DreamMaker2 Sample 日差しがかんかんに照らった日だった。
額から流れる汗を手の甲で拭い、空いた片手を振る。青年の手に、少し離れた場所で腰を曲げた高齢の女性がぺこりと頭を下げた。額に汗を滲ませにこやかな笑みを浮かべる男は、今時珍しい程好青年の男だった。
山の中腹で、真夏にも拘わらず黒の学生服を着た青年に「この先の道で、ついさっき、野生の熊を見かけまして。危ないから下山しましょう」なんて声を掛けられた時は思わず訝しんだ視線を向けてしまった。年をとった夫婦二人麓で農業を営み、この日ぎっくり腰を起こした夫の代わりに山菜を撮りに来ていた高齢の女は見慣れない学生に初めは警戒していた。黒い制服に、襟首についた金色の鍔。都心から随分と離れたこの周辺の地ではまず見かけた事のない学生服である。
「学校の郊外学習で、山の生態を調べに来たんです。」
地方であるこの周辺で、野生の熊が出ることは珍しくない。特にここ最近は、野生の小動物をあまり見かけなくなっていた。夫がぎっくり腰を起こす前も、山の様子に不思議がっていたのだ。弱い小動物は危険を察知して強いものがいると離れる傾向がある。熊か、でっかい猪でも降りてきたか、なんて話をしていたのだ。
真昼にも拘わらず山にいた学生は随分と男前の顔立ちで、切れ長の目を細め温和な笑みを浮かべている。疾うに腰が曲がり年々縮んでいくばかりの背からしても、男は大層体格もよかった。背の高い男を、首を逸らして見上げた老婆は頷く。
「そうかい、そりゃ降りねばな」
山菜は少ししか取れていないが、熊が出たならば仕方がない。学校の授業でわざわざこんな地方の山までくるのも不可思議であるが、熊が出たなら離れた方がいいだろう。老婆は夫とは違い威嚇銃を持っていない。代わりに熊避けとして円筒から煙を煙らせているだけだ。早速下山しようととっちらかった農具を片付け始めた老婆に、学生は踵を返すことなくその場に佇む。老婆がその事に気付いた時には、身支度を終えた老婆に男は背を向けて腰を落とした。
「よかったら、どうぞ。私が麓までおぶりますよ」
にこりと振り返り笑みを浮かべた青年の好意を、老婆は有り難く受け取った。
道中、青年は背負った老婆を気にかけながら、とりとめなく会話を交わした。年老いた己の下らない世間話にも嫌がる事もなく、からからと笑って見せる。初めは随分と胡散臭く感じたが、本当に高青年だ。無事熊と出くわすことなく下山を終えた頃には、老婆はすっかり青年に好印象を抱いていた。別れ際、度々振り返ってはしきりに感謝に頭を下げる老婆を、上着を腰に巻いた青年は汗だくになりながらも始終にこやかに見送った。

「優等生ちゃんは大変だな」
老婆の背が遠くなった所で、後ろから悠遊とした声がかかる。真上に上る強い日差しを浴びて、白髪が時折銀色に白ずむ。黒い学生服に丸サングラスをかけ、こちらも胡散臭い印象を受ける。しかし丸サングラスの下のスラリとした冷涼な鼻筋や、鋭い顎先に薄い唇。白磁の肌には、全てのパーツが黄金比もかくやという程に整い、男も同様に端正な顔立ちであることが伺えた。切れ長の瞳の男前の青年とは異なり、中世的な美貌である。軽薄な笑みを浮かべた男は、同じ『校外学習』でこの地に訪れていた同級生であった。男も平均を優に超えた高身長で、両腕を後頭部で組み長い足をゆったりと動かしやってくる。
気怠げな様子の黒い学生姿の男に、額に滲む汗を拭いながら青年ーー夏油傑は答える。「人として、当然のことをしたまでだよ。力あるものの責務だ」
「それに、守るべきものがあれば強くなれるだろだろう?」
「ハッ」
青年の言葉に、男は鼻で嗤った。
呪霊がいる可能性があると、都会から離れた山までやってきた二人は早速呪霊の痕跡を見つけた。日差しの強さにうんざりして、さあてさっさと追撃して祓うかと腕をまくったところで夏油が待ったをかけた。山を登る道中で、遠目から非術師を目撃していたのだ。
