DreamMaker2 Sample 咥内が乾いて仕方がなかった。何度唾を馴染ませるように飲み込んでも、さして効果もなくすぐに乾いていく。情けないほど余裕がないのだと男は自覚していた。肌に突き刺すピリついた空気に、教え子は早々に胃に流し込むように盛られた白米を掻き込むとすぐさま帰宅した。気を使わせてしまったのだろう。それを理解していても、どうにもならなかった。
持て余す揺れる感情に、恐らく瞳孔も開いている。情けないほどに大人の余裕などどこにもなかった。彼女を前にするとどうにも駄目だった。意図も容易く、常に揺らぐ事のない自身を揺さぶってくる。
花子さんが会いたいと願う、彼女の想い人。彼女の唯一の心残り。
顔も知らない、名前も知らないソイツを何度心の底から疎ましく思ったか。生まれた時から持ちうる全てを手に持ち、誰かを僻むことなどない人生だったから新鮮ではあったけれど。ーーーまさか相手が、教え子の一人だとは。
なら、諦めるのか?そう自問自答して、男は即座に否定した。
手放すことなどできない。彼女の笑みを知ってしまった。彼女の拗ねた表情も、泣きそうな表情も。
彼女の声が耳を打つ心地よさを、触れた彼女の肌の温度をもう知ってしまっているのだから。
到底手遅れで、手放せやしないドロドロとした底のない泥濘のような好意を向けても片方だけでは成り立たない。彼女の気持ちがこちらに向くまで、男は待つつもりだった。
ーーーしかしそれで彼女が離れてしまうなら、別だ。
「・・・花子さんは、恵のこと好きなの?」
もし、頷けば。彼女は自分の元からいなくなってしまうだろう。彼女が想う人物だけに別れを告げて、一人満足していなくなる。
数か月前、帰宅して彼女の姿が見えなかった時を思い出す。最強が聞いて呆れてる。地に足がつかなる心地は、あの一瞬だけで十分だった。こちらは彼女がいない生活など、もう思い浮かべることも出来ないのに。そんな事、到底許す許せないといった問題ではなかった。
ーーー縛り付けてしまおうか
女が決して離れることのないように、腹の底に横たわる仄暗い獰猛な考えを抱きながら男は尋ねる。手放すことなど、もう出来やしないのだから。しかし男は花子の答えに、唖然とすることになる。
「・・・?何を言ってるんですか??」
花子とて五条の異様な様子には気づいていた。幾ら花子が気配を感じることの出来ない凡人であっても、それほどまでに五条の様子は異様で、何か気に障ってしまったのだろうかと様子を伺っていたのである。虎杖が帰宅したとなれば残りは自分である。恐らく、己の所為で五条は気分を害した。花子としてはようやく彼、恵へ近づくこと出来て飛び跳ねるような心地だったが、五条の様子にそんな気持ちすらも吹き飛んでしまう。どう尋ねるか考えあぐねているうちに、五条から声を掛けられる。
その問いかけに、花子はきょとんとした表情を浮かべた。彼を?・・・ええっと?
「恵ちゃんは、恩人ですよ」
首を傾げる花子を前に、五条は一瞬脳内が真っ白になる。怪訝そうなこちらを見上げる花子には、嘘偽りも見受けられない。
五条は溜まらず、頭を覆ってしゃがみ込みたくなった。
「・・・あー・・・」
ダッサ。マジありえねぇ。
よくよく思い返してみれば、何も花子さんは想い人とは一言も言っていなかった。彼女の唯一の心残りで、死の間際にも会いたいと思う人間。それだけで五条は勝手に邪心していたのだ。
恋とは厄介なもので、ついつい相手のことばかり見てしまい常ならば及ぶ思考も狭まってしまう。まさか自分が、今更。こうした青臭い思考に囚われてしまうとは思いもしなかった。五条は今まで、彼女がいなかったわけではない。しかしどれもが上辺ばかりのものだった恋愛経験を持つ男にとって、28歳にして遅れた初恋は相当厄介なものだった。
情けなさに顔から火が出てしまいそうだ。辛うじてしゃがみこみはしなかったが、思わず両手で顔を覆う。
五条の様子に目を白黒させていた花子だったが、それまでの男の刺し刺しい空気は和らいでる。いつもの様子に戻った事に安堵すると、花子は再び口を開いた。「・・・ねぇ、五条さん」
「わかってる。恵に会いたいんでしょ?」
恥ずかしさに火を噴くかと思っていた五条は、花子からの問いかけにようやく両手をどける。
まさか、想い人が勘違いだったとは。しかし恵が彼女の想い人ではなく恩人であっても彼女の考えは変わりないだろう。僅かに火照りの残る頬を誤魔化すように、人差し指を立てて花子の顔前に突き付けた。
「その代わり、条件。」
にやり、と笑う。
「名前、教えてよ。じゃなきゃ恵との話はナシ。
 ・・・そろそろいいでしょ?」
「・・・分かりました。けど、恵ちゃんと話してからです」
「ダメ。先に教えて」
五条は梃でも譲らないようだった。首を振ろうとしない五条に、花子はむっと顔を歪める。この調子では、名前を教えるまで五条は頷かないだろう。それでは駄目だ。
名前は相手を縛る。幽霊である花子にとって命綱でもあり、呪術師である五条にとってそれは恐らく容易い事だろう。全て憶測でしかないが、男の頑なな様子から見当違いではないのだろう。
ーーー花子とて、男が無理に使役したり、自身を成仏させようとしているとはもう考えてはいない。
たった数か月しか過ごしてはいないが、捻くれに捻くれた如何に難解複雑の権化と呼べる男であってもそこまで厭われているとは、思っていない。だがだからこそ花子は頷けなかった。
自分は幽霊であり、彼は生きている人間だ。
花子はくるりと背を向ける。
「じゃあ、いいです。虎杖くんに頼みます。先に寝ま」
踵を返し、ドアノブに手が触れる直前で花子の言葉が途切れた。
背後から伸びた長い手が、開けようとした扉を抑えていたのだ。咄嗟に両手で開けようとするも、ビクともしなかった。勢いよく背後から片手をついた五条が、長身の体躯を屈める。
蒼い目が獲物を逃さんとばかりに鋭くギラついていた。
「逃がすかよ」
耳朶を打つ男の低い声に、花子はぞくりと身を震わせた。

