DreamMaker2 Sample 黒い髪が靡き、こちらを振り返る。きっと今朝と変わらず清涼な香りと微かに甘い匂いを漂わせているのだろう。柔らかな肢体は華奢で、少しでも力を籠めれば折れてしまいそうだ。瞳が弧を描き、桜色の唇が僅かに上がる。目が合った彼女は、高専内を案内をしている職員にばれないよう、こちらに小さく手を振った。
ぐっと胸に込み上げた衝動を抑える。顔色だけはどうにか取り繕えるようになっている、と自負していた。五条は慎重に息を吐き出し、平静を装る。名前を呼んでしまえば彼女を案内している夜蛾にばれてしまい、彼女に迷惑がかかってしまうかもしれない。だから声はださず、大手を振るだけに留めた。ぶんぶんと手を振る五条に、が虚に突かれた表情を浮かべる。
まるで大きな犬のようだ。困ったように小さく笑ったは、話しかけられたのだろう。次の瞬間には慌てて前を進む夜蛾に向き直る。
華奢な背が見えなくなったところで、五条は抑えていた衝動に耐え切れず上半身を折り曲げた。心臓が煩いほど脈打ち、耳の裏からばくばくとした心音が聞こえそうだった。高専に、がいる。それだけでも五条はどうしようもなく浮足たった。加えて先程の彼女の行動。正直に言うと普段から彼女がどんな行動をしても、割と常に可愛いとしか考えられていないが、昔から生真面目な気質な彼女がこちらに気付いて手を振る仕草はぐっと来たし、周りにばれないように浮かべた控えめな笑みは超ド級で可愛かった。自分だけの為にとられた彼女の行動。そう思うだけで五条は途方もなく胸の奥が擽られる。
幼少の頃の姿を知られているからこそ、今のには格好良く見せたい。だから彼女からこちらが見えなくなったところで、五条は遠慮なく、呻き声を上げる。朝一番の授業が始まる前、隙間の時間の出来事である。
いきなり手を大きく振ったかと思えば、机に上半身と突っ伏して唸る男の様子に同じ教室にいた同級生二人はどん引いた。
五条家の嫡男であり最強の座を約束された五条は、いつだって高慢極まりない態度である。普段から目上を敬う事は更々なく。授業は愚かどんな任務であろうと男の生意気ともいえる態度は変わらない。いつもならば朝のこの時間、五条はまず寝起きの不機嫌さを隠さず眉を寄せた鋭い目つきで、美しい相貌も相まってガラの悪さを悪化させている。しかし男は今朝から、随分と様子が違っていた。
「・・・あいつ、どーしたの?」
表情は締まりのなく、いつもの生意気な様子すらない。俺、今幸せです。言わずとも明るく花すら飛ばして見える。
こっそりと同級生の一人である家入が、もう一人の生徒へと声をかける。
「情緒不安定で気持ち悪いんだけど。生理か?」
異性である同級生のあけすけなブラックジョークに微塵も動じることなく、青年、夏油は答えた。
「何時ものごとく、例のあの人がらみだよ。彼女、今日からここで働くらしい」
五条から彼女の話を耳にタコができる程聞かされていた夏油は、既に疲れた表情である。それがただ、彼女が近くにいることが嬉しいといった話だけであれば、再会して以来目に見えて様子を変えた、恐らく親友の初恋だ。たとえ何回、何十を超えるしつこく話されても、辛うじて頬を引き攣らせるだけで微笑ましく受け取る事が出来ただろう。ところがこの男、いつもは軽薄で飄々とした態度を崩さない癖に彼女に対しては恐ろしい程執着深く、兎に角独占欲が強かった。来る者拒まず、去る者追わない男であったはずだが随分な豹変である。
を気にかけてくれ、ならばよかった。非術師であり不慣れな彼女を心配しての言動に取れるからだ。しかし、五条の話は続く。けど、あんまり話すなよ。つーか触れるな近づくな見るな。それでどうやって気にかけろと。思わず突っ込みたくなった夏油である。要するに、話の大半が牽制であった。
家入は同性だから牽制をしなかったのだろうが、異性である夏油に対して五条の敵意はあからさまであった。初めは神妙な様子で頷いてみせたが、顔を合わせるなりしつこく牽制してくるのだから、いくら親友の初恋といっても受け流すのが段々と疲れてくる。こいつ、燻らせすぎだろ。それでもギリギリで切れずにいられたのは、目に見て五条にとって彼女が大切な存在だと分かっていたからだ。彼女と再会した当時の五条の様子は、不遜際回りない男の生意気さもなりを潜めて、一人称すら変えて話し出したのだから夏油も家入もどきもを抜かれたのは記憶に新しかった。

