DreamMaker2 Sample 五条悟には、万の富よりも世界に轟く名声よりも、何よりも代えられない大切な宝物のような存在がある。
幼馴染であり、最愛の女性である五条。厳重に施こし、何人たりとも破る事は出来ない堅牢な結界に守られる家で待つ五条の最愛の妻だ。
妻との出会いは悟が7歳のことだった。

からりと晴れた冬空に、日差しが暖かくなり始めた晴天の日。整えられた庭で鳥が囀り、これ以上にない日に恵まれた。
屋敷の上座には当主の周りでおべっかに忙しない大人達。解放された広々とした庭園には悟と同じ年頃の娘たち数名、華やかな笑みを浮かべている。だが悟の機嫌は麗らかな気候とは正反対に荒れていた。
集められた娘たちは一見にこにこと花のような顔を浮かべているが、悟は幼いながらもそれが薄っぺらいものだと見抜いていた。
五条家の影と呼ばれた存在がある。影とは五条家を守る盾であり鉾だ。平安時代、菅原道真から続く五条家は呪術界にとって決して血筋を絶やしてはならない存在である。護衛は勿論のこと時には身代わりにもなる影は現代でも根付いたままで、五条悟が生れるよりも昔、数百年前から闇に紛れて五条家に存在していた。
時代錯誤も甚だしい。悟は目の前に揃いも揃った婚約者候補であり、張り付いた笑みを浮かべる影の彼女らに不遜に鼻を鳴らした。
薄ら寒い笑みは、この屋敷ではよく見かけるものだ。幼い悟であっても物心から見慣れている存在である。だからこそ婚約者と称した彼女らの本質を悟は一目で見透かせた。
五条悟は五条家の唯一の嫡男。それも数百年ぶりに生まれた無下限術式と六眼の抱き合わせの麒麟児だ。その婚約者がそんじょそこらの娘でいいわけがない。
婚約者には強さと同時に常に傍らに立つ伴侶として、子を成す他に命を持って男を守るお役目が求められる。必然として婚約者にも相応の教育と覚悟が必要となる。しかして悟の慧眼は正しく、集められた娘達は全員物心つく前からそうなる為に育てられてきた娘達であった。
常に表に立つことなく対象を守る影は、だからこそ影と呼ばれる。伴侶もまた表に立つことはなく日陰で相手を支え続ける。数百年前からの変わらない石どころか岩よりも重い古い考えを持つ五条家にとって婚約者も影も変わらなかった。
悟に気に入られれば婚約者として、それ以外は影として育てられた、それがその日集められた娘たちである。
物心ついた頃から影として教育されてきた彼女たちは花のような顔を綻ばせていたが、しかし五条悟には全て同じようなもの見えた。
勿論それぞれ顔立ちは異なり、見目美しいものに愛らしい顔立ちのもの。平凡な顔立ちの娘もいれば、北欧系の血が混ざった娘もいる。まさに寄り取り見取り。気に入れば何人でも選んでいいとすら当主に告げられ、酒池肉林も築ける。着物で着飾った娘ご達は麗やかな日差しの下まるで蝶のように煌びやかで世の多くの男が羨むだろう光景に、しかし悟の機嫌は悪いままだ。
貼り付けた薄っぺらい、この家の人間の顔だ。嫡男として育てられ周りには煽てて媚びを売る者ばかりだった。幼い悟は変わらない日々に退屈していて、だから目の前の光景も気に食わないものでしかなかった。どいつもこいつも下らない。薄ら寒い顔ばかり浮かべやがって。
興味を示さない悟に、大人に呼ばれた娘たちが声を掛けようと近づいてくる。げ、と内心呟く。
捕まるよりも早く、短く便所と告げて悟は席を立つ。会場を後に、しかし悟は手洗い場に向かう事はなかった。
糞の役にも立たねぇしょーもない集まりなんて真っ平ごめんだ。悟は苛立ち混じった荒い足音で無駄に長い廊下を歩く。そうして、悟は見合いの場から抜け出したのだった。

