DreamMaker2 Sample なかなかどうして、次から次へと変わったことが起きるなぁ
は飲みかけのカフェラテ片手にぼんやりと千切れた雲を見上げて、現実逃避した。隣には茶色の小さな小動物がちょこんと腰かけている。丸々とした手には可愛らしい見た目とはちぐはぐな、ブラックの缶コーヒーが握られていた。ひとまず冷静になる為、先程彼の好みを聞いてが買ってきたのだ。
呪骸は訓練の為にと日頃から持って回っていたのだが、今はの隣で意思を持って動いている。学長により丁寧に作られたレッサーパンダのぬいぐるみは、彼が過去作成した突然変異の呪骸であるパンダ同様に本物かと見間違うほどの出来前である。見た目は大層可愛らしいレッサーパンダの彼は、缶コーヒーのプルタブを器用にも爪先で開けるとへとコーヒーの礼を告げる。
「すまないね」
ふわっふわの茶色と白の入り雑じった毛に、きゅるんとした円らな黒い瞳。小さな口許から飛び出る声は可愛らしい見た目と反して、艶やかで低い。コーヒーを一口くちつけてから、彼はふう、と溜息を零すとアンニュイな雰囲気を纏い口を開いた。
「・・・私には、どうしても叶えなければならない事があるんだ」
物憂げに語る彼に、は飛ばしかけていた意識を戻す。やっぱり、見た目と中身から随分とちぐはぐな印象である。
魂の僅かに残ってしまった故に、成仏できずここにいたのだというレッサーパンダーーー夏油は、通常の呪術師にはまず見えない存在だった。
が見えたのは、偏に彼女自身も似たような体質だったからだろう。生霊となった経験から、彼女は現状困った体質になっていた。僅かな衝撃で体から魂が抜けやすくなってしまったのだ。今は大分減ってはいるものの、折角生身へと戻ったというのに呪霊が視えるようになってしまった彼女は、呪霊を目撃する度、恐怖による衝撃でうっかり幽体離脱してしまう。
高専で虎杖達に混ざり呪霊について学んだり、慣れる為だと無理やり引きずって任務に同行させる五条や五条、主に五条悟により、少しずつ慣れてきてはいるが、幽体離脱しやすい体質である事に変わりはない。そうした体質である為、は夏油を視ることが出来たのだろう。
どうにか地縛霊と化している夏油を解放しようとしたが、元一般人であり、つい最近呪霊が視えるようになったは呪術師としてはひよっこも同然だった。 その結果、夏油の動きを制している糸をどうやっても切れずに苦戦していたが、そこへが持っていた呪骸に移るという夏油の代替え案により、ようやく動けるようになったのだ。あとは残ってしまったという、夏油の魂を回収してしまえば彼も成仏できる。
呪骸へと入った夏油はもう動くことが出来るので、あとは彼自身がどうにかするだろう。しかし思いがけず、彼はへと保護を申し出てきた。
眉を下げ、丸々とした瞳は側目から視れば潤んでいるようにも見える。
夏油が言う、成し遂げなければならない事。恐らく男は以前のと同じように、未練が残っているのだろう。肩を落としつつも、決意した様子で夏油はに訴える。
「私は今、呪術師にバレて祓われるわけにはいかない」
以前の同様魂だけの存在であれば、特殊な人間でさえなければまず視える事はない。現に今まで夏油は誰にも視られることなくこの場に留まっていた。しかし今の夏油は動く自由を得る代わりに、霊体ではなく器である呪骸で動くことになる。まず、意思を持つ呪骸というものはほとんどない。例外がパンダだ。意思を持つ呪骸、夏油の存在に呪術師が不思議に思わないはずがないのだ。移動手段として、隠れ場所としてに匿ってほしいと夏油は言う。
見つめてくる円らな瞳に思わず、う、とは言葉に詰まる。
心残りがある夏油を手助けしたいとは思う。も同じ経験をしたからこそ、彼の気持ちはよくわかるつもりだ。しかしは呪術師の世界に最近片足をつっこんだばかりで、正に現状手一杯の状況だった。そこへ夏油の匿う余裕があるかと問われれば、本音を言えば難しい所だ。加えて、は今一人で暮らしをしている訳ではない。同棲相手がいる。
