ころころと

DreamMaker2 Sample 疾うに日も落ちた夜道を駆ける。息を乱しながら闇を切り、人一人しか通れない細道へと入り込んだ。といっても花子さんは浮いているので、走るというよりは前へと進む感覚だ。わき目も降らず必死に道を進む花子さんの背後から、剽軽な声が上がる。
「はいはーい、注目!」
そんな暇はない。死んでいるのに先ほどから花子は冷や汗が止まらなかった。ばくばくと心臓が恐怖に脈打っている感覚すらする。
振り返らない花子に痺れを切らしたのか、男は細道を抜けた先で真横で並走する。目を血走らせて前しか見ない花子と異なり、男は随分と余裕な態度で手に持っているモノを差した。
「こちらが『蠅頭』くん。4級呪霊にも満たない低俗呪霊。ま、放っておいても害はない」
闇に溶けそうな黒の上下で、軽々と全力の花子さんの隣で並走する男はその手に『蠅頭』と名称される一匹の翼の生えた醜悪な塊を捕まえている。目隠し下は確実に愉快そうに笑っているだろう陽気な声で、男は次に背後を指さした。直後、頭上から大きな影が迫った。抜けたばかりの細道を通り抜けられない幅を持った、大きな黒々とした塊だ。
ひっと小さな悲鳴が漏れる。
「で、あっちが2級呪霊。蟻の呪いだね。『蟻玉』さん」
撒いたはずであったのに、すぐ真後ろに落ちてきた呪霊は着地すると同時に地面を揺らした。
上部にはにょっきりと二本の触覚を生やし、一戸建て程の大きさを持った呪霊である。思わず花子は指をさして叫んだ。
「蟻!?あれが!?大きいじゃないですか!!」
「呪霊は呪いの塊だって言ったでしょ。小さくて潰されるから呪いになったんじゃない?知らないけど」
あ、名前は僕名命ー。いやあセンスいいねぇさすがは僕〜
などと言い、手に握っていた蠅頭を片手で握り潰すなり男は手持無沙汰な両手をポケットに突っ込む。最早花子は突っ込む気力もなかった。男は生身であるはずなのに汗一つすらかいていない。足か。足が長いからか。と浮いているにも関わらず男の悠々とした様に思わず花子は思った。

――話は数時間前に遡る。その日、ようやく時間が取れたという男に連れられて、花子は数週間ぶりに外に出た。万が一呪霊が表れても、周りに迷惑をかけることのない夜が更けた人も少ない時間帯だ。
『あの人』の記憶はまだ朧気である。けれど、これでようやく探しに行けると当初は花子も意気揚々としていた。――その考えは、数分も立たず覆されてしまうのだが。
次々に湧いてくる呪霊。最早探すどころかではなく、こうして追いかけられることになったのだ。頼りの綱であった呪術師の男は呪霊の説明ばかりして祓う気配はない。そうなると、花子は逃亡するしかなかった。以前はすぐさま祓ってくれていたので、すっかり安心していた花子にとってとんでもない裏切りだった。祓えないというならまだわかるが。どう見たって花子にペースを合わせている男は常に余裕そうである。なんなんだ、絶対楽しんでるだろ。明るい声といい、どうにも目隠しの下は笑っているようにしか思えなかった。

