DreamMaker2 Sample 苦節十年、とまではいかなくとも四苦八苦する事数週間。自分だけのものならば適当に手を抜けるが相手がいるとなれば別だ。しかもその相手本人が確実に自身より料理スキルが高いとなれば下手なものは渡せない。五条は花子が作った料理を前にいつも嬉しそうで、作った本人ですら今一つかなと思うような出来前でもいつも美味しい美味しいと花すら飛ばしそうな勢いで喜び、全て残さず平らげてくれるし進んでお代わりもしてくれる。例えそうであっても。今回ばかりはそうはいかなかった。呪術師と教師の二足草鞋といえども周囲の目があるだろう。下手な出来前のものを渡して、うっかり五条が周囲から残念な目で見られてしまうのは避けたかった。やっぱり独身男性の手料理なんてこんなものね。本当は上手いというのに、そう思われてしまえば彼自身の名誉が損なわれてしまう。
だから花子は苦労を重ねた。その間、五条が主張で数日家を空けた事も助かった。勘が鋭い五条に気付かれる事無く目的を達成出来たといえよう。しめしめと内心思いながらも、花子の表情は頗る固い。
前もってさりげなくリサーチは済んでいる。昼は出先で適当に食べているというし、嫌いなもの、というより苦手なものは酒で、意外にも下戸だというから料理酒のアルコール成分もきちんと飛ばしてある。問題はない。ない、はずである。
これはちょっとしたお礼だ。常日頃いい加減に見える、軽薄の代名詞ともいえる五条だが、なんだかんだと面倒見はいいようで。数日前、怒涛の展開の流れで五条と暮らしていた生活にも慣れてちょっとばかりおセンチになっていた自身を気にかけてくれた五条へのお礼。だから彼から別にいらないと言われても凹まないし、返されたら返されたで自分が食べればいい。甘い物に目がない五条に、ちょっとしたデザートも小さめの別箱にいれて、それが一番苦労したけれど思いのほか上手く出来たからちょっとだけ、見てほしいなんて気持ちもまぁ、少し、あるけれど。いらなければおやつに食べればいいし。
苦節数十年、どころか人生が呆気なく終わったところで今更慣れない事をしたという自覚はある。手作りを渡すなんて随分と久しい。だから、緊張してしまうのも無理はないのだろう。バクバクと皮を突き破るかと思う程脈打つ心臓は慣れないからである。いらないと返されても問題ない。むしろ無駄に舌が肥えているだろう五条に変なものを食べたと苦言を呈されるよりはマシだ。言われたことはないけれど。朝からぐるぐると数回言い聞かせて、花子は起きだばかりの当初はぼんやりしているものの、朝食を終えた頃にはしっかりと身支度を整ている五条の前に差し出す。
「・・・お弁当!です!」
ぱちくり、と蒼眼が瞬く。差し出された弁当を前に、うっすらと口を開けて五条は唖然としている。相変わらず男の癖に朝から乾燥しらずの艶めいた唇だなぁ、なんて現実逃避のような思考を走らせてから花子は付け足した。
「いつも、お世話になってますし・・・その、お礼です」
しまった。急激に顔に血が上ってくる心地がする。壁を見ても落ち着かない視線で五条をちらりと伺えば五条は時が止まったかのように呆然としたままだった。思いもよらなかった。そういわんばかりの様子である。
「い、いらなかったら別に私が自分で」
忙しない心臓に急かされて、思わず差し出した弁当を引っ込めようとする。けれど花子の腕はびくともしない。その前にがしりと腕を掴まれたからだ。随分な勢いで引っ込めようとしたにも拘わらず、腕はびくともせず中途半端に宙に浮いている。次いでいつの間にか手にもっていた弁当が抜き取られていた。この間は数秒もかからず、瞬きの間ともいえる凄まじいスピードだった。今度は花子がぱちくりと目を瞬かせる。視線を向ければ、奪い取るように弁当を手にした五条が表情を和らげていた。
