DreamMaker2 Sample 青々とした蒼穹に、白い雲が浮かぶ。地平線は遠く、終わりすらみえない。足下は頭上と同じ澄んだ青空が広がり、まるで鏡張りのようだ。だというのに、浮いてる感覚はなく足は確実に地についている。
ふむ、と女は腕を組む。
まるでいつか行ってみたいと思っていた有名な塩湖のようであるが、足下は湖ではない。胃が浮いたような感覚はないが、空なのだ。上下左右、見渡す限りの空。
ううむ、と女は首をひねる。何をしてたっけ、と振り返ってみた。
その日もサービス残業に勤しんでいた。日々降り積もるストレスに連勤で減っていく体力。しかし明日は公休日である。待ち望んだ休みに、疲れは無駄なハイ状態となりせかせかと働いた。
ようやく仕事の目処もつき、残した仕事がないか念入りの再確認するとそそくさと帰路につく。
軽い足取りで電車に乗り込み、揺られることしばらく。最寄りの駅までつくと明日は休みだし、とコンビニで惣菜でも買って帰るかと寄り道したのだ。
解放感からつい緩む財布でデザートまで買って、人一人いない暗い夜道を歩く。
途中、通りの電灯が切れかかっていたようで、頭上でぱちぱちと明滅していた。何時もならほんの少し恐怖が煽られる所だが、しかしこの日は解放感からまったく気にならなかった。
こじんまりしたアパートの一室、他でもない自分の城の扉を開けてパンプスを脱ぎ捨てた所でーーそこから先の記憶は途切れている。

つまり、女は手足を思い切り伸ばす。
これは夢である。一度は行ってみたいと思っていた景色と似た光景に、気分も良い。まさか玄関で早々寝てしまうとは思わなかったが。
せめてベッドまで辿り付けていればいいと思いながら、目の前の青空に女は感動して、しばらくぼんやりと眺める。
なかなかやるじゃないか私の脳。どうせ夢であるし、誰に気遣わなくても良い。そそくさと夢でも着込んでいたスーツの上着を脱ぎ捨て、肩を軽くする。ようやく一息つくと、女はそのまま、倒れこんだのだった。

見渡す限りの澄んだ青空。千切れたように点々と浮かぶ白い雲も見るからに柔らかそうで、地平線の彼方まで続く青と白のコントラストがまた絶景である。肌を撫でるそよ風すらも心地がいい。
荒んだ心が癒されいく。ぼんやりと、吸い込まれそうな青を見上げて―――ひょっこりと、雲とは違う、細やかで柔らかそうな銀灰色、次いで美しい蒼い目がこちらを覗いた。
蒼穹のように澄んでいるのに、海の底のような深みのある、とても不思議な蒼い瞳だった。
これ以上ない景色だ。そう思えていたこの景色すらも霞んでみえる蒼は、まさしく吸い込まれそうな美しさでこちらを見る。
しかし鮮烈なのは、瞳だけではない。まろやかな白い肌は白磁のようにきめ細やかで、幼いながらに筋の通った鼻筋、美しい瞳を縁取る睫毛は長く、引き結んだ唇は艶やかだ。
柔らかそうな銀灰色の髪は短く、けれど怜悧な程美しい容姿から女の子のようにも見える。

「あんた、何だよ」

思い切り眉を顰めて、恐ろしく整った顔立ちの子供が顔を覗き込んでいた。
しかめっ面の子供を見上げて、は目を数回瞬かせる。「うん?」

「すごい、美少女?美少年??」

ここまで整った人間をは見た事がない。人外じみた美しさに、声音はまだ高く声変わりすらしていないのだろう。より性別が分からない。
夢の中といえども、この景色といいは自分の豊かな想像力に驚く。は上半身に力を入れて、勢いよく起き上がった。

「どっちにしても可愛い!!!」

ぎょっとして身を引いた子供の頬に手を伸ばす。 

「ふふ、お肌すべすべのもちもち。羨ましい・・・!」

つついた肌は、まさに餠のような肌だ。傷一つなくきめ細やかだというに子供特有のこの弾力、癖になる。頬を突かれた子供は大層驚いたようで、ぽかんと固まった後瞬時にの手から逃れた。数歩離れた先で、子供は眉を吊り上げてこちらを睨み付ける。