庭園より幾分か離れた所で、ようやく歩みを緩めていく。ここまで来ればバレないだろう。使用人に見つかる前にどこかしら適当な部屋に入りこめばいい。中々人の来ない場所、使用人すらなかなか訪れない部屋。そこまで考えてすぐに思いついた場所があった。丁度場所もそこまで離れていない。完全にバックレる気しかない悟は、会場を後にした乱暴の足音とは正反対に、スタスタと目的の部屋へと向かう。
そこで出会ったのが彼女だった。
目論見通り、伽藍とした室内には誰もいなかった。他の部屋とは異なり、畳ではなく木目調で出来た広々とした部屋だ。
三十坪以上の広々とした空間は稽古場の一つだった。明かりもついていない薄暗いままの稽古場へと踏み入れようとして、悟の足が止まる。誰もいないはずの稽古場に、誰かが佇んでいた。
格子状の窓から差し込む陽光が、一人の少女を浮かび上がらせる。動きを止めていた少女が伏せていた瞼を上げた。次の瞬間、少女は日本刀に呪力を纏わりつかせ、動の動きへと入る。抜き身の刃先が陽光を浴びて、度々白ずむ。銀の軌跡を残して、身を翻す少女の後を結い上げた黒髪が追う。
平凡な顔立ちをした少女だった。けれど、前を見据えたままの瞳は真剣そのもので、思わず見知らぬ不審者に浮かんだ詰問の声も引っ込む。
柄にもなく、その時少年は少女に目を奪われた。ほんの一瞬の出来事だった。
しかし次の瞬間、少年は違う形で呆気にとられることになる。少女が真面目腐ったキリリとした表情のまま、いきなり中二病さながら技のような名を口にして大げさに術式を放ったのだ。
「日の呼吸、炎舞!!」
言葉の意味は全くわからないが、真面目な表情でただ術式を纏った刀で少女は恰好つけてみせる。まさにどや顔。多分、物心ついてから初めてかもしれない。悟はすう、と息を吸う。込み上げる可笑しさに、頬が引き攣るのが抑えられない。
日の呼吸ってなんだよ、つーかただの術式だろ、と未だに満足げな彼女を見てしまい、とうとう耐え切れなかった。悟は少女を指差すと、大口を開けて腹を抱えて笑う。
五条家にはまずいない、普通の子供らしい子供。任務帰り、公園で遠巻きで見かけた子供たちと同じような『ごっこ遊び』だ。この年頃からすれば普通といえば普通である。だが五条家で育った悟は既に子供顔負けに達観していたし、古い呪術師の家系であればそれはどこも似たようなものだろう。だからこそ普通に振る舞う彼女は驚く程異様に映る。
容赦ない笑い声に気付いた少女がはっとこちらを振り返る。途端、少女が身に纏う鮮やかな朱色の着物と同じように赤らんでいった。それでも悟はなかなか笑いが収まらず、落ち着き始めた頃には少女の顔は湯気が立ちこみそうな程真っ赤に染まっていた。羞恥に僅かに瞳を潤ませた彼女を見て、ようやく落ち着き始めた笑いがまた生まれてしまう。
情けない顔である。初めに見た、抜き身の刀のような真剣な表情はどこにもなかった。
羞恥に震える彼女を前に、数分前に庭園で抱えていた鬱屈した少年の感情は綺麗に消えていた。
煽てられ媚びを売られ、時には崇拝すらされた少年にとって日々は下らなくつまらなかいものだった。だから、毛色の変わった彼女を悟が遊び相手として気に入るのは必然ともいえた。
彼女の名前は。ーーー後に、五条悟の最愛の妻となる者だ。