背後には巨大な蟻の呪霊が迫りくる。こうなったら、と花子は浮ていることをいいことに目に入ったビルへと向かった。入り口には進入禁止のポスターと共に黄色のテープが張られている。ビルは建設中なのか随分と大きなものだ。木材とブルドーザーやタワークレーン数台が置かれたままになっている。夜が更けた今、人の気配はない。地面がだめなら上へ行けばいい。花子は一目散にビルの屋上を目指して飛ぶ。共にいる男への心配は微塵もない。生身であるはずの男の規格外さは既に十分理解していた。
無我夢中で空を切り、ビルの屋上までついてようやく花子は一息つく。深呼吸をして、暴れる心臓を抑える。幽霊の身だからないのだがどうにも生前の感覚は抜けない。
ここまで来たら大丈夫だろう。
ない額の汗を思わず拭いながら、花子は地面へと視線を降ろす。映った光景に、再び悲鳴が漏れた。
地面に置いてきたはずの蟻の呪霊が、すさまじい速さでビルを登ってきていた。
黒い塊からは幾つもの手足が伸びている。蠢く無数の手足は〇ブリ辺りで見たような気持ち悪さだ。なるほど、どこでも這う蟻らしいとは思うがそれにしても蟻にそんなに手足はない。スピードを落とさず、屋上まで呪霊がやってくるのは一瞬だった。
眼前に迫った呪霊に花子は逃げることも忘れて佇む。
「ほいほい、ぷちっと」
軽薄な声とともに黒い何かが横切る。脇から伸ばされた黒いそれは、長い脚だった。
闇夜でも輝く白銀の髪に、全身黒ずくめの男はポケットに手を突っ込んだまま軽薄な笑みを浮かべて呪霊を足蹴にした。いつの間にか背後にいた男に花子は唖然とする。浮いてきたはずの自分が息切れしているというのに、男はやはり息一つ切らしていない。鼻歌でも歌いそうな様子で、サッカ―ボールのように男に一蹴りされた呪霊は―――瞬間、目の前で爆ぜる。
風圧に見舞われ、思わず花子は目をつむった。髪がぼさぼさになりながらも、落ち着いたころにそろりと薄目で見た。呪霊は既に跡形もない。恐る恐る再度ビルの下へと視線向ければ何もなく、闇夜には点々と都会の灯りが浮かんでいるだけだった。
ようやっと、辺りに静寂が訪れる。花子は肩の力を抜き、長い息を吐いた。夜が更けているといっても、住宅街を抜ければ都会の喧騒が広がっている。車のテールライプに、建物の灯りは犇めている。時折車のクラクションが鳴り、高層ビルの屋上まで届く喧騒に花子は安堵した、のだが。
「お、これは1級かな」
楽しそうな男の声に、安堵に身を浸らせていた花子はぎくりと肩を強張らせた。――うそだ、だって下にも周りにも何もいなかったじゃないか。もはや花子は泣きそうだったし、実際に半泣きだった。恐る恐る視線をあげる。
点々と明かりの灯る都会の喧騒の上空。花子たちのいるビルの真上に射干玉の翼を広げた、随分とくちばしの大きな鳥が三つの目でこちらを見ていた。
安全から絶望に身を浸す花子を、さらなる絶望が襲う。
「はい、ちょっと降りるよ」
とん、と後ろから肩を押された。
「は?」
ぐらつく体は、夜の明かりへと飲み込まれていく。唖然とする花子の腰にぐるりと腕が回されていた。――これは、俵抱きである。
米のように担がれた花子は、そのまま男と共にビルから落ちる。風圧が髪を靡かせ、肌をさす。胃が浮いたような、不快な感覚すらした。心構えもないあまりに突然な出来事に、花子は自身が幽霊であるということすら忘れてしまっていた。

男は口角をあげたまま、体をビル下へと落とし呪霊との距離をとる。人差し指をくちばしを大きく開けた呪霊に向けて、そのまま術式を放った。指先から奔った赤い閃光は呪霊の獲物に向かって開けたままの口の中へと吸い込まれていく。

