真夜中に彷徨う

DreamMaker2 Sample ゆらりと揺らぐ蛍の光が、顔の真横を横切る。男の白皙の肌を照らし、碧眼に映り込む緑の光はこの世のものとは思えない程美しい光景だった。人外染みた美しい瞳に魅せられたからかもしれない。いつも外でしている胡散臭い目隠しもしていない男の素顔は、類に見ない程の美丈夫である。
明滅して、時には闇に溶け込んでは淡い緑の光を放つ蛍は男の整った顔立ちをより幻想的に見せる。だから、多分きっと、その所為だ。
男の眼差しが、温かく柔らかく感じたのも淡い蛍の光に照らされたから。
例えそうであっても。
この時の事はきっと忘れられない。
最後の瞬間まで、何度でも思い出すのだろう。
差し出された手を、花子は握り返した。


***


五条悟という変わった呪術師と暮らすようになって既に三か月が経とうとしていた。気が付いたら小学校の女子トイレに居座っていた花子からしたら、ここ三カ月は怒涛の日々である。
あっさりとお陀仏していたという事実は花子の人生にとってもっとも大きな分岐ともいえるだろう。それもそうだ。なんせ人生が終わっているのだから。ところがそこで暗転する事無く、死んだあとも続いた花子の女子トイレでの幽霊生活。生前は見えなかった呪霊に、呪霊を退治する呪術師。
自称、最強と名乗る剽軽極まりない目隠しをした不審者。かと思えば素顔は目が潰れてしまうかと思う程の美形、その上やらせようとすれば株だろうが料理だろうがなんでも出来てしまう存在自体が出鱈目な男との生活。
見た目も中身も癖がありすぎる男にひと月を経てようやく、外見の眩しさに目も慣れ初め、振り回してくる言動にも慣れてきたかと思えば偶然出会った、二足歩行で歩き喋るパンダに、何故か言葉がおにぎりの具のみなちょっと不思議でかわいい少年。
初めは朧げだった、花子のただ一つの未練の少年との記憶は日々思い出せてきているのに、未だ手がかりは欠片も見つけられていない。
相変わらず五条悟の動きは到底読めないままだが、少しずつ男との変わった共同生活も慣れてきた。するとふとした時、花子は腹の底にはじわじわとにじり寄るものがあった。
――帰りたい。
共同生活を送る五条の部屋は広い。今は花子がいるから控えているというが、以前は呪術師として出張が多くあまり自宅に帰ることがなかったらしい。
花子との生活をする内に、五条が思いついたように物を買ってくるようになったから大分物も増えたが、それでも物の少ない部屋だ。
男一人にしては広々とした、花子からすれば正に上流階級の部屋だ。生前辛うじて得た、こじんまりした部屋と比べると嘆かわしい貧困差に嘆きたくなる。
だからだろうか。いれば口もそうだが存在自体が騒がしい五条がいない静かな部屋を見ると、花子は思ってしまう。
――――かえりたい。
どこに、と一瞬浮かんだ場所は、生前花子が暮らしていたアパートの一室ではない。恩人ともいえる少年に会う前、全てに絶望する前、友人と家族がいた場所だ。けれど、多分もう二度と帰る事は出来ない。そもそも花子は死んでいる。今の彼女を視れる人物は、五条と、呪骸という無機生物パンダのみだ。
幽霊として目覚めたとき、女子トイレにいた花子には多くの小学生達が前を素通りしていた。朝も昼も夕暮れ時も、誰も花子に気が付くことはない。気付かずに、素通りしていく。明るく賑やかな声を何度も見送り、夜が更ければ一人でトイレで膝を抱えていた。だって、花子はトイレから離れることが出来なかったから。
灯り一つない暗がりのトイレで、小さくなっていたあの頃。五条によってトイレから解放されて、ようやく灯りの下に出れた今も何故か花子はあの時の感覚を思い出す。
もし仮に、帰りたいと思う元の世界に戻ったとしても花子はもう誰にも映る事はない。花子はそれを理解しているし、こちらの世界にきて数年経った頃には既に諦めていた。割り切って、必死に生きる為に生活して。そうして、あっさり死んでしまった。
元の世界の家族も友人も。唯一の知り合いといっても過言ではないあの娘と少年にも。花子はもう会えない。
ただその事実が、胸の奥に寂寥を感じさせる空洞を空けていた。