は婚約者候補として集められた娘の一人だった。しかし彼女はかなり毛色が変わっていて、悟と同じようにこっそりと会場から抜け出していたのだという。なら丁度いいと悟は彼女を婚約者にする事にした。というよりも遊び相手といった方が正しい。
思いもよらず五条悟の婚約者に選ばれたは、初めは可哀想なほど身を縮まらせ恐縮しきっていた。しかし不遜な悟に暇さえあれば呼び出される内に、徐々に慣れていく。
悟からすれば遊び相手。からすれば悟の付き人のような気持ちだった。悟はに畏まることを共有しないし、生意気小僧でしかない悟の態度にがつい腹を立てても雑な対応をしてしまっても、少年が叱責することもない。ひと月経った頃には、二人の関係は大分気心触れた物になっていた。
「わぁ!美味しそう!」
出会った当初から、の表情はコロコロと変わる。その日、既にこなしていた任務帰りに気まぐれで購入した団子を渡せば彼女は途端に瞳を輝かせた。つやつやとした黄金色のたれに瞳をうっとりさせたかと思えば、素早くお茶を用意するなり悟の手を引いて縁側に腰を下ろす。
わざわざ皿に盛ってきたのだろう、みたらし団子を口に放り込み咀嚼しながら、ちらりと気になり視線を横へと向ける。視線に気づいた彼女が眦を緩ませた。
「美味しいですね、悟様!」
大袈裟なほど笑うから。つい悟は視線を逸らしてしまう。彼女の隣で団子を無言で頬張りながら、悟は何故か食べなれた甘味が、まろやかに舌の上に広がるのを感じた。普段余計なものを買う事もなく、五条家の嫡男である彼が下手なものを食べる事はない。
「・・・やっすいやつだな」
適当に買った団子は、既に舌が肥えている悟にとって到底満足させられる味ではない。喜ぶ彼女に呆れたように憎まれ口を叩いた悟だったが、しかし咥内にじわりと広がった甘味はなかなか、どうして悪くない。
鳩尾の辺りがふわりと温かくなる。弱小ではあったが呪霊を倒し、動いた後だったからかもしれない。そう考えて、それから悟は外に出る度に何かしら買って帰るようになった。
婚約者であるはあまり外に出ることはない。頬を綻ばせた彼女が何故か脳裏に浮かんで、必ず二人分を買うようになっていた。

季節外れの雪がこんこんと降り積もった日には、肌を刺す寒気にも拘わらずはいつものように縁側まで悟を連れていくと、小さな雪だるまを見せた。引かれた彼女の手は驚く程冷たかったから、彼女が作ったのだろう。わざわざ寒空の下で下らない労力である。くだらねぇと一笑に伏そうとして、鼻先を赤くした彼女の間抜け面に肩の力が抜け、馬鹿にする気持ちすら薄れていく。
すっかり力の抜けていた悟は、そのまま冷たい掌に引かれて石台に置かれている下駄に足をかけて雪の積もった庭園と連れていかれる。
何が面白いのか笑うを横目に、眺めるだけのつもりだったが、気が付けば悟は夢中でかまくらを造り上げていた。
かまくらを作ろうと四苦八苦しているに、見本を見せて如何に自分がノロマか実力の差を見せつてやろうとしただけだったが、鼻先と耳を赤くしたまま、一面の積もった雪に陽光が反射されていつもより肌を白くさせたが笑う姿が、無性にむず痒かった。こちらに親切心はなく、からかってやろうとしただけなのに。思い通りにいかず癪だった。だからか、ついそのまま手助けをしてしまったのだ。結局その日はふたり揃って霜焼けをおこしてしまって、悟の赤らんだ手には付き人として随分と落ち込んだ。
翌朝もしょげる彼女がなんだか気に食わなくて、まだ雪解けせず残っていた雪を躊躇なく拾い上げての顔へとぶつけた。
「へぶっ」
「ハッ!間抜け面」
額に雪の塊を残したまま、ポカンとした表情でこちらを見つめるを鼻で笑う。
口の端を引き結んだは、おもむろに庭園に降りてしゃがんだかと思えば、悟へと雪の塊を投げつけた。読みやすい軌道は無下限術式で防ぐまでもない。ひょいと体を逸らして避けた悟に、はむっとした表情を浮かべると第二派の雪を投げつける。応戦する悟も、気が付けば同じように庭園へと降り立っていた。
翌日、掌に続きは足裏が霜焼けになってしまった二人だったが今度はが落ち込むことはなかった。真っ赤になった手足を見て、二人そろって笑う。
腐りきった呪術界にとって、彼女は五条悟のかけがえのない普通で、平凡な日々の主張であり、良心であった。