さっさと祓ってしまえばいい話だ。しかし夏油は万が一、一般人への被害を考えて老婆への避難を促すだけでなく、態々下山まで手伝ったのである。勿論、呪霊を逃がすようなヘマはしない。しかし一般人が視える人間だった場合、呪霊が視られる可能性もないとはいえなかった。帳を降ろしたところで距離も近く、非術師も範囲内に入ってしまう。グロテスクで非術師にとってトラウマになりやすい呪霊を態々見せる必要もないだろうと、同じ年であるこの男は気を使ったらしい。
守るべきもの、なんて御大層なことを述べる同級生に男、五条は秀麗な顔を歪める。
「んなもん、邪魔なだけだろ」
不遜な様子で五条は舌を出す。「メンドーだし、必要ねーわ」
「くだんねぇご高説、毎回ご苦労さーん」
「・・・悟、君はもう少し真面目に」
片耳に小指を突っ込みながらの五条の物言いに、夏油の米神がひくりと引き攣る。苦言を述べるべく振り返ろうとした、その時であった。ふ、と頭上に大きな影が生まれる。煌々とした日差し似つかわしくない、鼻をつく腐臭の臭い。 見上げるよりも早く、大きな影ーーわざわざ山を下りてきた本命の呪霊がぐわりと口を大きく上け、赤黒い塊を吐き捨てた。
粘着質なそれは広範囲に広がり、勢いよく地面へとたたきつけられる。どろりとした塊は触れた瞬間、煙を上げて地面を溶かした。しゅう、と音を立て周囲を溶かす赤黒く粘着なそれは、夏油がいた場所から広範囲に広がっている。
僅かに離れた場所に呪霊が土煙をあげて着地する。溶解する際に生じた煙と、土煙に視界は覆われていた。見通しの悪さに、呪霊の攻撃を離れて回避した五条はしかし慌てることなくポケットに手を突っ込んだまま飄々と声をかけた。
「おーい、生きてっかー?正義のヒーローサマぁ?」
避ける前に、夏油は呪霊の攻撃が直撃していた。呪霊の吐き出したヘドロは触れた物を溶かすようなものである。うっわ触りたくもねーと身を引いて近寄ろうともしない五条だったが、煙が晴れるよりも早く夏油がいた場所がぶわりと膨らみ、破裂する。
破裂した赤黒い破片は弾丸のように四方へと飛び散り、べちゃりと離れた場所まで吹き飛んでいった。勿論避けたはずの五条の元までそれは届き、眼前でぴたりと止まる。術式で防いだものの、思い切り破裂してくれたようで、べちゃべちゃと目の前を腐臭漂う塊が覆っていく。
「おや、すまないね。うっかり巻き込んでしまったかな?」
顔どころか全身を覆うように飛び散ったそれは、パイ投げよりもひどいものである。即座に術式で吹き飛ばした五条は涼しい表情で使役する呪霊を傍らにつけて立つ夏油に頬をひくりと引き攣らせた。
「はっ上等だぁ!」
中指を立てる五条に対して、夏油も青筋を浮かせている。
相手をいかに思う存分ぶん殴ってやるか、双方それしか頭になかった。呪霊そっちぬけで喧嘩をおっぱじめ様とする二人に対して、呪霊が迫る。
夏油の操る呪霊を避け、五条が拳を振りかぶる。夏油は片手で拳を往なすと、蹴りと呪霊の攻撃をしかけるが五条は蹴りあげられた足を掴むとぶん投げて、呪霊の攻撃は無限で弾く。しかし夏油もまた吹き飛ばされた体をバク転することで勢いを殺す。そこへ容赦なく五条の術式が飛ぶがそれは呪霊で防いだ。互いにぶん殴ろうと拳を振りかぶった所で、接近した呪霊が飲み込もうと大口を上げた。
「「邪魔すんな!(しないでくれるかい?)」」
切れた二人の拳が遠慮なく呪霊を抉る程ぶん殴る。綺麗に吹き飛んだ呪霊に直後、容赦ない呪霊の攻撃と術式が降り注ぐのだった。
呪霊を瞬殺した後も、二人は微塵も気にかけることなく喧嘩を続けた。互いに実力があるからこそ終わりをみせなかった殴り合いは、日が沈みかけた頃補助監督がやって来た事でようやく落ち着きをみせた。そこで二人は、すっかり帳を降ろす事を忘れていたことに気付くのだった。


***


それは、ひょんな事からに拾われた夏油が居座り初め数か月を経た頃の事だった。