「ありがとう」
眦が緩み、五条の蒼い瞳がとろりと蕩ける。白磁の肌を僅かに上気させて、差し込んだ朝日よりも柔らかな表情を浮かべて五条は微笑んだ。
「すごく、嬉しい」
まさに、壮絶な表情だった。男は恐ろしく端正な顔立ちをしている。共に暮らして数カ月、ようやく男の人外染みた容姿に慣れてきたといっても言葉にも尽くせない程の男の艶やかな表情に花子は咄嗟に顔を両手で覆う。目を覆い耳まで顔を赤くして目を覆う花子は、だから気付かなかった。
遅れて花子からの手作り弁当を実感した五条が、じわりじわりと肌の色を耳は愚か、首まで赤く染め上げていたことに。混乱する花子は、いつもならここぞとばかりに揶揄ってくるだろう五条が何も言ってこない事にも気付かない。
数回深呼吸をして花子が素面に戻るころには、五条の顔色もなんとか元に戻るのであった。


座学に体術、呪術の訓練。放課後には呪霊退治の実践もある高専生徒にとって、昼休みは一日の時間の中でも貴重な時間である。同じクラスでも生徒が三人しかいない彼らは、示し合わすこともなく必然的に三人で昼飯を食べるようになっていた。
鐘が鳴ると共にすぐさま弁当を取り出すのは明るい髪色をした短髪の少年、虎杖悠仁だ。数週間前に仙台から東京にある高専へと編入したばかりの生徒である。優等生宜しく、慌てることなく涼しい顔で教材をしまうのは黒髪に鋭い目つきをした少年、伏黒恵。虎杖が高専へと編入するきっかけとなる事件にかかわっていた彼は、普段は物静かでクールな少年であるが責任を感じて何かと虎杖を気にかけている。元来、面倒見のいい少年だった。最後に高専一年、紅一点である少女、釘崎野薔薇。茶色の髪を肩で切りそろえた彼女もまた、地方に住んでいたことから遅れて入学したばかりであった。釘崎は授業を終えた解放感から思い切り背を伸ばして上半身を解している。
高専一年生の束の間の休息の時間である。しかしその穏やかな時間は、がらりと扉を開けた長身の男により壊されてしまう。入り口の天井につきそうな頭を少し屈めて入ってきたのは、白髪に黒い目隠しをした全身黒尽くめの男だった。一見不審者にみえるこの男。しかし男はこの教室にいる一年の担任であり、四人しかいない特級呪術師の一人だった。
にへらと軽薄な笑みを浮かべて男は言う。
「一年諸君!次の近接訓練は校庭で集合ね〜!」
外見からして胡散臭い男ではあるが特級呪術師ということもあり腕は確かで、それどころか現呪術界最強の男である。その強さは、男の戦いを僅かに垣間見さえすれば一目瞭然だった。他者を寄せ付けない強さ、最強。そういったものに憧れるのは、この年頃の普通の男子高校生であればよくある事である。つい数週間前まで呪霊も見えず普通の高校に通っていた虎杖は正に顕著であり、最強と呼ばれる五条を尊敬していた。しかし、呪術師として育った他二名は別である。特級呪術師、五条悟。最強であるがゆえに生まれた瞬間から世界の均衡を壊した男は、内面も追随を許さない程のロクデナシである。それを二人は十二分に理解していたから、用件は先程終えただろうに帰ることもなく、話を聞いてほしいとばかりにニマニマと表情を緩みに緩ませた五条に触れる事なくスルーしようとした。だがこの場には元一般人の虎杖がいる。鼻歌でも歌いそうな男に疑問を抱き、当然の問いを投げかけた。
「先生、機嫌良いねー?」
「分かっちゃう〜〜〜〜?」
虎杖の言葉に、白々しく五条は声を弾ませて言う。げ、と顔を歪めた伏黒と釘崎の予感は、残念ながら的中している。五条はおもむろに、ご丁寧にも背後に隠し持っていた包みを取り出した。取り出されたのは紺と緑のチェックの布に包まれた、一見変哲もない弁当箱である。五条は大事そうに両手で掲げて見せる。
「じゃじゃーん!奥さんの手作り弁当だよ!貰ったんだ〜」