せめて彼に事情を説明してもいいかと尋ねた所、相手は非術師なのか、呪術師ならば歴が長いかと尋ねられは思い出す。どこからどう見てもちゃらんぽらんの五条だったが、彼自身五条家という呪術界で知らぬ者のいない、歴史ある御三家の一つの家出身だと虎杖から聞いて、心底驚いた記憶は新しい。名家出身だというのだから、確実に呪術師としても長いのだろう。多分、十年以上は、と伝えれば夏油は首を振った。それだけ長い間呪術師であったなら、まず夏油の存在を見逃すことはないだろう。首を振る夏油に、しかしは彼が問答無用に祓うような頭の固い人間でない事は知っている。きっと力になってくれると伝えたが、夏油は梃子として頷かなかった。
五条に隠した上で、夏油を匿う。五条は勘の鋭い人間だ。とはいえ、普段は今までの呪骸のように布鞄にでもいれて、家の中では自室に置いてしまえば上手くいくかもしれない。しかし隠し事をしてしまう後ろめたさ、呪霊という存在に手一杯だというのに夏油の手助けまで出来るか、そもそもついさっき出会ったばかりの、ほとんど知らない男を信用しきってしまうのもーーーは口元を引き結んで、ぐるぐると思考を巡らす。そこへ渋い表情で悩むに、夏油は一つの提案を持ち出してきた。
「私には生前のように呪力もないが、幸いにも呪霊の知識はある。君、申し訳ないがあまり強くないだろう?」
気まずそうな表情を浮かべながらもスッパリと遠慮なく指摘する夏油に、しかしは否定できなかった。
彼の言う通りは強くない。だからこそ訓練用の呪骸を持ってまわり、少しでも暇があれば呪力の訓練をしているのだから。五条から言わせれば激弱(笑)である。図星をつかれ押し黙ったに、夏油は続ける。
「私なら、呪霊の弱点を教えることが出来る。その隙に君は倒せなくても、逃げればいい」
「・・・どれくらいの呪霊を、ご存知なんですか?」
目下、の悩みは呪霊である。霊体時とは異なり、肉体のある今は以前のように呪霊をおびき寄せてしまう事はない。だが、ちょっとした拍子で幽体離脱してしまえば話は別だった。以前と同じ条件となってしまえば呪霊を招き寄せてしまう。現状は以前五条から渡された呪具の強化版を渡された事により、なんとか呪霊を集めることはない。だからこうして、は一人で外出も出来ているのだ。それでも不測の事態が想定されないとは言い切れない以上、は呪霊について学ばなければならなかった。視えるようになった分、呪具ばかり頼らずにこちらも対処できるようにならなければならない。祓う能力なんて、現状はてんでないのだけれど。
家にいればいいじゃん、と度々五条は言うが、そういう訳にもいかなかった。何より、呪霊は見た目気持ち悪い怖い。心底どうにかしたい、と思ってしまうのも元一般人であるからすれば致し方ないだろう。
呪術について知識のある彼は、やはり元々こちら側の人間だったのだろう。知識あるという夏油に、驚きはしない。
の問いに、夏油は手を掲げて見せる。器用にも小さな指を一本折る彼に、は内心考える。数字通り、4体という訳ではないだろう。ならば40か。それでも結構な数である。そう検討つけたは、しかし夏油の答えに目をむくことになる。
「ざっと4千体以上」
倍以上の数字だった。そんなまさか、とすぐさま疑いの視線を向けただったが夏油は真剣な表情そのものだ。法螺を吹いている様子もない。
「私は呪霊についての知識で、君の力になろう。
 ーーーだから、助けてくれないか?」
夏油の提案に、は眉を潜める。夏油の提案は魅力的だ。だが、現状までが手助けしたといっても、もう夏油は動くことのできる呪骸を手に入れたのだ。全く知識のなかったと違い、呪術師について詳しいであろう彼なら彼自身でどうにか出来るのではないか?と疑う気持ちも若干ある。
視線を宙に彷徨わせて、ちらりと改めて夏油を見る。黒々とした瞳がこちらをじっと見つめていた。視線を逸らしたくなる気持ちを堪え、なんとか見つめ返す。円らな瞳は逸らされることはない。しかし、しっぽは垂れ下がり、心なしか小さな肩も下がっている。ぐ、再びは息を詰まらせる。
激しい葛藤の後、ややあってはか細く溜息を吐いた。
「・・・わかりました。あまり、お手伝い出来ないかと思いますが、私で良ければ・・・」
夏油はパァッと表情を和らげた。
「そうか!ありがとう。助かったよ!!」