恋人同士であるものの、霊として居候していた頃のままには自室があった。五条は寝室が別れることに駄々を捏ねたが、想いが通じ合った途端、五条といえば隙あらばといった男なのでは身が持たないと危機感から断固して寝室別を主張したのである。睡眠時間がなかろうが元気に満ち溢れる五条。対してベッドの住人と化してしまうからすれば死活問題であった。
は高専で呪力について学ばなければならない。空いている時間は事務員としての仕事もある。部屋を分けなければ同棲生活も解消すると言い張れば、五条は顔を盛大に歪め渋々了承を得ることができた。
とはいえそれで落ち着く、ということもなく。結局のところ五条の部屋に引きずり込まれてしまうのだから一時期はこの男、去勢するか?と一瞬割と真剣には考えてしまった。死んだ目をして不穏なの様子に五条も目ざとく気づいたのか、拒否ったら今すぐ、それこそ所かまわずやっちゃうぞ☆なんて可愛い口調で微塵も可愛くないぞっとする言葉を吐かれてしまう。同じアラサーだというのにさすが最強だからか、それにしてもこの男、元気すぎである。は抵抗をやめ、死んだ表情で五条の部屋へドナドナされるのであった。
だがとしてもこのままでは生活すらままならない。せめて週に数回、平日は睡眠時間を確保する、毎日はナシという条件の元、無事同棲後の第一回、互いに譲れぬ争いは閉廷された。
さて、霊の頃から既に共同生活を送り互いの距離感も掴めてはいたものの、生身での同棲生活数か月が経てば、そろそろ第二回目も勃発するかという時分。
しかし事はが不在の、思わぬ場所で起きた。

同棲を始めたばかりだからか、五条はあまり遠出の任務に出たがらず、出張があっても秒殺で呪霊を仕留めその日中に帰宅していた。この日も地方への任務が入っていたが、速攻で終わらせて帰宅したもののの出迎えはない。特に出かけるといった連絡は入っていなかったし、キッチンを覗けば料理中だったのか刻まれた具材が中途半端に置かれている。何かが不足して、急遽近場のコンビニかスーパーにでも行っているのだろう。
静寂につつまれた家に、五条はしかし目当ての人物がいないにも関わらず足を止めることはなかった。躊躇うことなくの自室の扉を開け、ぐるりと室内を見渡す。目当てのものを見つけるとずかずかと押し入り、それをむんずと掴みリビングへと踵を返した。
「おい、」
「・・・」
五条以外誰もいない家で、男は手元にぶら下げたぬいぐるみーーーレッサーパンダの呪骸に視線を声を掛けた。
呪骸の反応はない。ちらりと視線を向けた後、五条はテーブルにそれを置くと椅子を引く。どかりと椅子に腰け、長い足を放りだし腕を組んだ。
に手を出すなよ。出したら腸の中の綿、全部出すからな」
「・・・」
反応はない。はあ、と一つ溜息を吐いた。「最強の僕が気づかないとでも思う?」やれやれ、と五条は肩を軽く竦めて続ける。
「結構前から気づいてたよ。でも、彼女が隠したがっていたからね。無理には聞き出さないさ。
 僕は出来る旦那さんだからね〜。ま、後でご褒美はしっかり貰うけど」
「・・・フラれ続けているのに、随分と気が早いことだね」
「お、やっと喋った」
 レッサーパンダの呪骸が流暢に話し始めても五条は大して衝撃を受けた様子もなく、片眉をあげるだけだった。背を後方へと傾け、五条は投げ出した足を組むと飄々という。
「いやいや、あれは彼女が照れてるだけだよ。わかんない?あ、僕と違って相思相愛じゃないからわかんないよね〜。
 ってば意外と頑固だし、まだちょっと時間がいるだろうけど。来年の春辺りには彼女も観念してるよ。これ、予言じゃなくて決定された未来だから」
ふざけた様子で人差し指を突き付け、宣言する男の目は目隠しに覆われて見えないが、おそらく真面目なものだろう。軽々しい言動の裏に潜む重々しさに、呪骸は正しく意図をすくみ取ったが敢えて茶化して答えた。
「怖い怖い。君が言うと冗談にも聞こえないよ。」
「え?本気だけど?」
「だろうね。
 まあ、精々逃げられないよう頑張りたまえ」
「え?逃げられると思う?」
呪骸は肩を竦めて答えた。「無理だろうね」
「でしょ?