「テンションうざ・・・」
「明らかに見せびらかしにきたな・・・」
「へぇー先生、お嫁さんいたんだ」
三者三様の反応は、二名ほどうんざりとした表情を浮かべていたが五条は怯みもしない。もしこの場に弁当を渡した当人がいれば虎杖の問いに違うと全力で答えただろう。しかし生憎と彼女はこの場にはいない。五条宅にいる彼女は同時刻、くしゃみを一つして「何か噂されてるのかな・・・?」と零して、気付かぬうちに嫁扱いされ着実に外堀を埋められるのであった。
喜色を隠すことのない五条に、この調子だと教師全員どころか高専中に見せつけに行きそうだ。そう薄らと思った伏黒と釘埼の考えは見事に当たっていた。自慢される羽目になるだろう上級生を思えば可哀想だが、有頂天ともいえる男を相手するのはとてつもなく嫌で、放っておこうと二人は心に決める。特に小学生の頃から師として五条を仰いでる伏黒は男の自由主義ともいえる恋愛観を知っている。興味は微塵もないが偶に五条が女を連れているかと思えばいつも違う顔で、この大人屑だな、と幼いながら蔑んだ視線を向けたものだ。そんな誠実さの欠片もない男が、嫁と宣言して女の作った弁当を見せびらかしてくるなど随分な変わりようである。
もし事実、五条悟に妻がいれば自動的に呪術界には激震が走る。どうせこの男のことだ。本人の了承もなしに勝手に言っているだけなのだろう。
それにしても五条が相手に対して熱心であることは変わりない。一人の女に、だ。天変地異ともいえる男の目の前の様子に驚きを抱かないとなれば嘘である。しかしそれ以上に関われば面倒臭い事は明らかなので、伏黒もまた釘崎同様五条を空気のように無視して扱うことにした。
受け持つ生徒二名に総スカンを食らっても、微塵も気にもかけない五条は弁当を手に始終緩んだ表情である。「これって愛?やっぱり、愛だよね!いやぁ、僕って愛されてる〜」
「いいなぁー手作り弁当!先生、愛されてるね〜」
「ふふふ。そうでしょそうでしょ!でも、幾ら羨ましがられても上げないよー?これぜーんぶ!僕のだから!!」
大人げない28歳の担任はそう宣言して、二メートル近い体躯からすれば片手で収まる程小さな弁当を大事に抱える。事実、この男、見せびらかす道中で弁当の中身が少しでも崩れない様、無下限術式を活用しているほどであった。まさに才能の無駄遣い。
純粋たる虎杖は五条の言葉を疑うことなく鵜呑みにして、尋ねる。
「ねぇねぇ。先生のお嫁さんってどんな人なの?」
「ん?そーだなぁ・・・」
虎杖からの問いに、目隠しの下で五条は少し思い返す。どんな子か。そう尋ねられれば、彼女は一般的な、平凡な女性なのだろう。生身の人間ではなく幽霊ではあるが、変わったところといえばそれぐらいだ。よく笑って、拗ねて。時には怒って。呪霊には怖がる。容姿も傾国の美女という訳でもない、言ってしまえば可もなく不可もなく。―――ああ、でも。
五条は彼女を思い返す内に、浮かんだそれに目を細めた。
「目が凄く綺麗、かな」
始まりは、きっとそこからだ。いや、考えてみればもっと前からかもしれないが、自覚する程五条の根幹を揺さぶったのは、呪霊への恐怖を前に怯む事なく、誰かを想った彼女の瞳。あの時は一般人とも呼べる彼女への様子へのただの興味だと思っていただけだったが、蓋を開けてみれば何てことはない。ただの憧憬と、自覚すら生まれていない嫉妬心だった。
共に過ごしていくうちに、ずぶずぶと戻れないところまで沈み込んでしまった。最強といっても己の感情一つ気付くことも出来ず、気付いたときには既に遅い。ま、こんな感情自体初めてなんだから、仕方がないよねと五条は開き直る。
あの目を、自分だけのものにしたい。想われるのは、自分だけで良い。―――焦がれて、焦がれて。無様と言えるほどに、想わずにはいられない。
