平凡な人

DreamMaker2 Sample 「・・・貴方、まだ此方側にいらしたんですね」
開口一番、男は挨拶を投げかけるよりも早く、そう言い放った。


数年振りの懐かしい母屋には、二度と踏み入れまいと思っていた。強さが全てを左右する呪術界。割に合わないと高専を卒業してから男は呪術師を止め、一般社会への道へと進んだ。まさかあれだけ望んでいた平穏な一般人生活を止めて、呪術師に出戻るとはあの頃の自分には想像つかないだろう。人生とは概ね何が起こるか分からないものだ。
年数を重ねた古い木造の廊下を軋ませながら、磨き上げられた革靴で歩く。脱サラといえども、元来の生真面目な性格からしっかりとスーツを着こなした彼は、ふと向こうからやって来る人物に気付いた。黒髪の女は、見慣れた人物だった。
特に深い交流があったわけではないが、高専時代途中から着任した事務員の彼女には世話になった。規則正しく書類の期限も常に守っていた彼は、よく彼女から飴玉を貰った記憶がある。
数年ぶりの挨拶よりも先に放たれた言葉に、女は黒々とした目を瞬かせる。
呪術師か、監督補助か、窓か。いずにせよ最低限見える人間しかいないこの地に紛れ込んだ、唯一見えることもできない唯の一般人。それが目の前の彼女、――いや、五条だった。
「貴方は一般人なのだから、こんな腐った呪術界なんていないで、逃げたければ逃げればいい。訴えれば学長も動いてくれるでしょうし、学長だけでなく他にも貴方に手を貸してくれる人はいるでしょう」
男の一学年上の先輩であり、煩く厄介な問題児である五条悟が、卒業と同時にすぐさま囲い込んで籍を入れた彼女。彼女の苗字が変わって、随分経っていた。彼女に過保護なあの人の事だ。正式な書面で公で囲んだ瞬間、呪術界からも離しているかと思えばまだ高専にいたらしい。
突然高専にやってきた一般人であるはずの彼女は、随分とあの男に執着されていた。とはいえもう数年前の話である。右も左も分からない彼女も、ようやくあの男のまやかしから目が覚めて、早々に逃げ出しても可笑しくない。逃げ切れるかどうかの話は別だが。
もしそうなったとしても、女自身は何の変哲もない一般人であるが何か変な吸引力でもあるのか、最強の片割れでありもう一人の特級呪術師も、彼女に懐いている記憶があった。現学長である夜蛾と特級呪術師の彼が手助けすれば、なんとか匿う事も出来る、かもしれない。逃げ切れる確率はほぼ零に近いが全くないという訳でもないのだ。
なのに昔と大して変わりもなく、呑気にきょとんとした表情を浮かべて佇んでいる女は、目の前の生真面目な男、七海の言葉に苦笑を浮かべた。
「悟くんがいるからねぇ」
女の間延びした笑みは、やはり昔と変わっていない。男の厄介さを知っているのか、知らないのか。呑気な女を前に、常識人として心配している七海も思わず肩の力が抜ける。
そこで女は唐突にポケット漁り、何かを取り出した。
「あ、七海くん。はいコレ。よかったら」
視線を下げてみてみれば、女の掌には飴玉が乗っている。学生の頃と変わらず、ににこにこ笑みを浮かべた女を前に思わずため息が漏れた。
「・・・懲りないですね」
呆れる程変わっていなかった。一体あれから何年経ったと思うのだ。学生相手ならまだしも、成人もとうに越えた男に飴玉を差し出してくる彼女に呆れの感情が若干浮かぶ。けれどそれよりも。七海は彼女の掌で転がされた飴玉自体に呆れていた。
女から差し出された飴玉は一見普通の市販のものだ。けれど見える人間からすれば、それは到底普通の飴玉ではない。何処かの厄介と言われる男の呪力が込められた、非常に遠慮させて頂きたい飴玉である。初めて見たときは数秒固まって、一体どこから入手したのかと思わず尋ねてしまった。飴玉自体は市販のもので、女が好んでいるものらしい。女はあまり、一人で外にでる事は出来ない。最強たる男は多くの敵がいる。呪祖師に呪霊。果ては呪術界の上層部と上げればキリがなかった。そんな男に想われている彼女に万が一でも危害が加われれば、どうなるかは分からない。過去の一件に携わった人物として要監視という建前の元、女は事実上の軟禁とは知らず保護されたのである。代わりに、任務先で男が頻繁に買ってきてくれるのだという。
呪力たっぷりの飴玉を。彼女が見えないからといって、あまりにも惨い仕打ちである。外側だけでも十分な程、それこそ学生時代、七海の同期であり現役呪術師の灰原を助ける程の呪具も女は持っているというのに。内側からも容赦なく、女の知らぬところで呪力を注がれている事実に、七海は粟立つ鳥肌と嫌悪感が拭えなかった。さすがクズである。何度教えようかと躊躇して、その度にバレたらバレたで確実にあの最強の男が煩いだろうなと思い口を噤んだが。
「懐かしいでしょ?私、この味まだ好きなんだ」