 そこで、お前に頼みたいことがあるんだけど。僕の奥さんにケガがないよう、見ててくれない?」
「・・・ほぉ?」
今度は呪骸が片眉をあげる番だった。『ただの意志を宿した呪骸』に、五条は提案する。
「僕も離れたくないんだけどさぁ、数少ない特級だからってしょっちゅう任務任務任務・・・。任務のすし詰状態で、どーしてもから目が離れちゃう事が出てくると思うんだよね。だから僕としては家にいて欲しいんだけど、嫌がるからさぁ」
その日中に祓い終え帰宅していた五条だったが、そろそろ限界が近づいていた。男の容量の問題ではない。単に物理的な距離がかかる海外への任務や数日かかる任務にも、いい加減手を回さなければならなかった。乱雑に頭を掻く男に、呪骸は指摘する。
「誰だって籠の鳥は嫌だろうさ」
「嫌だな、愛だよ愛。彼女だけ特別ね」
言葉の内容と裏腹に軽薄に笑う男に呪骸が呆れたように尋ね返した。
「愛さえあれば何でも許されるとでも?」
「そうなんだよね〜。僕的には全然ありだと思うんだけど、多分それしたら僕が嫌われちゃうからさ。嫌われたくないし、困ってるんだよね。で、そこで提案!」
五条は軽快に両手をたたくと、条件を掲示する。
「彼女に手を出さない、危害を加えない。何かあれば連絡をよこす。その代わり、僕はお前の存在を上に報告しない。どう?破格の待遇だと思うけど」
「私にお守りをしろと?」
「護衛だよ、護衛。
 無理なら、害か無害かわからないが不確定要素だ。お前を祓うまでだよ。どうする?」
男の提案は呪骸にとって思いもよらないものだった。眉を顰める呪骸に、五条は相変わらず軽薄な表情を浮かべている。しかし目隠しに覆われてるはずの男の視線はむき出しの刃よりも鋭利で、油断なく呪骸の出方を伺っていた。一切の動揺を見逃さない男の鋭い視線に、一瞬にして周囲の空気が張り詰める。肌を突き刺す、息を呑む程の重圧だ。だがそれに怖気づく事もなく、呪骸は重々しくため息を吐いた。
「・・・私に拒否権はないだろう。いいだろう、縛りを結ぼう」
「成立」
張り詰めた空気が四散する。にんまりと口の端をあげて五条が笑った。
「いやぁ丁度いいガードマンを雇えてよかったよ。彼女にも気付かれないしね。本当、どっから拾ってきたかは分からないし、想定外の事ばっか起こしてくれるけど、今回ばかりは助かったよ。
 あ、彼女が戦えないのはいいけど、あまり彼女から呪力を奪いすぎるなよ」
「君は随分と・・・」
五条の物言いに、呪骸は口が開きかける。
呪骸ーー夏油は旧友である五条のことをよく知っていた。だからこそ出かけた言葉だった。
呪術師である五条は、人々を助ける。しかし、男は決して万人の人々を助けるために呪霊を祓っているのではない。男が呪霊を祓った結果、人が助かっているのだ。
確かに男は懐に入れた相手に対しては手助けをするが、相手から差し伸べられなければ何もしない。男は絶対的な強者であるが故に、他者に手助けされる心理を持ち合わせていないからだ。
最強は救われることを理解できない。それ故に手を差し伸べるタイミングも分からず、相手に救われる意思がなければ、男には救えない。
その男が、唯一相手が望む望まないに拘わらず、脇目もふらず守ろうとしている。
脳裏に数年前、学生時代の男の姿が過る。守ることを嫌い、他者を寄せ付けず。教師となり随分と開けた性格にはなったようだが、それでも男の根っこにある本質は変わらないだろう。
「何?」
自覚しているのか、自覚していないのか。どちらにせよ、男の決して揺れることのない根本を揺るがした彼女は、男にとっての唯一なのだろう。
首を傾げた五条に、夏油は首を振った。
「・・・いや、なんでもないさ」
あの夏の日から数年。互いに年を重ね、立ち位置すらも変わった。容姿や口調と表立って見える面だけでなく、内面すらも。弱き者を助けるべきという夏油の思想も変わり今がある。
呪祖師である夏油と異なり、呪術師として変わりないと思えた五条もまた、変わっていた。その変化は最強である男を弱くするものか、それとも更なる高みへと押しあげるものか。これ以上強くなり得るのかとうんざりしつつも、胸の内をざわめかせるような感情が起き上がる。高揚にも似た感情は、友の成長に喜ばしく思った、とでもしておこう。