担任である五条悟は、常日頃から掴みどころなく本音を出す事もなく軽薄な男だ。その五条が浮かべた表情は、目元こそ黒い布に遮られて見えないものの柔らかく、あまりにも愛おしげで。
尋ねた虎杖は勿論、見知らぬふりを決め込んだ伏黒と釘崎も担任である五条の見た事のない本音、言うなれば酷く人間味の溢れる様子に、思わずぽかんとした表情を浮かべるのだった。


***


夜の帳の落ちた中、花子は抜き足差し足で歩いていた。
真夜中、花子は例のごとく恩人への手がかりを求めて外を出歩いている。いつもと異なるのは傍に五条がいないことである。なぜこうして花子一人で外を出歩いているのかと言えば、五条から渡された呪具のお陰である。
数週間前お礼として弁当を渡した花子だったが、思いのほか随分と五条に喜ばれた。家に帰宅した後も五条は何時にもましてゆるゆるとしていて、全身から喜びを体現していた。美味しかった!と満面の笑顔で味の感想や、感謝の言葉も貰ったがそれにしても一日中五条はそんな調子で。そんな五条を見ていると、ついつい、翌日も弁当を作っていたのである。
思い返さなくても、五条には随分と世話になっている。五条は料理が出来るし、以前口にした手作りドレッシングの上手さから十中八九自身より上手い為当初は憚れていたのだが、これぐらいで喜ばれるなら。
別に、いらなければ・・・まごつく花子に五条は翌日も大層喜んだ。まさに飛び上がらんばかりであったし、事実、男は朝から長い足をスキップさせて出勤して行った。
その翌日も、更に翌日も。五条は相変わらず、弁当を渡せば飛び上がらんばかりに喜ぶので花子はついつい弁当を作るようになっていたのである。そうして弁当を渡すようになり数週間後の事だ。五条が花子に日頃のお礼だと、一つの呪具をくれたのである。こちらとしては弁当作り自体、五条への礼だったので礼を礼を返される事態に花子は躊躇したものの、その性能を聞き有り難く頂くことにした。そしてこの日、さっそく性能を試してみることにしたのである。
呪霊を寄せ付ける花子は、周囲の事を考えると一人で外を出歩くことは出来ない。しかしそれでは何時まで経ってもあの人を見つけられない。五条から渡された呪具は、ある人伝から貰ったのだという。一定の時間呪霊を寄せ付けないものだった。
性能を試す為とはいえ、一人で出歩くのは随分と久しぶりだった。なにせいつも呪霊に襲われているので花子はついつい、寄せ付けないと言われても忍び足で歩く事を止められなかった。

周囲を警戒して歩く事数分。5分程すれば、花子も少しずつ、警戒が緩んできた。今のところいつもの外見からして気味の悪い呪霊に出くわすことはない。これならば、本当に大丈夫かもしれない。五条は一定時間、呪霊を寄せ付けないと言っていた。その時間がどれくらいか試すためのものだったが、この調子だったらあと数時間は余裕でいけそうだ。―――なんて、フラグを立てたのがいけなかったのかもしれない。
薄暗い夜道を歩き、左へと曲がったところで坂道へと差し掛かった。坂の一番上で何かが蹲っている。一瞬、電柱の影かと思った花子だったがすぐに思い直す。ぞわり、と背筋に悪寒が走った。
忍び足が解けかかった足ですぐさま後方へと後退した。じゃり、と思いのほか小石が大きく鳴り、一瞬気付かれたとどっと冷汗をかいたが坂の上に蹲るソレはこちらに気付いた様子はない。ほっと安堵した、その時である。背後からの突然の声に花子は飛び上がりかける。
「んー、効果は数分って所かな?」
いや、まさか、こんなタイミングで。嫌な予感を抱えながら振り返れば、目隠しをした大男が軽薄な様子で片手をあげる。
「や!お疲れサマーランチ!」
最悪のタイミングである。
「ご、ごご五条さん、ちょっと、静かにしてください・・・!気付かれちゃいます・・・!」
