DreamMaker2 Sample どうか私を忘れてください。
私を思って悲しんでしまうなら、全てを忘れて笑って下さい。
貴女が笑えるなら、それでいい。
あなたの笑顔を、幸せを、
願ってます。

ーーそれは亡霊である女の残した、たった一つの呪いだった。



伸ばした手は届かない。黄昏に霞む彼女は笑みを浮かべて、じわりじわりと滲むように、女の指先が、小さな肩が、消えていく。伸ばした手は空しく空を切り、彼女を抱き締めることも触れることすらも叶わなかった。
女は必死なこちらとは正反対に、暖かな笑みを崩さなかった。口許は弧を描き、目は細まる。橙色に染まる世界で、女の笑みは何処までも柔らかだ。
夢現か、蜃気楼か。
女の体は背後の西日の日差しを通し、刻一刻とその姿形が揺らぎ保てなくなっていく。
闇を思わせる黒一色の服を纏う長身の男は、それでも必死に捕らえようとしていた。既に指先すら掠むことなく触れやしないのに、無様に足掻く姿はさぞ滑稽だろう。だが男は止めようとも思いもしないし、女も嘲笑うことはない。
男の様子にくしゃりと、一層顔を歪ませて笑うだけだった。男は音がなる程奥歯を強く噛み締める。
ーーそんな顔すんな
女の笑みはどこまでも柔らかいものだ。
慈しみ、相手を想う。相手の幸せを想い、呪いもしない。その細められた瞳の奥底で、彼女は彼女自身の想いを閉じ込める。

ほんの数か月の共同生活といえども、男はずっと女を見ていた。
初めは単なる興味。毛色の変わった彼女を観察するかのような感覚だったはずだ。それがただの興味からではないのだと、自覚した時には既に戻る事が出来ないほど沈み込んでいた。
非力で平凡で、理想の好みとは異なる容姿。有象無象と差し支えない程取るに足らない存在。それがあっという間に飲まれて、この様だ。惹きつけてやまない。引き寄せられて、目を逸らすことが出来ない。きっと女はどんなに人ごみに紛れていようと、見つけ出す自身が五条にはあった。
その女が、心の奥底に想いを閉じ込める。
ーそんな顔、するくらいなら…!!
五条は諦めなかった。
言葉にする事もない。表に出す事もない。だが隠された彼女の本心に、気付けないはずがなかった。
いつだって逸らす事も出来ず、女を見続けてきた。
独りぼっちの彼女に、男は手を伸ばし続ける。誰かの幸せを願うだとか、常に利己的で、自身が中心である男にとってそんな綺麗事は道端の雑草よりも興味がないものだ。それでも、女と過ごすうちに芽生えたそわそわするような、時にくすぐったく暖かなそれ。対等な存在でも、弱く庇護すべき存在だけでもない。今まで抱いたモノと異なる想いは、男に初めて、彼女のためならばと。きっと自分すら押し殺して、女の幸せを想える気持ちを抱かせたのだ。
けれど彼女が自分の気持ちすら押し殺して、独りでに泣くのであれば。
男は全てを覆してでも、その手をとる。

「消えんな…!!」

焼けた空につく慟哭にも似た五条の声。
伸ばされた手に、女がすがることはない。
女は消え行く中、五条を見据えて逸らさない。微笑みを浮かべて、女の口許が微かに動く。

「        。」

音にもならない言葉だった。空気さえ震えることなく、女の言葉は届かない。
互いから目をそらすことなく一心に見つめていた男は、彼女の言葉が理解できなかった。いや、一挙動を余すことなく見ていた五条は女の放った言葉を理解できた。言葉が解った上で、意味を理解する事を拒絶したのだ。
それ程までに女の言葉は五条にとって、到底受け入られないものだった。
女は最後まで、相手を想い、尊重しーーー呪うことすらしない。

けれど彼女の言葉は、五条にとって抗いようのない呪いそのものだった。

愕然とする最強の呪術師に呪いをひとつ残して、
女は五条の目の前で、姿を消した。


差し込む夕日が、呆然と佇む男の影を助長する。
呪術師として己の感情を律する事を得意とし、特に自身も切り替えが早い上に気薄な性質の為今まで苦労することはなかった。それがどうだ。戦いに気分が高揚しているわけでもない。死の淵にいる訳でもないのに。
五条の身体の内には、焦げ付くほどの激情がのたうち回っていた。耳の裏から心臓の脈拍すら聞こえてきそうだった。腹の底で焦燥と激情が激しく渦巻き、けれど五条の脳内はこれ以上ないほど冷静だった。
女が消えたあと、五条はすぐに彼女の名前を知るべく携帯を取り出した。しかし起動させた瞬間、ふと動きが止まる。
すぐに電話を掛けて確認しなければならなかった。呼び戻すために。無理やりでも構わない、手段を厭う気は更々なくーーだが、

ーー何のために?

