春の雨

DreamMaker2 Sample 傘が弾く雨音が、耳に残る。朝から降り続けた雨はアスファルトの上に幾つもの水溜まりを作り、瀑布のごとき雨の音は周囲の雑音すら遮られていた。
バケツをひっくり返したような土砂降りだった。鈍色の分厚い空の下、幾つもの傘が出入りする。傘を閉じて建物に入る人間は誰もが喪服に身を包んでいた。
室内にいても響く雨の音に、僧侶の唱える低音の読経が交じる。パイプ椅子に腰かける者は数名程で、後方の席は空席が目立っていた。
黒い暗幕の下がった室内の中心に足を運ぶ。斎場の喪主と遺族に頭を下げ、焼香を上げた。掌を合わせ黙祷する中、胸中に渦巻くのは、故人への悲しみと後悔だった。
もっと早く現場に着いていれば、彼は亡くなる事はなかっただろう。一つ学年の上の呪術師は数日前、彼の目の前で亡くなった。
呪霊に力及ばず、現着した時は無残な姿だった。それでもようやく来た応援に先輩は安堵したように笑った。彼は既に瀕死だったが、最後まで彼が守り抜いた巻き込まれた一般人は無事だったからだ。何も告げることもなく、そのまま彼は息絶える。
立派な、最期だった。
確かに技術で言えば、既に上回る力を得ている彼からすれば教えを乞う必要のない存在だ。だが彼は先輩として、呪術師として最期まで呪霊と戦い、非呪術師を守った。だからこそ、彼は十分に敬うべき人だった。
遺体は惨たらしく、見れたものではない。白い棺は閉じられたまま、写真だけが置かれている。日陰者として呪霊と戦い、最後に日の光さえ浴びれない。だが亡くなった彼等を誇りに思う。先立つ呪術師の意思をつぎ、戦い続ける。生前の笑みを浮かべた遺影を前に決意を改め、黙祷を終えた。

粛々とした式が終わり、参列者と共に斎場を出る。入り口横の傘立に立てていた己の傘は、すぐに見つかった。変わらない暗澹とした空を見上げ、傘を広げる。

ざあざあと雨が降っていた。

「ほら、頭がイカれてたでしょ?」
ぽつり、ぽつりと雨を弾く音が傘ごしに響く。横から聞こえた婦人の声とは別の後方から、男性の訝しむ話声がした。「一体どんな死に方をしたら…」
傘の柄がミシリ、と悲鳴を上げる。無意識の内に力が込めていた。
彼が死んだのは紛れもなく呪霊の所為だ。例えそれが、守ろうとした者が非呪術師の彼等であっても。なぜなら、彼等は視ることはない。視えない世界を信じる事は到底出来ないし、だからこそ存在を知り得ない彼らは、往々にして呪術師を理解出来ない。人は理解できないものを忌み嫌う。仕方がないと疾うに理解はしていても、飲み込みがたい泥濘のような靄が胸中に生まれる。
雨音に交じり、はっと嘲るような笑いが続く。
「見たか?親御さんの顔、涙ひとつ浮かべてないじゃないか」
傘を叩き付ける雨音は強くなるばかりだ。なのに雑音はなかなか消えてくれない。
「こう言ってはあれだけど…安心したんじゃない?」
衝撃を受けすぎると、却って涙を流す事の出来ない人間もいる。参列していた彼の両親の目に涙の跡が見えなかったのは、きっと息子の死を受け入れられなかったからだろう。例え、ハンカチを出す素振りもなくとも、式が終わった後早々に携帯をいじったり、悠遊と生あくびを零していても。違うはずだ。そんな事はあり得ない。もし、そんな事があれば
ーーー一体、誰を守るために死んだ?
雨に交じる、雑音は消えない。寒くもないのに、額から汗がにじむ。胸に巣くった嫌悪に途方もなく吐き気がした。
雨の音に重なって、何時かの拍手の音がした。ようやく死んだ、と。取り囲む非術師達が薄笑いを浮かべ、鳴りやまぬ喝采を響かせている。
ノイズが走るように、耳の奥が、視界が揺れる。
ざあざあと、雨が降っていた。
唐突に、体が前へと引かれる。無意識に足を止めていた自身の後ろから、女が無言で手を引いていた。
黒髪の女は、同じ呪術高専の人間だった。学年が一つ下の、しかし実年齢は自身達よりも年上の女だ。彼女は振り返ることなく、ぽつりと零す。
「帰ろう、傑君」
その手は問答無用に、自身の手を引き続けた。