花子だけならば呪霊に認知されることはない。しかし、他に人間がいれば別である。認知されないと分かっていても、花子は咄嗟に小声で口を塞ぐように頼み込む。だがそれを微塵も意に介さないのが五条悟だ。恐らく上空から様子を見ていただろう五条は、のんびりとした様子で片手に持つおしるこ缶とは別に、ポケットからもう一本を差し出してくる。
「あ、花子さんも飲む?」
「いらないです!空気読んでくださいあと近寄らないでくださいお願いですから!!」
何いってるんだこの状況でよくあなた呑気にいられますね!!そう詰め寄りたかった花子だったが、別方向からの音で我に返る。
額から汗を流しながら花子は音がした方向、坂の上へと視線を向けた。坂の上の電柱に蹲っていた影が、月明かりを浴びて鮮明になる。
顔一つ、胴体あり。黒髪は長く乱れ、顔を覆っている。手足無数に生やしたそれは胴をひっくり返したような様子でこちらに向いていた。
乱れた髪の合間から、ぎょろりと血走った片目がこちらに向く。
「やっぱり気付かれたあああ!!」
呪霊は無数にある手足を動かして猛スピードで坂道を降りてくる。悲鳴一つ上げて、花子はすぐさま身を翻した。
そもそも何あれ!花子は目尻からじわりと汗が浮かぶのを感じた。貞子とエクソシストが一緒になったような呪霊である。世を沸かしたホラー映画の金字塔を混ぜ込んだ呪霊に、花子は猛烈な恐怖を感じて足こそ必死に動かしていなければ恐怖に体全体が震えていそうである。
貞子エクソシストmixは、無理のあるブリッジの体制であっても、素早い動きで背後を追いかけてきていた。缶を片手に、横で並走する男が飄々と宣う。
「大丈夫だって。僕がいるじゃん」
「ご、五条さんの傍が一番無理ー!!」
「あはは〜花子さんの泣きそうな顔、かぁわいー」
笑いながら人差し指で頬を突いてくる五条に、花子は本気で泣くかと思った。鬼畜か。
半泣きの花子をいじりながら、五条は呪具の性能に内心満足していた。
人伝に手に入れた呪具―――冥冥に依頼して手に入れた呪具は正に狙い通りの代物であった。幾らか料金はとられたが、花子さんからの手作り弁当と比べてしまえば安いものである。
初めこそ用意するつもりはなかったが、薄々勘づいてはいたものの彼女が相手になると五条は甘くなってしまうようだった。普段から何もなくてもそうであるのに、花子さんからの手作り弁当を渡されてしまえば、例えそれが日頃の感謝の気持ちだといわれても、彼女が喜ぶようなものを渡したくなる。そこで思いついたのが呪具の存在だった。
花子は想い人を探している。一人で出歩けるような呪具を貰えば、彼女は大層喜んでくれるだろう。とはいえ効果は一時的なものだ。実際は、一時的ではないものも用意できるが?と冥冥からも提案されていたが、今のところ必要ない為断ったのである。そんなものを手に入れてしまえば花子さんの目的が達成されてしまう。それは五条にとって望ましくなかった。
しかし、だからといって何時までも事態が前進しなければその内本当に協力的なのかと危ぶまれてしまう可能性もあった。事実、五条は阻止するつもりしかないのだが、それでは確実に花子さんに嫌われてしまうだろう。花子さんとのハッピーエンドの為に、それは避けたい。
ならほんの少し、事態を前進させればいい。
花子さんへの純粋な好意と、とても表には出せない仄暗い計略。その内、街中デートもしたいしね。なんて下心もあった。
いやはや、愛とは本当に欲深くて呪いより厄介だと身をもって実感しながら、五条は手に握っていた飲み終わったばかりの空き缶を凹ませる。
必死な花子さんの横を軽々と並走しながら、五条は背後を振り返ることなく空き缶を投げ捨てた。ポイ、と後方へと投げられた缶は、そのまま背後の呪霊に当たる直前でぐしゃりと潰れる。

―――ま、悪くない。