喜ぶレッサーパンダを他所に、若干、本当に大丈夫?と不安は残るものの。心残りがあるという夏油は、嘘をついてないだろう。そうなると、同じ経験をしたは結局のところ彼を見捨てることなど出来なかった。五条はよく、生霊であった頃の自身の面倒をみようとしたものだと今更ながらは感心する。恐らく彼が強いからこそ成せたことなんだろうが。与えられたなら、与え返す。恵に、五条に。彼らに与えられた善意のお陰で立つ事の出来ているとしては、そうした信条から夏油を見過ごす事は出来ない。ーー力になれるかは分からないけれど。は出来うる限り、夏油への手助けを決意するのだった。
そうして考えを固めたは知らない。まさかその愛らしい和らげ、外見から周囲に小花を散らすように喜ぶ目の前のレッサーパンダ。その腹の底では、笑顔の裏でチョロいな、なんて思っているなどと。
まさか見た目可愛らしいレッサーパンダである夏油の目的が、パンビー全員皆殺ししちゃおうぜ計画であるだなんて。微塵も彼女は気付くことなく、夏油へと手を貸してしまう決意をしてしまうのだった。
まんまと夏油の保護を了承したを前に、呪骸の可愛らしい外見をフル活用し、夏油は裏で思考を巡らしていた。生前は温和に見える柔和な笑顔で周りを騙し、宗教集団の教祖であった彼からすれば、女一人騙す事など朝飯前であった。

ーーー俗世に嫌気がさした、という事に嘘はない。非呪術師に嫌気がさしたから、彼は一般人ーー猿どもを消す事を決意し、呪術師を止めたのだ。
男は呪祖師であった。呪術師とは正反対に、一般人を殺める彼は当然呪術師に見つかれば再び処刑対象である。だからこそ、今見つかる訳にはいかなかったのだ。まさか死んだ後に、数年間現代に縛り付けられるとは彼も思いもしなかった。
猿ども消し去れず無念こそ残ったが、呪祖師としての行動に後悔はない。悔いなく受け入れた死であったが、目が覚めると夏油は新宿の路地裏にある、非常階段に佇んでいた。
そこは彼が大切に思う、家族と最後に会った場所である。あの子達は、同志は無事だろうか。最期にそう考えたからだろう。とはいえ、そのまま誰にも見つからず動けずにいるとは彼も思いもしなかった。
霊という存在になったのであれば、視える人間が視れば見つかるだろう。相手が呪術師であった場合は面倒ではあるが、上手く言いくるめてこの場から離れてしまえばいい。幸いにも夏油は頭の回転が速く、その手は得意だった。
しかし男の目論見は外れる事になる。数か月の間、呪術界がマイノリティといえども呪霊が視えているのだろう人間を見かける事があったし、夏油がいる非常階段を通ったこともあった。だがその誰もが、夏油を目視できなかったのだ。確かに、夏油も生前呪霊や仮想怨霊こそ視ても、霊というものは見た事はない。どうやら規格外の事態に陥っているようだ、とようやくそこで夏油は事態を飲み込む。生前の呪術や呪力がほぼ使えないのも、それが原因だろう。
このまま、大通りを闊歩する猿ども見続けるしかないのか。いや、いつしか機会は訪れる筈だ。そう考え直し夏油は辛抱強く、動く事の出来ない非常階段から嫌いな猿どもが行き交う大通りを眺め、現状を打破する機会を虎視眈々と伺っていた。そうして、この女がひっかかったのだ。
女は呪術師ではあるようだが、幸いにも夏油の名すら知らないようだった。
現代の呪術師であれば、数年前夏油が起こした百鬼夜行を知らぬ者はまずいない。四人しかいない特級呪術師であった夏油は、呪詛師となった時点で名を知られていたのだから。
名前を知らない時点で、女は呪術師として底辺に位置するのだろう。百鬼夜行では目論見が外れてしまったが、ここに来てようやく運が巡ってきた。柔和な表情の裏で、夏油は常に現状を整理していた。
まさか僅かな呪力すら練れない程女が弱いとは思いもしなかったが、代わりに呪骸を器とすることが出来た。女が自販機に向かっている間に試してみたが、どうやら呪骸から抜けてしまえば元の非常階段へと戻ってしまうようだ。女が糸を切ってしまえば一番であったが、まずは動けるだけ上々だろう。
しかしこの体では上手く呪力を扱うことができない。いや、ほぼない状態といっていいだろう。そうなると術式も当然使えない。だが、女に伝えていない事があった。
相手から、呪力を奪う事が出来たのだ。

有名な、マザーグースの歌がある。その1篇であるWho killed Cock Robin ? 「誰が駒鳥を殺したの?」
誰が殺したのか?自供した雀か?血肉をとった魚?それとも誰を責めることなく埋葬に参加した全員?