ーーーまぁ、それに足りうる人物だと思えないけれど。
男を豹変させた、何処までも弱弱しい女を思い出し、夏油は内心肩を竦めた。
「私は部屋に戻るよ」
「あ、家賃代として彼女の寝顔の写真撮って、渡してくれてもいいよー!ただし着替えはダメだから。ぜってー見んなよ」
背後からのふざけた言葉に、夏油は何も返す事はなかった。音を立てて扉が閉まり、リビングに静寂が戻る。


手持ち無沙汰になった五条は、重心を後方にやり椅子を傾けた。ぶらりと両手を垂らし、随分と小さな呪骸を思い浮かべる。誰もいないリビングで五条はぽつり呟いた。
「・・・お前も、随分変わったよ」
ーーー気付いているのだろうか。呪祖師にまで転身して、非術師を消すことを志しにしていたというのに、今まで男が何も行動を起こしていないという事を。呪力がない、術式がない。ーーー本当に?五条からすれば、そんなものは後付けであった。呪骸の中身が五条の推測通りの男であれば、如何様にもやりようがあるはずだ。外れている可能性は高い確率でないだろう。あくまで五条の感でしかないが、検討違いだとは思えなかった。
何よりもよく口の回る男だった。口で諭し、金を巻き取り、非術師を駒のように扱う。猿と見下げる本音を器用に押し隠し、教祖にまで上りつめた男だ。洗脳など朝飯前だろう。その男が、この数か月動きもなく人を殺める事もない。何が男の行動を抑止させたかだなんて、ここ数か月注意深く様子を見ていた五条からすれば明らかだった。
人は環境に順応する。非術師を嫌う思想こそ変わっていないようだが、男の過激な思想は行動に現れず、抑えられている。そこに一番懸念する、惚れた腫れたといった感情もないようだから、五条は任せることにしたのだ。
五条は男の能力はよく知っている。たとえ術式抜きであっても、害をなさなければ彼女を任せる相手として最適であった。ーーー諭されたかな。彼女はどうにも、毛を逆立てた猫を手なずけるのが上手いようだ。年上相手に敬語こそ使うようになったが、今ですら敬う気配のない弟子を思い浮かべる。
五条はぼんやりと天井を眺めて、数日前のとの会話を思い出した。



夜も更けた、夕食後の事だった。この日は珍しく五条に勧められ、退院して以来、生身の姿では随分と久しぶりには飲酒をしていた。久しぶりの酒は思いの他回るのが早く、は数杯飲んだところですっかりでろんでろんになってしまっていた。落ちそうな瞼でテーブルにへばりつくを前に初めての酔った姿を見た五条は内心反省する。五条としては、ちょっと飲ませて口を軽くさせようとした魂胆だった。まさかここまで効果覿面だとは思いも寄らなかったのである。まぁ、聞き出すには丁度いいだろ。五条は随分と前から気付いていたが、未だに隠そうとするの口を割らせる前にが据わった目で五条を見た。
「・・・傑さんって、どんな人ですか」
思いも寄らない問いかけに、五条は碧い目を瞬かせた。「あ、聞いた?」
「・・・ごめんなさい」
「ん?別に気にしてないから平気だよ」
肩を下げて謝罪するに、五条は首を振る。
夏油傑。五条の親友であり、元同級生。特級呪術師でありーーー呪詛師になった男。
つい最近、は夏油について知った。高専で偶然耳に入れた聞き知った男の名に驚くと同時に、男の素性を知る事になる。呪詛師となった夏油は、去年処刑されていた。道理で、夏油は高専関係者にばれることを避ける訳だ。
は夏油について五条に聞くことを随分と悩んだ。最終的に夏油に手を下したのは他でもない、親友である五条だったからだ。過去を思い出させ、悲しませてしまう。五条を悲しませたい訳ではない。それでもはどうしても他の誰でもない、五条の考えを聞きたかった。しかしの想像に反して、五条は常と変わらない様子だった。顎に手を当てると、思い出すように口にする。
「外面ばっかいい、似非優等生。しかも頑固でさ。同じ年なのに、あれしなさいこれしなさいって、お前は僕のママかよ、てしょっちゅう喧嘩したよ」
笑みすら浮かべて、五条は肩を竦める。
「変わったやつだったよ。ま、そうでなきゃ僕の親友なんか収まんないでしょ」
そこで五条はへと視線を向ける。彼女は自ら尋ねてきたにも関わらず、眉を下げて今にも謝罪を口にしそうであった。彼女が口を開く前に五条は先手を打つ。五条はテーブルに頬杖をつくと、情けない表情を浮かべるに笑った。