非術師であり、呪いも見えない一般人女性、。天内理子のメイドであったはずの彼女は、悟にとって大事な存在であるらしく、数週間前に彼女と再会して以来ほぼほぼ五条のごり押しで高専内に住まうようになった。勿論、彼女の部屋は五条の隣である。
そうとは知らず翌朝、顔を洗おうと寝ぼけ眼で廊下を歩いていた夏油は、鉢合わせした彼女に挨拶をされぼんやりと返した所で衝撃で目を覚まされることになる。ここは男子寮のはずだ。思わず自分がいる場所が女子寮なのかと数回疑った程である。彼女の後ろから遅れて現れた五条により、なんとか事情は呑み込めたが。
朝から彼女の背後から伸し掛かった五条は、随分とゆるゆるとした態度であった。五条は随分といい加減な男であるが、仮にも呪術界ではいい所の坊ちゃんということもあり、慣れているのだろう。朝の覚醒は早かった。機嫌は二割増しで悪いが、寝ぼけている姿は同じ寮で生活していてもまず見かけことはない。凭れかかる長身の五条に、彼女は仕方がないなぁ、といった表情でなすが儘にされている。いやいや、絶対こいつ起きてるだろ。夏油は確信していた。仮にも190cmを超える大男が伸し掛かれば、まず一般女性であるは苦笑を浮かべるどころか押しつぶされてしまう。加えて身長差だけでなく学生ではあるが五条も夏油も、呪術師として既に成人男性よりも筋力がある。
例外として家入は反転術式を使う為前線にはあまり出ず筋力も平均的だが、彼女からして「あんたら本当、ゴリラだね」と呆れた表情で言わしめる程だ。喧嘩する度に校舎を破壊しつくすのだから、家入の物言いも間違いではない。勿論、呪力抜きでだ。入学当初に校舎を大破させた喧嘩以来、二人の間で呪力を使用しての喧嘩は初日から青空教室を開催することになった担任の夜蛾によりキツく禁止されていた。
「ほら、起きて。悟くん」彼女に促されても、肩に額を押し付けたままである。騙されてる。絶対騙されてる。だってそいつ絶対起きてるから。
朝から甘えた様子を見せられた夏油は、昨日も感じたが再び親友に内心引いていた。まるで常に周囲に威嚇的で牙を剥き出しにしていた虎が、無害で可愛らしい猫へ入れ替わったようだ。同じネコ科でも随分と違う。正直に言おう。気持ち悪かった。
「ごめんね、夏油君。悟くん、寝ぼけてるみたいで・・・。」小さく頭を下げて、猫化した大男を引きずるように洗面所へと連れていく彼女を見送り、夏油は迷わず踵を返す。当初は顔を洗おうとしていたが、そうなると二人と同じ場所に向かうことになる。実に遠慮したかった。
部屋に戻って少し寝直そう。夏油がそう思うのも無理はない。初日から、五条の様子はそんな調子であったのだ。