結局、犯人は判らずじまいで意味深な何処かそら恐ろしく感じる詩は人々の記憶に嫌に残り、14世紀頃から童謡として残り続けている。読み取れる教訓のような背景としては、死すらも有象無象に埋もれてしまえば、やがて判らなくなる、とも読み取れる。同じように可哀想な女が一人死んでしまっても、訪れる理想の現実、大義の前では意味をなさない。穏和な口調を崩さない裏で、夏油傑の考えはそのようなものだった。
弱くとも呪術師であり、非のない彼女には心を僅かばかり痛めるが、やがて迎える理想の世界のため、必要な犠牲である。
しかし夏油の企みは、この後、思わぬところで頓挫することになる。



縁とは奇妙なもので、変なところで廻ってくる。最早いっそ、清々しい。夏油は想定外の現状に、思わず一瞬思考を飛ばしてしまった。

女の自宅であるマンションへと帰宅した、つい先程の出来事だ。道中布鞄に詰められていた夏油は、リビングに着くとようやく袋から出される。夏油は窮屈な場所から解放され、新鮮な空気に一息ついた。これもこれから慣れなければならないだろう。
女の呪力は奪うにはなるべく長く接近していた方が良い。帰宅するまでのこの数分で分かったが、彼女は思っていたよりも随分と弱いようで、生前の夏油と同じような呪力を蓄えるには想定より時間がかかってしまいそうである。だからといって彼女のように騙しやすく扱いやすい呪術師も、現状はいない。じわりじわりと呪力を奪い取っては女の呪力が回復するのを待ち、再び奪い取る。面倒ではあるが、その繰り返しが一番効率的だろう。ある程度溜まり十分に動けるようにさえなれば、この女も用済みである。それまでは騙し続け、上手く利用させてもらおう。
女曰く同棲相手である男はこの日、出張で不在らしい。まさに良い機会である。女の懐に入る為には、まず情報を聞き出した方がいい。夏油はそう算段をつけて、狭い鞄の中にいた反動で肩が凝り固まってはいるが、そうとは見えない穏やかな表情で夏油が声を掛けようとした、その時である。立てられた耳が微かな音を拾い、夏油は動きを止めた。次の瞬間、玄関の扉が勢いよく開かれる。
「たっだいまー!愛しのダーリンが帰ったよー!!」
白髪に、黒い目隠しをした2メートル近い身長の大男。長身の男は、意気揚々と言い放つとずかずかと部屋へと入って来る。女の恋人だろう。帰宅が翌日だと思っていた女も思いも寄らなかったのか、男の姿に驚いて咄嗟に隠すように夏油を抱き抱える。
「・・・早かったですね、悟さん」
に会いたくて、ささっと祓ってきちゃった!」
男はそう言って、へらりと笑った。頬を緩ませまくった男は、正にデレデレとした表情で一見隙だらけに見える。しかし、この男に限ってそうではない。
まさか、と夏油は目を疑った。
男は旧友に手を下すにも拘らず、最後まで呪いを吐くことはなかった。呪詛師の夏油にとって呪術師の中で最大の難敵であり、己の止めを刺した男。同じ特級であり、いつだって呆れる程剽軽な男ーーー親友、五条悟。
厄介すぎる男が、そこにいたのである。
呪骸のふりをしながらも、夏油は衝撃をうける。現世に留まり、呪詛師として行動し続けるならば再びこの男と相対する事はあるだろうとは想定していた。しかし、ようやく路地裏から解放され呪術師として四級以下であろう、呪術師として残念極まりない能力しか持たない女の同棲相手が、この男だと思いもよらない。あまりにも早すぎる。
内心窮地に陥った夏油を他所に、動いたのは女だった。彼女は律儀にも、目的を達成するまで、呪術師にばれるわけにはいかないといった夏油の主張を守る気でいるらしい。五条へと適当に相槌を打ちながら、逃れるように自室へと持っていこうとする。「もう、ビックリしましたよー」
そそくさと退避しようとした彼女であったが、しかし帰宅早々女を抱きしめようとする五条に呆気なく距離を詰められた。しまった。
手放すことなく、腕に抱えられているままのものに気付いた五条が片眉を上げた。
「なに?そのタヌキ」
「・・・レッサーパンダですよ」
夏油は呪骸の体に冷汗が流れる心地がした。よりによって、五条悟。学生時代、二人で最強と名を馳せていた夏油は、男の厄介さを十分に知っている。なによりも男の持つ六眼。術式すら見破る六眼にかかれば見通せないものはない。呪骸の中身に何かがあると、彼であれば見破られてしまう可能性が多いにある。これは同棲相手の名をここまで確認していなかった夏油の落ち度だ。しかし呪術師としてあまりにも弱い、恐らく底辺に近い女と、呪術界最強の男である五条悟が恋人同士だとは思いもしないだろうと夏油は思う。というか、趣味変わってないか?