ふとした時、寂しさを覚える日々を強引にも遮ったのは五条だった。
週末、夜も更けた深夜帯。てっきりいつものように少年の手がかりを探しに外に出るかと思っていた花子だったが男が突然、家を出る直前に手を差し出してきたのだ。
「・・・何ですか?」
首を傾げる花子に、男はにんまりと笑う。笑みを浮かべた男は珍しく、外に出る時に覆っている目隠しではなくサングラスをかけている。丸ぶちのレンズ越しに、ちらりと蒼い目が覗く。喜色さを隠さない目で男は急かす。
「ハイ!いーから、いーから!ほら、手握って」
家の中では基本、男は目隠しを外している。そのお陰で三か月も経てば男の恐ろしく整った端正には慣れてきていた。それでも、はい分かりましたと差し出された筋ばった手を躊躇なく握り返す程花子の羞恥心は消えていない。人外染みた顔立ちだけでなく平均男性の身長を優に超える長身と、それに伴う大きな掌と、この男見た目だけならば本当に一級品なのだ。う、と怯んだ花子を、しかしやはり五条は気にせず手を掴んでくる。
「ちょっと五条さん・・・」
「やだなー悟でいいってば〜」
男は恋人でもないのに、互いの指と指の間を絡める。所謂恋人繋ぎだ。ここの所、五条はどうにも距離が近い。元からか?と言われれば確かにそうかだったかもしれない。背後から伸し掛かられるのはしょっちゅうだし、気が付いたら背中から抱き込まれているのだ。ちょっとこいつの距離感がどうなっているのか花子には分からなかった。五条は細身に見えて、呪霊という化け物と日頃対峙しているだけあって離れようとしてもビクともしない。毎日毎日岩戸を相手にしている気分でその内花子は諦めた。陽気な男を前に、花子は肩の力を抜く。この調子では名前を呼ばなければ手を離そうとしないだろう。以前から五条は花子の本名を知りたがっていたが、ここ最近の五条はやたらと呼び名にも拘る。
「・・・悟さん」
若干ため息交じりに名前を呼ぶと、五条は嬉しそうに破顔した。
「うん。本当は呼び捨がいいんだけど。ま、それはその内ね」
要望通り、名前を呼んだ。しかし繋がれた手は離される様子はない。怪訝そうな眼差しに、しかし五条は微塵も気にした様子もなく上機嫌に口を開いた。「じゃ、花子さん。」
「デート、しよっか」


冷たい夜の空気が肌を撫で、海面を波打たせた風はふわりとした磯の香りを運んでくる。さざめく海辺は深夜ということもあり浅瀬でも底が見えない程黒々としていた。足元の砂浜は色の薄さもあって、日中は日差しに照らされて輝くが夜になれば灰色となる。深夜の海辺は一面闇夜に覆われ、どっぷりと闇の落ちた海岸の中唯一頭上にまん丸とした黄色の月が浮かんでいた。
五条の言葉に驚きに目を瞬かせた花子は、気が付けば次の瞬間、見知らぬ海岸に佇んでいた。
瞬きの一瞬で変わった景色に花子は呆然とする。瞬きの間に玄関から浜辺にいたのだ。普通ならばあり得ない。もしかしたら、男が術式というものを使ったのかもしれない。目を白黒させる花子を他所に、五条はようやく繋いでいた手を離すと飄々と言う。「と〜ちゃく!」
「闇より出でて闇より黒く、その汚れを禊ぎ祓え」
軽快な調子を崩すことなく、五条は軽く文言を紡ぐ。五条が言の葉を紡ぎ終えると同時に頭上に薄い靄が産まれた。瞬間、薄い膜が四方に向かってドーム状に広がる。周囲が一層うす暗さを増すと五条は口を開く。
「僕特製の帳。要は結界のようなものだよ。人間だけじゃなくて呪霊も入れないようにしといたから、安心していーよ」
帳と聞いて腑に落ちない様子の花子に、五条は付け足して説明する。花子は呪霊を引き寄せやすい性質がある。呪霊からは花子の存在を視ることは出来ないが傍らにいる生身の五条は視えるので、当然彼等はこちらを襲ってくるのだ。しかしご丁寧にも、五条は寄せ付けないようにしてくれたのだという。いつも追いかけまわされる花子としてはこれで安心である。しかし、男がここまでするとは珍しい。
なんせこの男、呪霊から必死こいて逃げまどう花子を見てにやつくような男である。愉快そうな表情を隠す気もなく、性格が捻じれに捻じ曲がった控えめに言っても屑としか言えない男。一体どういうつもりだろう?怪訝に思う花子を前に、五条は矢鱈と大げさな仕草で手に下げていた袋からあるものを取り出す。
「ふふん!海に来たからにはこれでしょ!」
どや顔で男から取り出されたものに花子は目を瞬かせた。五条が花子の手を握っていた手とは反対の手に、初めから下げていた袋。取り出されたのはポップなロゴが描かれた包装で、中には定番の色とりどりの紙に包まれた棒が並んでいる。随分と懐かしい代物だった。
五条が取り出したのは夏の風物詩の代表格、花火だった。
今は春先でまだまだ肌寒く時季外れな花火を花子に押し付けると、五条は準備よく火消用の携帯用灰皿も取り出して海辺の海水を掬いに向かう。
「偶には息抜きぐらいしなきゃねぇ〜」