違和感は少しずつ、あった。
任務帰り、土産として買ってきた饅頭を縁側で食べる。この頃には悟の土産もすっかり定着していた。けれどその日は風が強く、うっかり一つの饅頭が地面へと落ちてしまったのだ。
ぺしゃりと音を立てて落ちた饅頭はもう食べれないだろう。しかたねぇーから、俺のやるよ。落ちた饅頭を見つめた彼女が、眉を下げてがっかりとした表情を浮かべている気がして、悟はそう口にしようとした。けれど言葉になる事はなかった。はひょいとしゃがむと砂利まみれの饅頭を拾いそのまま口へと放り込んだのだ。唖然とした悟を気にもせず、彼女はいつのもように口にする。
「うん、美味しい!」
なんて、彼女がいつものように笑うから。「意地きたねぇな」と笑って、その時は、薄らと湧いた疑念もかき消えてしまった。

***

生れた瞬間に呪術界を震撼させた五条悟は、既に億を超える懸賞金を掛けられている。術式があるにも拘わらず、悟が物心ついたときには既に幾人もの刺客が向けられていた。だからいつものように彼女と縁側に座り、胡坐をかいた膝の上に肘をついて彼女の話を聞いていた悟は、死角からでもあっても凶器が迫っていたことに気付いていた。
いつもと同じことだ。下らない。どうせ術式で弾けると気付いていても悟は微塵も避けるつもりはなかった。そもそもここで避けようならば直線上にいる、鈍くさいやつが怪我を負う。そんな考えも、あったのだが。
しかしその当人が、その時思いもよらない動きに出た。
夢中で話していた彼女が悟の背後に迫る凶器に気付き目を見開いたかと思えば、手を伸ばしていたのだ。
「・・・は?」
呆然と、声が漏れる。
飛び道具の矢尻を掴んだ彼女の掌から血がぽたりと滴る。滴り落ちた血痕が、じわりと縁側の床板へと染みを作った。
刺客は随分遠くから放ったのだろう、姿は見えない。初撃が阻止されたのだから、もう既に逃げているだろう。いつもなら即座に浮かぶ思考もままならない。ただ目の前の光景に冷水が浴びせられた心地がした。目が逸らすことが出来ない。
寸前で矢を素手で掴んだが、はっと我に返る。
「あ、すみません。つい。悟様は術式があるから、不要でしたね」
「っおまえ!血が・・・!!」
顔を蒼白させて、の怪我を負った右手を掴んだ悟には笑う。
「これでも、私は影ですから。
 これぐらい、大丈夫ですよ。掠り傷にもならないです」
淡々とそう告げる彼女の笑みは変わらない。けれど、腐っても呪術界御三家の一つ、五条家の嫡男を狙った凶器だ。ただの弓矢であるはずがなかった。呪力が込められた矢に無下限術式もない彼女が防ぎきれるはずがない。
浮かべた表情はそのままに、彼女の顔からみるみる血の気が引いていく。とうとうぐらりと彼女の体が傾き、悟は咄嗟に手を伸ばし抱き留めた。
土色の顔をして、ぐったりとした彼女に悟は思考が止まった。脳裏に怪我を負っても、変わらなかった彼女の表情が浮かぶ。腹の底で沈殿していた不気味な予感がさざめいた。