例え幽霊であっても、五条は彼女を手放す気はない。これって血筋かななんて、遠い親戚である生徒の歪んだ愛を思い起こす。
彼も純愛といっていたのだから、自分のこれも純愛である。
投げ捨てられた空き缶とともに、絹を引き裂くような悲鳴を上げて、背後の呪霊が圧縮されて闇夜に消えた。


純愛



常に傍らで余裕の表情である五条とは対照的に、花子は背後を振り返ることなく全力疾走する。なので背後の呪霊が既に消滅している事にすぐ気付かなかった。
五条は元来人の話を聞かない男である。しかし、前回受けた花子さんの非難が堪えたので、男にしては珍しくも殊更に話を聞いて早めに祓ったのである。とはいっても、故意的に彼女の傍に寄り付くことは止めてはいない。呪霊を引き寄せる花子さん。その傍に認知できる生身の人間がいれば呪霊はすぐさま襲い掛かって来る。必死な形相な花子さんの傍でへらへら笑う元凶五条は、辿り付いた場所におやと片眉を上げた。
「バカだなぁ、花子さん」
この頃になって、ようやく背後の呪霊がいないことに気付いたのだろう。膝にて手を当てて足を止めて息を整える花子は、しきりに背後を確認している。五条の言葉にへ、と仰ぎ見た花子に男の唇は弓なりに弧を描く。
―――あ、この顔。碌な事じゃない。
咄嗟に過った花子の予感は、男のにんまりとした厭らしい笑みが裏付けていた。
「高架橋下なんて、出るに決まってるじゃん」
必死に逃げていた花子、自身がどこに向かっていたかなんて気づいてもいない。そもそも、元一般人である彼女からすればどこに呪霊が溜まりやすいかだなんて検討もつかなかった。しかし、言われてみれば『出そう』なスポットなのかもしれない。
嫌な予感で背筋が固まった。言葉が終わるか否や、花子は目隠した五条が向けているだろう方向ーー数メートル先、高架橋の柱の暗がりへと視線を向ける。
夜遅い事もあったが、花子たちがたどり着いた高架橋下は暗く周囲が見えづらかった。柱の影となればより一層『何が』そこに『いる』かだなんて分からない。
いやいや、いるはずがない。ただの影だよね。額に冷や汗が滲む。必死に否定した花子だったが、しかし現実は無常だ。
闇夜の向こうから、電車の走行音が轟く。一瞬で頭上の架線を走り去っていく騒音と、同時に電車の明かりが橋の下にも漏れる。過ぎ去っていく電車の明かりが、柱の影を照らした。柱の陰には工事中だったのか赤いコーンが並んでいる。赤色が目に入り一瞬、嫌な鼓動が走ったが、それがただのコーンだと気づき花子は胸を撫でおろした。しかしその安堵はすぐに消し飛ぶ。その傍ら、拳よりも大きなボールがあった。一つ、二つ。計五つ程のそれは、宙に浮いている。浮いている五つのボールは、歯茎を剥き出しにして笑っていた。
顔程もない大きさのボールだというのに、口だけしかないから随分と立派な歯であった。
咄嗟に上げた花子の悲鳴は、頭上の電車が過ぎ去る騒音と重なり随分と鼓膜を揺らして、横にいた五条は咄嗟に片耳に指を突っ込む。花子さんがいるし、雑魚しかいないしと五条はいつもしている無下限術式を解除していたのである。オートで出来る術式であるが、好いた女の前となれば張る理由が思い至らない。とはいえ、呪霊は今もこうして鋭い歯を剥き出しにして向かってきている。だが五条からすれば避ける必要すら感じなかった。つい数分前祓ったように爪先程の僅かな呪力を向ければいいだけだ。咄嗟にしゃがみ込んだ花子の傍らで棒立ちの五条は、しかし今回は動く気配はなかった。何も手を出そうとしない五条としゃがんだ花子の前に呪霊が迫る。
しかし呪霊が迫るよりも早く、突如、黒い影が割って入った。
全身黒の衣服は制服のようだった。改造されているのか首後ろには赤いフードがついている。片手にビニール袋をぶら下げて、暗がりでも明るい髪色を短髪にした少年は、呪霊へと鋭い拳を打ち込んだ。