デート、なんて男が言い出すから身構えたが、なんのことはない。多分、唐突に思い立ったのだろう。ここ数カ月共に生活しただけで分かったが、五条は思ついたら即行動する男である。無駄に行動力が高く、それ故に花子は男に振り回されがちなのだ。本当に、息抜きのつもりなのだろう。
帳まで降ろした誰もいない海辺で大男と並んでしゃがみ込み、ぼんやりと花子は手元を見下ろす。
「それで線香花火・・・」
パチパチと控えめな火花を散らす線香花火を、大の大人二人が揃ってしゃがみ込んで眺めている。しけてんなぁ・・・と思ってしまうのも詮方ないだろう。
「あ、他の花火もあるよ!」
手元を鮮やかな火花に照らされながら、五条が言う。
成人を疾うに迎えて、良い大人が並んで花火。無償に空しい気持ちが生まれてしまうのは気のせいだろうか?気のせいじゃないな、うん。花火で喜ぶ童心なんてものは、随分と昔に花子の中から消えてしまっている。しかし今年28歳を迎える五条は別であるらしく、何が楽しいのかいそいそと他の花火を取り出そうとする。違う、そうじゃない。思わず零れた小さなため息は、線香花火が爆ぜる音しかしない海辺には思いのほか響いた。気付いた五条が振り返る。
「何、何?ロケット花火が良かった?僕も迷ったんだよねぇ」
それとも浜焼き??さすがに器具一式は僕も持ってないなぁ
違う。それも、そうじゃない。
もう一度零れそうになったため息はぐっと堪えて飲み込む。代わりのように、手元の線香花火の火がぽとりと落ちた。

一通り手元の花火が空になると、ようやく静かな海辺が戻って来る。きゃいきゃいと隣でお前は女子高生かと思う程騒いでいた五条を、よくそんなにはしゃげるなぁと呆れ半分見ていた花子だったが、ようやく落ち着いたところで唐突に投げかけられた言葉に虚を突かれた。
「少しは、気分も晴れた?」
両手をポケットに突っ込んだまま、五条は寄せては返す海辺を眺めている。驚きの表情を浮かべる花子を他所に、男はこちらを見ることなくいつもの調子で提案してきた。
「僕しか聞いてないし、思い切って青少年の主張みたいに海に向かって叫んでみたら?
 花子さんはいつもの、ホラ。ちょっと抜けてる感じの顔の方が似合ってるよ」
・・ここ数日の落ち込みを、どうやら気付かれてしまっていたらしい。デートと称して海辺まで連れてきて、わざわざ帳まで降ろして花火をし出した男に例のごとく五条の気まぐれかと思っていた花子は驚いた。しかし、一言余計である。なんだ抜けてる表情って。素が抜けてる顔で悪かったですね。見直しかけたところで花子の頬が引き攣る。分かってはいたが、見目はとんでもなくいいのに中身は残念極まる程極まった男。それが、五条悟という男なのだろう。
そこで、ふと思い直す。常識的に考えれば深夜に叫ぶなど近所迷惑でしかないが、五条により帳が降ろされている。
周囲にかかる迷惑がないならば、いい機会かもしれない。ここには横に立つ男しかいないのだから。花子は促し黙ったままの五条に甘えて、す、と遠慮なく息を吸い込んだ。
「呪霊きもいー!きもいきもいきしょいー!!!グロ過ぎだし、五条さんも助けるの遅い!!
というか私は見えないんだから五条さんが離れればいいじゃんなんでわざわざコッチに寄って来るの嫌がらせか!?!?
あと五条さんは甘い物買い過ぎ!あれだけ食べて体型変わらないとか何なの羨ましい女の敵ー!!」
花子は静かな海辺に向かって、思いっきり腹の底に溜まっていた鬱憤をぶちまける。
肌寒い静かな海辺に花子の声は響き渡った。一瞬の静寂の後、遅れて思い出したようにさざ波の音が戻って来る。
「ウンウン。ほとんど僕の悪口だし、凄く、めちゃくちゃ傷ついたけど。
 それで花子さんに元気が出たんならいいよ・・・」
思いのほかすっきりとした花子とは正反対に、五条は若干凹んだ声を出す。
サングラスまで外して、めそめそと泣く真似すらする大男が少しでも反省すればいい。呪霊というものを知らなかった花子からすれば呪霊はグロテスクで中々慣れる事が出来ない。毎回半泣きを浮かべて逃走する花子の傍らで並走する剽軽な男についつい鬱憤が溜まってしまうのも無理はないだろう。だってこいつ、やろうとすれば片手で祓えるのだとさすがの花子も気付いてきていた。
花子の揺らがない鋭い視線に、五条が呟く。「今度から早く助けます・・・」・・・まあ、反省しているようだし、それならば許してやらない事もない。と溜まっていた溜飲を下げた花子だったが彼女は気付かない。五条が寄ってこなければ花子が追われる事もないという事を。五条は早く助けるとは言ったが、離れるとは一言も口にしていない事を。彼女はすっかり失念していしまっていたので、花子が呪霊に追いかけられる時間は多少減ったものの、根本的解決には至らず変わらないのであった。