変わらない笑顔に、怪我を負った彼女。砂利のついた饅頭、凍える程冷えて赤らんだ掌と足先。

浮かび上がる波紋は呼応して、不気味なほど今までの違和感を起き上がらせていった。



が目覚めたのは、それから数時間後の事だ。矢に込められていた呪術は無事解除出来た。
いつもは直々に懲らしめてやる襲撃者は屋敷の者に任せて、悟はの傍から離れることはなかった。
起きた途端、傍らで座っていた無表情の悟には随分と驚いた。彼は言動こそ乱暴なものの面倒見がいい。ごっそりと抜け落ちた表情も、きっとこちらを心配してのことだろう。正にクソガキと言わんばかりの生意気な表情しか浮かべない悟の、全ての感情が抜け落ちたような無表情は少年の端正な顔立ちもありちょっぴり怖いが。氷のような相貌の、青い瞳の奥に揺らぐのを見つけては苦笑を浮かべる。
「すみません、心配させてしまいましたね」
自力で上半身を起き上がらせようとしたを悟はとどめた。
「いい、無理すんな」
・・・珍しく、否定しない。根が優しいと知ってはいても、基本的に悟は表に出すことをしない。長年付き人として、幼馴染ともいえる存在の悟の一度も見たことのない様子に、は目を瞬かせた。これは本格的に心配させてしまったのかもしれない。目の前で怪我をしてしまったから、素直でないものの優しい悟様は気を落とされてしまったのだろう。背中に手を差し込み、起き上がる事を手伝う悟になされるまま、はなるべく悟の思うようにさせることにした。
婚約者とは名ばかりで、は己は付き人のような存在だと認識している。だから悟が普段、近しい距離に微塵も気にかけいる様子がなくても、だけはその境界線を気にしていた。
主に手助けされるなど言語道断だった。起き上がるのを手伝うだけでなく、脇に置いていた湯飲みを差し出してくる悟に普段のなら全力で遠慮していただろう。けれど今回ばかりは悟が気が済むようにしようと拒絶せずに出された湯飲みを受け取る。「すみません。ありがとうございます」
両手で受け取ったに、悟は言う。
「それ、薬湯だからすっげー苦いけど。ちゃんと全部呑めよ」
念を押すように見つめる青い目に促されるまま、は湯飲みの中身を口にする。
「本当、苦いですね。でも、これぐらいの苦さなら平気ですよ」
「・・・熱くないか?」
「これぐらいなら丁度いいです」
悟の青い目は逸らされることなく、始終こちらに向けられたままだ。は微笑む。「ありがとうございます、悟様」もう一度礼を告げて、は湯飲みの中身に息を吹きかける。
まるで監視するかのような悟の視線はそらされない。そんなに見なくても全て飲むというのに。ゆっくりと、時に中身を冷ましながらは薬湯を全て飲み干した。
ちらりと視線を向ければ、相変わらず悟の表情はない。むしろ、鋭い眼差しは睨んでいるようでもある。呑み終えてもそんな調子なので、はどうしようかなと逡巡したがその前に悟が口を開いた。
「それ、甘酒」
え、との声が言葉になることはなかった。目を見開いて動きの止まったから空の湯飲みを取り上げた悟の視線は鋭いままだ。
ーーああ、これは。ようやく、は悟の無表情の理由に気付いた。
心配はしてくれているのだろう。目の奥に揺らいでいるものがあったから。けれどそれ以上に。は即座に思う。ーーこれは、やってしまった。
ぴりついた周囲の空気は、冷えた冬の冷気などではない。
この分では湯飲みの中身も熱くなく、冷えたものだったのだろう。視線を彷徨わせるを、鋭い視線でじっと見つめていた悟が動く。
眼前に、美しい顔が迫る。が咄嗟に身を引こうとするよりも前に、少年が手が伸びた。
、今は眠れよ」
とん、と人差し指で額を押される。途端眠気が襲い、視界がぼやけていく。揺蕩んでいく思考の中、咄嗟に伸ばした手を悟が掴む。あやすような優しい力で掴み返すと、悟は続ける。
「安心しろ。後はどうにかする」
全部、この糞みてェな家、俺がぶっ壊してやる
裏腹に、続いた少年の言葉はどうしようもなく物騒なものであったけれど。