呪骸のふりを続ける夏油を、改めて五条から少しでも隠すよう抱き抱えながらも内心焦っていた。なんせ五条は勘が鋭い。早くなる脈拍を抑えながら、は説明するために口を開く。
「訓練用に、学長からお借りして毎日持ち歩いてるんです」
「・・・ふ〜ん・・・」
五条は目元の黒い布を首まで降ろすと呟く。布を下げた事に一瞬バレたかとひんやりしたが、もともと五条は家の中では目隠しを外しサングラスをかけている事が多い。固唾飲み込むに、五条は呪骸から目線を逸らさない。
「・・・これ、パンダみたいになりかけてない?」
「え、」
五条の差すパンダは、意思を持つ突然変異の呪骸である。鋭い指摘に、泳ぎそうになる視線を抑えは尋ねる。「なんでですか・・・?」そこでようやく、五条はしげしげと眺めていた呪骸から視線を上げた。
「勘!」
あっさりと笑って答える五条に、と夏油は安堵すると同時に、どっと疲労感に襲われた。呪骸から視線を逸らさない五条に一瞬ばれたかと思ったが、彼も呪骸の中身までは視通せなかったらしい。術式を見破ることが出来る、極めて万能に近い六眼。の霊体を見ることが出来た五条であっても、さすがに器がある状態で魂の形までは視えないようだった。
肩の荷が下りた心地でいただったが、油断した矢先、抱えていたものが抜き取られる。
「あ、」
見れば夏油がいない。慌てて視線を上げれば、五条がむんずと呪骸を掴んだまま抜き取っていたのだ。ぶらりとぶら下がる夏油には再び慌てる。
慌てるを他所に、呪骸の頭の上部を掴んだ五条はどこか不満そうに言う。「さっきから、大事そーに抱えてるけどさ」眉を潜めてを見る。
「どうせ今日も一日、これ、反応すらしなかったんでしょ?毎日持ち歩いても、意味ないって」
向けられる視線と遠慮のない言葉に、はその日一番の指摘を受け、思わず押し黙ってしまった。この切れ味、さすが五条悟である。夏油もなかなかに遠慮のない言葉のパンチを食らわせてきたが、彼は見た目も可愛らしいという事に加えて、一応、申し訳なさそうには言うのだ。言葉自体はまったく遠慮がないのだが、前もって構えておけば僅かばかりは軽減する。それでも何も装うことなく、唐突にビンタをかましてくる五条よりはマシである。そもそも五条には悪気すらない。
五条の言葉が寝耳に水だったのは、ぶら下げられ、内心若干腹を立てていた夏油だ。頭皮を掴まれたままの現状は気に入らないが、しかし聞き逃せない内容だ。
学長の夜蛾の手作りである訓練用の呪骸は、呪力を乱すことなく、一定に流し続けるためのものである。呪骸を用いたこの訓練は夏油が学生の頃からあった。僅かに呪力が乱れてしまえば、呪骸が殴りかかって来る。夏油も学生時代、後輩達が行っているのを見たことがある。見るだけで実際にはやった事がないのは、夏油も五条も学生の頃から規格外だったため、その訓練が既に不要だったからだ。だから彼女が持ち歩いているのも、常に呪力を一定に保てるようにする為だと思っていたのだが。まさかのそれ以前であった。呪骸が反応する呪力すら、彼女は流せていないのだ。
夏油はここにきて、更なる驚愕的な事実に多いに動揺した。確かに女の呪力を試しに奪い取ってみて、すぐに自身へとめぐる呪力が減っていく様子にあまりにも少ないとは思ったが。元からとんでもなく少ないからこそ、そうなったのだ。これでは生前と同様の力になるまで、想像以上に時間がかかってしまうだろう。遠のく算段に、夏油は舌打ちを零したい心地だった。
は弱い。とてつもなく。霊体の時に五条に判断されたように、めちゃ弱なのである。彼女も理解はしているし、納得もしてはいる。それでも弱者なりに恐怖の対象の呪霊から逃れる為、慣れないながらも珍しく必死に呪術高専1年に交り、日々奮闘しているとしては、五条の態度は僅かばかり癪に障っていた。
は呪力、ほーんと滓だもんねぇ〜」
押し黙ったに、先ほどとは打って変わって五条はにまにまと笑みを浮かべる。恨めしそうな視線を向けてくるに、五条は自身の機嫌が向上をしていくのを感じた。
五条はを怒らせたいわけでも、揶揄いたい訳でもない。偶に嗜虐心からちょっといじってしまうが、今回は違う。
こちらは彼女に会いたいあまり、四国の任務を1日で終わらせて戻ってきたというのに。彼女といえば帰宅した五条を「お帰りなさい、マイダーリン!大好き!」と喜びも露わに抱き着いてくることもない。いや、まあ、それはだったらいいなぁという五条の大いに含んだ願望だったりするのだが。それでも、もう少し嬉しそうにしてくれてもいいだろう。彼女は帰ったばかりの五条を置いてさっさと自室に引っ込もうとするし、というかやっぱりお帰りなさいのハグもキスもしてほしい。
不満を抱いた五条の視線の先は、彼女がずっと腕に抱いている呪骸であった。違うだろ、そこは僕の場所だろ。しかも彼女は訓練だとずっと持ち歩いているらしい。五条はますます腹を据えかねた。
