れている。片手だけで女の顔を覆ってしまえそうだった。大きな掌は慎重に女の頬を撫でては、女に息があることを確認している。逸らす事無く、五条は一心に女を見続けていた。そこにはいつもの粗暴さも、嫌悪に歪んだ瞳も何処にもなかった。夏油が我に返ったのは、五条から声をかけられた時だった。
「丁度いい、後は頼むわ」
相変わらず視線を降ろしたまま、背後にいる夏油へと声をかける。五条は最後に額にかかる前髪を優しく退けると、よいしょ、と椅子から立ち上がった。
「・・・悟は?」
愚門かもしれない。薄々感づきながらも問いかけた夏油に、五条は片手を振る。
すれ違う直前、サングラス越しに見えた五条の目に、夏油は一瞬息を呑む。ピリリ、と肌を刺すような呪力が走った。
「ちょっと野暮用ー」
軽薄な言葉とは裏腹に、抑えきれなかったのだろう五条の呪力が漏れ出た。僅かに漏れ出た五条の呪力は重く、手足どころか息すらままらなかった。たった一瞬の殺気にミシリ、と医務室の天井が悲鳴を上げる。
呪力に当てられた体がふと軽くなった。
閉ざされた医務室の扉を前に、夏油は静かに息を吐く。同時に、硝子の言っていた意味を深く理解するのだった。



急ぎ足で向かう男の額から、脂汗が滲んでいた。急がなければならない。急いで、早く、渡してしまわないと。この件について時間制限を設けられているわけではないが、彼の心中は焦燥感に見舞われていた。
第六感的なものだ。計画に狂いがあった、五条悟の介入。京都の実家に帰省していたにも関わらず、想定より随分と早い帰宅だった。五条悟により、第一の目的は達成出来なかったものの、第二は達成できた。であれば、わざわざこんな所にいる必要はない。ーーー否、いてはならない。
男は思い出す。意識を失い重症を負った女を抱えた男。夥しい女の血で汚れる事も関わらず、大事なものを抱えるかのように、両腕で慎重に抱えていた男の目。そして男の纏う呪力。
思い出すだけで、臓腑から体が震え上がった。あれほどの暴力的な呪力、纏うだけで人を殺せてしまう程の殺気。男を前に意識を失わなかったのは、偏に男が女の安全を優先したからだろう。
あれは、人ではなかった。
男が一瞬で消滅させた2級呪霊よりも、狂気的で、おどろおどろしい。1級呪術師だから?数百年ぶりの六眼使いだから?そんな容易い理由ではない。脈打つ心臓を緩く握り込まれたように、そっと首を絞められるように。
どうあってもあちらの一挙一動で、一瞬でこちらの命は潰えると、本能から分からされてしまう。
ーーーアレは、化け物だ。
「その報告書、どーすんの?」
背後からの声に、男は息を止めた。コツ、コツ、と音を立てて近づいてくる。
逃げなければ逃げなければ逃げなければ・・・!
鼓動は早まり、汗が噴き出る。煩いくらい本能が声を上げているのに、恐怖から足が竦んで動きもしなかった。男の声はいつもと変わらない軽いものだ。なのに全くといってもいいほど、体が言う事を聞かなかった。
手足だけが情けなくも小刻みに震えている。隠しようもない動揺は、恫喝されたからではない。まだ、何もされていない。
だが脳裏に焼き付いて離れないのだ。あの時の男の様子が。呪霊のように祓徐の対象でもない。偶然、任務に同行することになった、ただの補助監督の、はずなのに。
「誰に言われた?」
男ーーー任務に同行した補助監督の肩に、五条は背後から手をのせた。ガタガタと歯の根も合わず、体中の震えが止まらなくなる補助監督の耳元で五条は続ける。「視とけって言われたんだろ?アイツら普遍的じゃねえ例外っつーの、大っ嫌いだもんなぁ」
「なぁ、弟クン元気?」
ひゅっと補助監督は息を浅く飲んだ。なんで、どうして、それを。脳裏に生まれた頃からの持病で床に伏したままの、年の離れた弟の姿が浮かんだ。
震えを止めて、ようやく視線を向けた補助監督に五条は目を緩め、にこやかに笑う。
「言わなきゃいい。そーしたら五条家お抱えの医者に診せてやるよ。医者じゃねえし、治るかは知らねーけど。汚れきった上の連中が用意したやつに、うっかり口封じで消されるよりはマシだろ?」
直接手を汚すことなく、邪魔であれば嘘の任務をあてがい、消す。上層部の常套手段だ。そもそも本来、あの女は任務を与えられるほどの強さもなかった。訓練を兼ねた任務時ですら高専で留守番だ。そんな女が、長期の休みで誰もいない学生達に代わり任務に向かった。
それもご丁寧に普段は断固として拒絶する五条が、仕方がなしに渋々、京都の実家に帰省した矢先だ。これ以上なく根を回して上面を整えられて、どこの誰の意図かだなんて安易に想像できた。神隠しにあった女。しかも、この時代ではない人間だというだけで、保守派の上層部にとって気に障る人間は山ほどいるだろう。あーあ、胸糞悪ィ。なんて怯え切った補助監督には見せないように、五条は穏便に交渉を進める。下手に黙り込まれてしまえば男に人質がいる分、頑なるだろう事は予想がついた。暴力で口を割らせるのも簡単だが、時間を喰っている間に煙に巻かれ尻尾切りの要領で姿を晦ませられれば意味がない。
「どこのクソ野郎の指示か教えてくれれば、補助監督クンには何もしねぇよ」
軽薄な笑みを張り付けて、その腹の底で荒れ狂う怒りを微塵も見せず、青白い顔をした補助監督の肩を軽く叩く。
五条には見逃すなんて、甘い考えは欠片もなかった。
「お前は何も見てねーしな」
ぽん、ともう一度肩を叩かれる。
男の口元は弧を描き、口調も軽い。だが丸渕のサングラスから除く蒼い目に、男は喉元は愚か心臓に刃物を突き付けられた心地だった。
怜悧な蒼の目が、睥睨する。
「なぁ?」
首を傾げて尋ねた五条に、脂汗を滲ませた男は頷く他、選択肢はなかった。





/ TOP /