めんどうだな、と夏油は思った。学生にも関わらず、既に二メートル近い長身を持つ夏油は、前方で手を引き歩く自身の肩までしかない女に、そんな思いを抱く。
その日通夜に来れたのは女と夏油だけだった。マイノリティである呪術師は常に人手不足で三年生より上は任務で出払い、担任も同様である。同級生である家入は貴重な反転術式使いとして、学生とはいえ怪我人が出れば駆り出されていた。朝方に運び込まれた急患の手当で出席は叶わず、五条は任務のため一昨日から高専にいない。
一年は訓練を兼ねた遠出の任務で、結果として任務を終えたばかりの夏油と、一年として編入したばかりであるとはいえ、民間人と差し支えない能力しかなく、一年の任務にすら同行できず、高専で留守番をすることになった女が通夜に出席出来たのだ。
編入したばかりの目の前の女は、訳ありだった。実年齢で言えば学生である夏油より年上の女性である。なぜ年上の彼女が一年に編入することになったのかといえば、一重に女の体質が原因だった。
数か月前、親友である五条が連れてきた女。彼女は得意な体質で、呪霊を引き寄せやすかった。しかし女の術式も呪力も、筋力すら平均以下である。非術師として多少毛が生えた程度。にも関わらず、女の呪霊を引き寄せやすい体質は実に厄介だった。担任である夜蛾の話によると、彼女自身は今では普通に暮らしていたそうで体質は突然変異なのだという。
高専に張られた天元の結界を出てしまえば、女はすぐに死ぬだろう。結果として、高専は女を保護せざるを得なかったのだ。
女も生きる術が必要だと思ったのだろう。術師は能力的に無理でも補充監督志望として特例で一年に編入することになったのが数か月前の話だ。

彼女は一年とはいえ、年齢でいえば既に成人している。だからこうした時、『年上として』無闇に気を使ってきたり、こちらを諭してくるだろう。確かに胸に溜まった感情はあるものの、夏油は己でそれを把握している。わざわざ他人から指摘されるまでもないし、夏油自身必要ともしていない。
年若い年齢にも関わらず頭の回転の頗る良い夏油は、億尾にも表面には出さず、しかし女を見下ろす目の奥には冷めた色を宿していた。

しかし女は意外にも、駅につく頃には夏油の手を離し、高専に戻るまでの道中は淡々としたいつも通りのものだった。高専に戻ってからも変わりはない。
結局女は始終、通夜について何も口にすることはなかった。



通夜の話が出たのは、更に一月程経った頃だった。

沸いた感情は処理しきれないまま、消えることなくふとした瞬間に思い出させる。吐瀉物を拭いた雑巾の味のような、嚥下し難い呪霊の塊を飲み込む時よりも蓄積されたそれに喉の奥が閉まり、息苦しさを感じる。
しかし意外な形で、再びその記憶と向き合うことになる。
寮内の食堂に備え付けられた、年期の入ったブラウン管に斎場にいた人物が映し出されたからだ。
「次のニュースです。昨夜未明、高額の脱税疑惑で埼玉県川越市在住、自営業の男性○○ ○さんが逮捕されました。
自宅から押収された金額は1億を超えており、警察は容疑者の他に関係者がいると睨み、容疑者の関係者数名の家宅捜査に踏み切りましたーーーー」
夕方のニュースで流された男の顔を、夏油はよく覚えていた。恰幅の良い、後頭部がやや後退している中年の男。仕立ての良い礼服纏い、剥き出しにして笑った歯の一部が差し歯だった。
あの日斎場で、命を散らした同胞に対して嘲笑を浮かべていた男。連れ立った夫人も隠す様子もなく陰口を走らせ、同胞を笑っていた。
低俗な連中だった。言動も何もかも、夏油には受け付けられない。今もなお思い出しては腹の底がふつふつと湧きたち、吐き気のような嫌悪感を思い出せた。罰があったのだろう。関係者として、あの品のない夫人も捕まるに違いない。当然の報いだ。
腹の底に沈殿する怒りはまだ収まらないものの、夏油は報道の流れるブラウン管に釘つけだった。だから、視界の隅で同じように不自然なほどに動きを止めた女も目に入った。
「なお、逮捕のきっかけとなったのは匿名の通報によるものでーーー」
読み上げるアナウンサーの言葉に、夏油の視線が画面から女へと向かう。
湯のみを両手で抱え、不自然なほどゆっくりとお茶を飲み続けている。視線を感じたのか、ちらりと女の視線がこちらを向いて、目が合った瞬間すぐに逸らされた。夏油は視線を逸らさない。
ニュースは既に、天気予報へと切り替わっている。彼女は小さく息を吐き、空の湯飲みを手に台所へと下げに向かった。
夏油も空いた食器を下げに立ち上がると、その日は任務もなく同じテーブルについていた後輩へと、声を掛けた。
「灰原、先に戻るよ」
「あ、夏油先輩、お休みなさい!」
夏油を慕う彼は、明るい表情で返事を返す。まるで犬の尻尾が見えるような返しに夏油は後ろ手で手を振ると、食堂を出る彼女の後に続いた。