「んだテメェ・・・!!」
「あら、口は悪い」

薄々思っていたが、子供の口ぶりは大分乱暴なものだ。この様子だと、男の子だろうか?
しかしこの反応。つつかれた頬に手を当ててこちらを睨み付ける様子は、毛を逆立てている子猫のようだ。はなるべく刺激しないように、警戒心丸出しの少年へと声をかける。

「まあまあ、そうカリカリしないの。
 見てほら、この景色を!青い空!どこまでも続く地平線!!
 我々は自由だ〜!!」

青空へと手を伸ばし声高に言う。後方へとばたんと再び体を倒した
しかし1秒、2秒、3秒。と数えた所で子供の反応は全くない。5秒経過したところでちらりと横目で見てみれば、先ほどまで警戒した様子だった彼は不可解なものを見る目でこちらを見ているではないか。
お弁に語る表情にはまさに「なんだこいつ」という言葉がくっきりと浮かんでいる。せっかく子供受けしようと大げさ動いてみたが、子供らしからぬ冷めた反応に、のっそりと体を越したは思わず文句を零す。「ノリが悪いなー」
これでは恥ずかしい大人ではないか。ごほんと誤魔化すように咳をしてから、は違う作戦に出た。

「ほら、おいで」

手招きしたに、少年はすぐには動かなかった。けれどにっこりと笑う女は先ほどからどうにも、こちらを害そうとする様子はない。予想もつかない動きといい、能天気ともいえる女の様子は毒気が抜かれるのだ。しかし、そうみせているのかもしれない。
とはいっても、少年は先ほどの事が気になった。女に警戒していたにも拘わらず、触れられたのだ。害をなそうとした動きではなかったし、本来ならば避ける必要性もなかった。術式を展開している中、己に触れることが出来るなどあり得ないからだ。しかし女は頬に触れた。
女が術式を展開している様子はない。そもそも、女には呪力すらない。ならば己の生得領域に随分と似たこの空間の所為だろうか。だがやはり、それは呪力のないこの女には到底できない事である。
女が無関係という訳ではないだろう。しかしどう見ても格下で、無害に見えるこの女にしてやれることはないだろう。そうなると、少年は女に『触れられた』事が気になった。追及するには、女に近づくしない。
にこやかな笑みを浮かべて手招きする女を前に、数瞬考えた後、少年は傍に寄ることにした。
警戒心を捨てずに近づいた少年を他所に、は放りだしていたスーツの上着の内ポケットを漁る。「お、あった」
もしかしたら入っているかも、と探しているとカサリと音を立てて目当ての物が指先に当たる。取り出して包みを広げると、こちらの様子を伺う少年の口へと素早く放り込む。

「!!?」
「飴ちゃん。これ、私のお気に入りなの」

飴玉を放り込まれた少年は、目を白黒させていた。
疲れたときのエネルギー補給用として常に内ポケットに忍ばせている飴玉はのお気に入りである。まさか夢の中でもあるとは思わなかったが、そこはさすが夢の中といえよう。もう一つ入っていた飴玉を、自分の口に放りこんでからは再び少年を見る。
少年は何故か固まっていた。最初は目を見開いた様子だったが、今は飴玉に意識が向かっているのが随分と大人しい。
やがて、ぽつりと呟く。

「・・・あまい」
「あれ、食べたことない?」

衝撃を受けた様子で静かに飴玉を口の中で転がす少年に、は首を傾げる。

「うーん??
ま、夢だしそういう事もあるか!」

夢の中だし気にしていなかったが、少年は今時珍しい和装であった。もしかしたら、菓子とは馴染みがあまりないのかもしれない。まあ、そもそもここは夢だ。深く気にすることなく、大人しくなった少年を前に再びスーツのポケットを漁る。

「他に何か、入ってないかなー・・・」

すると、再び指先に何かがあたった。出てきたのはクッキーである。さすがに常備していないし、取り出してはみたもののどう考えてみても内ポケットに入る要領ではない。まさかの青い狸のポケット疑惑に一瞬動揺しただったが、うん、これは夢だ。ご都合主義万歳。すぐに考える事を放棄した。