高専で再会するなり、隙あらばパンダをモフろうとする彼女に度々思ってはいたが。どうにも、彼女に関することだと狭量になってしまうらしい。呪骸相手に嫉妬とは我ながら情けないとは思うが、彼女が霊体であった頃からそうなのだから既に諦めるしかない。
彼女が目を向ける先は、常に自分でいてほしい。焦がれて仕方がない自身と同じように。けれど彼女の視線はいつも他へと向けられて、恵にパンダに、今度はレッサーパンダの呪骸にまでふらふらと浮気をするものだから、五条は彼女をいじってでもこちらに意識を向けるしかない。青臭い子供のような言動を自覚していても、五条は彼女を引き留めたくて仕方がない。それで彼女がこちらを見るのであれば、なんだってしよう。己は手段を選ぶことはないのだろう。
時々、五条は彼女を籠に閉じこめてしまいたくなる。彼女が霊体であった頃からそうした感情はあったが、あの頃は彼女は五条の同伴がなければ外に出ることはなかった。五条自身、そう仕向けていた面もあったけれど。元の体に戻った彼女は違う。自由にどこまでも勝手に行ってしまうだろう。
彼女が生きていてよかったと思う。あの頃はどれだけ触れても彼女の温度を感じることはなく、心臓の音も、吐息すら触れられなかったのだから。という存在を実感できる。彼女が生身で生きている分、どんどん増えていく。けれどその分、彼女の意識も周りへと向いていく。
が離れてしまうないなら、別のあのままでもよかったと思っているのは五条だけの秘密だ。例えもし、あのまま彼女が死んでしまっていても、間違いなく呪霊にしてでも引き戻しただろう。以前、地獄から引っ張り上げてあげると彼女にも伝えてあるから、無断ではないのだし。
それだけこちらは必死なのだ。だからこそ、彼女がもう二度とどこかへ行ってしまわないよう、籠のなかに閉じ込めたいなぁ、と思ってしまう。そうしたら、思う存分愛でるのに。
僕だけの、可愛い、可愛い小鳥。
必死に、彼女の目が他に移ってしまわないよう、情けないまでに手段を興じる。これ程なりふり構わなくなるのは彼女だからだろうと、五条はもう知っていた。それはきっと、自分だけであろうという事も。
同じ分だけ返してくれとは言わない。底のない彼女への感情に、それは到底無理だろうから。けれど、少しだけででもいい。彼女に自分を見てほしかった。どうやったら此方を見てくれるのか。五条はいつも、そればかりを考えている。
揶揄いながら拗ねた彼女との距離を詰めて、輪郭に沿って流れる髪を優しく退けると彼女の頬に手を添える。逃れることのできない様固定した上で、見上げてくる彼女の瞳を見つめて、五条は目を細めた。
可愛い小鳥を、どこにも離したくない。小鳥が飛んで行ってしまうなら、どんな手段だって使うだろう。
五条に揶揄われて押し黙ったままであったが、ふと動いた。彼女の顔が近づき、柔らかく、暖かいものが唇の真横を掠める。時間にして数秒もなかっただろう。けれど僅かな一瞬の彼女の動きは、数分を要した心地だった。
可愛らしく触れてすぐに離れていった彼女は、恨めしそうな視線を一転させて、ぽかんとした表情を浮かべたままの五条に、悪戯が成功したように笑った。
「でも、私は悟さんに触れられますよ。油断しましたね、悟さん」
「・・・・・・・もうムリ」
数秒間抜け面を晒してしまった五条は、咄嗟に両手で顔を覆った。
五条は次の瞬間、長身を捻り地団駄踏むように叫び始める。きっ、と掌の間から今度は五条が恨めしそうな視線を向けた。
「あ〜やだやだ、これ以上僕を誑かしてどうする気?散々僕の事弄んだんだから、しっかり責任とってよね!!」
「え、なんですか突然・・・」
顔が熱くて仕方がない。生娘かと思うぐらいだ。耳だって赤くなっているだろう。格好もつかずヒステリックにブーイングを飛ばす五条に、といえば五条の反応が意外であるらしく戸惑っている。
こういうところだ。本当に、困ったものである。五条は重々しく溜息を吐いて脈拍の早い心臓を落ち着かせると、自身より一回り程小さいの体を抱きこむ。
「罰としては今日残り一日、僕の腕の中ですごしてくださーい」
「ちょっ、勘弁してください」
「ダーメ」
抵抗しようとするを、五条は背後から僅かに体重をかけて押さえる。伸し掛かり頭の上にぐりぐりと顎を載せた五条に、は抵抗が無駄だと悟った。
「・・・飽きたら離れてくださいね」
諦めて渋々つぶやくも、背後の恋人はずるずると引きずられるようにに巻き付いたままだ。思わずは溜め息を吐いた。「大きなぬいぐるみですねぇ・・・」
ちゃんの最愛の恋人でーす」
と、ここまでの光景を、片手で五条に放り投げられたまま、床に転がり見ていた夏油は思った。
こいつ誰?