さすがに誤魔化せるとは思っていなかったのか、食堂の外で彼女は待っていた。夏油がやってくるのを確認すると、彼女は足を進める。足を止めたのは、寮の外にある屋外階段だった。
場所は狭いが、入口は一つしかないため他の学生には見つかりにくい。3階である為下に人がいても聞こえることはないし、人がやってくれば錆びついた階段が音を立てる。食堂脇の屋外階段は非常階段でもあるため、寮の部屋からも反対側だ。よく喫煙者である家入が出入りしているのか、錆ついた踏板には煙草の残骸が転がっていた。
肌を撫でる夜風に少し身震いしてから、彼女は夏油を振り返った。
「・・・ごめんね。暴力はだめとか、本当は言わなきゃいけないんだろうけど。どうしても我慢ならなくて・・・」
見据えてくる夏油の目は、どうやっても躱せないだろう。学生ではあるが、彼は随分と頭がいい。観念して白状する花子は、頬をかく。「不倫とかないかなーって思ったんだけど、」
「隠し金庫うっかり見つけちゃいました」
最後は自棄っぱちに、語尾に星をつけるような勢いでお道化てみる。しかしやはり、優等生である夏油の視線はブレない。花子は慌てた。
「傑君ぐらいの腕っぷしがあったら、あの場でぼこぼこにしてやったんだけど、ご存知の通り、私あんまり強くないから。代わりにちょっとばかり、メンタルをボコボコにしてやりました」
花子は弱い。体術も呪力もテンで駄目で、組手をすれば五条にボロクソ言われている。しかし彼女の術式は、少しばかり変わっていた。人間だけでなく呪霊にさえ、発動すれば周りに認識されることがないのだ。術式というよりも、事故を受けてしばらくの間、幽霊になっていた後遺症に近いのかもしれない。彼女は生身の肉体から、幽体離脱しやすい体質となっていた。だが結局のところ、本体は無防備なのだから呪霊相手にはあまり役には立たない。とはいえ、奇襲及び事前調査など補佐的な役割としては十分に役に立つ。彼女は今回その体質を利用したのである。苦し紛れに花子は続ける。「因果応報ってね」
無断で他人の家に上がるのだから、犯罪である。てっきり真面目な彼ならば非難がとんでくるかと花子は構えていた。しかしいくら待っても夏油からの叱責はない。伺うように視線を向ければ、夏油は苦々しい表情を浮かべていた。
「・・・そんなの、ただの偽善ですよ」
花子は思いもしない夏油の言葉に目を瞬かせた。眉を潜めた夏油に、ややあって慌てて片手を振る。「やだな、違う違う」
「私が、やりたかっただけだよ?」
夏油が思うような、正義感に駆られたからではない。大義なんて花子には存在しなかった。もし仮にそうした思想があったとしても、花子は残念ながら根底にある私情を無視できない。そこまで清廉潔白に生きることは出来なかった。彼女からすればそれは建前で、だからこその術式の悪用である。花子は肩を竦める。
「闇討ち宜しく後ろからぶん殴る案もあったんだけど。そんなの生温いでしょ。痛みなんて一瞬か、持って数日ぐらいだし。ながーく苦しんでもらった方が清々するなって」
ただ単純に、それだけだ。「やれたらやり返す。倍返しだ!・・・あ、このネタ知らないか」矢鱈とキメ顔で言ってはみたものの、夏油の眉を寄せたままの表情に花子は気恥ずかしげに空咳をして誤魔化す。
しかし幾らお道化て軽い雰囲気を作ってみても、夏油の眉間の皺は谷間を作ったままだった。ちょっとちょっと、大丈夫?花子は思わず真面目すぎる青少年に、声を掛ける。
「そんな難しく考えなくても、いいんじゃない?ほら、息吐いて」
ふう、と夜空に吐いた息を微かに白い。昼間は日差しで温かいが、朝晩はまだ冷え込む。手を摩りながら花子は両ポケットに手を突っ込み、くるりと夏油に向き直った。
「白は白だし、黒は黒。そういった考えもあるけど。バニラチョコアイスってお得感ない?」
ま、私は断然バニラアイス派なんだけどね、実は。でもマーブルも魅力的だよね。続けて話す花子に、夏油は思わず零していた。
「・・・猿のようですね」
「え、唐突に罵倒?」
くるりと踵を返し、非常口の扉に手を掛けた夏油は、背後からの花子の非難に答える事はなかった。あまりにも能天気すぎる返答だった。女のお気楽さに、被っていた面の皮も剥がれてしまう。
夏油からすれば彼女は、年上であるものの一つ学年下の、ただの後輩だった。当たり障りなく接し、彼女に対して随分と当たりが強い親友のフォローをするだけだ。
けれどこの時、夏油は親友である悟が、過剰なほど構う理由が少し分かるような気がした。

じわりじわりと女の言葉が滲んでいく。
白いシャツに染み込むように、こびりついてとれない。滲んだ血のような赤も、墨よりも深い色すら覆い尽くしてしまう。もとの色が何色かもわからないほど塗り替えられて、周りが見えなくなる。自分の立ち位置すら、わからなくなる。
理解できないその人は、だからーーー何よりも、不快だった。








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