体は煌々とした都会の夜空に呑まれていく。
次の瞬間、夜の都会の喧騒に破裂音と、担がれた花子の悲鳴が加わった。



お疲れサマンサ―!
ようやく帰宅出来て息も絶え絶えな花子は、陽気に告げる呪術師――五条悟に殺意を抱いた。無反応の花子の傍にやってきた五条に、花子は恨みがましい目を向ける。
「たの、しんで、ましたよね・・・?」
「嫌だなぁ、そんな事ないよ!」
花子は知っている。目の前で否定する男が、ビルから落ちる際飛ぶことすら忘れて慌てていた花子に笑いを殺すように喉を鳴らしたのを。そもそも、祓おうとすればすぐにこの男は祓えたはずなのだ。敢えてギリギリまで手を出さず、花子の反応を楽しんで見ていたようにしか見えない。「ほんとほんと!」うろんげな眼差しの花子に五条は否定するが、花子の視線は緩まない。
非難の視線を向け続ける花子をさらりと受け流し、五条は起き上がると傍にある椅子に背を預けた。
「今回の事でわかった事がありまーす!」
話を逸らす気だろうか。視線を冷たくする花子を気にも留めず、五条は人差し指を立てた。
「その1、花子さんは回りに見えない」
え、今更?宇宙人を見るような目を向ける花子に、慌てて被りを振る。「違う違う!」
「本来見える呪術師もそうだけど、呪霊も同じみたいだ。
 呪霊はたまたま、近くにいた人間を追ってきてた。まあ、今回は僕なんだけど」
五条の説明に、花子は考え込む。何度か呪霊と目が合ったと花子は思っていたが。確かに思い返してみれば、すぐ傍には他の人間がいたことを思い出す。校舎の時も花子は子供を抱えていたし、今回も男が傍にいた。 そこで花子は気づく。なら男が離れていればよかったのでは??わざわざ自分のペースを合わせる必要があった?まさにその通りであり、わざわざ彼女のペースや逃げ惑う先についていったのは驚く花子で遊んでいたからのだが、花子がその事実に気付くよりも早く、五条は二つめの指を立てる。
「その2!僕のこの目、六眼っていうんだけど、全ての術式が見える。ぶっちゃけ、見えないものなんてないんだけど、花子さんに関しては見えなかった。
 けど君はこうして幽霊になってるし、外に出れば呪霊がよってくる。なんかしら理由があるんじゃないかと思ってたんだけど、いやーホント何も見えないね!」
そこまで告げて、五条はお手上げとばかりに肩を竦めた。腕を組むと、珍しくも真剣な表情で続ける。
「起きることがらには何かしら理由が存在する。呪いは勿論、残穢もそう」
残穢?知らぬ単語に首を傾げる前に、花子の表情から察した五条が説明してくれた。曰く、呪力の痕跡だという。
「見えないものを僕ら呪術師は見えるし、特に僕のこの目は見逃さない。けど僕にも見えないのは、初めてだよ」
若しかしたら魂の形が変わってるのかも。補足して五条は彼なりの考えを口にする。大人しく男の話を聞いていた花子といえば、男の考察に驚いていた。てっきり何も考えずに面白いからと連れ出したんじゃあるまいな、と考えていたのだ。しかし彼は彼なりに考えがあったらしい。逃げまどう姿をにやにやと見ていた男に、すっかり信頼も落ちていた花子だったが見直さなければならないかもしれない。何も面白がっていた訳ではないのだろう。それもそうだ。疾うに成人済みの女の半泣き姿なんぞ何が楽しいというのだ、精根が腐っている訳でもあるまいし。
男の考察に思い直し、佇まいを正した花子は改めて男に向き直る。
「その3、最後!」
五条が三本目の指を立てる。ごくりと唾をのみ込んだ。
「花子さんは・・・めっちゃ弱い!!!」
見直した瞬間の男の言葉に、花子は目が死んでいった。
やはり、男の性格は捻じ曲がっているらしい。花子の様子に、取り繕うように男は笑う。
「あは、怒った〜?明日アイス買ってきてあげるから!許してよ」
「この寒いのにアイスはちょっと・・・」
「寒い日に暖かい部屋で食べるアイスって格別だよね!」
「あ、コレ私の意見関係ないやつですね」
花子は抗議をやめた。