生身の人間ですらない幽霊の彼女。普通ならば、人間と幽霊の叶わぬ恋に苦悩に身を焦がす事だろう。しかしそこは最強呪術師である五条悟。
叶わない、手に届かない。後ろ向きな考えは欠片も生まれることなく、男には諦めるという選択肢もなかった。欲しいなら、手に入れるのみ。常に飄々としているにも拘わらず、その実腹の底に棲む暴力的なまでの欲望に忠実。神の采配間違いか、性格さえ差し置けば全てに恵まれた五条悟はそれが出来てしまう男だ。
「そんなに会いたいの?」
死ぬときは一人だと、男は理解している。常に死別の多い呪術師だからこそ、十二分に。けれど、情けなくとも。彼女がいなくなったあとは、考えたくなかった。腹の底に沈めたはずの仄暗い考えが、不意に浮上する。

自分より遥に背の高い大男に背後から囲われるように腕をつかれ、花子は見る人が見れば壁ドンならぬドアドンであろうと、胸がときめくよりも恐怖に心臓が飛び上がったが、五条の表情を仰ぎ見て肩の力を抜いた。 こちらの気も知らないで。この男はいつだってそうだ。振り回すだけ振り回して、屍のように動けなくなったところで平気で指先でつついてくるような男。
声音は鋭く怒気を孕んだ様子で、花子はてっきり男は怒りの表情を浮かべているのだろうと思っていた。振り向いてみれば、男は確かに蒼い炎のように瞳を揺らしていた。灼熱の赤よりも、その実高熱な火を灯してこちらを射抜いている。
けれど、揺らいだ火の奥に潜んだものに気づくと、身をすくませていた怯えが瞬く間に消え去っていく。
花子は無意識の内に頬を緩ませた。
「ちゃんと、帰ってきます」
手を伸ばそうとして、僅かに透ける肌色に花子は躊躇う。少し逡巡してから、代わりに小指をそっと差し出した。
「勝手にいなくならないって、約束しますよ」
笑う花子を前に、感情の波が凪いでいく。波が引いていくように、淡く微笑んだ彼女を前にすればどうしようもない。
五条は乱雑に髪をかき乱す。
「あ〜〜〜〜〜もー・・・・」
意地のように腹正しい気持ちを表そうとするが、既にそんな気持ちも掻き消えてしまっている。
情で許すなんて、彼女でなければ決してない事だ。笑顔一つで容易く転がされてしまう。ここまでチョロイとは思いもしなかった。どちらかというと自身は己の考えを曲げること等ない人間であったはずなのに。五条自身、自覚している我の強さも女の前では潜んでしまう。
しかたがないなぁ・・・
溜息を一つ吐いて、五条は渋々ながらも花子の提案に譲歩するのだった。