数瞬前まであった思考が、不思議と靄がかっていく。

電話をかけてどうする?
ーー名前を知るために
『誰』を知るつもりだ?
ーー彼女を連れ戻すために
なら、
彼女とは、誰だ?

異常を察した瞬間、五条はすぐに『飛んだ』。

鼓動が早く脈打つ。
自室に戻れば、いくらでも痕跡がある。彼女と過ごした日常の景色はーーしかしすぐに砂嵐がかかっては戻り、ひとつひとつ修正されていく。
共に過ごしたリビングには二人で向き合ってーー否、一人だった。
ソファーで寝落ちした彼女を寝室に運ぼうと抱えてーー否、欠伸をして寝室に向かったのは自身一人だ。
差し出された弁当箱に途方もなく喜んでーー弁当なんて作らない。財布だけポケットにいれて、いつも手ぶらだった。

湧き上がる異変に、衝動的に五条は腕を真横へと振りかざした。
甲高い音を立てて、数本の花がはらはらと床へと落ちる。玄関に置かれた棚の上にある花瓶を横殴りで叩き割ったのだ。
ぽたり、ぽたりと花瓶の中にあった水が棚から滴り落ち、小さな水溜まりを作っていく。

彼女が笑みが見たくて、柄にもなく悩んで買ってきた花。花瓶なんてものもないから帰りに買って。
彼女は初め驚いたように目を丸めて、笑って喜んでーー偶然、気が向いて買っただけの花だ。

ぶちまけた水溜まりに、紅い血が滲んでいく。
花瓶の破片で切れた手から流れた血だった。普段なら無下限術式で自動的に弾くはずが、五条の拳に切り傷を作っている。
無惨に床に散らばる花を眺めて、心臓がざわめく。

ーー違う

掌から、こぼれ落ちていく。大事に抱えたそれが、跡形もなく消えていく。

ふざけるな、と五条は音がな成る程歯を噛み締めた。
脳裏に浮かぶ彼女の笑みすら、インクをぶちまけたように見えなくなっていく。
忘れまいと必死にしがみつく五条を嘲笑うように顔も思い出せない、黒く塗りつぶされた彼女の口元が動いた。彼女が残した最後の言葉。

「     。」

彼女が残した呪いは、今もなお腹の底で激しく暴れ狂い、今のこの現象すら、怒りを増幅させていく。

ーーーお前が言うのか。他ならない、お前が。

彼女がいないのだから、望みは叶わない。
彼女がいなければ、到底成し得ないのだと、五条は知っていた。
もし今の現象が、彼女が残したただ一つの呪いならば。五条は躊躇なく、床に散らばった花瓶の破片を手に取り、それを己の腕へと振りかぶった。

「は、」

パキン、と音を立てて破片が割れた。
勢いよく降りかぶった鋭い硝子の破片は、視えない壁に防がれる。
自身の無下限術式が、弾いたのだ。

瞬きを一つして、五条は手元を見る。
なぜ、こんな事をしているのか、五条は分からなかった。

眉を潜めて視線を巡らす。
見間違えようのない自宅の景色には、何処にも異変はない。足元には、以前気まぐれに買った花が無残に散らばっていた。

ふと、視界の隅に紅が映った。視線を向ければ破片を握りしめていた掌から、血が流れている。
ぽたり、と血が滴り落ちる手を、五条は眺めた。

常に無下限術式で防がれるはずの掌に、傷ができていた。考えるまでもなく反転術式で傷が塞がれていく直前だった。傷が塞ぎきる寸前。皮膚を盛り上げた状態で、ピタリと反転術式を止めた。
何をしようとしたのかもわからない。それでも塞ぎきらない傷口からじわりと滲み始める紅は、この痛みを忘れるなと。
掠り傷に等しい傷だ。そもそも、反転術式を使えば一瞬で治る。
なのに、じわじわと痛みが浸食していく。掌に滲む傷痕ではない。臓腑が焼け打つような、今にも喉元から飛び出してしまいそうな衝動だった。じりじりと炙られては爆ぜ、火粉が躍り狂う。