敵対したとしても、親友であり学生の頃の五条を夏油は知っている。
常に周りを舐めくさっている言動から誤解されやすいが、別に彼は異性にだらしない訳でもない。ただ割り切っているのだ。恋人がいても相手にのめり込むことはなし、また相手ものめり込ませない。相手が不要に入ってこようとすれば察してすぐに離れて切ってしまう。そんな五条に対して不満を抱いた彼女たちを夏油は見ていたし、親友であったからどうにかならないかと聞いてくる彼女もいた。態々自分が付き合わされるのが面倒で、夏油は彼の苦言を呈したことがある。もっと深く付き合ってみてもいいんじゃないかと。もしかしたら交際が続き、相手と結婚する可能性もあるかもしれない、拒絶ばかりしてないで相手を懐に入れて、真剣に交際しろと。その時の五条の答えが、こうだ。
わざわざ他人の責任まで抱え込みたくない。めんどくさ。
舌を出して吐き出す仕草までして、ごめんこうむると答えたのだ。まあ屑である事にかわりない。割り切った恋愛といえばそれまでだが、他人の面倒をかかえたくないと思う考えは夏油も同意見であったので、結局それ以来注意を促すことはなくなった。せめて相手に気取られないようにしろ、とだけ言って。結局のところ夏油も屑なのである。類は友を呼ぶ。
軽薄と言えばそれまでだが、真面目に相手を考えてもいる。深くかかわった所同じ分だけ返せないのだから、傷ついてしまうのはあちらの方だ。だから首尾一貫徹頭徹尾、五条悟という人間の恋愛観は表面上のものでしかない。
そんな男が、相手を懐にいれるどころか、そのまま囲い込んでしまおうとしてる。今まさに自身より一回りも小さい彼女に縋りついて離れない大男に、夏油は始終目を疑っていた。誰だよ、責任持ちたくないとか言ったやつ。君、それどころか彼女に責任取らせようとしてるじゃないか。
とはいえ、だ。ようやく、訪れた親友の青い春だ。暖かく見守ってやらないこともないーーーそう思った夏油だったが女に引っ付く傍ら、横を通ったすきに、さりげなく片足で部屋の隅へと追いやるように蹴とばされ、夏油は考えを改めるのだった。

前言撤回。
愛らしいぬいぐるみすら嫉妬するような心の狭いこの男、見守る価値すらない。せいぜい愛しの駒鳥にでも突かれて、無様に悶え打っていればいい。


誰が駒鳥を殺したの?