影には痛覚も味覚も必要ない。感情すら必要ないものである。古い古い考えの五条家の影に対する考えはこうだ。
多くの理由は、呪詛師や敵対する呪術師に捕まり拷問された場合を想定したものだ。体のいい駒。人形として扱いやすいよう影の子供たちは物心ついたころからそうした教育を受けていた。
例にもれず、もそうである。まだ完全ではないものの、ほとんど薄れてしまっていた。唯一違ったのは、が他の子らと違って感情が死んでいくことがなかった事だ。
彼女には物心つく前の、変わった記憶が存在していた。生前の、として生まれる前の記憶である。
彼女の最後の記憶は学生で、平均寿命からは短い人生だったのだろうがそれでもとしての自我は十分だった。お陰で影としての五条家の洗脳から逃れることができたのである。
悟と出会った時は、ようやく息を抜く事の出来る絶好の機会であった。五条家の庭園に集められたが 、いつものように監視されることもない。教育係は五条悟に気に入られるように笑顔を浮かべて、普通の子供のように動けというだけだった。監視の抜けた、絶好のチャンスである。回りの子供たちは既に洗脳されていたから言われたとおりにしていたが、はすぐ様庭園から抜け出した。
監視がなければ、こっそりと抜け出すのも容易い。もちろん、このまま逃げることなんて出来やしないのでほんのわずかな時間だろう。
それでも数年ぶりに気を張らずにすむ時間だった。だから解放感からついついはしゃいでしまい、むずむずと沸き上がった好奇心に負けてしまったのだ。
生前に呪力や呪術なんてものはなかったが、今のは弱くても呪術を使うことが出来る。ならば、と前から気になっていた、亡くなる直前に流行っていた漫画のように技を真似して放ってみたのである。彼女も長年の洗脳のような教育に、大分神経がやられていた。
見つかっても子供なら許されるよね、というの甘い考えは、しかしそうは問屋が許さず、齢7つにてひねくれている五条家の嫡男、五条悟により大爆笑されるというにとって黒歴史ともいえる悲劇に陥ってしまうのである。
捻くれた坊ちゃまである五条悟は、さすが五条家というだけあって随分といい性格をしていた。
傍目から見ても華やかで可愛らしい、加護欲の湧きたてられる他の候補者ではなく、まさかのを婚約者と選んだのである。
悟に呼ばれるままに共に月日を過ごし、初めこそこのクソガキがなんてうっかり思ったが、よくよく見れば少年の本心がそこではない事に気づく。そうなればあとは驚く程ちょろかった。
やる事なす事、ツンデレとしか思えない言動。『もー、しょうがないなぁ』と内心微笑み、子供らしさを出せない悟の変わりに強引に子供らしい遊びに巻き込んでいく。
そうする事数年、未だ悟は素直になれずに捻くれたままだが、今ではまあまあ好かれているのではないかとは思えるようになっていた。
だから、悟の前で怪我を負い心配を少なからずかけてしまっただけでなく痛覚やら味覚が薄いことが感づかれてしまい、何故黙っていたのかと多少なりとも怒られるかなぁ、なんて次に目が覚めた時、呑気に思ったのだが。意識を失う前の物騒な悟の言葉は、意識が朦朧としていた事もありの頭からすっかり抜けてしまっていた。

が目を覚ました後も、悟は傍にいた。けれど意識を失う前の機嫌の悪さは薄れていて、晴れ晴れとした表情だ。悟のその様子に一先ず彼に暴れられることはないだろうと内心安堵したは、次の瞬間さらりと告げられた悟の言葉に唖然とする事になる。
「ああ、そうだ。今日からうちの影、解散したから」
「え?」
「安心しろよ。全員、呪術界でもまっとうな家に出したから」
だから、も今日からここが家な。
続けた悟の言葉の意味も、なかなか頭に入ってこない。これ、噂に聞く悟様の無量空処かな?と一瞬は思った。
確か、影は数百年前から続く、全ては五条家の繁栄のためのなくてはならい存在とかなんとか教育係がよく口にしていたはずである。それが眠っていた数時間。積み重ねられた影の歴史も諸戸ともせずほんの僅かな、一瞬とも呼べる間でなくなった?
ぽかんとした表情を浮かべると正反対に、数百年ぶりに生まれた五条家待望の神童はにこやかである。すっきりとした悟の様子にはようやく気づく。
ーー多少なんかではない。激おこであったらしい。
とりあえず、だ。
「・・・えっと、ありがとうございます。悟様」
前世の記憶があるは時代錯誤も甚だしい影から、将来絶対抜け出して見せると考えていた。とはいっても成人するまで難しいだろうと考えていたのだが、まさか年が一桁のうちに解放されるとは。随分と計画は早まったが、喜ばしいことは確かだった。しかし、だ。は続ける。
「ですが私、悟様もご存知の通り術式もそんなに強くありませんし、悟様のお役に立てるかどうか・・・」
「・・・なら、嫁になれよ」
「はい??」
ぼそりと小さく何かを呟いた悟に、聞こえなかったは首を傾げて聞き返す。悟は一瞬しまった、と表情を浮かべたあと、次の瞬間吠える。
「なんでもねぇーよ!!」
「は、はい・・・?」
顔を真っ赤にして、随分と必死な形相である。押されながら曖昧に頷いたに、とりなすように一つ咳をした。
「家の事は気にすんな。
 なんせ、俺はご待望の無下限術式と六眼の抱き合わせだし?
 誰にも文句はいわせねーよ」
ふん、と鼻をならして悟は着物の袖に腕を通して組む。実に不遜きわまりない態度だが肌の白い悟の頬はうっすらと上気したままだ。隠すように顔を背る。
「お前は俺の隣で、間抜けに笑ってろ」
続けた悟の言葉には目を瞬せた。
顔を背けながらも、悟はちらりと横目での様子を伺う。やがて浮かんだ、いつもの気が抜けるようなの笑みに内心悟はほっとした。