五条に反省の色があると感じて、花子はそれ以上責める事はしなかった。
手元の花火は全てなくなっているが、折角呪霊に怯えることなく外を満喫できるのだ。花子は中々帰る気も起きず、五条もまたまだ気分ではないのか帰ることなく、それから二人は静かな海辺でだらだらと会話を続けた。
花子が気になっているパンダの生徒の話を中心に、五条の受け持っていた現二年生の話。今年から入学した一年生の話。今年の一年生には犬を使役できる生徒がいるようで、パンダと彼の使役できる犬は会話出来るのだろうか、なんて下らない話からもう一人の一年は地方にいる為、遅れて高専に入学するそうで、早く馴染める様に何かいいレクレーションはないかなぁと珍しく先生らしいことを口にする彼には東京観光をしてあげるのはどうかと提案したり。近々出張があるらしい五条から、土産は何がいいかという彼には別にいいですよ、と返したがどうにも納得していない様子だったので男のおすすめを買ってきてくれたら嬉しいと伝えるとようやく引いてくれた。そうやって気が付けば長々と大したこともない話をしていた二人だったが、唐突に二人の会話が途切れる。
「あ、」
視界の隅に、ふわりと浮かぶものがあった。
目を瞬かせた花子だったが、黄緑色の光は見間違いではなかったらしい。ゆらゆらと揺れる水面の上を、柔らかな緑の光が彷徨うように飛んでいる。蛍だ。
初めは一匹だけだったが、二匹、三匹と少しずつ数が増えていく。暗闇に浮かび上がる小さな緑は、数こそ多い訳でもないのが墨汁を垂らしたような闇夜の中では鮮やかで、目を引いた。思わず見惚れた花子が呟く。
「綺麗・・・」
「結構遠くまで飛んだからねぇ」
花子は呪霊をおびき寄せやすい。帳は降ろすつもりだったが、念のため五条は遠くまで花子と飛んでいた。人の負の感情から生まれる呪霊は人口数が少ないければ少ないほど総数と呪霊の持つ厄介さも減るのだ。
綺麗な水面と空気に集まる蛍は都会ではまず見かけない。物珍しそうに眺める花子の横顔を、ぼんやりと五条は眺める。
少しは、顔色がよくなったかな。
ここ数日、彼女は落ち込んでいるようだった。死んで幽霊になった彼女は、今まで凹んだ様子も見せずにいた。死んだ事に悲観もせず、笑って怒って、必死に呪霊から逃げながらも、成仏するために心残りの男を探そうとして。てっきり、彼女が明るい性格だからだと五条は思っていた。だからここ数日の彼女の様子には内心、大いに慌てたのだ。
彼女の信念の籠ったまっすぐな視線が好きだ。涙の膜を覆って揺らぐ目も好きだった。憤る目も、呆れた眼差しも。多分、なんの感情を抱いていても、自分は彼女を愛しいと思うのだろう。つくづく、愛とは厄介なものである。
けれど目の前にいるのに遠くを見つめて、こちらを見ない彼女の瞳は五条に途方もない焦燥感を抱かせた。
声を掛ければ諦めたように笑顔を浮かべる。
――違う、と思った。
虚空を見つめて、こちらを見ない。好きだけれど、今は居ない男を想う目と似ている。どうしようもなく癪だし最後には曲げる気しかないが、男を想う彼女の目は前を向いている。心残りを無くす為だというが、彼女はその男に会いたいのだろう。
けれど、ここ最近の彼女はここにはない『何か』を重ねているようで。
彼女の様子は五条を悩ませて、何か出来ないかと柄にもなく数日悩ませた。