家入も、保健室での五条の様子を思い出したのだろう、納得した表情を浮かべる。
彼女はもともと勘が良い。下手なことを言って藪蛇を突いてしまう前に、距離を置くように口を閉ざす。これ以上話を続ければ面倒くなる予感しかなかった。二人は話は終わりとばかりに各々席に就こうとしたのだが、背後から声がかかる。「なぁ、傑、硝子」しまった。
が可愛い・・・あんなんで大丈夫・・?拐われない・・・?」
両手で顔を覆った男の指の隙間から、僅かに上気した頬が見える。ぼんやりと瞳を蕩かせた夢見心地の男の様子は、まさに恋する乙女も顔負けである。しかし唯我独尊男の恋を揶揄って楽しもうなんて考えは、初日に二人の中から消え去っている。五条の言葉は正にご自分へのブーメランにも拘わらず、五条は言う。浚うように高専に連れていた男は誰だっけ?二人は同時に思ったが賢明なので口にすることはない。二人の心情はここで終わってくれないかな、というものでしかなかったが男は唯我独尊なので、相手の様子を微塵も気にかけることなく話を続けてしまう。
さぁ、最近気晴らしだっていって部屋で花育て初めてさ。何色の花だと思う?」
「硝子、明日の任務についてなんだが「まあ聞けよ」」
「それがさ、ネモフィラっつう花らしくてさ。
 なんでその花を選んだと思う?なぁ、なんでだと思う?」
最早めんどくさい気配しかない。さり気無くフィードアウトしようとして阻止された二人は口を閉ざしたままだが、五条は構わず続ける。「この前とデートに行ったときな」いや、買い出しな。と散々向かう場所を相談された二人は速攻胸中で訂正したが、やはり口にはしないでおいた。
「そん時に目に入ったらしくてさ。かは一人で外に出られないから、気晴らしが欲しかったみたいで。
 そんで、その花を選んだ理由な?
 花の色を見てさ。俺の目の色を思い出したんだってよ。気付いたら手に取ってたんだと。
 やべぇよな?俺殺す気かな??あー可愛い。もしかして俺達相思相愛?もう結婚するしかなくない??」
「・・・やっべぇ、屑が頭にお花咲かせてるんだけど。うける」
硝子、言わないでやってくれ。夏油も心の底から思ったが、口にしないでおいたのに。しかし同級生からの蔑ずんだ視線を微塵も意に介することなく、五条は続ける。
やっぱり、は運命。俺とは結ばれるしかないよな。なぁ式場はどこかがいいと思う?やっぱ海外かな?
そもそも付き合ってすらいないのだが、五条の話は一限目の授業が始まるまで続いた。