「・・・ま、いっか!
 はい、これもサクサクで美味しいよ」

初めの頃とは打って違い、無心で口の中の飴玉を転がす少年の掌にが個包装のクッキーを手渡す。
やはりクッキーも少年は知らないようだ。掌のクッキーとを見比べている。

「甘いから、食べてみて」

少年はじっとこちらを見ている。警戒心はまだ薄れていないのだろう。しかし未知の味は気になるらしい。
思い切り掌の包装を破り、出てきた茶色のチョコクッキーを眺めた後齧りつく。
多分、飴玉はまだ口の中に残っているだろう。少年は好奇心の塊のようで、頬張る白い頬が小さなリスのように膨らむ。
次の瞬間、蒼い目が丸々とした。
丸々とした目は、どうにも気のせいではなくきらきらと輝いていく。リスのように膨らませた頬といい、は可愛らしい少年の様子に頬が緩むのが抑えられなかった。

「かーわいーなあー」

緩んだ表情のまま思わず手を伸ばして、少年のふわふわの頭を撫でる。
菓子に意識が向かっていた少年は、頭を撫でられる感覚に再び唖然とした。


小さなものを放りこまれた時、避けようと思えば当然避けられたが、少年は女の目的が知りたかった。敢えて避けず口にした少年は、しかしじんわりと咥内に広がった味に戸惑う。
放りこまれる前に、ものが呪具ではないと確認している。仮に毒であっても五条家の次期当主であり、生まれた時から少年は億を飛ぶ懸賞金をかけられている。既に慣れたもので、まずほとんど効く事はなかった。
少年は産まれたときから負ける事を知らない。驕りのような彼の考えは、しかし釈然たる事実だった。こちらがやられてしまうことはあり得ない。だから一般人にみえる女の思惑を知るために、少年は避けずに口にした。
食べさせられたものは、砂糖でもないのに甘い。しかもパチパチと弾ける感覚と共に味わったことのない味覚が広がる。どこか果物のメロンに似ていて、まろやかな甘さだ。
次に口にしたものも、甘かった。茶色の色をしているのに不思議と香ばしく、さくさくとした触感とやや堅めなモノが触れたかと思えば溶けてじんわりと甘味が増す。

結論からいって、どちらも毒ではなかった。
女の言う『あめ』『くっきー』という食べ物なのだろう。しかし、ならばこの女の目的はなんだ?
口の中の不思議なモノを分析し終わったところで、頭の上に温かなぬくもりが広がり少年ははっとした。
女には、やはり術式が効かないらしい。急所である頭部に触れられすぐに少年は身を引こうとした。瞬時に強張った体はしかし女の表情を見上げて、体から力が抜けていく。
女は目を細め、しまらない表情でこちらを見下ろしていた。頭部に触れる力も、そもそも髪を撫でるようなものだ。
どうやってもこちらを害せないような力は、頭部を掴むといったものなどではない。力を籠められる前にすぐに振り払えるだろう。
女は何が楽しいのか、頭を撫でては笑っている。

女の見た目も言動も、呪術界の至高たる少年にとって不可解な塊であった。規格外の呪力に、六眼と無下限術式の抱き合わせ。数百年と積み重ねられた呪力界の勢力をひっくり返し、生まれ落ちた時から最強を約束されている少年。
恐れず、敬る訳でもなく。非呪術師である女は触れてくる。形容しがたい感情が胸中に広がった。埋まれて六年、初めての感情であった。

なにかが、おかしい。
けれど口の中のあまい未知の味に、少年は顔をしかめるだけしかめ―――しかし無言で押し黙っていた。




女との奇妙な邂逅は、その日はそのようなものだった。
意識がやがて白ずみ、いつもの見慣れた自室で目が覚めて少年は、女との記憶が綺麗に消えていた。
思い出したのは、日が落ちた夜のことである。眠りにつき、少年は再び同じ場所にいたのだ。そこにはあの奇妙な女もいて、瞬時に昨夜の出来事が思い出される。