***


花子さんを連れ回したのは、前々から彼女の希望であったのと、検証を行う為でもあった。彼女の望みを叶えるには、彼女自身が外に出れるようにならなければならない。けれど現状、彼女は結界から出てしまえば確実に呪霊が湧く。あれから色々と調べたが目ぼしい情報はない。ならば、彼女自身から原因を探るしかないだろう。丁度空いた時間も出来たので、五条は彼女を連れて結界の外に出てみることにした。
という真面目な考えは五条の中で確かにあった。半分ぐらい。残り半分以上は至極簡単、面白そう、という考えである。動機は何であれ、五条はそうして花子を外へと連れ出した。
彼女は霊であるが、呪霊というものを知らない。今後の事を考えれば同じ霊なのだから、知っておいて損はないだろう。親切心だって五条にはあったのだ。ただし当初は遠目からの予定であった。
呪霊と遭遇してまず初めに、軽く説明しようとした五条だったが彼女は真っ先に逃げた。それはもう脇目も振らず逃亡した。当初の予定からずれて肩透かしをくらった彼は彼女を追いかけて、すぐさま花子さんから縋るような視線を向けられたのには気付いていた。どうにかしてあげよう、とは思ったのだ。彼女は呪霊ではなし、呪術師でもない。ただの一般人の霊なのだから。
けれど―――彼女の縋りついて来る目が、こちらに向くのが思いのほか悪くなかった。気が付けば、あとはそのまま。彼女を煽りに煽って、逃げたらすぐに追いかけて、こちらに縋るしかないように仕向けて。思いっきり、いじり倒したという覚えはある。けど、うん。よかった。なかなか。目に涙の膜を覆わせた、半泣きの姿を思い出して、五条は無意識の内に頬を緩めていた。自覚して、咄嗟に口元を抑える。危ない、こんな様子でも花子さんに見られたら確実にまた絶対零度な視線を向けられてしまう。
自業自得であるのだが、彼は反省はしていない。もう一回、ぐらい考えている。しかしこれ以上したら本当に嫌われてしまいそうなので、今日はこのくらいにしておこう。
自身の性格が歪んでいるのは自覚しているが。我ながらなかなかなものである。直す気ないけど。まあ、煽って来る彼女が悪いよね。
「花子さん、上がったよー」
無責任にそう考えて、五条は風呂上がりのままリビングへと続く扉を開く。肩からかけたままのタオルで頭を乱雑に拭きながら、目当ての人物を探す。家へと戻った彼女は随分と五条に対して冷ややかであった。すぐさま風呂を沸かすなり、五条を押し込んだ彼女はしかし見当たらない。
少しは機嫌直ったかな?きょろきょろと視線を彷徨わせた五条の視界に、見慣れた後頭部が飛び出ているのが映った。反応がない事に訝しみながら、彼女が腰かけているソファを覗き込む。花子さんはソファに腰かけたまま、眠っていた。
彼女は霊であるが、寝ようと思えれば眠れる。どうやら呪霊に追いかけまわされて相当疲れてしまったらしい。
ソファに体を預けたまま、起きる気配はない。半分以上どころかほぼ原因は五条なので、ちょっぴり、彼は申し訳ないなと思った。なのでこのまま寝かせてあげようと何かかけられるモノを探した。とはいっても独身の男の家にタオルケットなんて気が効いたものはない。五条は濡れた髪を乾かすのも後回しに、自身の寝室へと戻った。すぐに薄めの掛け布団をかかえて、リビングへと戻る。
花子さんは起きる気配もない。そのまま起こさない様に、慎重に掛けながらふと思い出した。そもそも彼女は幽霊だから、風邪をひく可能性はほぼないんじゃないか。
女の寝顔が視界に映る。警戒心もない、随分と気の抜けた表情だった。
―――ま、いいか。
ないよりは、あった方がいいだろう。霊が風邪ひく、だなんて事はあり得ないだろうが可能性はゼロではないし、花子さんだし。そう一蹴して離れようとした五条だったが思わず、動きが止まる。
女がもぞりと動いたのだ。体を少し丸めて、横になった女の頬に髪がわずかに掛かる。
「・・ごじょう、さん・・・」
女の寝言は、小さなものだった。近くにいなければ聞き漏らしてしまうだろう。なのに女の小さな寝言は、五条の動きを制するには十分だった。
咄嗟に走った胸の痛みに、思わず手で抑えた。
「・・・は?」
目を白黒させて、五条は佇む。じわじわと全身に熱が込み上げていく。心臓が全速力疾走した後のように早く脈打つ。抑え込もうとしても抑えられないこみ上げる感覚は、男を十二分に戸惑わせた。
夜も更けた深夜のリビングで男は佇む。

そこには顔は愚か耳すら湯毛が立つ程赤く染まらせて、呆然と立ち尽くす独身(28歳)の姿があった。





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