「苦い顔して思い出すよりは、こうして笑い話に出来た方がいいよ」
男の表情は、微塵も無理をしている様子はない。五条は心から、そう思っているのだ。更に本音を言えば、五条としてはあそこで終われて良かったと安堵すら抱いている。
親友と散々馬鹿をした日々は間違いなく五条の青春であり、年を重ねる程多少美化もされる。笑いあった事を思い出して、五条は苦い思いはしたくなかった。だから、全てが手遅れになる前に終わらすことが出来て『良かった』。親友に手を下したあと、合流した生徒相手に冗談をいって笑えるぐらいで、事情を知る者から見れば空元気と捕らえそうなそれも、そうではない。
大抵の人間であれば、知人が死んだ直後に冗談でも笑える神経は持てない。ましてや親友で、自ら手を下した後だ。良心の呵責、罪悪感、悲壮感に苛まれるのが普通の人間である。
しかし五条悟は違う。向き合ったことに悔いは生まれない。だから手を下す直前、親友の最期にすら呪いの言葉を吐くことすらなかった。ネジがぶっとんでるともいえる。同時に負の感情に向き合うことが多いがゆえに、時に他人は愚か自身の運命すら呪いたくなる呪術師として、男は何処までも性に合っていた。
数百年来の六眼と無下限術式の抱き合わせ。能力だけでなく内面としても、五条悟は最強の呪術師だった。
瞬きすら忘れるを前に、五条はテーブルにあるイチゴの乗った皿に手を伸ばす。赤く熟れたイチゴを一粒放り込み、途端顔を歪める。
「うぇっ何コレ、酢っぱ!」
口を尖らせて、五条は新たな苺へと手を伸ばした。どれが熟れているか見定めるように逡巡してから、吟味を重ねた一粒を掴む。今度は正解であったらしく、咥内に広がる甘さに五条は表情を和らげた。
「やっぱ酸っぱいよりは、甘い方がいいよねー」
「私は、悟さんに」
ふんふんと次の苺を見定めるべく手を伸ばしかけた五条は、口を開いたに手を止める。
呆気にとられた様子だったの瞼が、再び落ちようとしている。眠気が限界らしい。頭がぐらぐらと船を漕ぎ、今にもテーブルに沈みそうである。
「それでも、私は・・・また・・・」
どんどん弱まっていく言葉は判別出来なくなっていく。かくん、と頭が大きく揺れてはとうとうテーブルに突っ伏した。撃沈し、健やかな寝息を立てる彼女を前に五条は頭をかいた。
「・・・あー」
呆然とした声だった。それだけ、五条にとっての本音は予想だにしなかった。思わず天井を見上げて、溜息を吐く。「だからかぁ・・・」しかし、これで得心がいった。視線を戻して呑気に眠る女を見る。
「・・・ほんと、君ってば僕が捨てたものを拾ってくるね」
道徳や論理観?そんなもの、物心がついた頃から五条には存在しなかった。母親の胎内に置いてきたんじゃないか?なんて度々周囲に揶揄されていた。五条自身も、あながちその例えも間違えではないと思っている。そう言われても、五条はわざわざそれを備えようとは思わない。一体、それが何の役に立つというのか?道徳や論理観、情緒ですら呪霊を前には等しく不要のものだ。だから五条は振り返らないし、拾おうともしない。
呑気な寝顔を人差し指でつつく。女は微かに身じろぎをするだけだった。思わず笑みが零れる。
「君ぐらいだよ」
必要ないと疾うに捨てたものだ。本人がいらないと言っているのに、まさか拾って来ようとするとは思いも寄らなかった。正論なんて嫌いだし、彼女でなければ五条は見向きもしなかっただろう。人差し指でつつくのを止めると、五条は頬杖をつき、女の寝顔を眺める。
「ほーんと、甘ちゃん。めんどくせー性格してるね」
誰もよりも弱弱しくて、凡庸。非術師といっても差し支えない実力にも拘わらず、最強である自身が捨てたものすら拾ってこうとする。容易く掌で転がせるほどお人好しで、その癖こちらを振り回してくる。付き合わされるこちらの身にもなってほしいものだ。
胸が打ち震える、この感情を男は女によって何度も思い知らされる。
の頬を撫で、見つめる五条の表情はどこまでも柔らかい。青空の色をした瞳は深い藍を帯びて、優しさが滲んでいた。



掬いあげるもの








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