どうやら夢と似通った空間での出来事は、目が覚めてしまうと記憶から抜けてしまうらしい。
女はいつも、色々なものを少年に見せたり話してみせた。


「今日はね!じゃじゃーん!絵本です!!」
「今日は一緒にあやとりでもしよっか。」
「ボードゲームやったことある〜?」
「もしかして、アニメとか見たことない?これとかどうかな??」
「今日はテレビゲームね!負けないよー!」


女との邂逅は、目が覚めてしまえば記憶から綺麗になくなってしまう。
少年はすでに、あの空間の検討はついていた。
仮想怨霊―――夢魔
女は当初の見立て通り一般人だ。ただ、夢魔に憑かれているのだろう。いや、憑かれているというよりも憑依に近い。女が夢魔に害されることはない。夢魔が狙っているのは自身の呪力だからだ。
馬鹿というか無謀というか―――途方もなく呆れるが、そもそも知能も意識もない呪いの塊だから単純に呪術界の頂点にあたる少年の呪力を狙ってきたのだろう。
勿論、雑魚相手に少年がしてやられることはない。
夢魔は性質上、夢を作り出し相手の呪力を奪っていく。しかし少年の術式、生得領域『無量空処』で完全に防がれ混じり合った結果、彼女の夢の世界であり、少年の夢であるあの空間が生まれたのだろう。己の生得領域に似ていると思ったのはそれが原因だったのだ。
だが、だからこそ呪力のない女はまず狙われることはない。彼女はただ夢魔に憑かれ、この現象に巻き込まれている非力な一般人だった。
祓おうとすれば、いつでも片手で祓える。
それをしないのは、別に害はないからだ。自身にも彼女にも。所詮、この夢魔には夢を繋ぐ事しかできないし、どうせ目が覚めてしまえば女の事は忘れる。
無駄なことはしないに限る。
あっさりとそう考え捨てて、眠る度に変わった女と過ごす。
五条家の次期当主であり、懸賞金をかけられている少年は、呪霊の任務を覗いてしまえば外の世界をほとんど知らなかった。
どうせ目が覚めれば忘れてしまうのに何を思ったのか、毎夜会う少年に、女は外の世界のことを教えようとした。
夢の世界は、女の夢でもある。彼女は想像すれば好きなものを現すことが出来るようで、色々なものを見せた。

「もう春だし、今日はお花見しよっか!」

上下左右、青々とした空は常に変化することはない。
少年の支配下であるが女の夢でもある空間は、女の好きなものを現せる事ができる。
食べ物から玩具と小さなものから試していった女だが、ここの所要領を掴んだのか、空間に大木を表すまでになっていた。

青空に囲まれた空間に一本の木が根をはる。満開の桜の花は緩やかな風に煽られ花弁を散らし、青空の上に桜色の絨毯を作っていた。
木の根本に二人で座り込む。

初めの頃は顔をしかめ、口数も少なく押し黙っていた少年は、乱暴な口調こそ変わらないものの今では打てば響くように反応を返してくるようになっていた。
満開の桜を見上げながら、青空の上に両足を伸ばしたは感慨深く呟く。

「春と言えば入学式だね〜。 悟くんは今年から入学だっけ」

実は、は少年と異なり目が覚めても彼を忘れることはなかった。目を覚ました翌日は天使のような少年に幻想的な景色と、いい夢見たなと呑気に思っていのだが、翌日も同じ場所で同じ少年に出会う。
回数を重ねるごとに少しずつ緩やかに、しかし随分と早いスピードで成長していく少年の様子に、もしや実在するのでは?と考えるようになってきていた。
人外じみた美しい容姿に加えて、浮世離れした様子の彼にしばらくは夢だと片付けていたが、どうにも、少年は夢の中の産物ではないように思える。それにしても、彼の知識は随分と俗世から離れていた。少年の価値観も普通の子供とは大部違って、随分とすれた子供である。詳しい事は知らないが、少しずつ彼から聞いた話からすると少年は周りとは違う、随分と良いお家柄の子供らしい。