掌に滲む赤が治ることはなかった。


常に生と死の狭間に立つ呪術師だからこそ、たとえ常世ではない黄泉の世界だろうが、五条には欠片も躊躇はなかった。

ーー取り戻す。
暗闇のなかでも、光を強く宿した男の瞳が翳ることはない。
蒼の目は真っ直ぐに前を見据えていた。



呪いは転じて





長い夢を、見ていた。
見知らぬ地で、過ごす夢だ。気が付かないうちに、自身は随分と想像力豊かになったらしい。
随分とリアルな人達に、四苦八苦した生活すら詳細で鮮明だった。夢であるはずなのに時の流れも明確で、ようやく馴染み始めたかと思えば、まさか事故死して幽霊なんてものになるとは思いもしない。
社畜を解放され幽霊になったそこから先は、SFホラーばりの展開である。
おどろおどろしく陰惨な化け物の数々に、胡散臭い見た目この上ないのに出鱈目に強い人。
走る、祓う、叫ぶ、祓う、飛ぶ、祓う。
軽薄なその人は、化け物相手でも指先一つで埃でもはらうように倒してしまう人間だった。が、中身はとんでもない人間だった。
人を揶揄うのは常で、必死に逃げる花子に対して男はあろうことか両ポケットに手を突っ込んだ余裕の表情で、長い足を闊歩させてついてくるだけだ。
しかも後に知った事だが、確かに花子は化け物を惹きつけやすい性質だったようだが、幽霊であるが上に例外である存在を除き目視されることはない。花子に引き寄せられたものの、目視することできず、代わりに映った人間である男を追いかけていただけだったのだ。全てを分かった上で、あの男はへらへらと笑みすら浮かべて、ギリギリまで助けしてくれなかったのである。どうしようもない。まとまな神経がはゼロで、捻じれに捻じ曲がっている。常時人を煽って来る腹立しいことこの上ない人間で、ロクデナシというのはああいうのを言うのだろう。
男の剽軽な笑みを思い出し花子は思わずイラッとした。軽薄さが服を着たような男だ。ただの夢で良かった。あんな人間が現実にいたらまず身が持たない。
そもそも、化け物、呪霊という存在を花子は受け入られないし、それを平然と祓う男は一般人である花子からすれば別次元の存在である。確かに誰よりも頼りになるし、化け物に追われては常に助けを求めていたけれど、人ひとり片手で俵抱きで担いで、改装中の高層ビルから飛び降りた経験を思い出すと花子は今も胃が縮まる心地がする。
男は唐突に花見気分を味わおうなどと言い放ち、甘党だからと馬鹿みたいに団子を買ってきたことがあった。お陰様で幽霊であるにも関わらず、体重が増えていないかと数日間不安に駆られた。
男の家に世話になっているからと、せめて料理を作ってみれば、男の手料理に打ちのめされる。自身の料理の方が上手いだろうに、それでも花子の手料理が食べたいというのだから、随分と変わった男である。食べる度に美味しいと喜んではいたが、男の手料理の腕前から男の舌が肥えているのは明白だった。レシピを漁っては睨むように見つめて、真剣に向き直る羽目になった。
弁当を作って渡せば、珍しく押し黙っていた。自身が弁当を作ることがそんなに意外だったというのか。白皙の頬を上気させて微笑んだ男に、心臓が止まるかと思った。男は普段、目隠しをした不審者然な容姿にも関わらず、素顔は恐ろしく整っていた。
人外染みた容姿に、女としての矜持も削られたとも。居候する花子は男と同じシャンプーを使っているはずなのに、あんなに艶々とした髪質にはならなかった。目隠しをとれば、癖もなくさらりと流れる白銀の髪。対して花子が髪を結んで掃除でもすれば、短時間でも癖が出来てしまう。まさに女の敵。かと思えば、寝起きは髪の先がぴょこんと飛んでいたりする。寝癖を付けたまま眠気眼で大きく欠伸をする様すら、男は様になっていた。繰り返すが、男の外見はとんでもなく端正なのである。どんな場面でも様になる男は、やはり女の敵だった。

改めて思い返してみても禄でもない男だ。本当に、夢でよかった。
目が覚めて、変わらぬ一日が始まる。花子が花子と名乗る前の、見知らぬ土地で暮らしていた生活でもない。長年慣れ親しんだ、彼女の日常だ。