影は表に立つことはなく、その全容は当主のみしか知り得ない。だからといっての現状を微塵も気付けずにいたことを到底許す事は出来なかった。
五条家全員吊るす勢いで、実際何名か吊るして、当主の部屋を中心に屋敷も半壊させた。影も解散させて、これでが非道な目に合うことはないだろう。ここまでした理由を、悟は既に気づいていた。

呪術師にまともな人間などいない。まともにみえるだって普通ではない。
生産性のない下らない事をして、よく笑ってよく表情を変える。変哲のない、平凡な。
悟の土産にもいつも美味しいと笑って。霜焼けを起こしてまで雪だるまなんか作ってみせて。ーー痛感も味覚もほとんどない癖に。彼女はいつだって普通であろうとした。
この日まで悟はを呑気なやつ、とただ単に思っていた。けれど、それは違う。彼女の事実を知ったこの日、少年は人知れず決意する。
ーーが普通を取りこぼしてしまうなら、俺が拾ってやる。
はノロマで鈍くさくて弱いし、放っておいたら今日の傷以上よりも酷い怪我をおって死んでしまうだろう。痛感が鈍い彼女は、ギリギリまで自分の限界に気づく事が出来ない。なら、強い自分がどうにかしてやればいい。

今回、影を解散させたのは物理で物を言わせたこともあるが、それよりも自身の一言が効いたと、悟は認識している。
影を解散させなければ、目玉を抉ってやる。数百年ぶりの六眼と無下限術式の嫡男にそう脅されてしまえば、五条家は従うざるを得なかった。だが、それだけでは駄目だろう。悟はそれを自覚していた。これでは、ガキの我儘だ。
脅しは確かに効果的であったが、あくまで一時的なものだ。なにしろ上の連中は総じて血筋が大好きである。螺子曲がった驕りと選民思想で自分達の血筋を唯一としか思っていない。幼いうちに婚約者を作ろうだなんて算段も、影という存在も全て時代錯誤も甚だしい考えの所為だ。数百年前から続く、疾うに苔がむして腐りきっている考えは子供の脅し一つで覆せない。
悟は微塵も、殊、の事については警戒を緩めるつもりはないが、あいつらは虎視眈々と狡猾にも隙をついてくるだろう。あいつらにとって大事な六眼を潰してでも守ろうとするは、連中にとって邪魔な存在でしかない。
を自分から引き離す、程度ならばすぐさま取り戻す気しかないからまだいい。だが上の連中なら。役に立たないなら事故に見せかけて殺す。それぐらい朝飯前で、常套手段だろう。ただの脅しだけでは守り切れない。一瞬の暴力も無意味だ。
なら、踏ん反り返って自分達は以外は虫けらのように見下し続けてる奴らを、蹴落として足蹴にしてやればいい。
幸運にも、自分は数百年ぶりに生まれた六眼と術式を持ち合わせ、才能には恵まれている。それを最大限に利用しない手はなかった。