両手から溢れるほどの



恵は五条の教え子だった。それは高専に通う呪術師であるという事だ。
生前、花子は微塵も彼がそうであると気づきはしなかった。確かに度々会いに行ってはいたが、数週間か、長いときは一か月に一回という頻度だったこともある。恵自身も恐らく隠していたのだろう。思い返してみれば、前もってお邪魔してもいいかな?と聞いた日に絶対に来るな、と言われた事もあった。何度も恵が念を押す徹底ぶりに、内心首を傾げて習い事かお友達でもくるのかな?とその当時は流したのだが。恐らく呪術関係であったのだろう。
彼と最期に会ったのは、高校生に上がる前の頃。かつては小さな手で花子の手を引いて、花が咲くように笑っていた彼の義姉、津美紀が原因不明の昏睡状態になり病院へと見舞いへ行っていた時だ。差し込んだ茜色が津美紀の肌を照らし、普段は青白い肌も今にも起き上がりそうな程血色がよくみえるのに、彼女は目を覚まさない。
動かない津美紀の掌を握り締めて、いつものように変わらない近状報告をした。
昨日、昔行ったスーパー、あそこで卵と小麦粉の特売日だったの。
だから久しぶりに張り切ってクッキー作ってみたんだ。ちょっと焦げちゃったけど不味くはないと思う。津美紀ちゃんも起きたら食べてね。そうそう、恵ちゃんってば昨日転んじゃったんだって。折角綺麗な男前が今台無しなんだよ。
そう言って笑いながら頬に大きな傷をした恵を見れば、口を引き結んで視線を逸らしている。差し込んだ夕日よりも染まった頬に、変わらないなぁと笑って。褒められると押し黙ってそっぽを向きながら照れる恵に、いつものように揶揄うように声をかけた。それにまた、恵は怒るのだけれど。眠る津美紀の横顔も柔らかな夕日を浴びて優しく見えた。あの時が、二人に会えた最期の日だった。

津美紀が目を覚ますその時を見届けられなくて悲しい。 恵を置いていってしまうことが悲しい。 けれど、二人にはまだ未来がある。 津美紀はいつか必ず目を覚ますし、恵は一人じゃない。 悲しい事ばかりではない。 そう思いなおして花子は手に持つ携帯を握りしめる。

五条から恵と話す約束を取り付けた翌日。花子と五条は、誰もいない工事中のビルの屋上にいた。以前呪霊から逃げ惑い、一時的に避難した場所である。夕暮れ時であれば、作業も中断され誰も出入りすることもない。幽霊である花子が話をする場所としては、最適の場所だった。
この場に恵自身はいない。
本当は直に会って話したかったが、花子は限定された者にしか目に映らない。代替え案として浮かんだのが物を挟んだ方法である。 姿形は見えなくても、物を介せば声であれば届けられるかもしれない。 こっくりさん然り、メリーさん然り。 要はポルターガイストと同じ原理である。

小さく息を吐いてから、意を決して花子は携帯を操作する。耳にあてると途切れ途切れの電子音が数回続いた。 繋がるまでの時間が、酷く長く感じた。
『もしもし』
素っ気ない声は、数年前に声変わりして今は随分と低い。 電話口から聞こえた、懐かしく感じる声に胸がつまる。
「・・・恵、ちゃん。」
電話口の向こうで、息を呑む気配がした。ーーー聞こえている。相手が口を開くよりも早く、気が付けば花子は堰をきったように話していた。
「元気?無理してない??恵ちゃんはいつもなんでも隠しちゃう意地っ張り屋さんだから」
病院でこさえていた傷も、十中八九呪霊関連だったのだろう。運動神経がいい恵が転んだだけとは思えなかった。
度々傷をこさえる恵に、けれど決して口を割らないからまた喧嘩でもしたのかと深く理由を聞かなかった。意地ばかり張って、ちっとも素直にならない。津美紀が元気な頃は二人して気を揉んだものだ。
脳裏に快活に笑う元気な少年を思い出す。明るい少年はいつも楽しそうに同級生の話をしていた。
ーー津美紀ちゃん。恵ちゃんにも、友達ができたみたいだよ。
「虎杖君。いい子だね。よかったね。きちんと本音、言うんだよ。
そうだ。栄養だけじゃなくて、美味しい物食べるんだよ。言いつけ守ってくれてるのは嬉しいけど、恵ちゃんってばストイックすぎるよ。健康は大事だけど、ほどほどにね」
滾々とバランスを考えて食べるように言ったのは花子だったが、極端すぎるのも頂けない。以前虎杖から聞いた、彼に気づく前の話では、昼飯も随分簡素なものだという。栄養剤や携帯食で済ませようとする日もあるといっていた。育ち盛りの少年にはあんまりで、津美紀が聞けば確実に眉を顰めるだろう。花子は止まることなく思いの丈を話し続ける。
「津美紀ちゃんにも、よろしくね。
 ・・・沢山、いっぱい、言いたいことがありすぎて、何を言えばいいか分からなくなっちゃった」
『おい、待て。なんでーー』
考えを纏めるように息をついたところで、恵が口を挟む。静かに荒い口調で混乱している恵を前に、花子は目の奥がツンとした。
あまり話過ぎてしまうのは駄目だなぁ。目を細めて、ずっと伝えたかった言葉を伝える。
「ね、恵ちゃん。
 あの時、私に声を掛けてくれて、本当にありがとう。」
花子がずっと、伝えたかった事。絶望していた彼女に気まぐれな優しさをくれた小さな少年がいたから、花子はあの時諦めずにいられた。
恵の答えも聞くことなく花子はそのまま通話を切り、携帯の電源も落としまう。これ以上恵の声を聞いてしまえば泣いてしまいそうだった。