死んで、幽霊になって成仏した。次に目が覚めたとき、彼女を迎えたのは変わらぬ日常だった。とんでもなく濃い夢だったが、夢は夢だ。いつしか記憶からも薄れる。女は呪霊もない、平和な日常を過ごすだけだ。穏やかで、望んでいた日常だ。
朝起きて身支度を軽く整え、台所で包丁を取り出したところでふと動きを止めた。弁当を作る必要はない。昼食は外食でもいいし、時間がなければコンビニで買えばいい。簡単に朝食を食べ終わると、家を出る。
憂鬱な出勤が終われば、あとは早い。気が付けば昼が終わり、ふと外を見れば日も暮れていた。時計を見れば既に退勤する時間である。
凝り固まった体を軽く伸ばして解す。あれやこれやと逐一連絡してくる人間はいないのだから、あっという間だった。何かあった時ようにと男に渡された携帯だったが、時に構ってちゃんか、と思う程連絡が来ていた。無駄にうざいキャラスタンプを使ったスタンプ連打もしょっちゅうである。既読無視しようものならば電話がかかってくるか、帰宅するなり大の男の嘘泣きといううざ絡みされるかのどちらかの羽目になるから、わざと携帯を見ないようにしたこともある。
しかし結局そうした所で帰宅するなり「ヒドイ!僕の事は遊びだったのね!!」という謎の寸劇が始まったのでほどほどの返すよう心掛けたものだ。そんな事も、気に掛ける必要はない。なにせあれはただの夢だ。
仕事を終えて、家に帰宅する。在り合わせで夕飯を作り、食卓につくとようやく一息つけた。
ざっとテレビをザッピングしながら、簡易に用意したおかずを箸でつつく。
女は暇であれば特に分け隔てなくドラマを見る人間だったが、ここで下手に切ないラブロマンスを見てうっかり涙ぐめば、真向かいの男は何故かけらけらと笑い、雰囲気をぶち壊される。
結婚した後に、ばったりと再会する元彼。思い出される淡い青春に、引き裂かれる二人。君が忘れられないと告げる元カレ。揺れる恋心に「うける!ただの不倫じゃん!」と身も蓋もなく手を叩く男に何度無表情にさせられたか。この男にかかれば、おちおちテレビも見れない。辛うじてドキュメンタリーは他人の人生にさして興味がないのかまったくの無反応だし、バライティに関してはさすがの男もやんやとヤジを飛ばすことはないが。口煩い男もいないので、心置きなくドラマを視れる。
女はぼんやりと適当なドラマを眺めて夕食を食べ終えた。何故か、あまり味気が感じなかった。少し薄味にしすぎてしまったのかもしれない。
風呂に入り必要な家事を終えると、寝室へと向かう。電気を消す直前、ふと、声をかけ忘れたかなと思い出し、すぐに首を振った。声をかける相手はいないのだ。
電気を消して、布団へと潜る。就寝。
けれど瞼を閉じでも、寝つきが悪く、なかなか眠れなかった。

翌日も、その翌日も、似たような日々を繰り返し、気が付けば一週間が経っていた。
休日を終えればまた新しい週だ。休日に羽根を伸ばし、二週間。三週間、ひと月経とうとした頃だ。女は有休を使って、地方へと向かう事にした。偶には気まぐれに出かけるのもいいだろう。そのひと月後も、同じように有休を使った。ひと月ごとに有休を使っては、女は遠出をする。

半年が経った。
蝉がせわしく鳴き、じりじりと日が照り付ける日。女がその日やってきたのは、石階段の連なる先に赤い鳥居が聳える片田舎の神社だった。
額に滲む汗を拭い、ごくりと唾を飲み込んだ女は石階段に足を掛けた。
半年前から、女は神社を巡っていた。その筋には有名なものから少し取り上げられた程度でもネット使い調べ、有休をとっては様々なところへ遠出している。緑葉の茂る緑に囲まれ、都会から一日ほど離れたこの神社は、今までと同じよう縁結びの神社だった。
あれから、女はずっと縁結びの神社を調べ上げては、東北から四国、九州と様々な神社に足を通わせている。何も結婚したいだとか、良縁を願っている訳でもない。ーーーそれしか、女には術か思い当たらなかったのだ。

夢は夢のまま。記憶から少しずつ薄れていっている。


男が、からかう姿があった。化け物からひいひいの体で逃げる女を軽い口調で煽りながら、こちらが手を伸ばせば、必ず傷一つなく助けてくれていた。

眠る姿があった。ソファに座りテレビを見ていると、横に座っていた男が寝息を立てていた。
白い睫毛は肌に影を作り、閉じられた形の良い唇からは健やかな寝息が立っている。その姿からは普段の剽軽な様子とは正反対に気の抜けた可愛らしいもので、女は思わず小さく口元を緩めると、仕方がないな、と毛布をとってくると男の肩にかけた。