惚気と願望と牽制と、五条の口から出る彼女の話は兎に角面倒くさいものでしかなかった。


***


「はい、悟くん」
目の前に差し出されたものに、五条は目を瞬かせた。
高専卒業と同時に籍を入れて数年。とはいっても、念願のとの結婚生活は今でも熱々な新婚だと五条は自負出来た。幼い頃から分厚く被っていたいい子ちゃんの偶像。幼少の頃は彼女からの子ども扱いにやきもきすることもあったが、今ではよく我慢できたと自画自賛できる。
彼女に触れられる事はどれだけ回数を重ねても慣れることなく、頬が熱を持ち、暴れるように鼓動が脈打つ。顔色を隠せなかった幼いころは、赤みを帯びた頬にばれないよう俯いて、緩みそうになる目を睨み付けて、結果的に素っ気ない態度ばかりとってしまった。
好きな女に触れられて嬉しくないわけがない。合理的に彼女から触れられる機会は、成長するまでのほんの僅かな期間だけだ。そう気づいてからは、幼さを装ってこちらから触れるようになった。我ながら小賢しいガキであったが、今思えばナイスプレーだ。無知を装ってガンガン触れにいったお陰で、再会した頃には一回りも成長した体躯で両腕ですっぽりと覆えるようになっても、無遠慮に彼女との距離を詰める事が出来たからだ。
隙あらば距離を縮める五条に、初めは久しぶりで再会を喜んでくれてるのかな、なんて呑気な考えを抱いていたようだが、可愛がっていた子供、と五条に対してフィルターはかかっていても決して鈍い訳でもないので、2日程続けばおかしいな?と気付き始めたようだ。初めの方こそ躊躇して距離を取ろうとしていた。
しかし、比較的は押しに弱い。というか五条悟と比べてしまえば誰もが押し負けてしまうのだが。距離を取ろうとする気持ちが起こる前に無遠慮に詰めて、拒絶の色を浮かべようとすれば彼女が昔から苦手とする寂し気な表情を浮かべれば、結局彼女は折れるしかない。
そうやって押し続け、とうとう彼女は折れた。どれだけ引っ付こうとも抵抗を止めて苦笑を浮かべた彼女に、多分、考える事を止めたんだろうなぁとは思ったが。残念。そうはさせない。そこからの五条は涙ぐましい努力を重ねた。止めたんならその隙に近い距離間を当然のものにして、少しずつ異性だと意識させればいい。
傍から見れば問答無用に屑そのものなのだが、長年抑えていた衝動を抑え、じりじりと少しずつ、少しずつ。
詰めた距離間を当然なモノにした上で、彼女に異性だと認識させ、好意をすり替えていく。近い距離に彼女の限界が超えてしまい、嫌がって逃げられてしまわないように。この時の五条は兎に角慎重であった。
じわりじわりと詰めた距離で、彼女の中でも昔馴染みの悟くん、からようやく一人の異性だと認識されたと気付いた時は、どれだけ口角が緩みそうになった事か。胸中を弾ませる喜びに表情筋が緩むのを必死に堪え、とはいってもどろどろに蕩けた目だけは隠しようがなかったが。
距離が近しい、異性。嫌悪感もなく、むしろ好意しかない。例えその好意が彼女にとって親愛であっても、親愛を抱く相手に異性を感じる事はまずない。傾き掛けた所でトドメとばかりに五条は告白した。しかし答えを彼女に求める事はない。混乱している彼女を押せば正直な所上手く関係をこじつけられそうだったが、それだけでは足りない。どうしてガキの頃からあれだけ我慢したと思ってる。五条は彼女の心ごと、全てが欲しかった。
面倒を見ていた子供が、一人の男として、ようやく彼女に瞳に映れた。
そこからは思う存分彼女を甘やかし続けた。我慢していた分愛を囁き甘やかして。触れる事だけはどうにか我慢した。とはいっても、詰めた距離分は離していないので全く触れていないという訳でもないが。そしてようやく、彼女と恋人同士となれた。これが五条にとって、一度目のこれ以上ない幸福に包まれた瞬間である。二度目は結婚を了承された時だ。
そうした長年の片思いがようやく実を結んだともいえる結婚生活は、当然五条を常に浮足立たせていた。数年だろうが新婚夫婦さながらなのも無理はない。むしろ彼女への想いは日々深まるばかりなので、互いに年老いておじいちゃんとおばあちゃんになっても、ずっとこのままなんじゃないかとすら思っている。
愛して止まない僕の最愛のお嫁さん。誕生日は勿論記念日も決して忘れず、いい夫婦の日に、時には猫の日と完全に五条の欲しかないイベントも彼女にこじつけることもあったが、五条はいつだって全力でアプローチを欠かさなかった。
初めから何か隠し持ってるなとは思っていた。しかしこの日、から目前に青い花束を差し出され、五条は虚を付かれる。
誕生日でもなく、記念日でもない。特にイベントもない日だ。
青い薔薇の花束を前に、珍しく固まる五条には成功とばかりに満面の笑みを浮かべた。
「教師就任おめでとう!」
・・・あった。数日前に。五条はようやく、心当たりに気付く。数日前、五条は高専の教師として採用されたのだ。まあ、僕?最強だし??教師として採用されるのも当然だと受け止めていた五条であった為特に記念日として認識していなかった。
これでようやくと同じ職場で働ける。五条には夢があったが、正直なところお嫁さんから公共の場でに先生呼ばわりされたい願望は否めなかった。
は結婚してからも、高専で事務員として働いていた。
籍を入れてすぐ、五条はに仕事を止めないかと打診をした。学生の頃は高専が主な活動場所で、今後も呪術師として高専は拠点となるだろうが、 確実に高専にいる比率は低くなる。ならば、非術師である彼女が高専にいなくとも、せっかく結婚したのだから同じ住まいで安全に彼女を守ればいい。しかし五条の提案に彼女は首を横に振ったのである。五条としては呪術もなく力もない一般人の彼女に少しでも危険な目にあってほしくなかったから何度も食い下がったが、頑なに彼女は頷かなかった。そんな調子だったから、ちょっと、結婚したばかりで浮かれていたこともあったから家に軟禁しようかななんて薄暗い考えも過る事もあったが、現実に移してしまう前に親友からフォローが入った。