暗くなった画面を確認すると、花子を吐息を吐く。安堵と、悲しみと。入り混じった感情を落ち着かせるように。そしてくるり、と傍で見守っていた五条へと振り向いた。
太陽が西の地平線へと沈み始めた逢魔が時。魔の者と遭遇しやすいと謂われる時間帯をあえて選び、電話を介していた。差し込む西日が、背後で静かに腕を組んで佇む男の横顔を照らす。五条は無言で花子から差し出された携帯を受け取った。
「ありがとうございます、五条さん」
携帯を手渡し離れようとした花子は、しかし動きが止まる。反対の手で五条が花子の手を掴んだのだ。
目を瞬かせた花子を丸渕のサングラス越しに、蒼の双眸が射抜く。
「約束だよ。名前を教えてよ」
男の表情は固い。僅かに覗く視線は鋭く、いつもおちゃらけている五条には珍しくおどけた様子は欠片もなかった。花子の両手首を容易く一周する程の大きな掌は、花子の手を強く掴んだまま離す気配もない。「おい」
促すように低い声がかかる。それでも押し黙ったままの花子に、とうとう焦れたように声を荒げた。
「おい、早く教えろ!!」
花子はそこで、ようやく口を開いた。目に力を込めて、引き攣りそうになる喉を震わせる。
「五条さんと過ごした数か月、正直毎日がバタバタしていて色々な事がありましたけど
ーーー五条さんに会えて、よかったです」
きちんと、笑えているだろうか。花子は五条に捕まれた手を、握り返した。透けていた体は、いつもより透明さを増していて五条の肌色がどんどん色を占めていく。
日が沈み切るよりも早く、花子の体は足元から消えていっていた。約束を反故する事になってしまい、申し訳ないけれど。元から花子は名を告げるつもりはなかった。それだけは超えてはならない一戦だ。
焦った表情を浮かべる五条を見て、目が染みるのはきっと暮れかけた日差しのせいだろう。そうだと思ってくれたらいい。整った眉を吊り上げ、苛立ちと焦燥感を露わにさせる五条を見上げて花子は目を細める。
「沢山の思い出をありがとう」
誰もが死ぬときは一人だ。それに例外はなく、恐らく最強と呼べる五条は死の溢れた呪術界であっても他に影響されることなく生き続けるのだろう。
男は常に周りを置いていく人間だ。飄々とした男は、その事実すら気にかけることがないように見えるけれど。逃げるなと、問い詰められた時。五条は激しい激情の奥の瞳に、寂寥を抱いているように花子には見えた。
自身が離れることを寂しがるような色を載せて、五条は花子が離れることを嫌がっていた。だからこそ、花子は願ってしまう。たった数カ月。それでも、きっと五条の気まぐれだろう伸ばされた手を握り返した時から。花子にとってこの数カ月は、生きている間にも感じなかったほど鮮烈な日々だった。
忘れてしまうのがもったいないぐらいな、抱えきれない程の。姿形、その声や過ごした日々の記憶すらも。いつかは薄れてしまうが、想いはずっと残る。
それだけで、幸せだったと言えるように。
いつの間にか、五条と過ごした日々は花子に心からそう思わせた。烏滸がましいとは思うけれど、五条にとってもそうであればいいと花子は思う。
「ふざけんなよ・・・!」
だから、花子は祈る。
秀麗な顔立ちが歪ませて、五条が苛立ちも露わに叫ぶ。花子が長い間考えに考え抜いた結果、残された人へと送れるのはきっとこれだけだ。
ーーー例えそこに、全てを口に出せない後悔が残っても、それは心残りではない。
花子は笑った。
「どうか、幸せになってくださいね」
握られた手を、花子は自分の意志で離した。




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