ーーー3時間前、四国香川県にある高松中央インター路上

補助監督である伊地知は、車を走らせながら後座席を気にしていた。任務先へ向かう車内で、長い足を組み後座席に座る五条は珍しく資料を手に眺めている。
今回の任務の案件については既に道中説明済みで、彼が持つモノは今回の任務についてではない。そもそも、五条という人間は基本補助監督に任務内容だけ聞いてさっさと現場に直行するような人間である。資料に目を通して確認する、といったことはまずしないのだ。
特級であるがゆえに報告書を書く義務がないとはいえども、この男が書類等を持つことはほとんどない。伊地知が書類に関わる姿を最後に見たのも、数か月前、男が珍しく受け持つと言った『トイレの花子さん』の調査報告書以来である。今のところ関わった案件に対する未提出書類はない。となると何かしらの資料だろう。出先にまで資料を持ち出すなんてよほどのことであった。珍しい様子に、バックミラー越しに背後にチラチラと視線を向けてしまう伊地知だったが、資料に目を落としたまま五条が唐突に口を開く。
「なんかさっきから言いたげだけど、伊地知、何?」
「す、すみません!!」
気付かれた!すぐさま謝罪した伊地知に五条は何も言わない。これは聞いてもいいという事だろうか。いや、違う。この無言の重圧は何の用か言えという事か。2つ下の学年として学生時代から五条と交流のある伊地知は五条の無言の圧を瞬時に読み取ると、恐る恐る尋ねる。
「その、五条さんが出先にまで資料を持ち出す事はあまりないので、よほどのことかと・・・」
「・・・一つ、気になる事があってね。これ、があった事故の資料」
さんの・・・?」
伊地知の返答に、珍しく五条は答える気があるようだった。パン、と片手で資料を叩いた五条に、伊地知は訝しがる。
。現在高専一年生の授業に交じりつつも、時間がある時は事務員と働いてくれている女性だ。そして何よりも重大な事は、後座席に座る男の恋人である。彼女は一般人であったが、つい最近呪霊が視えるようになった。呪霊が視えるようになるには何かしら原因がある。呪具を取り込んだ、呪霊に憑かれたなどだ。その因果関係の調査を行ったのが伊地知である。彼女の場合、原因は事故による臨死体験だろうと結論づけられた。五条は資料を片手に事故の経過をなぞる。
「事故が起きたのは去年の11月27日早朝。
 出勤前、は信号を無視したトラックに轢かれた。幸いにも当時は出勤ラッシュで交通量が多くすぐに玉突き事故が発生した為、トラックは停止。直死は免れたもののは重症を負い昏睡状態、つい最近目を覚した。
 ここまでは伊地知も知ってるだろ?」
五条は人差し指で、膝の上に置いた資料を叩く。「僕が気になるのは此処」
「当時、トラックには誰も乗っていなかった」
伊地知達が乗る車は高速出口を過ぎていく。高速を降り徐々にスピードを緩めていく伊地知、バックミラー越しに五条は見た。
「トラックは違反駐停車中で、運転手は乗っていなかったんだよ。エンジンは入れたまま、サイドブレーキを落として運転手は離れてた。
 警察の検証でもそれは確かで、結局車の不備が原因ってことでた片づけられた。別に、可笑しくもない。けど、」
「呪いが関係している、と・・・?」
眉を潜めた伊地知に、五条は頷いた。
「そ。ただ半年前だからねぇ・・・。現場も見てきたけど、残穢の欠片もない。原因のトラックは既にスクラップにされてゴミ屑さ」
行止り。肩を竦めた五条は、しかし納得していないのだろう。
「調査に可笑しな点はない。運転手も見てきたけど、呪力も持たないただの一般人だったよ」
男は珍しく、補助監督に任せることなく自ら調査に回っているらしい。それでも目立った形跡は見当たらない。一瞬沈黙した後、五条は呟く。
「気にかかるんだよねぇ・・・」
「何か根拠が・・・?」
五条は特級呪術師だ。こちらが見落としてしまったものを、彼は気付いたのかもしれない。調査不足であれば補助監督として失格だ。調査を行った伊地知は、固唾を飲み込み五条の返答を待った。
「僕の勘!」
神妙な様子とは打って変わって、五条はあっさりとそう言ってのけた。伊地知はがくりと肩を降ろす。
車は町中から、静観な下町へと入っていく。対向車線の車の数も随分とまばらになってきた。目的地まであと少しだ。
「あーなんかについて話してたら会いたくなってきた!」
ここに来て、唐突に五条が駄々を捏ね始めた。五条は長い足を組み替えると唇を尖らせて不満を零す。「せっかくも退院できて、ラブラブ同棲生活まさに幸せ真っ只中!ってのに出張とか本当上層部クソだな」
「いやまぁ、ずっと?ラブラブな自信あるけど?むしろ日増しに互いの愛が熟成されてますけど??
 だからこそさぁ〜やっぱさぁ、ないと思うだよねぇ。ってな訳で、サクっと呪霊倒して今日中に帰るよ!」
「え!?そ、そんな、無茶です!!ここ四国ですよ!?」
「いいからやるんだよぉ伊地知ぃ〜」
目的地まで少しといっても、まだついていない。そもそも任務すら終えていないのだ。悲鳴を上げた伊地知に、しかし五条は容赦ない。
低い声で脅すように言う五条に、伊地知は冷汗が滲み出る。こちらがいくら首を振っても、五条は了承しないだろう。

「じゃ、夕方の帰りの便の手配、頼んだよー!」
いつもの無茶ぶりに疲労の色を残す伊地知の背へと五条は明るく告げ、さっさと停車した車を降りていく。
伊地知は何時ものごとく、冷汗滲ませながら必死に帰りの便の席をとり、ようやく一息つけると思った数十分後には五条が帰って来てしまった。早すぎる。伊地知は息をつく暇もなく再び五条に急かされ、ひいひいと帰りの高速を飛ばす事になるのだった。







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