は呪霊を見ることも感じることもできない一般人だ。普通に暮らしていれば、まず呪術界最強である五条と知り合うことなどなかった。夢魔に憑かれて繋がった夢で、は五条と出会えたのだ。世界を跨ぎ、高専で働くようになり呪術師の世界を知るようになって、ようやく、五条の見る世界がわかった。事務員だし、高専から出ることは五条に夏油、家入がいなくてはほとんどなかったので、それでもほんの僅かに広がった視野だ。
昔は少しばかり生意気な、捻くれてはいるけど根は素直ないいところのお坊ちゃんだと思っていた。それは再会してからも覆る事はなかったが、再会してから、と五条の環境は大きく変わった。
小さく天使のような五条は、見上げる程の身長になり、しかし成長してもから距離をとる事はない。細身ながら筋肉質であることは、毎朝寝ぼけた男に抱き着かれていたから知っていた。手を繋がれればすっぽりと覆われてしまうし、声音だって随分と低くなった。けれど、思わず耐え切れず離れようとすれば、浮かべる悲し気な表情は昔の儘。体躯は随分と大きく立派に成長したが、変わらず、彼はそこにいるのだ。昔から変わらない彼だからこそ、は思った。
成長すると共に、多少なりとも人格は変わる。我儘で高慢な態度が謙虚で礼儀正しく。そのまた逆もしかり。けれど内心が変わらない五条は、昔から変わらない環境にいるのだろう。
―――呪術師は常に生死に近しい場所にある。
高専でしか生活していなかっただが、怪我を負って運ばれる呪術師を遠目から見かけることが度々あった。
偶に校庭で除く実技の練習も、からすれば人外の動きだ。にも拘わらず、呪術師は怪我を負う。酷いときは包帯で隠れていたが、体の一部が欠損してる呪術師もいた。平和な世界にしか浸っていなかったは、その時頭を鈍器で殴られるような衝撃を受けた。
彼らの相手は人外なのである。自分には見えない呪霊という存在。怪我を負うのが当然で、命も落としても可笑しくない。少しでも同じ世界で見なければ、五条が立つ世界をは一生理解できなかっただろう。
生意気で捻くれていて、それでもいつも剽軽で明るい悟くん。
小さい頃に出会ったからと知ったつもりであったけれど、まったくそんな事はなかった。いつの間にか、無意識の内に存在していた少年を理解しているという親心のような気持ちが、情けなくも烏滸がましい事であると気付いたのだ。そこからは現実の五条を知るように努めた。理解したいと思ったのは、彼に対して親心のような気持ちがあったからだと、思っていたけれど。それが親愛ではなく恋情だと気付いたのは、再会して一年程経った後だった。
いや、初めは親愛しかなかったのだろう。けれど見えていなかった五条を知ろうとする内に、いつの間にか。
少しでも彼の心休まる場所になれたら、と思い始めていた。そしてそれが、自分だけならいい。にとって、五条の隣は誰よりも心休まる場所だった。多分、それは彼と夢で会っていた頃から変わらない。あの頃はただ癒されていただけだったが、今では悟くんの隣を渡したくないなぁ、と思うようになっていた。
――自覚してしまえば。少しでも彼と同じ世界に立っていたい。支えたい。そう思ってしまうのは、当然の事だった。だって、は彼らと同じように見る事は出来ない。

籍を入れても高専から離れたがらないに対して、仄暗い物騒な色を帯び始めた親友に、慌てての本音を聞き出した夏油は、吐露した彼女の言葉に思わず苦笑を浮かべた。実のところ、夏油は卒業と同時にすぐ入籍して囲いこむ五条に、また無理やり話を進めたのではないかと疑っていたのだが、彼女の様子では違ったのだろう。――まったく、世話が焼ける。
やれやれと思いながら、五条に彼女の零した本音を教えてやれば、次の瞬間術式まで使ってその場から身を晦ませた。彼女のことになると驚く程行動的な男である。まぁ、私も人のことは言えないか。と馬に蹴られると分かっていても、間に入った夏油は一人ごちた。
翌日、五条はいつもの明るく剽軽な態度に、もここ最近は落ち込んだ様子だったが、五条が高専で働き続ける事を許してくれたのだと嬉しそうに夏油に報告する様子をみて、蹴られた甲斐があったと思い直したのである。