怒っている姿があった。
眉を潜め、目を吊り上げた男はこればかりは譲らないと卵焼きはしょっぱい派だと主張した。大の甘党の癖に、卵焼きは甘い派ではないとはどういう事ぞ女も主張を曲げず、火種は拡大。目玉焼きはソースか醤油か問題に、オムライスはケチャップかデミグラスソースか、と互いに譲らず、最終的にはまさか、きのこタケノコの里も・・・となったところで別に両者どちらでもいいと同じ結論だったため、無事和解した。

拗ねる姿があった。
出会ってから気になるパンダのことばかり男に話をせがんで、初めは難なく教えてくれていた男も、徐々に不機嫌そうに目を据わらせはじめ、最終的には口を引き結び黙秘するようになった。子供か。
声音からして多分、雄とはいえパンダだからいいだろう。隠しもせず見る限り不機嫌な男に、薄々男の好意に気付き始めていた女は呆れ半分、少しくすぐったくもあった。仕方がないと譲歩して、それからは1週間に一回、パンダの写真を撮って送ってもらえるよう男にお願いした。頼んでいないが、男のキメ顔も3日に一回は送って来るようなった。女は呆れながらも、手が動いてちゃっかり全て保存していた。

泣きそうに顔を歪めた姿があった。
どんな呪霊相手にも顔色を崩さない男が、顔を歪めて手を伸ばしていた。掴めないので何度も、何度も。
脳裏に焼き付き、幾度も思い出す。

瞼を閉じても思い出される。その光景を、女は忘れらなかった。

それでも彼女にできる手段は、結局のところ神頼みしかなかった。女にはあちらの世界へいった理由が、検討もつかない。男のように呪力や術式がある訳でもない。今は幽霊ではないから、当然領域展開は勿論の事、ポルタ―ガイストも起こせやしない。
せめて、と。夢のように途切れた男との縁を再び求めて、女は神社を巡り続けていた。
夢のようだった。でも、夢ではないのだ。何度もいない場所を振り返っては、ぽっかりと胸に穴が空いたような空虚さを実感していた。

照りつける日差しに滲む汗を手の甲で拭いながら、一段一段、石階段を登る。
ーーどうか、もう一度。
手作りの弁当を初めて渡した時のような。
揶揄う時の軽薄な笑みでもいい。
塞ぎ込んだ自身を海辺に連れて行ってくれて、線香花火にはしゃいでいた笑みでも。
くだらない事で笑っていた、男の笑みを、女はもう一度見たかった。

最後の石階段を上り終え、赤い鳥居を潜る。
瞬間、ピリリ、と空気が張りつめた。
鳥居は今しが潜ったばかりである。しかし女の視線の先には鳥居が続いていた。一つ、二つ、三つと紅い鳥居がずらりと続き、上り終えたはずの石階段が伸びている。
女は思わず、息を飲む。照りつけていた真夏の暑さすら遠く、背筋に流れた汗が冷えていく。煩わしい程鳴いていた蝉の声が、いつの間にか止んでいた。
明らかに、先ほどまでいた場所とは異なっている。

ーーきっと、もう戻れない。

引き返すならば、今だろう。肌を刺すような空気は、清廉さを纏っている気すらした。しかし、女は小さく息を吸うと、迷うことなく足を前へと進めた。

初めは恐る恐るとした動きも、やがて駆けるようになり、女は躊躇なく深い紅の鳥居を潜っていく。赤い鳥居が流れるように視界で線を残していく。

会えない男を想って、女は走る。心臓が周囲の異常事態に、湧き上がった期待に鼓動を早くする。

本当は、あの夕暮れ時。姿が消えていく中、諦めることなく何度も伸ばされた手を、女は何も考えずに取りたかった。
なぜなら、いつか連れ出された、墨を落としたような真っ暗な海辺で差し出された手は。あの時周囲で飛んでいた、ふらりと飛び交う幻想的な蛍の光のように刹那的でほんの微かな灯だけれど、確かに女の胸の内を照らしたのだ。
迷い子のように佇む自身に躊躇うことなく握られた手。
それが例え、男のただの気まぐれであっても。女にとっては何よりも大切で、大事なものだった。

ーーーそして、最後の鳥居を潜った。
つま先に当たった小石が、数センチ先へと飛ぶ。小石は数回石畳に弾み、境内で身を休めていた鳩たちが驚いて一斉に飛んで行った。
バサバサと数羽が飛び去っていく中、佇んでいた人影がこちらを振り返る。

飛び立つ鳩の群れの向こう側で、真っ白な雪の化身にも似た少年がこちらを見る。
花子は息を飲んだ。

少年の美しい碧い目が、日の光を受けて煌めいていた。








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