花子は呪霊を引き寄せてしまう体質がある。一目が付くところはまず無理だ。ようやく思いついて連れてきた海辺で、年甲斐もなくはしゃいだように見せて彼女の気分を晴らそうとした。
結果的に自分への不満を叫ばれてしまって、五条は情けなくも本気で泣くかと思う程堪えた。自業自得であるといっても花子さんに縋られたいのと泣き顔が見たかったからといっても遣りすぎたかもしれない。けれど花子さんが想い人を探すのを止めない限り、五条は彼女に呪霊を引き合わせるのを止めるつもりはないのだが。
つい、張り切り過ぎて地方まで飛んでしまったのは確かだが、蛍まで出てくるとは思わなかった。蛍に見惚れる彼女の様子からは沈んだ気配はない。五条は花子が何に悲しんでいるかは分からないし、理由を知りたくとも彼女から聞き出すことはまだ出来ない。
彼女に惚れている五条自身は別だが、彼女からすればようやく、五条は黒尽くめの不審者から共同生活を送る相手と認識されたばかりだろう。そんな相手に、内情を包み隠さず彼女が話してくれるとはまず思わない。だから五条は彼女に理由を尋ねることなくただ気分を晴らせるようにこの場所に連れてきたのだ。無理強いして、彼女の事情を聞き出そうとはしない。大の大人がうだうだと考えを巡らせて、本当は彼女の内心全てを吐露してほしいのに、嫌われるのが嫌で最強たる自分が実に情けないが、全てが五条にとって初めての感覚である。
悩んで悩みつく程考えて。その結果がこの微妙な距離である。
「・・・五条さん」
けれどその距離は、花子には有り難かった。
蛍に見惚れていたはずの花子が、ふと口を開く。
「・・・あそこから助け出してくれて、有難う」
いつもの思いつきではなかったのだろう。初めから、五条は気分転換の為に季節外れの花火まで買って、連れて来てくれていた。自惚れでなければ。何も聞いてこない五条の距離感は、全てを話せない花子からすれば有り難いものだった。呪霊という存在を知っても、数年前に異世界から来ただなんて奇天烈な話は話せたものではなかったからだ。あの子供たちにも終ぞ話せなかったのである。
元の世界の事を花子は誰にも話すことは出来ない。帰りたくとも、帰ることは出来ない。
元の世界も、こちらの世界でようやく得た小さなアパートの一室にも。灯りもない暗いトイレに成すすべもなく座り込んで、誰の瞳にも映る事のない。
けれど帰る場所を無くして、トイレに居座っていた花子を男は連れ出してくれた。男は不審者極まりない男で、今も出鱈目な男だとつくづく花子は思うけれど。
花子の言葉に、五条からの返事はない。間に横たわる沈黙に、気になって花子は五条を振り返った。
「・・・うん」
ようやく口を開いた五条は、目尻を緩めていた。
サングラスを外したままの五条の碧い双眸に、ふわりと浮かんだ蛍の淡い色が映り込む。
「安心してよ。花子さんが成仏して、うっかり地獄にいっても僕が引っ張りあげてあげる」
微笑んだ男は、笑って手を差し伸べる。
「僕、最強だから」
自信満々に、豪胆不適に男は言う。
一体どうしてそれだけ自信が生まれるのか、男の普段の様子から決して驕りではないとわかっているからこそ花子は指摘しなかった。

差し出された掌を苦笑一つ零して。花子は今度は躊躇うことなく握り返した。




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