差し出された花束を、五条は目を瞬かせて見下ろす。
「・・・これ、」
「ふふ、私が育てたお花です!立派に育ったでしょ?」
いつもの軽薄な様子は消え、青い双眸を丸めて呆然とする悟を前に、は頬を僅かに上気させた。ここまで育てきれたことが、には誇らしかった。
五条の瞳の色と似た、鮮明な青の薔薇。
数年前花屋で見かけた瑞々しく花を咲かせていた青の薔薇は、一輪一輪が凛として鮮やかな花弁を開花させていて、とても美しかった。同時に、は思ったのだ。―――悟くんに似ている、と。は苦笑を浮かべる。
「本当はね。前からの夢で。
 でも、青薔薇は育てるのが難しいっていうし、私も、特に花を育てた事がなかったから。初めは諦めたんだけど。
 他のお花を育てて、ようやく青薔薇を育てられるようになったんだよ。」
ネモフィラも「天使の瞳」と呼ばれるだけあり、透んだアイスブルーで美しい。そのネムフィラが群生すれば青の絨毯となり、晴れた青空と合わされば夢幻のようだ。けれど、にとって五条を連想されたのは一輪でも真っすぐに花を咲かせていた、青い薔薇だった。美しい薔薇には棘がある。無数にある刺されば痛い棘も、まさに五条そのものだ。
しかし青薔薇は園芸初心者には向いていない花だと、その時は花屋の店員から聞いた。は今まで園芸の趣味があったわけでもないので、当初は諦めたのである。
経験を積んで、青薔薇の栽培に挑戦したのは悟と結婚する前のことだ。
けれど、どうしても上手く花を咲かせることが出来なかった。季節を重ね、何度も懲りずに栽培を繰り返し。ようやく、立派な花を咲かせてくれた。
「やっと、悟くんに渡せた」
数年越しの達成感で、は実に満足げな表情を浮かべる。僅か数本、数える程度の薔薇の花束だ。花屋のように何十輪も咲かせることは出来なかったが、それでもは手折ることをためらわなかった。
摘むのは勿体無いが、種を蒔けば来年も花は咲く。いつか渡そうと考えていた青い薔薇は、五条が高専の教師となる事が決まって、新たな門出の祝いとしてこれ以上ないほどぴったりなものだと思えた。
驚いた表情で固まる五条に、は花束を渡す。
「悟くんのお祝い!」
渡された青い薔薇の花束と笑顔を浮かべるに、五条は珍しく思考が止まっている。なすが儘に受け取り、小さな花束を見下ろす。
彼女が花を育て始めたのは、数年前、それこそと再会したばかりの五条が学生の頃の事である。共に暮らすようになっても、ベランダの一角は彼女のテリトリーで珍しく彼女が五条を入れたがらなかった。家事は分担しているが、洗濯物干しだけは彼女が譲らなかったから五条はあまりベランダに出ずにいた。
学生の頃からの部屋に入りびっていた五条は、雑誌を読むふりをして、せっせと植物を世話する彼女の背をよく眺めていた。
晴れの日も、風が強い日も。雨の日も。
飽きることなく毎日世話をする彼女に、余程好きなんだろなぁと感心すら抱いたのだ。お世辞にもマメな性格とは言えない自身には、まず3日も持たない。
数年前から、ずっと、欠かすことなく。世話をしていたを五条は知っている。

五条は顔を片手で覆い、深い溜息を吐いた。「はー・・・」ホント、勘弁してくれ。
頻繁に悶え打っていた学生の頃とは異なり、少しずつ耐性が出来た、というよりは面の皮は随分と厚くなったと思う。それでも、込み上げる感情にじわじわと顔が熱を持つの感じた。絶対に真っ赤だ。
疾うに成人しているにも拘わらず、大の大人が赤面させた情けない様を見られないように五条は花束をそっとテーブルに置くと、思い切りを抱きしめた。五条が照れているのを感じ取ったのか、が腕の中で小さく笑うと控えめに腕を五条の背に回す。
すっぽりと収まる小さく華奢な体は、いつだって驚く程最強たる五条を振り回す。心臓がぎゅうと握りしめる心地がして、五条は呟く。
「俺のお嫁さん、世界一可愛い・・・」
術式もない。非力で、少しでも力を籠めれば折れてしまいそうな体をしている癖に。五条は彼女に叶わないし、だからこそ、誰よりも彼女を深く愛していると実感する。
「ぜってぇ離さねぇ」
「離れないから、安心して」
込み上げた気持ちのまま零れた本音に、彼女は嫌がることもなく答えてくれる。これ以上幸福なことは、きっと存在しなかった。彼女との暮らしは、何度も飽きることなく五条を幸せを実感させていた。
するりと回した手を滑り込ませる五条に、ははっとした。
「あ、ちょっとこら。待って、ちょっと、落ち着いて、やめ」
慌てて回していた腕を距離を置くように体の間に滑り込ませるが、の抵抗に知ってはいたが五条はびくともしない。ちょっと待って。ここ玄関。慌てて宥めようとするに、しかし五条の不埒な手は止まらない。素肌に触れる止まらない掌に、小さく悲鳴を上げた、その時である。
ピンポーン、と呼び鈴の鳴る音が響く。
僅かに生まれた隙を逃さず、思い切り距離をとり離れたは、逃げるように応対に向かうのだった。