ただ一つ、欲しいもの。彼女を守る為に。幼い少年は、心に決める。

誰にも、何にも揺らぐことなく、全てを蹴散らせて足蹴にしてしまえるほど強くなる。
ーーいつだって、彼女が笑っていられるように。
笑う彼女を横目に、少年はその日、少女への恋情を自覚すると同時に決意したのだった。


彼が最強に至った理由




「そう思ってたんだけどねぇ・・・」
昔を思い出して、190cmを超える長身に黒尽くめの衣服を着た男はぼやく。
2メートル近い彼の長身からすれば誰もが小さく見えてしまうが、それにしても己の身長よりも随分と小さく華奢な体に抱えられた男の様はさぞ滑稽に映るだろう。しかも彼女の腹部はふっくらと膨らんでいて、妊婦さんである。既に最強と称されるようになった男といえども今回ばかりは想定外だった。
「いやぁ、まさか最強の僕が、お嫁さんに助け出されちゃうなんて・・・」
「ふふ。やだ、私は悟さんの妻ですよ?これぐらい出来ないと」
190pを越える大男を姫抱きに抱えて、は大したこともないように笑う。いや、そんな事は決してないのだが。絵面からして異様でしかない。さしもの面の皮が厚すぎると言われる悟も僅かばかりの気恥ずしさが生れる。けど、お嫁さんが怪我もなくこうして笑っているからいっか。白皙の肌を僅かに上気させて、悟はすぐにそう思い直す。

母となる彼女は強かった。止める周りを振り切り、猪突猛進に渋谷へと急行。現場へ乱入した彼女は既に対峙していた冥姉弟と共闘すると隙をついて日本刀で夫の封印されていた獄門彊を一刀にし、彼女は旦那を取り戻したのである。もう一度言おう。母は強いのである。
呪力で強化した腕力で悟を抱えたまま、は一瞬不安げに眉尻を下げると尋ねる。
「それともお嫌ですか?」
「まさか!惚れ直したよ!さすが僕のお嫁さん」
そんな事は天地がひっくり返ってもありはしない。一体何十年彼女に懸想していると思うのだ。幼少の頃一目見た瞬間から。何度だって男は彼女に恋をしてきた。
才能にただ驕るだけでなく、努力をかかさず最強に至ったの理由。全ては彼女が普通に、笑っていられるように。単純明快なほどに男の純愛はただ彼女に注がれる。
男は最愛の彼女が傍らにあれば、誰にも負けず最強であり続ける事が出来る。今回だけは例外で、彼女に助けられてしまったが。
これから挽回しなければ。呪力がなければ弱く、か細いの腕から降り立つと悟はぐるりと肩をまわす。
「次は僕の番だね!いいとこ見せちゃうぞー!」
「頑張ってくださいね」
「まっかせといて!」
突如乱入してきた日本刀を振り回す妊婦に、封印を解かれてしまった五条悟。呆然としたままの呪詛師だったが、嫁に向かって呑気に手を降る悟に我にかえった。
渋谷地下。駅構内に突然割って入ってきた五条悟の妻、は今度は様子見のようで後方に下がっている。
五条悟の子を宿していることから数にいれていなかった女が、まさか前線までやってくるとはさすがに想定していなかった。未知数である女がここで下がるのは有り難い。五条悟一人に対して、こちらは複数。しかし対する呪祖師は、後退する隙を探していた。体を軽く解している男は、一見隙しかないようにみえる。ごくりと無意識の内に唾を嚥下した。額に冷汗が滲み出る。飄々として見えるのに、男の隙は何処にも見当たらなかった。これが、五条悟。
正面切って対峙した所で、到底勝てる相手ではない。腹正しさも生まれない程、男の力を前では誰もが風の前の塵も同然だった。
「奥さんとお腹の中の僕の子が見てるし。格好悪い所は見せられないね」
口を開けば軽口しか叩かない男は、そう言って最後に指の骨をぽきりと鳴らす。「じゃあ、」
「少し、乱暴しようか」
にんまりと口許に弧を描いたまま、男の青の双眸が爛々と光った。



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