そうとは知らない彼女は、飴玉を無表情の七海に押し付ける。・・・いけない。学生時代の習慣で反射的に受け取ってしまった。昔から心底遠慮したい飴玉に、何度表情が崩れそうになったことか。誰だって最強でありクズの呪力が込められた飴玉なんぞ食べたくもないし出来れば触れたくもない。しかし断ろうものなら女は少し眉尻を下げる。女の目に何処か寂しそうな色が浮かび、謝罪を述べつつも遠慮がちな様子に、結局まともな感性を持つ七海は受け取ってしまうのだ。後で捨てようにも食べ物に罪はない。本当なら躊躇なく今すぐ投げ捨ててしまいたいが、女の表情が脳裏に過る。結局、人の良い七海は苦渋苦渋の末に、口へと放り込むのだった。害はない。心底胸糞悪いだけだ。そもそも呪力がたっぷりと込められているといってもただの飴玉だ。こんな小さな欠片で何が出来る。そう言い聞かせて。しかして長年我慢しつ飲み込んだ飴玉の呪力が蓄積し、今わの際で無下限術式が微かに発動。後々七海の命を救うと同時に強烈な吐き気と共に二度と断固として女から飴玉を受け取る事もなくなるのだが、この頃の彼は思いもしなかった。
死んだ心地で口へと放り込んだ七海のポーカフェイスに気付く事なく、は昔を懐かしんだ。
「七海くんは何時も報告書の提出期限守ってくれてたから、私も助かってたんだよ。
 あ、でもね。今はあの悟くんが率先して報告書の締め切り守ってくれてるの。成長したでしょ?」
だから、女はご褒美と生じて飴玉を渡す事はなくなったのだという。なら自分も止めてほしい、と心底思う七海だった。
彼女としては七海の場合、昔から上げていた事もあり習慣みたいなものであり突然なくなるのも寂しいだろうな、と思っていた。残念ながらこの習慣は彼が全力で拒絶するまで続くのだった。
しかし、あの常習犯であった男が締め切りを守るようになるとは。彼の場合、彼女が事務員と勤めるようになってからは彼女が催促に会いに来るからと、態としていた節があった。一瞬、教師となり少しでも常識が備わったかと考えた七海だったが、すぐに掻き消える。どうせ禄でもない理由だと検討がついたからだ。事実、七海の考えは多いに当たっていた。
『報告書は出来たら事務のお姉さんに提出すること!少しでも遅れたら、僕直々に締めます!』
新入生が入学する度に必ず宣言する男は、数秒だろうが期日に遅れれば容赦ない。常習犯であった男の改心。かのように思えるが事実真相といえば禄でもなかった。
報告書を丁寧に仕上げて締め切りも守る七海を筆頭に、は飴玉を与えていた。男はそれが気に食わなかったのである。飴玉欲しさという可愛らしい理由でもない。そもそも男は己が呪力をたっぷり込めた飴玉を食べたいとは思いもしない。ただ単に、女にとっての特別は自分以外許せない。単純明快、それだけの理由であった。稚拙すぎる独占欲であるが、この男の場合本気である。つい数日前、二級術師である猪野が、既に仕上げていたもののうっかり手違いで数十分遅れで報告書を提出した時も問答無用でビンタをかまして吹き飛ばす程であった。七海の推理は見事に正解だった。
成長したと彼女は言うが。変わった様子もなく、男の異様な呪力を纏わりつかせている女をしげしげと眺めて七海は口を開く。
「いえ。多分、あの人は微塵も変わってないですよ。むしろ悪化してるんじゃないですか」
「七海くんは相変わらず手厳しいなぁ」
「貴方は相変わらずほけほけしてますね」
そんな所があの禄でもない男を調子づかせるのである。同時に、女が気が付いた所で既に手遅れで外堀を埋められてしまうのだ。多分、彼女は気付いてもいないだろうけれど。女は昔から本来鈍い訳でもないのに、寄りにもよって厄介すぎるあの男に関しては厚過ぎるフィルターがかかっている。一体どうやったらそこまで信用出来るのか、男が覆い隠しているといっても七海には皆目検討もつかなかった。周りの思惑を知ることなく、女は笑う。
「でも、七海くんしっかりしてるから頼りにしてるよ。帰ってきてくれて、嬉しい。
 改めて、お帰りなさい。七海くん」
「・・・ええ、戻りました」
呪術師は禄でもない。性に合わないと呪術界から離れて数年。社会人として数年働いた結果、労働も糞だなと察してせめて適正のある呪術師に出戻りした。故に、呪術界に期待も希望も待ち合わせはしない。仲間であるが呪術師は揃いも揃って破綻者ばかりなので、尊敬に値することもない。呪術師に戻ったところで、ただ粛々と仕事をこなすだけだ。
変わらず気の抜けた笑みを浮かべる女に、七海は声を掛ける。
「・・・まあ、何かあったら、愚痴ぐらいなら聞いてあげますよ」
素っ気なく言ったものの、口から出た言葉は思ったよりも柔らかい音色で、聞かれでもしたら勘違いでもされそうだ、と即座に思った。別に彼女に横恋慕している訳でもない。そんなの頼まれたって面倒極まりないし、即座に断るだろう。
ただ、単に。彼女は守るべき非呪術師で、こんな禄でもない呪術界の中でも平凡な彼女は別に、それほど嫌いでもなかった。
普段は辛辣な男の珍しいデレに、途端、女の表情が喜色に輝く。
「じゃあさ、早速復帰祝いがてら今度一緒に飲みに行こうよ」
「遠慮させて頂きます。私も命は惜しいので」
とはいえ、女にはすぐ傍にとんでもない地雷原が存在している事も、いい加減理解して欲しい所だ。




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