鋭い牙にも似た歯は少年の剛腕の前には脆く、砕けた音とともに吹き飛ばされる。少年はそのまま向かってきた呪霊全てに拳を打ち込む。見事に命中した呪霊は吹き飛んだ先で並んでいた赤いコーンを音を立ててなぎ倒した。ぺしゃり、と呪霊が弾ける。
ボーリングのように力技で祓った少年に、花子はぽかんとした。少年は一息ついて拳を払うと、慌てて背後を振り返る。
「あ、大丈夫っすか!?・・・て、五条先生!?」
「や、悠仁〜」
しかしこちらを見た少年は途端、あんぐりと口を開く。唖然とする少年とは対照的に五条はへらりと片手をあげる。どうやら五条は大分前から少年に気づいていたようで、驚いた様子もない。
五条が先生と呼ばれているから、彼も以前夜更けに会った高専の生徒なのかもしれない。そう思う花子の横で、五条は少年を前にわざとらしく悪どい表情を浮かべた。「おんや〜?」
「転入早々夜遊びとは、感心しないなぁー」
「ち、違うって!夜中に急に腹が減ってさ。食堂の冷蔵庫、勝手に漁る訳にもいかねーし、けど腹減って眠れもしねーし。だから仕方なく・・・!」
五条の指摘に弁解する少年の片腕には、白いビニール袋がぶら下げられている。嘘は言っていないのだろう。バツも悪そうに必死に弁解する少年の話を聞いて、悪どい表情を浮かべていた五条はあっけらかんと手を振った。
「ま、いいよ。悠仁は成長期だし、それも青春の一つとして今回は見逃してあげましょう!そもそも僕もよく抜け出してたしね〜」
いやぁ、夜中ってなんで腹減るんだろーね?あははー
そう言って同意を示す男は、やはり教師に向いているようには見えなかった。花子だけでなく少年もそう思ったようでお咎めもなく安堵に肩を降ろしたようだったが、複雑そうな表情である。
呪霊は蠅頭とはいかなくても4級。見える呪術師からすれば雑魚でしかないが、五体とも素早く拳一つ倒した少年は学生という事もあって随分と若かった。以前、パンダ達と出会った時は彼らが帰り道だったので戦う様を見ることはなかったが、
逃げるしか出来ない花子からすれば、化け物を瞬時に倒して見せた少年が意外に映った。若いのに、随分と頼もしい。しげしげと観察するように眺めてしまっていた花子だったがその時ふと、少年の明るい鳶色の目がこちらを向く。
「ところでさ、先生。その女の人、大丈夫・・・?俺の見間違いかもだけど、なんか、透けてない・・・・?」
「ん?」
「ん?」
「へ?」

「・・・悠仁、もしかして見えてる?」
唖然とした三人の中ですぐに復活した五条が花子を指して尋ねると、少年は勢いよく首を縦に振って肯定する。
呪霊でもない、ただの幽霊である特殊な自分が見えたのは、六眼を持つ五条と呪骸であるパンダのみだ。驚きで言葉も出ない花子を他所に、五条が花子を紹介する。
「こっほん。紹介するね。彼女、僕と一緒に暮らしてる花子さん」
少年、虎杖は五条の説明を受けて改めて花子を見た。脳裏に数日前のハイテンションな五条が浮かぶ。あれから弁当を貰えるようになったようで、片手に自慢する姿が度々高専で見かけれていて、虎杖なんかは仲が良くていいなぁなんて呆れた眼差しを崩さない同級生2名を他所に思っていたのだが、同時に気にもなったのだ。呪術界最強と呼べる男の最愛。天才であるが歩く天災とも言える男を、弁当一つで浮かび上がらせる女性。六眼という、幻想的で美しい瞳を持つ男が目に惹かれたという。脳裏に描かかれていたイメージと共に、驚いた虎杖は叫んでいた。
「七色瞳のお嫁さん!?」
「えっと・・・何かなそのカメレオンみたいな名前って、待って。嫁???だれが??」
やっべ、と傍らの五条が僅かに頬をひきつらせた。

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