少年の名前は五条悟。
界隈では知り人ぞいない御三家のひとつ、五条家の御曹司。少しずつ打ち解けた数週間後に彼から聞いたのだ。
ほどほどの一般家庭で育ったから見れば、御三家と言われてもさっぱり検討はつかないが、名家の子供と言われてしまえばなるほどと頷けた。今では彼も洋服を着るようになったが、少年は出会った頃は現代では珍しい和装だったからだ。厳しく育てられたようで、子供が大好きなお菓子は愚か娯楽も少年は知らなかった。こういってはなんだが時代錯誤も甚だしく、お偉い名家のお家事情は一般庶民出であるには到底理解出来ないが。
それにしても随分と道徳などの情緒教育をほったらかしにしていたらしかった。初めの頃はこちらが構わない限り、始終無言でしかめ面でこちらを見ていた。今ではこうして警戒心の欠片もなく隣で悠々と寝そべっているが、それは一重にあれやこれと試行錯誤の末構いまくり、年月を重ねた結果である。夢の中である空間を利用して少年に触れさせる内に、少しずつ丸くなってきたのだ。

初めは甘いだけだと口にしていた菓子も今では好み、せがんでくる。テレビゲームも気に入ったようだ。とはいっても彼の子供らしからぬ大人じみた価値観はなかなか変わらないようで、今でも澄ました表情を浮かべている。
彼は名家であるからか、家に講師を呼び、今まで学校にも通ったことがないらしい。ならばさぞ新な環境にドキドキわくわくするだろうと思いきや、まるで気にした様子なく寝そべり、少年は空を見上げていた。
めげずには少年にとく。

「学校はいいよ〜」

覗き込むに、そこでようやく少年は反応を返した。

「くだらねぇ。興味ねぇーし」

眉を潜めた少年には苦笑を浮かべる。
テレビや漫画、との会話でも少年は腹を抱えて笑うことが増えた。その様子を見ればちょっとヤンチャな子供なのに、それでも根本的な部分は中々変わらず少年は何処か冷めている。
は人差し指で少年の額を小突く。

「そんなこと言わないの。
 同じ年の子がいて、友達が沢山出来るよ」

小突かれた少年は額を片手で抑え、むっとした表情を浮かべた。

「あんな奴ら、弱いだけだろ。
 どうせすぐ死ぬし、どーでも良い」
「そんな寂しい事言わないの
 悟くん、デ◯モン好きでしょ?ああいう風にすごしてみたいでしょ?」
「・・・」

最近が少年が嵌っているアニメを引き合いに出せば、彼は少し押し黙る。
肩を並べて笑いあう友人というものに憧れがない訳ではないらしい。眉を潜めた彼に、は畳み掛ける。

「沢山、お友達作って好きな子もできたら、楽しいよ」

悟は口を引き結んで押し黙ったままだ。しかし無言のまま、ちらりとこちらを見た彼には笑った。

「人生に一度しかない青春、楽しんでね、悟くん。
 悟くんは少し口調は乱暴だけど、優しいから。
 皆、悟くんを大好きになるよ。だから、心配しなくても大丈夫」
「・・・も?」

ようやく口を開いた末の悟の言葉は、思いもしない問いだった。こちらを伺うように見やる蒼い目に胸が高鳴る。
両手を広げ、は込み上げる衝動のままに天使を抱き締めた。

「勿論!大好きだよ!!」

うちの子天使とはまさにこの事。うちの子程最強の天使はいない。あれこれ世話をやく内に、とっくのの心は少年に落とされていた。気を逆立て子猫のような当初の彼も可愛らしかったが、近頃の彼は懐いた様子をみせるので堪らない。少年からのデレに内心悶絶しながらは小さな体を抱き締める。
子供はすくすくと伸びるというが、悟の成長は早い。
丸みを帯びた輪郭も今では鋭くなってなり、猫のような大きな目も少し切れ長になりつつある。悟は着々と男前に近付きつつあるのだ。将来が実に楽しみである。
腰止まりだった彼の身長も、今ではの胸元辺りまで成長していた。それでもまだ包み込める悟を、堪能するかのよう抱き締めるに、しかし腕の中の悟は嫌がらずに収まっている。
一時期は反抗期なのか随分と触れるのを酷く嫌がられたが、今ではそれもなくなっていた。
腕の中の少年が、もぞりと動く。苦しかったかな?と慌て抱き締める力を緩め視線を落とすと、蒼い悟の目がこちらを見上げていた。
が離れた分を取り戻すように、少年の腕がの腰に回る。