「・・・お邪魔しちゃったかな?」
衣服を素早く整えて出迎えたはずだったが、開口一番浮かべられた言葉に、は思い切り首を振った。
「いやいやいや!そんなことないから!」
むしろ助かった。火照らせながらも安堵した表情を浮かべるに、迎え入れられた夏油は苦笑する。彼女の背後には腕を組み壁に背を預けた五条が不機嫌さを隠さず呟いた。「後で覚えてろよ」低い声にひっと身を強張らせる彼女に、夏油は内心呟く。頑張れ、さん。
聞こえない様にリビングへと踵を返したの背を見送って、折角の時間を邪魔された五条は不機嫌面のまま問いかける。
「で、傑。なんか用?」
「聞いていないのかい?いや、私もさんに呼ばれてね」
おや?と目を瞬かせた傑に、五条も怪訝な表情を浮かべる。どうやら、が夏油を前もって呼んでいたらしい。だからあれだけ拒絶していたのだろう。とはいってもに逃げるように離れられたのは非常に悲しかったので、『後で』が無くなる事はないのだが。そうとはまだ知らないはバタバタと小走りで戻ってきた。てっきり、居間に戻っているかと思っていたのだが。
「はい、傑くん!」
差し出された花束に、夏油はきょとりとした。
いつも笑顔を浮かべて、あまり表情の崩れない夏油の驚いた様子に、は満足した。サプライズ企画を練った甲斐があったというものである。
五条だけでなく、夏油も明日から高専の教師である。
「明日から頑張ってね、先生!」
にこにこと笑顔を浮かべたに、ようやく夏油も呼び出された理由に思い当たった。柔らかな表情を浮かべると、差し出された花束を受け取る。
「・・・確か、青い薔薇の花言葉は『奇跡』『夢は叶う』だったね」
思惑をどんぴしゃで指摘してくる夏油に、は頬を上気させた。さすが、夏油くん。花言葉の意味も知っているとは。照れ臭さを誤魔化すように笑うに、夏油は微笑む。
「有り難う、さん。本当に嬉しいよ」
しかしそこで、耐え切れないように声を上げる者がいた。
「なんで傑にも!?僕だけじゃないの!?しかも傑が先に先生呼び!ずるい!ずーるーいー!!」
玄関にも拘わらず全力でタダを捏ねるのは五条である。190cm以上の大男の様子に、夏油は思わず冷ややかな視線を負け、は苦笑する。
が宥めようと近づいたところで、夏油の訪問で僅かに開いていたドアの隙間から、黒髪の女性が呆れた表情で入ってくる。
「外まで響いてるぞ、22歳児」
「あ、硝子ちゃん、いらっしゃい!」
は弾んだ声を上げる。最後の一人である、家入硝子だ。これで全員揃った。は両手を合わせると呼びかける。
「じゃあ皆揃ったし、お祝いしましょうか!」
大したものはないけれど、五条と夏油の就任のささやかな祝いの場がこうして開かれるのだった。
薔薇の花束を渡されたことが自分だけではない事に五条はしばらく納得していない様子だったが、見かねた硝子の「くどいし、うざい。そんなんじゃさんに嫌われるぞ」という鋭い指摘で不肖不肖ながらも文句の言葉をぐっと堪える。視界に入るたびに、歯切りせん勢いで夏油の花束を見ることは止めなかったが、夏油はしれっと流した。視線で返せ、辞退しろ、それは俺のだ。と言われても、貰ったのは自分であるし、これぐらいいいだろ。何度か些細なことで勃発しそうになった二人の喧嘩は、硝子が逃げるよりも早くが諫めることで不発に終わるのだった。
ささやかなパーティーは始終穏やかにという訳ではなかったが、実に賑やかなまま幕を閉じた。

その翌年から。遅れて保険医として就任した家入にも青い薔薇の花束と、小さなパーティーが開かれる事となる。
七海の復帰祝いには灰原や伊地知も巻き込んだささやかな祝いの場が開かれ、その度五条家を賑わせたのだった。



君に幸せの花束を





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