「なぁ、。俺から離れるなよ」

いつ見ても、宝石なような不思議な瞳だ。詳しくは知らないが、彼が言う特殊な家系は彼のこの美しい瞳も関係しているらしい。しかし、それが例えなくてもにとって少年は目に入れても痛くない程可愛らしい存在だった。
可愛らしい懇願に、躊躇いなくは頷く。
嬉しそうなに、少年は更に続けた。

どうせ、目が覚めてしまえばこの夢の事は忘れる。それでも少しずつ違和感が残るようになってきた。
彼女との夢を思い出すことはない。だがふとした時に、知らないのに知ったような感覚を覚える。その時はどこかで聞き知ったのだろうと流してはいたが、記憶を思い出し振り返ってみればすぐに見当がついた。
恐らく夢の中での記憶は消えても、感情を消されることはないのだろう。飴は甘い。クッキーも甘い。生家では決して教えられていない外の事も、感覚が覚えているのだ。
目が覚めて何かが見当たらない事に感じる違和感。それはこうして夢魔を祓わずにいた理由なのだろうと、彼はもう気付いていた。

「約束だからな」

言葉は呪いだ。紡いだ呪いは縛りとなる。呪術師であれば、当然知っていることだ。それでも彼は呪いを口にせずにはいられなかった。
女が離れてしまわないように、どこにもいかないように。
絶対などというものは存在しない。しかし呪いで縛り付けてしまえば、こちらが解除さえしなければ途切れることはない。
可哀想なことに、呪いを解除することはもうありえなかった。手遅れだ。女の傍にいる心地良さを知ってしまった。
女は一般人だ。女を思えば夢魔などすぐに祓ってしまうべきなのだろう。けれどそれは、女と離れるという事だ。
呪術師は総じて頭がどこかイカれている。でなければ生きていけない世界であるし、論理観なんてものない生家に生まれたものの奇跡的に彼女と過ごす内に培われた感覚のお陰で、腐った生家と上層部にも反吐が出るが彼は彼の根本たる価値観を変えようとは思えない。
こればかりは譲れないし、譲る気も更々なかった。
そうとは知らずに、は快く頷くと、幸せそうに小さな少年を抱き締める。

「悟くんはかわいいなぁ」

鼻歌でも歌いそうな程上機嫌な彼女は悟を完全に子供としてか見ていない。
一時期はそれが嫌で堪らなかったが、彼は思い直し甘受することにした。

今はこの心地よい空間で良い。例え目が覚めて彼女を忘れ空虚感に苛まれても。それは今だけだ。
彼女より身の丈が大きくなったその時―――彼は彼女に会いに行く。




無垢な天使の皮を被った、その実真っ黒で悪魔のような少年の胸の内も知らずに縛りを交わした、その翌日の事だ。
しかして約束を交えた翌日から、少年は彼女の夢を見ることがなくなる。
夢を見なければ、少年は女を忘れてしまう。交わした縛りをそのままに、少年は女の事を綺麗に忘れてしまった。

けれど不思議と、胸に穴が開いたような虚無感だけは消え去らなかった。
知らないのに知っている。
初めはただ聞き知った知識として実感を覚えただけだと思った。甘い菓子には上手く、テレビゲームは好きだ。
弱いから一般人は守らなければならないが、五条家と呪術界上部の腐った奴らには反吐が出る。ここまでなら、外での任務中も増え、家から出るようになり価値観が変わったのだとも思える。
けれどふと唐突に、彼は焦燥感を抱くのだ。
探さなければならない。皆目目的の検討はつかないのに、漠然と大事なそれを見つけなければといった観念は日に日に大きくなっていく。

何を探せば良いかも分からないのに、気が付けば無意識のうちに回りを見渡している。
怒りのようで、悲しみのような虚無感が、胸の内で常にとぐろを巻いていた。
彼は任務以外でも外に出ることが多くなっていく。
例にもれず、そういう年頃だからかもしれない。そう考えた時もあった。けれどぽっかりと、胸に穴が開いたような感覚はいつまで経っても埋もれず、むしろ日に日に穴が広くなっていく。
常に違和感を抱えながらも少年が彼女との記憶を全てを思い出したのは―――最強となり覚醒した時だった。



人拐いの桜




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